ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の智慧」

ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の智慧」を読了。この本を読んだ理由は二つ。以前、羽入辰郎の「マックス・ウェーバーの犯罪」というトンデモ本を巡る論争があり、それが北海道大学のある学者が主催するHPで論考を受け付けて公開するという形で羽入氏に対する反論が行われました。それに私も参加し、そこで出てきた論考が後に「日本マックス・ウェーバー論争」という本になりました。その終章のまとめの所で、矢野善郎という人が、私の書いたものを「群衆の叡智」の可能性を示すものと評価したことです。個人的には評価していただいたのは嬉しく思いますが、発表媒体としてWebを使ったというだけで、そのWeb上で出てきた多数の人の様々な意見が集約されて発展していった、というのとはかなり違うので、「群衆の叡智」という評価は私は的外れだと思います。
二番目は、昨年12月にネットで紹介された「Twitterユーザーの呼びかけで正体判明! 謎の巨大観音像写真から始まった歴史ミステリーに「鳥肌立った」「集合知の勝利」」という事件です。こちらは、あるユーザーが関西の寺院で見つけた、巨大な観音立像の正体をTwitterで問いかけた所、様々なユーザーから色々な情報が寄せられ、最終的に長崎のある孤島で戦前に作られた観音像であったことが突き止められるという感動的なストーリーです。こちらはまさに「群衆の叡智」のもっとも適切な例だと思います。
スロウィッキーは「群衆の智慧」という考え方を提唱し、少数の専門家の意見より、飛び抜けてレベルの高い人はいなくても、多様な人が集まった集団は、専門家よりもむしろ正しい判断を下すことが多い、というものです。
この考え方は、私は極めて「条件付き」で限定されていると考えます。リーマンショックの時に会社で研修があり、そのお題は「救命ボートで漂流している際に、船内にあるものを使って救助されてもらえる確率を出来るだけ高くする」というものでしたが、その時の討論グループ6名くらいで出した結論は、専門家の出した正しい答えとはまるで違っていました。スロウィッキーの論が成り立つためには、(1)ある程度以上の人数の集団が(2)それぞれが干渉し合わずに独立に考え(3)全員が問題解決の知恵を出し合う、という条件が必要です。現実的にはこういう条件が揃うケースは比較的少ないのでは無いかと思います。この本の中でも少数の集団がその中の過激な意見に引っ張られて極端になりやすいことや、他人の判断に付和雷同していく人が多くなって結果的にバブルのような現象を引き起こす例が紹介されています。
後、今の日本に示唆的なのは、今の日本は(1)多様性のない同質性の高い少数集団が(2)お互いに過度に依存しあって独立性が弱くなっている、状態で多くの間違った判断をしている、という状況に見えます。移民受け入れの議論と重なりますが、これからの日本にとっては「多様性」をどうやって実現するかが大きな課題だと確信しています。

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