三田村鳶魚の「大衆文藝評判記」

三田村鳶魚の「大衆文藝評判記」を部分的に読みました。以前、白井喬二の「富士に立つ影」をくさしたものについては読んでいましたが、今回直木三十五の「南国太平記」をどうくさしているかが知りたくて買ってみたもの。ちなみに三田村鳶魚は昭和27年没で既に著作権は切れていますので、国立国会図書館のデジタルアーカイブなどで無料で読むことができます。ただ、それは読みにくいので文庫本版を買いました。
ともかく、とてもネガティブです。自分自身で取り上げた作品を「読むのが苦痛」としています。それから、作品の全部はたぶん読んでいません。特に白井喬二の「富士に立つ影」と中里介山の「大菩薩峠」は冒頭の所だけしか読んでいないのは明白です。
特に鼻につくのが、「○○というものは私は今まで見たことも読んだこともない。」という言い回しを再三することで、そうは書いてありませんが、「なのでそういうものは存在しない。」と暗に言っています。ある意味とても傲慢です。例えば白井喬二の「富士に立つ影」では、「築城師、城師などというものは聞いたことがない。」と書いています。それに対し、白井喬二は「さらば富士に立つ影」という自伝の中で、築城家熊木伯典、佐藤菊太郎の名前は、「築城家列伝」の中で見つけたといっており、実在の人物で、「富士に立つ影」の連載中にその子孫にあたる人(双方)から手紙をもらったと語っています。白井喬二は「国史挿話全集」を編むほど、江戸時代の文献に広く目を通していますから、私は白井喬二の方を信用します。
直木三十五の「南国太平記」についての評論も読んでみましたが、こちらも歴史的な事実の誤りを指摘するというよりは、どちらかというと登場人物の「口の利き方」を細々と批判しています。こういう身分のものが、別の身分のものに、このような口の利き方をする筈がない、というような指摘が延々と続きます。たぶん三田村鳶魚の言っていることはほぼ正しいのでしょうが、大衆小説家が歴史に題材を取って小説を書く場合、そこまで調べなければいけないのかと思います。
取り上げられている作品は、「南国太平記」と「富士に立つ影」、「大菩薩峠」以外は大佛次郎の「赤穂浪士」、吉川英治の「鳴門秘帖」、林不忘の「大岡政談」(丹下左膳)、佐々木味津三の「旗本退屈男」などです。
私は大衆小説が本来持っていた荒唐無稽なエネルギーを失ったのは、この三田村鳶魚の本が一つの原因であると思います。