フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)

フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)を読了。2/3くらいまで読んで、「後1/3でどんなことが起こるのだろう」とわくわくして待っていたら、実は物語は既に終わっていて、残りの1/3は用語集とかのオマケでした…残念ながらEigoxの先生が言っていた「どんでん返し」は私には不発でした。また、本文で十分に説明仕切れなかったことを、オマケで解説するのは小説としてのルールに反しているように思います。
この作品は作品世界の構築という点ではこの上もなく見事だと思いますが、ストーリーテリングに関しては結構課題の多い作品のように思います。白井喬二の「富士に立つ影」との対比で言うと、アトレイデス家とハルコンネン家が対立して、視点は常にアトレイデス家の方からで、一方的にハルコンネン家が悪役として書かれます。しかし(上)の終わりで、実はレベッカとポールがハルコンネン家の血を引いていることも描かれ、この先二つの家の対立が結局どう終結するのか興味をもって読み進めました。しかし残念ながら最後までハルコンネン家は悪役のままで、ハルコンネン男爵は自分の孫娘であるアリアにあっさり殺されます。アリアはその殺害に何の葛藤も持ちません。この点は「富士に立つ影」の方がはるかに優れていて、熊木家と佐藤家の両方の視点から物語が描かれ、初代での悪役と良役は二代目で逆転し、あまつさえ二代目で双方の息子と娘が恋仲になって子供を孕むという複雑な展開になります。
また、この「デューン」では色々な宗教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教までが登場するのですが、そのほとんどはキリスト教視点という感じがしました。後、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」はこの作品でのベネ・ゲセリットの人類血統改良計画のパクリなのだなと思いました。各聖典を統一するという話がオマケに出てきますが、実際の所は、キリスト教の中で聖書の翻訳を統一しようとする試み(エキュメニズムというキリスト教統一運動の中から出てきたもの)ですらなかなかうまくいかなくて、強行にそれに反対する一派がいるくらいです。(昔J社で「キリスト教用語」の辞書を作ったことがありますが、その時に人名の固有名詞には新共同訳のを使ったんですが、それに対して文句を言ってきた福音主義派の牧師さんがいました。)
デューンは作者自身が書いたのは後5作あるんですが、続けて読むかどうかはちょっと考えます。