久し振りに包丁研ぎ

剃刀研ぎで久し振りに砥石を出して来たので、3連休で果物剥きの包丁以外の本格的包丁3本も研ぎました。左から相出刃、刺身、薄刃包丁です。薄刃包丁は刃が欠けていたため、一度# 180の荒砥で刃をつぶして、それからまた刃を付けたのでかなり大変でした。相出刃と刺身はそんなに切れ味は落ちていないのですが、それでも砥石3本使って研いだので疲れました。相出刃は合わせですが、刺身と薄刃は本焼きです。出刃で本焼きは刃が欠けやすいので、合わせの方が使いやすいです。使った砥石は荒砥を除くと、キングハイパーの1000と2000、それから天然砥石の巣板です。

最近の手紙本はひどい…

以前、J社で手紙文自動作成というプロジェクトに関係していました。その時市販の手紙の書き方本・文例集を何冊か買って調べましたが、中身は噴飯ものでした。最近のはどうかと思って、Amazonで一番売れていそうなの(敢えてタイトルと著者は書きませんが、出版社は主婦の友社)を買ってみましたが、さらにレベルが落ちていました。封筒ののり付けする所に書くのは「メ」じゃなくて「〆」なんですけど…
芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」では、元は「〆」だったのを明治になって男性で「緘」「糊」「封」などを書く人が増えたと言っています。1896年の樋口一葉の「通俗書簡文」では、一葉は「状封じて墨を引くこと古くよりの法なりとぞ、封、しん、鎖、糊、いづれも女のものならず、まして此處に検印みとめおしたるいかなる心にかと怪し、ただ〆とばかりかきてありぬべきを。」として、女性はただ「〆」と書きなさい、と教えています。(この部分、故山本夏彦氏がそのエッセイの中で何度か引用していました。尚、「緘」は封緘紙の「緘」で現在では「かん」としか読みませんが、「通俗書簡文」は「しん」とルビを振っています。「書翰文講話及び文範」は「かん」です。)
それから日付は手紙の本文中に書くもので、封筒に書く必要はないと思いますが。(履歴書を郵送する時とかは別)
手紙の本を買うんだったら、大正時代以前のものが良いです。戦後のものは買う価値無いです。

CASIOの電子辞書、中古で買い直し

カシオの電子辞書XD-GF10000を2009年12月に買って、長い間愛用して来ました。しかし、掃除の時間違えてゴミ袋の中に落とし、そのまま気が付かないでゴミとして出してしまったようです。仕方が無いので新しいのを買おうとしましたが、同等レベルの辞書が入っている新品は3万円以上します。ふと思ってAmazonで「安い順」で並べ替えてみたら、中古品が1,500円~3,000円くらいで多数出てきました。それで2,160円でこのモデルを買いました。前に持っていたのよりほんの少し前のモデルですが、コンテンツ的にはほぼ同じです。最初音声再生(英単語の発音確認)が上手くいかなかったので、価格なりかな、と思ってがっかりしていたのですが、試しにヘッドフォンをつないだら音声がちゃんと聞こえて、「ヘッドフォン←→スピーカー」の切り換えスイッチがヘッドフォン側になっていただけでした。英語に関していえば、最新の語彙はあまり必要ではなく、そういうのはネットで調べればいいので、今回の中古品購入は満足出来るものでした。なお、中古品が多数出まわっている理由ですが、高校入学とか大学入学のお祝いとかでもらったり買ったりする人が多いんでしょう。それで卒業したら売っているのかな、と。

西洋剃刀の研ぎについて

久し振りに剃刀ネタ。西洋剃刀(ストレートレザー)で入浴時に髭を剃り始めて3年9ヵ月くらいになります。現在常用している剃刀は7本で、月曜日はこれ、火曜日はこれ、という感じでローテーションして使っています。(コレクションの全容はここを見て下さい。)この剃刀の研ぎですが、始めた頃色々試行錯誤して、砥石で剃刀をキレキレにするのは結構大変で(私は砥石は57種67本持っていて日本刀を含めて色々な刃物に対応可能です)、簡単で効果的な方法として、ラッピングという革砥(ベルト型ではなく、テーブルに置いて使うタイプ)にダイヤモンドペーストの#8000と#14000を塗って研磨する方法で、これまではかなり満足出来る結果が得られていました。
しかし、最近になってもっとも古くから使っているDovoとThiers-issardの2本が、このラッピングでは切れ味が回復しなくなりました。それで何回か色々な研ぎ方を試行錯誤して分った結果ですが、写真の別のThiers-issardの剃刀の上部に見える光った部分、この部分がラッピングを繰り返した結果として無くなると、いくらラッピングしても元に戻らないということが判明しました。それで切れ味を復活させた手法ですが、
(1)革砥ではなく、ちゃんとした砥石で最低でも片面200回以上、この光った部分がちゃんと形成されるまで研ぐ。なお、良く剃刀の研ぎ方として説明されているような力を入れない研ぎ方ではなく、それなりに力を入れ、またエッジ部を押さえるようにして研ぎます。丸みがある刃の場合は、いわゆるX字研ぎのように傾きを変えて交互に研ぎます。ちゃんと研げていれば砥石の上に黒い金属粉を含む液体が出てくる筈です。
(2)番手は私は、1次研ぎでは#2000の人造砥石(ビトリファイド法)、2次研ぎで天然砥石(巣板)(おそらく人造砥石なら#4000~#6000ぐらい)を使いました。その後、3次研ぎで人工砥石の# 12000を使いました。
(3)次にラッピング(革砥に研磨ペーストを付けた研磨)で、# 8000と# 14000のダイヤモンドペーストを用いて刃をシャープにします。
(4)最後にベルト型の革砥で研磨剤無しでストロッピングして仕上げます。
ポイントは(1)の時にきちんと刃の端部の光る部分が形成されるまで研ぐ、ということです。
なお、研いだ後の刃のシャープさの確認として、爪に当てる、というのが良くやられますが、包丁ならこれでいいですが、剃刀では不十分で、手を切らないように注意しながら、指の腹を軽く刃に当てて、シャープさと刃が十分薄くなっているかをチェックします。(指を切らないように十分注意してください。)
なお、ついでに世の中には、革砥信者、特にコードバンの革砥の信者みたいな人がいて、砥石やペーストを使わなくても革砥だけで切れなくなった剃刀の切れ味が戻る、と主張している人がいますが、ペーストを付けない革砥に剃刀を研磨する能力はありません。
以前紹介した英語のシェービングの教科書に載っていた記述の日本語訳を再引用します。
「一度きちんと砥石でカミソリを研いだ後は、革砥でストロッピングさえすれば常にカミソリを良い状態に保つことが出来るという主張は、革砥のメーカーが宣伝文句として主張したものです。それらによれば革砥の表面を「金属化」したとか、特殊な表面処理をしたとか述べられています。しかし、読者の皆様はそのような「魔法の革砥」には注意していただきたいです。そういった処理は革砥の性能を若干改良するかもしれませんが、それ以上の効果があるということは否定します。革砥とカミソリの性質を良く理解すれば、革砥が砥石を置き換えることが出来ないことは明白です。」

革砥は日常のお手入れとして、微小な刃こぼれの断片が刃に付着しているのを除く、刃のバリを取る、刃についたゴミや脂を除去する、ということでしかなく、ペースト無しの革砥だけで剃刀の切れ味が維持されるということはありません。

NHK杯戦囲碁 鶴山淳志8段 対 大西竜平7段(2022年10月9日放送分)


本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が鶴山淳志8段、白番が大西竜平7段の、まあ言ってみればイケメン対決でした。大西7段の碁は大西ワールドという独特の世界観が特長ですが、本日の碁はどちらかと言えば、鶴山ワールドとも言うべき、力と力の全面対決という碁でした。布石は黒が盤面の右側、白が左側を占めあうプロの碁では比較的珍しい展開になりました。単純な囲い合いでは先番の黒に利があるため、白は右上隅に肩付いた石から中央に展開し、これを黒が攻める碁になりました。中央の押し合いで、白がじっと伸びて我慢すべきなのをハネていったのが、私から見れば打ち過ぎで、鶴山8段が待ってましたとばかりに切りました。白がそれに対し黒の反対側を切ったのがやり過ぎの第2段で、鶴山8段の大好きな碁形にしてしまいました。結局白は頑張れず中央でタネ石の4子を取られ、右辺から右上隅に展開して、結局振り替わりになりましたが、白の中央の損が大きく、ここで黒が優勢を通り越して勝勢になりました。ただ大西7段の碁は大体このように中盤まで劣勢で、ヨセで逆転して半目勝ちという碁が多いそうで、この碁も黒が固く打ったのと、途中小さなミスもあり、半目勝負かという局面になったこともありました。しかし結局黒の2目半勝ちに終わりました。大西7段は少し中盤の打ち方に誤算があったように思います。

トワイライト・ゾーンの”The Howling Man”

トワイライト・ゾーンの”The Howling Man”を観ました。デイヴィッド・エリントンは若い頃、第1次大戦後の中部ヨーロッパを徒歩で旅していた時に嵐に遭い、道に迷い倒れそうになった時にある建物を見つけそのドアを叩きます。その中には10人(?)くらいの道士風の衣装を着て先が曲がった木の杖を持った男たちがいました。その一行の指導者のジェロームはエリントンにすぐ出ていくように言いますが、エリントンは過労と雨で身体が冷えたので倒れてしまいます。しばらくして意識が戻ったエリントンは、建物の中に牢があり、そこに男が一人捕らえられていることを発見します。男はジェローム達は狂人で、牢から出してくれるよう懇願しました。しかしそこにジェローム達がやって来て、エリントンはその男についての説明を受けます。ジェロームはその男は悪魔で、彼らが捕まえたからやっと戦争が終って平和になったのだと言います。しかしエリントンは信じたふりをしただけで、結局夜中にその男を助けて部屋から出します。エリントンはすぐにその男によって金縛り状態にされ、その男の顔が伝統的な悪魔の顔に変わっていくのを目撃します。ジェロームの言ったことは真実だったのです。エリントンは自分の過失で悪魔をまた解放してしまったことを悔い、その後の人生を悪魔を再度捕まえることに捧げます。そして既に中年になっていたエリントンがようやく再度悪魔を捕まえて閉じ込めることに成功します。しかし彼が外出している間に彼のお手伝いさんが悪魔をまた牢から出して…という話でした。
うーん、こういう話なら別に舞台は現代でも無くて良い訳で、トワイライト・ゾーンでやるべき話ではないように思います。やっぱりシーズン2はイマイチですね。

アウター・リミッツの”The Man with the Power”

アウター・リミッツの”The Man with the Power”を観ました。またもSFホラーでした。ハロルド・J・フィンリーは大学の先生でしたが、内気で弱気で人と争うことも出来ないような性格でした。安月給を補うためある中学校で生徒を教えていました。しかし彼はある画期的な装置を発明し、それを自分の身体で実験します。その装置を脳のある位置に埋め込むと、宇宙線のような我々のすぐ身の回りにあるエネルギーを集中・増幅させることが出来、またそれは人間の意識によって制御可能でした。フィンリーはこの技術を頓挫寸前だった資源獲得のための小惑星探査プロジェクトに売り込み、それはすぐ採用され、ある若い宇宙飛行士の脳に同じ装置が埋め込まれることになります。しかしこの装置は思いがけない副作用を持っており、フィンリーが表面的は怒りとか恨みの感情を抱いていない場合でも、彼の深層が無意識にそういった負の感情を持った場合、あるエネルギー体の雲と雷鳴のようなものを発生させ、それによって人々を殺してしまうというものでした。フィンリーはこの副作用で、自分に中学校教師を続けるよう強要する校長先生を殺してしまい、また自分の奥さんすら危うく殺しかけます。この副作用に気がついたフィンリーは若い宇宙飛行士の手術を中止するように言いますが、麻酔薬で眠らされ、手術が始ります。しかしフィンリーは麻酔薬の眠りの中で、副作用による雷雲めいたものを発生させ、手術室を破壊します。結果として手術は中止なりますが、彼自身もこのような能力を持った人間は生きるべきでない、と言い、自分自身が作り出したエネルギー体によって消滅します。
どうでもいいですが、どれもこれも話が暗いのは辟易します。冷戦による核戦争の危機の時代で、人々の不安感が大きかったのにこのドラマは便乗しているように思います。

コージィ城倉の「プレイボール2」の元ネタ

コージィ城倉の「プレイボール2」の元ネタ。ちばあきおの短篇の「磯ガラス」のメンバーが、川北高校のナインの内7人(多分バッテリー以外)を占めています。「キャプテン2」の中でもこの7人が釣りが趣味であることが描かれています。(それどころか「磯ガラス」の一場面がそのまま使われています。)ちなみにこういう元ネタ探しを楽しんでいるのであって、非難している訳ではまったくありません。逆にこれから「キャプテン2」でどんな元ネタが新たに使われるかが楽しみです。今の所「トーボくん」とか「チャンプ」のキャラはまだ使われていないようです。

トワイライト・ゾーンの”A Thing About Machines”

トワイライト・ゾーンの”A Thing About Machines”を観ました。うーん、本当にシーズン2になってからつまらないです。この話は人間嫌いのグルメ評論家のフィンチレーが、家の中のマシン全部に反逆され、最後は自分の車に追いかけられ、結局はプールに落ちて溺死する、という話です。家の中のタイプライターが勝手に「ここを出ていけ、フィンチレー」とタイプし始めたり、電気剃刀が襲ってきたり、テレビが勝手にONになって、そこに出てくるフラメンコのダンサーがやはり「フィンチレー出ていけ」としゃべるとか、ホラーとしては十分怖いんですが、ストーリーとしてそうなった理由とか背景説明もまったくなく、ただ機械に襲われる男の話に過ぎません。

中根千枝先生の「社会人類学 アジア諸社会の考察」

中根千枝先生の「社会人類学 アジア諸社会の考察」を読了しました。昨年10月の先生の訃報を聞いてからしばらくして買い求め、読み始めたものです。ここの所半年くらい、6冊くらいの日本語の本をほぼ常に同時に読んでいるので、読了が遅くなりました。内容は家族の構造などの社会人類学の基礎概念の解説と、中国、インド、韓国、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ネパール、シッキムなどの社会構造を、階層とか社会構造、人間ネットワークの観点で比較分析したものです。後者については先生も書いておられるように、まだ最初の試み、という感じがありますが、しかし社会学者が「社会」を研究対象にしながら、このような視野の広い比較による社会分析が十分出来ていないのに比べると、先生のこの研究のようなものの方が一歩先を行っていると思います。また現在文化人類学はサイードの「オリエンタリズム」におけるような欧州中心主義に対する批判とか、ポストモダン側からの極端な相対主義による批判にさらされ、かつての勢いを失っているようですが、日本を含むアジアの文化人類学者というのは、そういう批判の外にいて、独自の貢献が出来る可能性を持っているように思います。少なくとも私にとっては社会学と文化人類学は車の両輪のようなものです。