トワイライト・ゾーンの”An Occurrence at Owl Creek Bridge”を観ました。これは中々異色のエピソードで、本来はトワイライト・ゾーンと関係無く、カンヌ映画祭で賞を取ったショートフィルムです。お話しは「悪魔の辞典」で有名なアンブローズ・ビアスの原作に基づくものです。南北戦争で、おそらく北軍に南部の民間人が捕まっていて、橋の上から吊されて死刑にされようとしています。死刑が執行されましたが、ロープが長すぎて男の体は川の中に入り、底について男は手のロープをなんとか外して泳いで逃げ出します。兵士達が銃やライフル、大砲を撃って男を殺そうとしますが、丁度川の急流に流されて男は何とか逃げ延びます。しかしそこにも大砲が追って来て、男はさらに駆けだして逃走を続けます。その内並木道になりその先に家が見えました。そこに待っていたのは彼の最愛の妻でした。男は何とかたどり着いて妻を抱きしめようとしますが、その瞬間彼の体は衝撃を受け、結局男は橋からぶら下がって処刑されており、今までのは男のその瞬間の夢だった…というお話です。これはビアスの短篇でもっとも有名な話のようです。しかしトワイライト・ゾーンのお話としては、ちょっと違うと思います。SF性がほとんどないですし。
中村元の「インド思想史」
中村元の「インド思想史」を読了。最近読書傾向が宗教関係と哲学関係という若い時は避けていた分野が増えて来て、我ながら浮世離れしてきたように思います。インドの思想については2年前に立川武蔵の「はじめてのインド哲学」を読んでいますが、正直な所難解であまり残るものがなかったです。しかしこの本はさすが中村元、という感じで難しいテーマをきわめて分かりやすくまとめて得る所が大でした。ただ、古代から現代までというのはさすがに手を広げすぎで、個々の説明がかなりはしょり気味になっている難点を感じました。私は日本の仏教、特に鎌倉仏教について、一種の新興宗教みたいなもの、という印象を持っていますが、この本を読んで分かったのがそもそも大乗仏教からしてが、本来の仏陀の教えからすると新興宗教で、元の仏教にはない異質なものを沢山追加しています。鎌倉仏教についてはそうやって多様化した仏教からそれぞれの宗派が言ってしまえば自分好みのものだけを選択して作り上げたものという風に軌道修正しました。(先日仏壇に置く仏像について、「はせがわ」のWebサイトを見ていましたが、禅宗系が釈迦、浄土宗系が阿弥陀仏、密教系が大日如来、日蓮宗に至っては日蓮そのもの、で何で?と思いました。)また、私はイベリア半島でのイスラム帝国での宗教的な寛容から、イスラム教の寛容さ、という印象を持っていたのですが、13世紀にインドを支配した回教徒は仏教寺院を徹底して破壊しています。2001年にタリバンがバーミヤン大仏を破壊して問題になりましたが、あれはイスラムの一部の過激派だけの問題ではなく、イスラム教が自分と近いユダヤ教とキリスト教には寛容なだけで、偶像崇拝の典型である仏教には完全に妥協しないで弾圧しているということが分かりました。
私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教(キリスト教は正確には三位一体教ですが)かつ、人間と似ている神様(というか人間が神様の似姿とされたのですが)、というのがまったく受け入れられません。私が神を認めるとすれば、それは宇宙の根本原理みたいなもので、それはインドのブラフマンに近いのだなと思いました。ただインドで不思議なのが、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教で共通して輪廻を認め、それを不幸な状態だとする所です。私は生命が輪廻の形で永遠に続いていくなら、それは素晴しいことだと感じます。古代のインドには唯物論まであり、ある意味宗教思想のデパートみたいです。
ルート、の元々の意味
数学の√(ルート)って深く考えないで使っていましたが、要は「根」ですよね。実は法律でも使われるようで、なぜルートというのかをChatGPT4oに教えてもらいました。
私
ヴェーバーの「ローマ土地制度史」で、”zu einer dinglich radizierten Last gemacht”というのが出て来ます。国境の警備義務を課された国境に接する土地などについて述べている箇所ですが、このradizierenは数学で「根を求める」という意味だと思いますが、ここではどのような意味で使われているのでしょうか?何からの物的な義務に還元された、ということでしょうか?
ChatGPT
ここでの radizieren は、語源的には「根に基づくものにする」という意味で、法律文脈では「根本的に設定された」や「根深く基づく」義務を示します。したがって、この文脈では「その義務が物的な負担(dinglich)として土地に根本的に(radiziert)課されている」という意味です。つまり、土地自体に対する義務として不可分に結び付けられ、国境沿いの土地がその所有者に警備の負担を継続的に背負わせるものに設定された、ということです。
したがって、「土地自体に根深く結びつけられた物的負担」と訳すと文脈に適合すると思います。
あなた:
なるほど!その用法は辞書にはありませんが、法律では良く使われますか?
ChatGPT
はい、このような radizieren の用法は法律分野や法学研究で時折見られます。特に、負担や権利などを土地や物的対象に不可分のものとして設定する際に用いられます。これは主にドイツ語の法学文献で用いられる表現で、所有権や負担が「地に根差したもの」として課されていることを強調するための比喩的な表現です。
あなた:
負荷自体がその土地に根を張っている、というようなイメージでしょうか?
ChatGPT
その通りです。「負荷自体がその土地に根を張っている」というイメージがぴったりです。この表現により、負荷や義務が単に土地と関わりを持つだけでなく、土地の本質の一部としてしっかりと結び付いていることを強調しています。そのため、所有者が変わっても土地に対する負荷や義務は自動的に継承され、義務が取り除かれることなく持続するという意味合いが込められています。
あなた:
逆に数学の平方根や立方根を「根 root」というのはどこから来ているのですか?
ChatGPT
数学での「根」(root)という用語も、実は同じ「根を張る」イメージに由来しています。この用語は、特定の数(「根」)が方程式の構造にしっかりと結び付いていることからきています。
例えば、平方根(square root)は、その数を2乗すると元の数に戻る数であり、ある種の「基本的な要素」として、元の数の「根」や「起点」のような位置付けです。また、「根」は結果として現れる数値の「基礎」または「基盤」として扱われるため、数の構造を支える中心的な役割として「根」という言葉が選ばれたと言われています。
実際、ラテン語で「根」を意味する radix が数学用語として用いられているのも、「基礎」や「起点」という意味が数学的構造を考えるうえで重要な役割を持つからです。
NHK杯戦囲碁 孫喆7段 対 許家元9段(2024年12月8日放送分)
本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が孫喆7段、白番が許家元9段の対戦です。この碁は白が地に辛く打ちながらも途中で下辺から戦いを仕掛け、その後延々と戦いが続き白が少しですがリードを保ち続けました。途中上辺左、左上隅、左辺の打ち方で、黒が左上隅の星上に付けたのに、白が外からハネて隅を黒に譲れば普通でしたが、左に延びたため、上辺から左上隅は黒地になりました。白の狙いは左辺の黒への置きでしたが、これは大した戦果が挙がらず、ここで黒がやや盛り返した感じでした。ヨセに入って白の技が決まったのが右下隅で、黒が割りこんで来たのに下から当てたのが妙手で、右下隅の黒地が逆に白地になり、ここで白が大きくリードしました。白はリードしているにもかかわらず、左下から中央、右上へと延びる黒の大石を執拗に狙っていきました。その関連で、左下隅で黒が下辺を掛け継いで劫を狙っていたのに白が手を抜いている所が問題になり、黒がハネた時、ケイマに外したのが白の上手い受けでした。これでセキになる筈でした。しかし黒はそれでも手を付けて行き、なんと下辺第1線で自ら2子当たりに突っ込む手があり、これで結局劫になりました。黒はこの劫を利用して大石を無事活きて、白は妥協しましたが、形勢には影響なく黒の投了となりました。やはり隅というのは色々と手があるものだと、死活の勉強になりました。
日本の学者が論争しないことについて書きました。
私の大学時代の先生である折原浩先生が、日本の学者が論争しないことについて色々と書かれていますが、それについてちょっとした意見を書きました。まあ心理的安全性という意味では何の遠慮も要らない私のようなアマチュア研究者がむしろもっと論争を仕掛けていくべきなのかもしれません。
クルアーン(コーラン)読了
クルアーン(コーラン)の日本語訳を、半年ぐらいかけて毎日少しずつ読んでやっと読了しました。
まず第一印象としては、非常に面白くない経典だということです。こういうことを言うと問題かもしれませんが、例えば旧約聖書には創世記などの神話とか、列王記、申命記のようなユダヤ民族の歴史に関するものが多く含まれ、そして新約聖書ではイエスの様々な例えを用いた説教を興味深く読むことが出来ます。しかしクルアーンについては、まずは「アッラー」というのは決して固有名詞ではなく、アラビア語での普通名詞の「神」の意味です。そしてこの神はユダヤ教やキリスト教のものと同じであるとされます。なので神話的な部分はほとんどが旧約聖書からの、それも正しくない形での借用(正しくないというのは、例えば歴史的に違う時代のものを同じ時代に起きたかのように扱ったりしていたりしています)です。ただ、固有人名はアラビア語風に変えられ、モーセはムーサー、イエスはイーサー、ノアはヌーフなどとなります。ちなみに聖母マリアは、マルヤムです。そして例えばキリスト教徒から見ると、クルアーンでは「アッラーが子を設けることはない」ということで、キリスト教の根幹の部分をバッサリと斬り捨てていますので、基本的にはキリスト教徒はイスラム教を許容出来ず、何故十字軍のようなことが起きたのかもそれで理解出来ます。そういう訳で独自の神話も無く、またたとえを用いた説法もほとんど無く、全体のほとんどは「ただアッラーを信じよ」の繰り返しで、新約聖書で言えばパウロ書簡に近いと思います。また若干ですが当時の社会での道徳的な訓戒もあり、勝手に妻を離縁してはダメだ、といったものが出て来ます。またアッラーについて何度も何度も繰り返されているのがアッラーが慈悲の神であり、「よく赦す」神であることが強調されています。要するに改宗を迫る異教徒たちに悔い改めさせてアラーの慈悲に従えば赦される、というのが中心的な命題になっています。クルアーンは元々、ムハンマドが神から受けた啓示を口頭で語ったものを、弟子の内の教養があるものが文書化したものです。ムハンマド自身は文盲だったので、現在あるクルアーンの文書をムハンマド自身が書いた訳ではなく、複数の人間の共同作業でかなりの時間をかけて現在のものにまとまったものです。その意味でクルアーンのアラビア語は今でも文章語の模範とされる格調の高いものだそうですが、残念ながら日本語訳で読むとそれはまったく伝わって来ませんでした。全体にも論理的な構成というよりも順不同に色々な内容が出て来ます。これは私の勝手な意見ですが、日本の仏教でいえば弥陀の本願にひたすらすがる浄土真宗に近いものがあると思いました。どちらも大衆への布教に成功しているという意味でもそうですし、最後の審判で裁きを受けるといって脅かすのも仏教での地獄に落ちると脅かすのと近いものを感じました。
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回を公開
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回を公開しました。これまでの所でWordファイルで既に188ページに達し、ほぼ「中世合名・合資会社成立史」と同じくらいの分量に達しています。それでもまだようやく6割弱です。先は長いです。
ウルトラマンタロウの「怪獣ひとり旅」
ウルトラマンタロウの「怪獣ひとり旅」を観ました。この時期の特撮によくある観光地とのタイアップで、宮崎のえびの高原が舞台です。九州だから温泉、という安直なイメージで、温泉掘りの名人がボーリングをしているのが原因で怪獣ボルケラーが登場します。東隊員は今回も無謀にも怪獣の角に飛び移ります。ZATが攻撃しにくくなるだけでほぼ無意味な行動です。お約束で角から振り落とされてそれでタロウに変身するというワンパターンな展開です。うーん名人の林田を追って九州までやって来たタケシ少年がまあほのぼのとした展開を作っていますが、それだけのエピソードです。
新しい(?)ATOK
これも2004年~2005年で元々携帯電話用ATOKの補助辞書でしたが、私は本当にバラエティに富んだ辞書を100近く作りました。それに比べて今回の例で出ているのを見ると、なんだこの程度か、という感じです。
中根千枝先生の「タテ社会と現代日本」
中根千枝先生(私は大学の時1年間文化人類学入門と社会人類学の初歩を中根先生に習っています)の「タテ社会と現代日本」を読了。この本は「タテ社会の人間関係」出版50年を記念して、講談社が中根先生にインタビューした内容をまとめたもの。附録で1964年の中央公論に載った「日本的社会構造の発見――単一社会の理論――」が付いています。この本を読んだのは、先日の仏教学者がその著作の出版にあたって別の年長の学者の妨害を受けた、という暗澹たる話を読んで、再度中根先生の「タテ社会」を確認したくなったからです。
この本で驚いたのは「タテ社会」というのは中根先生自身の命名ではなく、講談社の当時の編集部のアイデアだということです。確かに「日本的社会構造の発見」の方を読んでも、タテという言葉は使われていません。ただ発想の元は、インドと日本の比較ですが、インドはカースト制度で差別が強い社会のように思われていますが、実際には同じ職能階層の間ではお互いに助け合う仕組みが出来ていて、たとえ最下層のカースト民であっても決して不幸だけということはないということです。日本は閉ざされた「場」の空間の中で、要するにその「場」に長くいるほど階層が上(先輩-後輩の序列)で、その「場」の中での上昇していくことは可能だけど、職能階層、専門家集団のようなヨコのつながりがほとんどないということです。なのでマルクス主義的文脈でも、日本では個々の会社単位ではない資本家対労働者という対立はほとんどなく、実際には同業他社同士の熾烈な争いの方がよっぽど強いということになります。
ただ中根先生は2021年に亡くなられていて、この本は2019年ですが、さすがに中根先生の日本の現状認識もかなりズレが出ています。今は「せっかく苦労して入った会社だからなかなか辞められない」なんていう状況には全くなく、新入社員の1/3は入って3年以内に辞めて別の会社に転職したりしています。それにそもそも正規社員になれる人が減って、会社に勤める人の全体の約1/3は今や非正規社員です。また、私の例を出して恐縮ですが、私は1年半前に前の会社を辞め、今の会社に移っていますが、どちらも産業用スイッチの会社でお互いに競合会社です。(それぞれ強いジャンルが違っていて、それほど強い競合ではありませんが。)そのきっかけは、私が「ヨコ」の関係であるある工業会で同業他社同士が所属する委員会の委員だったことです。こういうのも50年前にはあまりなかったと思います。また「家」が典型的な場として挙げられていますが、私のように独身で老後を迎える人がやはり1/3になりつつあり、そもそも「家」も崩壊寸前です。
ただそうは言っても、タテ社会の弊害と言うのはまだまだ沢山残っていて、仏教学者の出版妨害もまさにその一例です。(ある意味、アカデミズムの世界が遅れていて未だに昔の悪弊から抜けられていない、とも言えそうですが。)そういう意味で中根先生のタテ社会論は今でも読む価値があると思いますし、またそれをベースにして今の日本を分析する新しい理論が出てくるべき時でもあると思います。