ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第54回を公開しました。ついに第3章が終わり、後第4章を残すのみ、比率で残り23%となりました。「土地制度」という意味ではこの章がまさに中心となっています。
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「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第52回を公開
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第52回を公開しました。おそらく後20回弱で最後までたどり着き、今年の夏には校正に入れると思います。
ローマも4世紀になるとかなり色々苦しくなり、あの手この手で税収を増やそうとして、έπιβολή(エピボレー)といって耕作されていない土地を無理矢理その隣の土地の地主に割当てて、その分の税金を取るようなことをしており、かえって自営農民のやる気を削ぐということになったようです。
plethoraの語源
ヴェーバーの「ローマ土地制度史」で今訳している所で、ギリシア語でπλεθρον, πλεθρα というギリシア語の面積の単位が出て来たので、ChatGPT4oに英語の「plethora」(多すぎること)と関係があるか聞いてみたら、直接の語源ではないですが、どちらもギリシア語の「満ちる」という動詞から来ているようです。ちなみにa plethora of は英語では単に多いではなく「過剰、多すぎる」というニュアンスが強いです。
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ここに出て来たギリシア語のplethron、plethraはもしかすると現代の英語でのplethora(過剰)と関係がありますか?
ChatGPT:
とても鋭い視点ですね!ギリシア語の「πλέθρον(plethron)」と、英語の「plethora(過剰)」が関係しているのか? という疑問は、語源的にとても興味深い問題です。
1. ギリシア語「πλέθρον(plethron)」とは?
πλέθρον(plethron) は、古代ギリシアの面積単位 であり、約 100平方キュビット(約1/3ヘクタール ≒ 3,000㎡) に相当します。
この単語の語源は、πληθώ(plēthō)(満ちる、いっぱいになる)と関連があります。
2. 英語の「plethora」との関係
plethora は ラテン語「plēthōra」 を経由し、ギリシア語「πληθώρα(plēthōra)」 から来ています。
πληθώρα(plēthōra) は、「満ちている状態」「過剰」「豊富さ」という意味を持ち、語幹はやはり πληθώ(plēthō) です。
3. 直接の語源的関係はあるか?
「πλέθρον(plethron)」と「πληθώρα(plēthōra)」は、どちらも「満ちる」「広がる」という意味の「πληθώ(plēthō)」が語幹 になっています。
しかし、「πλέθρον(plethron)」はあくまで測量単位として発展した言葉 であり、「πληθώρα(plēthōra)」は「量が多いこと」自体を意味する言葉 です。
したがって、語源的に共通する要素(πληθώ)はあるが、「plethron」と「plethora」は直接の派生関係にはない というのが正確な答えになります。
4. それでも関連性が感じられる理由
「πλέθρον(plethron)」が面積単位として広がった ため、「広がりがある」「満ちている」といった概念と結びつきやすい。
「πληθώρα(plēthōra)」は「過剰にあること」 であり、「土地が広がる」イメージとも共鳴しやすい。
そのため、語源的には異なっていても、意味的に関連があると感じられる のは自然なこと。
結論
「πλέθρον(plethron)」と「plethora」は直接の語源的な派生関係はないが、共通の語幹(πληθώ)を持つため、意味的に関連が感じられる という関係です。
つまり、「plethron(広い土地の単位)」と「plethora(過剰)」は、共に「満ちる・広がる」というギリシア語の概念から発展した、兄弟のような言葉と言えますね!
小野 央軌さんの今の気分: 楽観的
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「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第50回を公開
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第50回を公開しました。ついに50回までたどり着きました。しかしこれからが文字通り胸突き八丁という感じで、例えば次回の分は2ページに渡るラテン語とギリシア語を含む長大な注釈があります。その方に時間をかけるため、今回の分はいつもより一日早く終わらせました。
ところで、ロードベルトゥスの本の日本語訳が昭和30年代の岩波文庫で2冊出ていたので、その内「地代論」を取り寄せました。その本にあったロードベルトゥスの経歴は、ベルリン大学とゲッティンゲン大学で法学を学び、司法試験を受けて司法官試補となり、後に経済学に転じて、とここまでヴェーバーとほとんど同じ(ヴェーバーはハイデルベルク大学でも学んでいます)です。ある意味似た者同士で、そんな所からヴェーバーは共感していたのでしょうか。
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第49回を公開
ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第49回目を公開しました。これでほぼ7割です。今年のお盆前には一応最後まで訳せると思います。それから校正に入って、正式版が出せるのは10月くらいかな、と思います。この箇所はやたらとロードベルトゥスへの言及があります。労働価値説、剰余価値といった点でマルクスの先駆けとなった人です。今では読む人はまずいないと思いますが。
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第48回を公開
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第48回を公開しました。塩野七生が「勝者の混迷」と呼んでいる、ローマの3回のポエニ戦争の後の期間ですが、スキピオがカルタゴの土地に塩を撒いて二度と穀物が獲れないようにした、というのは多分大嘘で、ローマにとっては当時は肥沃な穀倉地帯であったカルタゴの領地がいきなり丸ごと手に入った訳で、それの使い方を巡って、グラックス兄弟の改革による都市プロレタリアートと化した貧農への土地授与だけでなく、元老院のメンバーである世襲貴族による奴隷を使った入植と農園化など、様々なことがこの北アフリカで起きたのだと思います。
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第47回を公開
ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第47回目を公開しました。グラックス兄弟のLex agraria でカルタゴの領地の処理について定められた内容に関する詳細な議論が続きます。この法律というかグラックス兄弟の改革は、一般には「没落したローマの自営農民の救済」と言われることが多いですが、実際には非常に色々な目的を持っていたことが分かります。まあご承知の通り、既得権益者の大反対で頓挫する訳ですが、グラックス兄弟がある意味性急に広範囲の改革をしようとしていたことが窺えます。
これで全体の2/3を終えました。
辻直四郎訳の「リグ・ヴェーダ讃歌」
辻直四郎訳の「リグ・ヴェーダ讃歌」を読了。リグ・ヴェーダを含むヴェーダは、インドの宗教文書でもっとも古いものです。訳に「讃歌」の語が追加されていることから分かるように、様々な神に祈りとソーマ(神酒)を捧げて現世での御利益を得ようとするきわめて現世志向の讃歌です。また太陽神とか暴風雨の神、火の神(アグニ)、幸運の神、無垢の神、薬の神、と色々で、基本的にはギリシア・ローマ神話とか神道の世界に近い多神教で、中心的な神が曖昧です。一番良く出てくるのは英雄神のインドラと火の神のアグニでしょうか。ヴィシュヌも一応出て来ますが、まだその存在感は大きくありません。全体にただひたすら讃歌で、要は金持ちに雇われた詩人が自分の詩作の腕を振るって褒め称えた神からの御利益をその金持ちのために引き出し、多額の謝礼をもらうための歌です。後のウパニシャッドのような哲学的な内容はまだほとんどありませんが、神々も宇宙が生まれた後に生まれたもので、宇宙を創造したりはしていないとか、あるいは始まりは有も無も無かった、と言っているのは現在のビッグバンによる宇宙の始まりときわめて近い解釈です。また原人プルシャの体のそれぞれの部分から、つまり口からはバラモンが、腕からはラージャニア(後のクシャトリア)、腿からはヴァイシアが、最後に足からシュードラが生まれたとされており、カーストの起源が非常に古いことが分かります。ともかくウパニシャッドと違って非常に読みやすいですが、その翻訳は解釈が沢山あるようで、意味が取りやすいという訳ではありません。
「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第45回を公開
昨年末になりますが、「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第45回を公開しています。日本語訳の累計がMS-Wordで200ページを超し、私としては未知の領域に突入しました。今回の部分は非常に難解でした。
荒井献先生の訃報
Wikipediaによると荒井献先生が今年の8月に亡くなられていたようです。丁度今、ジョルダノ・ブルーノとヘルメス主義に関する本を読んでいて、グノーシスとも関係があるため、荒井先生のことを思い出していた所です。荒井先生には教養学科の時の最後の半年、使徒行伝の成立に関する授業を受けました。丁度「パウロの回心」の所のテキストの訳読が私の担当になり、そのテキストに「パウロに関する伝承には誤りが多く含まれていた」というのを受けて、「あなたの(ドイツ語の)日本語訳は非常に正確でした。」と誉めていただいのが私にとっては懐かしい思い出で、今ヴェーバーの未訳の論文の初日本語訳なんていう無謀なことをしているのも、ある意味その時誉めていただいのが遠い昔ですがある意味契機になっています。