中村元の「インド思想史」

中村元の「インド思想史」を読了。最近読書傾向が宗教関係と哲学関係という若い時は避けていた分野が増えて来て、我ながら浮世離れしてきたように思います。インドの思想については2年前に立川武蔵の「はじめてのインド哲学」を読んでいますが、正直な所難解であまり残るものがなかったです。しかしこの本はさすが中村元、という感じで難しいテーマをきわめて分かりやすくまとめて得る所が大でした。ただ、古代から現代までというのはさすがに手を広げすぎで、個々の説明がかなりはしょり気味になっている難点を感じました。私は日本の仏教、特に鎌倉仏教について、一種の新興宗教みたいなもの、という印象を持っていますが、この本を読んで分かったのがそもそも大乗仏教からしてが、本来の仏陀の教えからすると新興宗教で、元の仏教にはない異質なものを沢山追加しています。鎌倉仏教についてはそうやって多様化した仏教からそれぞれの宗派が言ってしまえば自分好みのものだけを選択して作り上げたものという風に軌道修正しました。(先日仏壇に置く仏像について、「はせがわ」のWebサイトを見ていましたが、禅宗系が釈迦、浄土宗系が阿弥陀仏、密教系が大日如来、日蓮宗に至っては日蓮そのもの、で何で?と思いました。)また、私はイベリア半島でのイスラム帝国での宗教的な寛容から、イスラム教の寛容さ、という印象を持っていたのですが、13世紀にインドを支配した回教徒は仏教寺院を徹底して破壊しています。2001年にタリバンがバーミヤン大仏を破壊して問題になりましたが、あれはイスラムの一部の過激派だけの問題ではなく、イスラム教が自分と近いユダヤ教とキリスト教には寛容なだけで、偶像崇拝の典型である仏教には完全に妥協しないで弾圧しているということが分かりました。
私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教(キリスト教は正確には三位一体教ですが)かつ、人間と似ている神様(というか人間が神様の似姿とされたのですが)、というのがまったく受け入れられません。私が神を認めるとすれば、それは宇宙の根本原理みたいなもので、それはインドのブラフマンに近いのだなと思いました。ただインドで不思議なのが、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教で共通して輪廻を認め、それを不幸な状態だとする所です。私は生命が輪廻の形で永遠に続いていくなら、それは素晴しいことだと感じます。古代のインドには唯物論まであり、ある意味宗教思想のデパートみたいです。

ルート、の元々の意味

数学の√(ルート)って深く考えないで使っていましたが、要は「根」ですよね。実は法律でも使われるようで、なぜルートというのかをChatGPT4oに教えてもらいました。


ヴェーバーの「ローマ土地制度史」で、”zu einer dinglich radizierten Last gemacht”というのが出て来ます。国境の警備義務を課された国境に接する土地などについて述べている箇所ですが、このradizierenは数学で「根を求める」という意味だと思いますが、ここではどのような意味で使われているのでしょうか?何からの物的な義務に還元された、ということでしょうか?

ChatGPT
ここでの radizieren は、語源的には「根に基づくものにする」という意味で、法律文脈では「根本的に設定された」や「根深く基づく」義務を示します。したがって、この文脈では「その義務が物的な負担(dinglich)として土地に根本的に(radiziert)課されている」という意味です。つまり、土地自体に対する義務として不可分に結び付けられ、国境沿いの土地がその所有者に警備の負担を継続的に背負わせるものに設定された、ということです。
したがって、「土地自体に根深く結びつけられた物的負担」と訳すと文脈に適合すると思います。

あなた:
なるほど!その用法は辞書にはありませんが、法律では良く使われますか?

ChatGPT
はい、このような radizieren の用法は法律分野や法学研究で時折見られます。特に、負担や権利などを土地や物的対象に不可分のものとして設定する際に用いられます。これは主にドイツ語の法学文献で用いられる表現で、所有権や負担が「地に根差したもの」として課されていることを強調するための比喩的な表現です。

あなた:
負荷自体がその土地に根を張っている、というようなイメージでしょうか?

ChatGPT
その通りです。「負荷自体がその土地に根を張っている」というイメージがぴったりです。この表現により、負荷や義務が単に土地と関わりを持つだけでなく、土地の本質の一部としてしっかりと結び付いていることを強調しています。そのため、所有者が変わっても土地に対する負荷や義務は自動的に継承され、義務が取り除かれることなく持続するという意味合いが込められています。

あなた:
逆に数学の平方根や立方根を「根 root」というのはどこから来ているのですか?

ChatGPT
数学での「根」(root)という用語も、実は同じ「根を張る」イメージに由来しています。この用語は、特定の数(「根」)が方程式の構造にしっかりと結び付いていることからきています。
例えば、平方根(square root)は、その数を2乗すると元の数に戻る数であり、ある種の「基本的な要素」として、元の数の「根」や「起点」のような位置付けです。また、「根」は結果として現れる数値の「基礎」または「基盤」として扱われるため、数の構造を支える中心的な役割として「根」という言葉が選ばれたと言われています。
実際、ラテン語で「根」を意味する radix が数学用語として用いられているのも、「基礎」や「起点」という意味が数学的構造を考えるうえで重要な役割を持つからです。

日本の学者が論争しないことについて書きました。

私の大学時代の先生である折原浩先生が、日本の学者が論争しないことについて色々と書かれていますが、それについてちょっとした意見を書きました。まあ心理的安全性という意味では何の遠慮も要らない私のようなアマチュア研究者がむしろもっと論争を仕掛けていくべきなのかもしれません。

https://max-weber.jp/archives/2887

クルアーン(コーラン)読了

クルアーン(コーラン)の日本語訳を、半年ぐらいかけて毎日少しずつ読んでやっと読了しました。
まず第一印象としては、非常に面白くない経典だということです。こういうことを言うと問題かもしれませんが、例えば旧約聖書には創世記などの神話とか、列王記、申命記のようなユダヤ民族の歴史に関するものが多く含まれ、そして新約聖書ではイエスの様々な例えを用いた説教を興味深く読むことが出来ます。しかしクルアーンについては、まずは「アッラー」というのは決して固有名詞ではなく、アラビア語での普通名詞の「神」の意味です。そしてこの神はユダヤ教やキリスト教のものと同じであるとされます。なので神話的な部分はほとんどが旧約聖書からの、それも正しくない形での借用(正しくないというのは、例えば歴史的に違う時代のものを同じ時代に起きたかのように扱ったりしていたりしています)です。ただ、固有人名はアラビア語風に変えられ、モーセはムーサー、イエスはイーサー、ノアはヌーフなどとなります。ちなみに聖母マリアは、マルヤムです。そして例えばキリスト教徒から見ると、クルアーンでは「アッラーが子を設けることはない」ということで、キリスト教の根幹の部分をバッサリと斬り捨てていますので、基本的にはキリスト教徒はイスラム教を許容出来ず、何故十字軍のようなことが起きたのかもそれで理解出来ます。そういう訳で独自の神話も無く、またたとえを用いた説法もほとんど無く、全体のほとんどは「ただアッラーを信じよ」の繰り返しで、新約聖書で言えばパウロ書簡に近いと思います。また若干ですが当時の社会での道徳的な訓戒もあり、勝手に妻を離縁してはダメだ、といったものが出て来ます。またアッラーについて何度も何度も繰り返されているのがアッラーが慈悲の神であり、「よく赦す」神であることが強調されています。要するに改宗を迫る異教徒たちに悔い改めさせてアラーの慈悲に従えば赦される、というのが中心的な命題になっています。クルアーンは元々、ムハンマドが神から受けた啓示を口頭で語ったものを、弟子の内の教養があるものが文書化したものです。ムハンマド自身は文盲だったので、現在あるクルアーンの文書をムハンマド自身が書いた訳ではなく、複数の人間の共同作業でかなりの時間をかけて現在のものにまとまったものです。その意味でクルアーンのアラビア語は今でも文章語の模範とされる格調の高いものだそうですが、残念ながら日本語訳で読むとそれはまったく伝わって来ませんでした。全体にも論理的な構成というよりも順不同に色々な内容が出て来ます。これは私の勝手な意見ですが、日本の仏教でいえば弥陀の本願にひたすらすがる浄土真宗に近いものがあると思いました。どちらも大衆への布教に成功しているという意味でもそうですし、最後の審判で裁きを受けるといって脅かすのも仏教での地獄に落ちると脅かすのと近いものを感じました。

マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回を公開

マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回を公開しました。これまでの所でWordファイルで既に188ページに達し、ほぼ「中世合名・合資会社成立史」と同じくらいの分量に達しています。それでもまだようやく6割弱です。先は長いです。

清水俊史の「ブッダという男 ――初期仏典を読みとく」

清水俊史の「ブッダという男 ――初期仏典を読みとく」を読了。この本はまず後書きが面白かったです。この著者がある本を出そうとし、その中である有名な仏教学者の説を批判していたところ、その学者とその指導教官から呼び出しを受け、本を出せば大学教官の職に就けないようにする、と脅かされたそうです。折原浩先生が、日本の学者が論争をしないことを長年批判しておられますが、論争しないどころか、裏でそんなことしていたのかと、暗澹たる気持ちになりました。これこそアカハラですね。
確かにこの本でも著者は、先人の研究者の説をすごくばっさりと「間違い」「誤解」とか切りまくるので、ちょっと言い過ぎではという印象を受けたのは正直な所です。
この本を読んだのは、手塚治虫の「ブッダ」を今まで最初の数巻にしか読んでいなかったのを、長い通勤時間の時間つぶしに電子本で完読してブッダという「人間」に興味を持ったからです。また、これも折原浩先生の置き土産?で、ヴェーバーの「宗教社会学」の日本語訳私家版というのを預かっていて、取り敢えず現状私のブログで公開していますが、これが注釈部がまったくの未完成で、今やっている「ローマ土地制度史」の日本語訳が終わったらそちらに着手しようとしています。その関係で最近宗教関係を多数読んでいて、旧約聖書を初めて完読しましたし、またクルアーンもずっと読んでいてもう少しで終わります。さらには神道の本とかも読んでいて、その一環がこの本です。元々私は仏教、特に日本の葬式仏教が好きじゃなかったので、仏教は後回しにしていたのですが、インドの思想には興味があって「バガヴァッド・ギーター」も1年くらい前に読んでいて、そろそろブッダも、という感じです。この本で特に興味深かったのが、「歴史的存在としてのブッダ」という研究が盛んになったのが、「歴史的存在としてのイエス」の研究と平行的に起きているということです。大学時代に、聖書学者の荒井献先生の授業を取って、半年だけですが、そういう「史的イエス」の勉強をしていたので、そういう意味でも「史的ブッダ」は興味深かったです。

「ローマ土地制度史 公法と私法における意味付けについて」の日本語訳第40回

「ローマ土地制度史 公法と私法における意味付けについて」の日本語訳第40回を公開しました。ここは大変でした。細かい字でぎっしり書かれた土地改革法の引用文(しかも飛び飛びの抜粋)が出て来たからです。生成AIをかなり使いましたが、しかし生成AIも結構間違えるので修正が大変でした。

安西徹雄の「英文翻訳術」

安西徹雄さんの「英文翻訳術」を読了。元々雑誌の「翻訳の世界」に連載されたもので、著者はシェークスピアの戯曲の翻訳の専門家です。私は、ヴェーバーの「中世合名・合資会社成立史」の翻訳の方針として、
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1. 文中の指示代名詞についても、自明である場合を除いて可能な限りそれが指している語そのもので翻訳し、「それ」「この」といった指示詞だけといった訳を可能な限り避けています。また、適宜意味上の補足を[]の中に入れています。
2. 長い複文が続く文の場合、例えば”Es ist wahrscheinlich, daß….”を「○○○○○○○○○○○○○○は、真実らしく思われる。」のような元のドイツ語の順番を入れ替えた日本語にせず、「次のことは真実らしく思われる。つまり、○○○…」のような形でのネイティブが原文を読む際の理解の順番に合わせるような訳を多用しました。(全部ではありません。)これの欠点としては「つまり」のような語が増えてくどくなるというのがありますが、長所としては、ヴェーバーの長い補足の複文を読む前に結論としてはどうなのかを先に知ることが出来、読みやすくなっていると思います。
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というのを自分でルールとしていたのですが、この本の最初の方に上記の2が、また同じく最初の方に1が指摘してあって、英語とドイツ語という違いはありますが、我が意を強くしました。
その他関係代名詞は、いわゆる限定用法的に見えても実際は非限定用法的に使われていることが多いというのも、今訳している「ローマ土地制度史」で最近感ずるようになっていたものです。
その他、無生物主語、比較、受動態、仮定法など日本語には必ずしも対応するものが無いのをどう訳すかという点で参考になる点は多かったです。ただ安西氏が口語が多い戯曲の翻訳の専門家であり、私がやっているのが口語はほぼ0の学術論文という違いはあり、何でも適用出来るかというとそれは違います。ただ、日本語訳だけ読んで意味が理解出来ない翻訳には意味が無い、ということは共通のことだと思います。

ローマの土地制度と現代の土地制度のつながり

ローマの土地制度にAger Vectigalisというのがあり、要は戦争で占領した敵の土地が大量に公有地になったのを、税金(賃貸料)を取って貸し出したものです。これって今の日本でも例え私有地でも固定資産税を毎年払う必要があり、同じだなあ、と思ってChatGPT4oに聞いてみました。


中国では土地は国有のままですし、日本でも例え私有地であっても固定資産税を毎年払う必要があります。これらは言ってみればローマのAger Vectigalisがそのまま現代でも継続していると考えることは出来ますか?

ChatGPT
確かに、中国や日本の現代の土地制度は、古代ローマのAger Vectigalis(国有地を賃貸形式で使用する制度)といくつかの類似点を持っています。
1. 中国の土地制度とAger Vectigalisの類似性
中国では、土地は基本的に国有または集団所有のものであり、個人や企業は土地の所有権を取得することはできません。代わりに、土地の使用権が一定期間(住宅用は最大70年、商業用は50年など)貸し出される形となっています。この点は、ローマのAger Vectigalisに非常に近いです。Ager Vectigalisでは、土地の所有権は国家にあり、使用権を持つ者が毎年の税金や賃料を支払う形でその土地を利用していました。
中国の土地制度でも、土地の使用権を取得するために大きな費用を支払い、さらに毎年土地使用料(相当する税金や手数料)が課されます。したがって、形式的には所有しているように見えても、実際には国有地を使用する権利を与えられているだけという点で、古代ローマの制度に非常に近い状況といえます。
2. 日本の土地制度とAger Vectigalisの類似性
日本では、土地は個人や企業によって所有されるものの、固定資産税が毎年課される点で、完全な「所有権」を持っていても、税という形で国に貢納する義務があります。この点で、Ager Vectigalisのように、土地の使用に対して恒常的に支払う必要があるシステムと類似しています。
さらに、日本の土地制度においても、土地所有者が自治体や国の規制に従い、土地利用の制限が加えられることがあるため、実質的な意味での土地の「自由な」所有権には限界があるといえます。こうした側面も、ローマの制度と重なります。
まとめ
Ager Vectigalisは、国家が土地の所有権を持ちながら、その使用権を貸し出す仕組みであり、中国や日本の現代の土地制度にもそのエッセンスが反映されていると言えます。土地が完全に個人のものではなく、何らかの形で国家と結びついている点では、現代のこれらの制度もAger Vectigalisの考え方を継承していると考えることができます。
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共産主義国である中国と、一応資本主義国(社会主義国ではないかという説もありますが)である日本の双方において、古代ローマとほとんど変わらない土地制度が行われているというのは興味深いですね。

マックス・ヴェーバーとカール・ランプレヒト

ヴェーバーの「ローマ土地制度史」の参考に、その師であるマイツェンの本を読んでいたら、何とランプレヒト(ドイツの経済史家で、ランプレヒト論争というのがあって批判の対象になった、ヴェーバーも批判する側に回った)が、ヴェーバーと同じくマイツェンの門下だったことが分りました。

マイツェン門下の二人