新国立劇場でのワーグナーの「タンホイザー」公演

1月27日(日)に、新国立劇場で「タンホイザー」を観てきました。2週連続のTOEIC受験の後の、まあいわゆる自分へのご褒美です。このオペラは、ともかく音楽が全てのオペラの中で一番好きです。お話自体は、いかにもワーグナー的なエロスとアガペーの葛藤、聖なる女性による救い、で無茶苦茶面白いという訳ではありませんが、3時間を超える長さを、25分休憩が2回あったせいもあって、退屈せずに観ることが出来ました。
歌手の中ではエリーザベトを歌ったソプラノのリエネ・キンチャが出色の出来栄えでした。この方知らなかったのですが、2012年ぐらいから活躍しており、欧州では引っ張りだこのようです。ラトヴィアの出身です。何より声が良く通るのが素晴らしいです。また身長も、4人の小姓の日本人歌手よりも頭一つ分高く、ステージでは非常に見栄えがします。
タンホイザー(ハインリヒ)役のテノールのトルステン・ケールは、まあ良くあるおデブで髭のテノールで、私が好きなタイプではありませんが、まあまあでした。
日本人歌手の中では領主ヘルマンを演じた妻屋秀和が良かったです。身長もソプラノに負けておらず、こちらも中々目立っていました。
ヴォルフラムを歌った、ローマン・トレーケルについては、私はこの人の「冬の旅」のCDを持っていますが、ちょっと神経質過ぎて線が細いような印象を受けました。
このオペラは、2007年に新国立劇場10周年を記念した公演のリバイバルみたいですが、演出は奇をてらわずオーソドックスで好感が持てました。ハインリヒが歌合戦で思わず肉体愛を賛美する場面では、場が凍り付く感じを、照明を赤にして表現していて、とても分かりやすかったです。
オペラ、次は2019年10月の「エフゲーニー・オネーギン」を観に行きたいです。これも好きなオペラです。

ワーグナーのタンホイザーの話の矛盾点

昨日の新国立劇場でのタンホイザー公演は非常に良かったですが、その感想は別途アップします。
公演中に思っていたのは、ワーグナーが作ったお話の矛盾点です。このオペラの中に「ヴァルトブルク城の歌合戦」というのが出てきて、これは史的事実で、またヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデという、ドイツの吟遊詩人(ミンネゼンガー)でもっとも有名な詩人がこの歌合戦に参加したのも事実です。
問題は、フォーゲルヴァイデの立ち位置で、オペラではハインリヒ(タンホイザー)が肉体的愛(エロス)を精神的愛(アガペー)よりも上にしたのに対し、フォーゲルヴァイデは精神的な愛を最上位とする詩人としてハインリッヒを非難する側として登場します。これは、ワーグナーのフェイク歴史といってしまえばそれまでですが、事実とはまるで逆です。フォーゲルヴァイデこそ、ハインリヒと同じ肉体的愛を訴えた詩人でした。
フォーゲルヴァイデの代表的な詩は、ドイツ人ならおそらく誰でも知っている「ウンダー・デア・リンデン(菩提樹の樹の下で)」です。この詩の内容は、どこにでもいる庶民の若い娘が、彼との性愛の楽しみ(菩提樹の樹の下で彼とエッチした)を歌っているものです。ついでに言うと、この詩の中に「彼と1000回もキスしたの」というのが出てきます。これは、明らかに古代ローマの詩人カトゥルスの有名な詩(「カルミナ」第5)のもじり(本歌取り)です。このカトゥルスの詩は、愛人レスビア(当時の高級娼婦だったと言われています)に対するある種の赤裸々な愛を歌ったもので、これも精神的な愛より肉体的愛の要素が強いものです。当時のミンネザングと呼ばれた吟遊詩人の詩は、「高いミンネ」(hohe Minne)と呼ばれた、高貴な婦人への献身的な愛(ミンネは「愛」の意味です)を歌うものが主流でした。それに対して、フォーゲルヴァイデは「低いミンネ (niedere Minne)」というものを提唱し、貴婦人ではなく庶民の娘を登場させ、精神的な愛ではなく、直接的な性愛の喜びを歌っています。
つまり、タンホイザーにおけるハインリヒの主張はほとんどそのままフォーゲルヴァイデの主張であり、それがハインリヒの反対派に回っているのはきわめて変だということです。

下の写真は、そのヴァルトブルク城の中に飾ってある、歌合戦の絵です。(2004年にヴァルトブルク城に行っています。この城はルターが最初にドイツ語聖書を訳した場所としても有名です。)

「ボヘミアン・ラプソディ」

「ボヘミアン・ラプソディー」観て来ました。フレディ最高!自分をミュージシャンやアーチストではなくパフォーマーとしている所が素晴らしいです。私はボヘミアン・ラプソディーのイメージからクィーンがヨーロッパのクラシック音楽とオペラの伝統を背景にしたロックバンドと思っていましたが(実際メンバーは大学出の結構インテリ、またフレディもインドでイギリス式のパブリックスクール出身)、フレディがゾロアスター教徒でインドからザンジバルに移住し、更にザンジバルから追われて難民のようにロンドンにやって来たことを知りませんでした。この映画が今作られた理由は明白で、移民を嫌悪し、また少数派に対する敵意が剥き出しになっている現在、ある意味また振り子の揺り戻しのように元に戻そうとする主張のように思いました。実際フレディこそ、移民による多様性が新しいパワーをある国にもたらす、という良い例のように思います。
また私の世代が今の若い世代より良かったと思うことは、共通の音楽体験を持てたことです。このクィーンなんかまさにその典型です。実際、映画館で沢山の同世代の人を見ました。

エーリヒとカルロス/二人のクライバー

クレメンス・クラウスの97枚組を聴き終えた後、私は今度はエーリヒ・クライバーが聴きたくなり(二人は同じウィーン生まれで同時期に活躍していたライバルです)、既に沢山エーリヒのCDを持っているにも関わらず、重複覚悟でエーリヒの34枚組を購入しました。まだ聴いている途中ですが、驚くのはベートーベンの「田園」(交響曲第6番)が5種類も入っていることです。そもそも私がエーリヒ・クライバーという指揮者を大好きになったのは、学生時代にエーリヒの指揮によるコンセルトヘボウ管弦楽団の「田園」を聴いてからです。そのオケの自在なコントロール振りと、歌心溢れる演奏に一発で魅了されました。この34枚組に「田園」が5種類も入っているのは、やはりエーリヒの得意曲だったということでしょう。
面白いのがエーリヒの息子のカルロス・クライバーで、元々カルロスが有名になった演奏はベートーベンの交響曲5番と7番ですが、6番の「田園」については私の知る限り1983年のライブ盤のみが残されています。父親が「田園」を得意としていたから、カルロスの「田園」が素晴らしいかと言うと、私に言わせると、彼の残したCDの中でおそらく最低の演奏がこれです。極めてテンポがせかせかしていて落ち着きが無く、最終楽章もさらっと終わってしまって、ライブですが聴衆が「え?もう終わったの?」という感じで呆然としてしまい、拍手が始まるまでかなりの時間がかかっています。今、Amazonのレビューを見たらそういう演奏を褒め称えている人もいますが、カルロスのCDにしてはレビューの数も少なく、私は少数意見と思います。
エーリヒは彼自身の書き込みが入った多数の楽譜をカルロスに残したとされています。カルロスのレパートリーがかなりの部分エーリヒとかぶっているのはそのせいもあると思います。しかし、「田園」に関しては一子相伝の芸にはなっていないように思います。

クレメンス・クラウスの97枚組セット

クレメンス・クラウスの全97枚のセットを全部聴き終えました。中に数枚音飛びがするCDがありましたが、送り返すのが面倒で返品交換は求めていません。
クレメンス・クラウスについては、ウィンナ・ワルツのニューイヤーコンサートを始めた人で、私も最初はそちらから入りました。しかし感銘を受けたのはブラームスの交響曲第1番の演奏で、歌心あふれる素晴らしいブラームスでした。それでこのセットを買い求めました。
クラウスはウィーンの国立歌劇場のバレリーナの私生児です。父親が誰かは分かっていませんが、ご覧の通りの端正な顔立ちであるため、父親が当時の皇帝であるという噂もあります。皇帝でなかったにしても、かなり高貴な身分の人であっただろうと思います。
全体を通して、クレメンス・クラウスが偉大な指揮者であることが十二分に確認出来ました。中でも一番感銘を受けたのがヨハン・シュトラウスの「こうもり」です。CDなんで当然映像はありませんが、何というか大晦日の演奏の定番であるこのオペレッタがこれほどワクワクした響きを持っていることに驚かされました。クラウスの指揮だけでなく、ユリウス・パツァーク、ヒルデ・ギューデン、アントン・デルモータといった素晴らしい歌手が集まっていることにも感銘を受けます。後は伝説の名演と言われるバイロイト音楽祭のライブである「指輪」と「パルジファル」も素晴らしいです。その他リヒャルト・シュトラウスについては、クラウスはある意味協力者と言っていい位R・シュトラウスの音楽を取り上げていますし、最後のオペラ「カプリッチョ」に至ってはクラウスが台本を書いています。このセットにもかなりの数のR・シュトラウスの音楽が入っており貴重な記録だと思います。
惜しいのは、イタリアオペラもヴェルディやプッチーニなど多数収録されているのですが、すべてがドイツ語歌唱だということです。現在でもドイツの主として地方ではドイツ語上演が普通で私もフィッシャー・ディースカウの「リゴレット」のCDを持っていたりしますが、やはりちょっと違和感は否めないです。
Wikipediaの「クレメンス・クラウス」の項には「ウィーン、ベルリン、ミュンヘンとドイツ圏の三大歌劇場の総監督をすべて歴任し、ウィーン・フィル最後の常任でもあった指揮者ながら、日本ではこれに見合った位置づけがほとんど行われていない。」とありますが、同感です。これだけの名指揮者としては評価が低すぎると思います。