Wさんのご逝去

本日日立化成時代の上司であるWさんの訃報を聞きました。Wさんは元上司というより、オーディオ仲間、クラシック音楽愛好仲間であって、むしろ日立化成を辞めてからの方の付き合いの方が多かったです。また日立コールファミリエという合唱をやられていて、チケットをもらってこのコンサートに11年連続で行きました。
Wさんは大変なオーディオマニアで、タンノイのウェストミンスターとかクォードの静電スピーカー、マッキントッシュのMC275とか憧れの装置を沢山所有されていました。2回ほどご自宅にお邪魔したこともあります。
実は今年の7月に実兄の訃報をメールで連絡した時に、入院中の病院からお電話いただき、その時の話ぶりで「ああ、これはお別れの電話だな」と思っていたのですが、それが間違いであることを祈っていましたが、やはり力尽きられたようです。ご冥福を心からお祈りします。

ニュータウンの末路

結構この記事(画像クリックでリンク)には感慨がありました。何故かというと1973年(当時12歳)に山口県下関市から福岡県の宗像市(当時は宗像郡宗像町)にあった、その当時西日本最大のニュータウンと言われていた日の里団地(想定人口20,000人)に引っ越したからです。確かにこの記事にあるように、トイレが水洗になったり、お風呂がガスになったり(下関の時は石炭でお風呂沸かしてました!)とか、生活の改善はあったのですが、それ以上に何もない所に来た、という感じが強かったです。大体引っ越して1ヵ月くらいで、日の里団地の中央にあった高層アパートで、ガス爆発事故が起きました。これは手違いで赤ちゃんを折檻死させた母親がガス栓を開いて自殺を図ったものでしたが、このガス爆発が結構な被害になったのは、当時の宗像町の消防署には、この高層アパートの高さに届くはしご車がなかったためです。その他、私の家から駅(鹿児島本線東郷駅)までは2Kmぐらいあるのに、バスすらありませんでした。(バスが開通したのは、団地が出来てから7年ぐらい経ってからです。)それから大きなショッピングセンターというと、車で2時間くらいかかる香椎アピロスまで行かないとダメでした。(これも5~7年目くらいにダイエーが出来た、今は閉店しています。)そして東郷駅は快速電車が停まりませんでした。(3年ぐらい経って署名運動とかあってようやく快速が停まるようになりましたが、今度は赤間-東郷-福間と快速が3駅連続で停まるという、別の問題が発生しました。)後、家は新築だったのですが、この当時の家はやたらと気密性を上げすぎて結露が発生しやすく、そのためダニが多く発生し、このため私はかなり重症の気管支喘息を発病し、その後も長くこれに悩まされました。その後どうなったかと言うと、多摩ニュータウンと同じで、ここで育った子供達は皆他に出ていって、今は高齢者ばかりの限界団地になっていると聞きます。ちなみに私の両親は、兄も私も東京で働いていたため、1990年に自宅を売却して西八王子に出て来ています。

参考:宗像地区消防本部のHPより
昭和48年11月15日宗像郡宗像町の日の里公団アパートにおいて、プロパンガスの爆発火災(死者2名、重軽傷者9名)が発生し、これに端を発し、直ちに宗像町議会で常備消防の必要性が議論され、これが郡内他町村へ波及し、広域消防設立への気運が高まった。
 その後、数回にわたる郡内町村長会議による協議の結果、宗像郡消防組合設立が決定され、昭和49年4月1日付をもって福岡県知事より消防組合設立の許可を受け、同年6月1日宗像郡消防本部、同年10月1日宗像消防署の設置を見るに至った。

日本電解が倒産

会社で毎日倒産情報のメールが来るようになっているのですが、そこに「日本電解」倒産の記事が…
この会社はプリント配線板用の銅箔を作っていて、本社工場は日立化成(現レゾナック)の下館事業所のすぐ側にあります。
元々日立化成と住友ベークライトの銅張積層板大手2社の共同出資で作られた会社です。大昔になりますが、ここで作られた銅箔を使った銅張り積層板を毎月億単位で売っていた私にとってはちょっとショックです…もっとも既にレゾナックとの資本関係は無くなっていたようですが。

https://www.tsr-net.co.jp/news/tsr/detail/1200460_1521.html

中央本線・中央線の慢性化した遅延

今朝(25日朝)会社に行こうと最寄りの藤野駅まで行ったら、7時10分時点で「高尾駅と相模湖駅の間の踏切で人身事故が起き、現在上下線とも運転見合わせ中です。再開は8時過ぎの見込みです。」という放送がありました。それで今朝がまた冷えていて駅のホームの気温は3℃でした。しばらく待っていたら、「再開は8時10分過ぎです。」と更に遅延の放送が。それであまりに寒くてせっかく回復しかけている風邪が悪化しそうなので、会社に連絡して在宅勤務に切り替えました。これが正解で後で調べたら結局動き出したのは8:40で実に1時間半以上止まっていました。これに限らず最近の中央本線・中央線は遅れが常態化していて、図は遅延証明発行状況ですが、朝も夕もまともに運航されている日が一日もありません。人身事故もほぼ2~3週間に1回のペースです。グリーン車なんか装備する前に、早く全駅でホームドアを付けて欲しいです。

相模原市の山奥に冬到来

今朝(11月19日)の自宅周りの気温(車の温度計)は3℃で、相模原市緑区の天気予報の予想気温6℃から-3℃。今シーズン初めて、薄手の奴ですがコートを着用しました。明日(20日)はその計算で行くと2℃?相模原市の山奥は本格的な冬に入りつつあります。お風呂のお湯も凍結防止で朝まで抜かずにそのままにする季節が始っています。

認知症予防の日々?

今日のオンライン英会話で、認知症の予防というテキストを読みました。
私はおそらくだけど、認知症にはならないと思います。理由は、

(1) 今でも複数の外国語の勉強を続けています。英語、ドイツ語(翻訳)、ラテン語(翻訳)、古典ギリシア語、イタリア語。この内英語は毎日90分最低限リスニングはしています。
(2) これも今でも仕事でサーバーのセッティングしたり、Webサイトを作ったりしています。
(3) 月に少なくとも3万~5万字くらいはPCでインプットしています。(ATOKのレポートで分ります。)
(4) 認知症の予防に良いという囲碁をやっており、対局はしていませんが、毎日簡単な詰碁を解くのと日曜日のNHK杯戦の囲碁を観ています。
(5) 月に5冊以上のペースで本を読んでいます。
(6) 毎日エアロバイクで45分程度運動しています。
ということで、認知症になる前に別の病気で死ぬと思います。

コモアしおつ

この写真は、私の自宅の最寄り駅である藤野駅より2駅甲府側の「四方津」(しおつ)駅側にある「コモアしおつ」というニュータウンです。バブルの頃の状況を社会人として知っているのは私ぐらいが一番若いということになり、最近あの頃の不動産の状況を知らない人が多いようです。なんでこんな所に(首都圏へのベッドタウンとしての)ニュータウンが出来たかというと、1986年に中央線快速が大月まで乗り入れるようになり、この結果この辺でも新宿辺りなら十分通勤圏になりました。(少なくとも当時はそう考えられていた。)四方津から高尾まで快速で行って約30分、そこから乗り換えて中央特快始発に乗れば座って40分で合計70分ちょっとで行けます。要するにバブル期の地価の高騰はすさまじく、普通のサラリーマンはそれまでのように普通の首都圏の通勤圏に庭付き一戸建てを持つことが出来なくなったため、高尾から先が次々に開発された結果の典型例がここです。この「コモアしおつ」は1987年に着工、1991年に完成、とバブル真っ只中に着工され、完成後すぐにバブル崩壊になっています。売り出し価格は平均5,000万円くらいだったようです。ちなみに駅とニュータウンの間は5分もかかるエスカレーターとエレベーターが設置されています。ちなみに、ここはバブル崩壊後もそこまで劇的に暴落はしなかったようで、ロケーションが評価されて今でも3500人くらいがお住まいみたいです。

生成AIによる候文の手紙の英訳(2)

ChatGPT4oによる候文の手紙の英訳その2。今回のは前回のより更にハードルが高いです。
いかし今回もほぼ正確に英訳しました!(「故山に帰養せし」だけちょっと間違えましたが。)
今の平均的日本人で、「舊雨の感」(旧雨今雨という四字熟語から、「雨」と「友」は中国語では発音が近いことから、昔からの友情と今の友情のことをこう言う)とか「滄桑の変」(桑畑が海原になるような世の中の大変化のこと)とか「鼓皷の間に相見る」(お互いが戦場で敵として相対する、陣太鼓の音を聴く)などをきちんと理解出来る人は少ないと思います。また「曩に」(さきに)も読める人は少ないと思います。


ではこれは英訳出来ますか?山県有朋が西南の役の時に西郷隆盛に降伏を勧告して送った手紙の冒頭部です。
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山縣有朋頓首再拝、謹んで書を西郷隆盛君の幕下に呈す。有朋、君と相識るここに年あり。君の心事を知るまた甚だ深し。曩に君の故山に帰養せしより、久しくその謦咳に接することを得ざりしかど、舊雨の感豈一日も有朋の懐に往来せざらんや。料らざりき、一旦滄桑の変に遭ひて、ここに君と鼓皷の間に相見るに至らんとは。君が帰郷の後ち、世の鹿児島縣士族の暴状を議するもの皆いはく、「西郷実にその巨魁たり、謀主たり」と。然れども有朋は獨りこれを斥けて、然らずとなせりき。然るに今かくの如し。嗚呼また何をか言はん。

ChatGPT
Here’s an English translation of the opening of the letter Yamagata Aritomo sent to Saigō Takamori during the Satsuma Rebellion, urging him to surrender:

With utmost respect, I, Yamagata Aritomo, bow deeply and humbly present this letter to you, Saigō Takamori. I have known you for many years and am intimately familiar with your character and intentions. Since you retired to your native mountains, it has been a long time since I last had the honor of your company. Yet, not a single day has passed without the fond memories of our past friendship crossing my mind. Never did I imagine, however, that we would meet again under such tragic circumstances, on opposing sides of the battlefield.

Since your return to Kagoshima, many have condemned the actions of the samurai of Kagoshima, asserting, “Saigō is indeed the ringleader, the mastermind of this rebellion.” Yet, I alone refuted these claims, insisting it could not be true. And now, we find ourselves in this situation. Alas, what more is there to say?

This translation captures the formal and respectful tone appropriate for the historical context of the letter. Let me know if you need further refinement.


「故山に帰養せし」は「故郷に帰る」という意味です。

ChatGPT
Thank you for the clarification! Here’s a revised translation:

With utmost respect, I, Yamagata Aritomo, bow deeply and humbly present this letter to you, Saigō Takamori. I have known you for many years and am intimately familiar with your character and intentions. Since you returned to your hometown, it has been a long time since I last had the honor of your company. Yet, not a single day has passed without the fond memories of our past friendship crossing my mind. Never did I imagine, however, that we would meet again under such tragic circumstances, on opposing sides of the battlefield.

Since your return to Kagoshima, many have condemned the actions of the samurai of Kagoshima, asserting, “Saigō is indeed the ringleader, the mastermind of this rebellion.” Yet, I alone refuted these claims, insisting it could not be true. And now, we find ourselves in this situation. Alas, what more is there to say?