1980年にクィーンが音楽を担当したので有名な「フラッシュ・ゴードン」という映画がありますが、音楽は素晴らしい反面ストーリーと演出が超チープで映画としてはこけました。それに対して「フレッシュ・ゴードン」というパロディーが作られ、その内容が単にパロディーなだけではなく、要するにポルノでした。それでその日本でのポスターをジブリ風にしてみました!見事にポルノSFがお子様も観て大丈夫な健全路線に変わりました!元はロケットはポ○○ン型なんですが、ジブリ版では見事に普通のロケットに…
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月岡芳年の有名な絵をジブリ風にしてみたら、裸にされた妊婦が何だか良く分からないハムみたいなのに、鬼婆は痩せた湯婆婆みたいに、また何だか良く分からないトマト煮みたいなものを作っている絵になりました。これトマとではなくて実は…!?
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「芳幾・芳年」(落合芳幾・月岡芳年)展
三菱一号館美術館で行われていた「芳幾・芳年」(落合芳幾・月岡芳年)展を観てきました。この二人は展示会のサブタイトルにもあるように、歌川国芳門下の兄弟弟子(芳幾が上)です。しかし私は月岡芳年はもちろん知っていましたが、落合芳幾の方は意識してその作品を観たのは初めてです。展示会での説明では、国芳は芳幾のことを「器用だが覇気がない」、逆に芳年の方は「器用ではないが覇気がある」と評していたそうです。二人の画風は同門ですから当然似ていますし、二人による共作もありますが、明治の御代になると。差が付いて芳年は「最後の浮世絵師」と評価され、大勢の弟子も持ちますが、芳幾は新聞など色々なことに手を出した結果晩年は落ちぶれます。まあ典型的な器用貧乏でしょうか。
展示会自体は国芳の作品もあり楽しめましたが、ただ一つ不満は芳年でもっとも有名な「奥州安達がはらひとつ家の図」が無かったことです。それだけでなく、全体に「ブラッディー芳年」という面は抑えた展示だったように思います。確かに芳年はブラッディーだけの人ではありませんが、やはりその面も観たかったと思います。
フィキサチフ(Fixative)
これは新しい消毒剤ではありません。(笑)これはフィキサチフ(Fixative)と言います。絵の道具で下に塗った絵の具が滲まないようにして重ね塗り出来るように樹脂の層を吹き付けて作る薬品です。万年筆の水性インクが水などでにじまないようにするのに使えないかと思って買ってみました。今テスト中ですが、効果はありますが、完全に水をはじくには何回か重ね塗りしないといけないようです。
何でこんなマニアックなものを知っているかと言うと、藤子不二雄Aの「まんが道」で出てきたからです。藤子不二雄の二人がカラーの扉絵を描くことになり、ベースの線画は出来て、それに絵の具で色を塗ろうとしたらインクがにじんで困っていたら、当時アニメーターをやっていた同じトキワ荘の住人の鈴木伸一が、「いいものがある」って取り出しのがこのフィキサチフでした。実はフィキサチフには何種類かあって、最初に買ったのは木炭コンテ用でした。買い直したのがパステル画用です。品名も最初のはフキサチーフになっていました。
歌川国芳の「木曽海道六十九次之内 六十八 守山(達磨)」
歌川国芳はいわゆる「奇想の系譜」の画家の中でも特に好きな浮世絵画家ですが、その中でもこれは最高!達磨さんが普通のザルソバをまるで椀子そばのように次から次に平らげています。そりゃあ面壁九年で9年間も岩の前で座っていたんですから、さぞかしお腹がすかれていたんでしょうが、それにしても…蕎麦屋の店員の「まだ召し上がるんですかい」とでも言いそうな顔がほとんど漫画です。しかし、このシリーズ、同門の歌川広重の街道シリーズに対抗したのかもしれませんが(二人は同じ年の生まれです)、完全に国芳風になっている所が面目躍如です。
Webで調べたら、この絵、「守山」で「盛り(そば)が山のようになっている」というシャレみたいです。
グスタフ・クリムト展(東京都美術館)
上野の東京都美術館で行われているクリムト展を観て来ました。良かったですが、クリムトの有名な作品がすべて網羅されている訳ではないようです。私にとってはグスタフ・クリムトとマックス・ヴェーバーは頭の中で不可分に結びついているんですが、今回クリムトがヴェーバーより2年先の1862年に生まれ、そして2年先の1918年に死んだことを知りました。つまり2人はほぼ同世代で生きた長さもほとんど同じです。この2人が私の記憶の中で結びつく理由はクリムトらの分離派が出した雑誌の名前の”Ver Sacrum”(聖なる春)によります。この「聖なる春」とは古代のイタリアのローマを含む諸族にあった習慣で、ある年の秋に大凶作に見舞われた場合とか戦争に負けて疲弊して存続の危機にあった場合、翌年の春にその年の3月と4月に生まれたばかりの新生児を神への捧げ物として選別し、その子達が一定の年齢になると共同体から追い出して未開の地に追いやり、そこで新天地開拓に従事させたという故事です。この風習は結果的にそれを行った種族の版図を拡大していくことに貢献します。クリムト達がこの故事を自分たちの雑誌の名前に用いた理由は、保守的な当時の画壇から分離して、新天地に追いやられた子達のように逆境に負けず新しい世界を切り開いていくのだという心意気によると思います。また分離派の最初の展示会が4月から5月と文字通り春に開催されたことも関係していると思います。
ヴェーバーは「経済と社会」の種族の社会学の所でこの「聖なる春」に言及します。(種族的共同社会関係 中村貞二訳
疑う余地のないことなのだが、なにかの理由から無事平穏に母なる共同社会を分離ないし移住して、よその土地に共同社会を起こしたという思い出’(「海外移民(コロニー)」、「聖なる春(ヴェール・サクルム)」、その他類似のこと)が生き続けているところには、一つのきわめて特殊な「種族的」共同感情(エトニッシュ・ゲマインシャフトゲフュール)がしばしば非常に強力に存在している。)大学での折原ゼミの「経済と社会」の訳読演習で、偶然私がこの部分の訳読の担当でした。その時、折原先生が珍しくこの語を誤訳していたのを、私がクリムトの雑誌名から正しい意味を突き止めることが出来た、という思い出です。当時折原先生には語学力を含めてその他学問全般でまったく敵いませんでしたが、そんな中で初めて小手一本くらいのポイントを上げることが出来たかな、ということで今でも良く覚えています。
絵については、クリムトも19世紀後半のジャポニズムの影響を強く受けていて、それを絵の中に採り入れようとしていたのは意外でした。後は分離派として旗揚げする前はかなり伝統的な画家という感じがしますが、分離派以後は不思議な境地を開いたのではないかと思います。後は本物の金とか宝石を使った壁画みたいなのがありましたが、宝石はともかく金を使うのは明らかに日本の技法を採り入れたんでしょうね。