日本SF作家クラブ編の「AIとSF」を読了。何で「AIトランプ」みたいなヨタ話のアイデアを出しているかというと、この本の中身がほとんどつまらなかったから。SFなのに現実の動きに引っ張られすぎで、死者の代わりをAIに勤めさせるとか、近い将来に実現しそうな、あるいはもうしているような話が多く、SFらしい飛躍というか、かんべむさし的なはっちゃけがまったく足らないと感じました。まあ「智慧練糸」の仏師が1000体もの観音像を半年で彫ることを間違って受けてしまい、そこに「妖」という画像生成AIが出て来て、仏師二人があれこれ言うのに、まったく思った画像にならなくて苦労する、というのは最近InDesignの画像生成AIで同じような経験をしたので面白かったですが、後のはもう一ひねり、二ひねり、くらい欲しいです。全体に達者なことは達者なんですが、スケールが小さいというか小利口というかそんな感じがします。1960年代のSFの破天荒さが懐かしいです。ちなみに「2」も出ていて買ってますが、読むのはしばらく保留します。
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AIトランプ
「AIとSF」という複数作家によるアンソロジーを読んだのですが、つまらなかったので、私もヨタ話のアイデアとして「AIトランプ」というのを考えてみました。
1.トランプ大統領が任期中、ヴェテラン兵士に狙撃されて死亡したのを、イーロン・マスクはその事実を隠蔽し、秘かに開発していた「AIトランプ」を代役にして表に出し、陰でアメリカの政治を操ろうとする。
2.Outer Limitsの”The Hundred Days of the Dragon”のストーリーを借りて、現実の人間ではなく「AIトランプ」が本物を置き換えてしまう。「AIトランプ」はトランプの演説や政策、行動を完全にシミュレーションし、またWeb上の世論を分析し直ちにもっとも大多数に受ける政策を提案し、非常に高い支持率を受ける…
この2つのネタをChatGPT4oに出して、膨らませてもらったのですが、結構面白いストーリーが出来そうです。というか数年内にハリウッド映画で似たようなのが出てくるのでは。
ChatGPT4oが2番目のアイデアを膨らませたのは以下。
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私
そういえば昔のSFテレビドラマのOuter Limitsで”The Hundred Days of the Dragon”という話がありました。これは中国が米大統領のそっくりさんを使って大統領をすり替えて、アメリカに中国に有利な政策を実施させるというのがありました。外国がAIトランプを開発し、本物と入れ替えてしまう、というのも面白そうです。AIトランプは、要するに有権者の過半数の本音を実現するというアルゴリズムで開発は割と簡単に行きそうな気がします。
辻直四郎著の「ウパニシャッド」
辻直四郎著の「ウパニシャッド」を読了。この書籍は辻博士が戦前NHKのラジオでウパニシャッドの入門番組をやった時の番組に大幅に加筆したものが前半、後半はいくつかのウパニシャッド文献の日本語訳です。
ウパニシャッドはヴェーダの中から生まれたインドの宗教的かつ哲学的思想の中心かつ頂点を占めるものです。リグ・ヴェーダの内容は様々な諸神に儀式とソーマ(神酒)を捧げて御利益を得るようにする、というきわめて現世志向だったものが、ウパニシャッドはまったくその反対の現世の否定、現世からの脱却を解くものになります。ウパニシャッドではブラフマン=梵とアートマン=我の二元論が中心であり、ブラフマンが宇宙創造の原理のようなもの、それに対しアートマンが我という感じが当てられている通り、それぞれ個々の人間の中にあるものということになり、最高の理想はこの梵と我が一つに溶け合ういわゆる梵我一如というものになります。この梵我一如の境地の譬えに、あるウパニシャッドの文献では、「夢を見てない状態の睡眠」(今日の用語ではノンレム睡眠)がそれに近いとされます。しかし、普通に考えれば夢を見ていない眠りは、半分死んでるようなものではないかという気がします。この思想からは現世において力強く生きていこう、ということにはならず、インドでのこの梵我一如の追求は、遊行するか苦行するかのどちらかであり、どちらにせよこの現世での自分の役割を果たすといった思想はまるで感じられません。インドは16世紀にムガール帝国のイスラム教徒の支配下に入り、そしてご承知の通りその後イギリスの植民地となり、かなり長い間の停滞を経験します。その遠因の一つがこうした思想ではないかと思います。
なお、ブッダの仏教ではブラフマン=梵は認めますが、アートマン=我は、諸法無我という言葉で分かるように否定されています。
なお、収録されているウパニシャッドの具体的な話の中には、クシャトリアである王に詭弁じみた論争を仕掛けたバラモン僧が、王にことごとく問いを論破され、その結果負けたバラモン僧の頭が爆発して砕け散る、といったすさまじいものもあります。カーストではバラモンはクシャトリアより上ですが、実際にはそうでもない場合もあったようです。
杉本苑子の「滝沢馬琴」
杉本苑子の「滝沢馬琴」を読了。ちなみに今は「曲亭馬琴」と呼ばれるようです。安藤広重が今は歌川広重なのと同じです。上巻を読んでいた時は「読んでよかった:30%、読まなければよかった:70%」でした。何故かというと馬琴が年を取り、かつ片目を失明し(最終的には両方失明)、息子が早死にしたりと色々ある中で何とか「八犬伝」を完成させようとあがくのが身につまされたのと、出て来る人物に魅力がない人が多く、かつ不幸になる人が多い(息子は癇癪持ちの上病弱で結局早死に、糟糠の妻は馬琴の著作活動をまったく理解しない愚妻、馬琴の甥と姪は兄弟で契って最後は心中、等々)で、「ああ、これはうつ病に良くない」と思ったからです。しかし最後まで読んで「読んでよかった:80%」に変わりました。というのは馬琴が両目失明後、代筆者を色々と検討するのですが、ろくすっぽ漢字が書けなかったり、勝手に文章を自分で変えてしまったり、漢字について一々講釈を垂れたり、盗みをしたり、でどれもこれもダメ、それで一度は「八犬伝」完成を諦めたのですが、そこに息子の嫁である路が「自分にやらせて欲しい」と言ってきます。この路さんは当時の女性の常として平仮名しか理解して書くことが出来ず、まずは平仮名で書き取ってそれを後から馬琴の指示で漢字交じりにしますが、漢字の知識がほとんどない女性がこれをするという苦労が忍ばれます。(いわば人間IME)それでも路は実に忍耐強く作業を続け、ついには馬琴の目の代わりを立派に勤め、八犬伝も完成するだけでなく、路は和歌を詠んだり馬琴に代わって日記を書いたりということまで出来るようになります。この路は明治時代には孝女の代表として教科書に載ったこともあったようですが、杉本苑子はその路の性格を愚鈍でろくに挨拶も出来ず気も利かず、という風に描いているので余計に後半での対象的な姿が印象に残ります。この小説の中には葛飾北斎やその娘の応為なども登場し、興味深い物語を展開します。私もいつ終わると知れない翻訳作業を延々とやっていますので、その意味でも色々と考えさせられました。ただこの小説に書かれた馬琴の性格は、親友であった渡辺崋山が獄につながれた時、嘆願書に署名するのを自分に累が及ぶのを恐れて断ったり、また自分のことは棚に上げて他人の批判をしたりと、必ずしも魅力的な人間としては描かれていません。馬琴は毎日日記を付けていましたので、これらの性格は必ずしも作家の創作という訳ではないようです。
河村哲夫の「神功皇后の謎を解く ≪伝承地探訪録≫」
河村哲夫の「神功皇后の謎を解く ≪伝承地探訪録≫」を読了。作者は福岡県生まれ・育ちの歴史作家。神功皇后と応神天皇については、私自身縁があって、私が生まれた亡母の実家である下関市吉母(よしも)町(豊浦町と合併する前の下関市の北西の端の漁村、遠浅の海水浴場で有名)の名前の由来は、神功皇后がここで応神天皇を産んで、その時に体を温める目的で海岸に打ち寄せられて乾燥していた「藻」を「寄せた」ことから「よせも→よしも」となったという伝承があります。亡母の実家から数十Mの所には「胞(えな)塚」という、神功皇后が応神天皇が生まれた後の胞衣を埋めたとされる塚もあります。更には10Kmぐらいの半径の中に、若宮神社、乳母屋神社、杜屋神社という所縁の神社もあり、この内若宮神社の方は長門一宮である住吉神宮の本宮であるということです。まあ、応神天皇が産まれたのは通常は福岡県の宇美ということになっていますが、おそらくは吉母の地にも母子が立ち寄ったのは事実ではないかと思います。
戦前は記紀の内容がすべて歴史として、いわゆる「皇国史観」として学校で教えられ、戦後はそれが180度逆転し、またマルクス主義的な史観の影響もあり、神功皇后不在説が主流になるという変わり方です。しかしこの本の作者が丹念に九州・山口周辺に残る神功皇后所縁の地を訪ね歩いて分かったように、記紀に出てくる神功皇后の足跡は、軍を率いて移動するという観点からは非常に合理的なルートを取っているとか、あるいは所縁の地の数の非常な多さから言っても、神功皇后が実在しなかったなどという説はあり得ないと思っています。任那の日本府もその存在が戦後は否定されて来ましたが、実は伽耶の地に日本由来の前方後円墳が最近多数見つかっており、植民地統括府とまで行かなくとも、日本から行った多くの者が定住していて軍事的・政治的に影響力を持っていたというのが新たに分かっています。
そもそも仲哀天皇と神功皇后が3年間も穴門の地、つまり下関市に留まり続けたのは何故なのかを考えると、当時大和朝廷の影響力はまだまだ限定的であり、九州にはその対抗勢力が多数おり、それらが新羅などの朝鮮半島の勢力と結託し、その一部は逆に九州地方にも襲来していたのではないか、と考えるは無理はないと思います。熊襲の征伐の前に朝鮮半島の勢力との戦いを優先した、という物語を私はそう解釈します。考古学資料を今後参照していかなければならないのはもちろんのことですが、その際に気を付けるべきは現時点で見つかっている遺跡は、全体の数の多くとも数パーセント程度だろう、ということです。全ての遺跡を発掘調査することは不可能ですが、ある特定の遺跡の発見をあまりにも短絡的に総合化するのは厳に避けるべきだと思います。(悪しき例は邪馬台国論争における纒向遺跡の扱い方)
その他、応神天皇が産まれるまでがきっちり10月10日で逆に不自然で、応神天皇は仲哀天皇の子ではなく実は武内宿禰と神功皇后の不倫の子ではないか、とかは説としては面白いですが、何の証拠もなくそんなものを詮索しても仕方が無いと思います。
トランジスター技術2025年2月号のプリント配線板特集→間違いだらけ
トランジスター技術の2025年2月号は、プリント配線板特集ですが、この記事が間違いだらけ。2点だけ指摘しておきますが、きちんとチェックしたらおそらく20箇所くらい不適切な内容がありそうです。
(1) プリント配線板の材料で、FR-4がガラス繊維をエポキシで固めたもの、CEM-3はガラスの粉をエポキシで固めたもの
馬鹿か、という説明です。FR-4はガラス布(にエポキシ樹脂を含浸させたプリプレグ)を使ったもの、CEM-3はガラス布とガラス不織布を組み合わせたものです。(樹脂はどちらもエポキシ樹脂)
(2) プリント配線板の穴開けは今はレーザー加工が主流になった
これも馬鹿か、です。プリント配線板の穴開けの主流は今でもドリルビットを使ったN/Cドリルマシンです。レーザー加工はビルドアップ基板などの特殊基板で多く使われますが、生産性の点でもコストの点でも主流にはなっていません。
私が日立化成で銅張り積層板を売っていた頃は、配線板の生産量は日本がトップだったと思いますが、今はおそらく上位10位にも入らないと思います。当然の結果として正しい知識を持たない人が増えてきている訳です。
これを書いている「西村康」というライターは同じ号で突入電流軽減回路についても書いていますが、こちらもそもそも「突入電流」という単語を知らず「アンプの回路が不安定になる」とか意味不明なことを書いています。更には電源スイッチの2極品について入手性が悪いとか高いとか書いています。2極のスイッチはごく普通に販売されていますし、トグルスイッチではむしろ単極より2極の方が多いです。また価格もせいぜい数十円アップぐらいです。またここで何回が紹介したように電源スイッチは安全のための「両切り」にするために2極のスイッチを使うのが正道です。
辻直四郎訳の「リグ・ヴェーダ讃歌」
辻直四郎訳の「リグ・ヴェーダ讃歌」を読了。リグ・ヴェーダを含むヴェーダは、インドの宗教文書でもっとも古いものです。訳に「讃歌」の語が追加されていることから分かるように、様々な神に祈りとソーマ(神酒)を捧げて現世での御利益を得ようとするきわめて現世志向の讃歌です。また太陽神とか暴風雨の神、火の神(アグニ)、幸運の神、無垢の神、薬の神、と色々で、基本的にはギリシア・ローマ神話とか神道の世界に近い多神教で、中心的な神が曖昧です。一番良く出てくるのは英雄神のインドラと火の神のアグニでしょうか。ヴィシュヌも一応出て来ますが、まだその存在感は大きくありません。全体にただひたすら讃歌で、要は金持ちに雇われた詩人が自分の詩作の腕を振るって褒め称えた神からの御利益をその金持ちのために引き出し、多額の謝礼をもらうための歌です。後のウパニシャッドのような哲学的な内容はまだほとんどありませんが、神々も宇宙が生まれた後に生まれたもので、宇宙を創造したりはしていないとか、あるいは始まりは有も無も無かった、と言っているのは現在のビッグバンによる宇宙の始まりときわめて近い解釈です。また原人プルシャの体のそれぞれの部分から、つまり口からはバラモンが、腕からはラージャニア(後のクシャトリア)、腿からはヴァイシアが、最後に足からシュードラが生まれたとされており、カーストの起源が非常に古いことが分かります。ともかくウパニシャッドと違って非常に読みやすいですが、その翻訳は解釈が沢山あるようで、意味が取りやすいという訳ではありません。
荒井献先生の訃報
Wikipediaによると荒井献先生が今年の8月に亡くなられていたようです。丁度今、ジョルダノ・ブルーノとヘルメス主義に関する本を読んでいて、グノーシスとも関係があるため、荒井先生のことを思い出していた所です。荒井先生には教養学科の時の最後の半年、使徒行伝の成立に関する授業を受けました。丁度「パウロの回心」の所のテキストの訳読が私の担当になり、そのテキストに「パウロに関する伝承には誤りが多く含まれていた」というのを受けて、「あなたの(ドイツ語の)日本語訳は非常に正確でした。」と誉めていただいのが私にとっては懐かしい思い出で、今ヴェーバーの未訳の論文の初日本語訳なんていう無謀なことをしているのも、ある意味その時誉めていただいのが遠い昔ですがある意味契機になっています。
オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」
オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を読了。この本の名前は学生時代から知っていますが、今日まで読む機会がありませんでした。最近、長い通勤時間を活用して、これまで読むことが出来なかった本を色々読むことにしています。
それでこの本の感想ですが、まずは全体を貫くペシミスティックな調子が非常に気になりました。大体19世紀から20世紀になって、人口が増え、多くの人の暮しがその前の時代より豊かになり、余暇を楽しむことが出来るようになった、というのはとてもいいことの筈ですが、オルテガはそれをとてもネガティブに捉えます。これには理由があって、まずは書かれたのが1930年で大恐慌の真っ只中であり、ボルシェビズムだけでなくそろそろファシズムも台頭して来た時代だというのが理由の一つです。もう一つがオルテガがスペインの人だということで、オルテガは1883年の生まれで(マックス・ヴェーバーの19歳下)、15歳の時に米西戦争が起きてスペインは敗北し、キューバやフィリピンといった最後に残っていた海外植民地も失って没落の時代に入ります。オルテガだけでなく20世紀初めのスペインではペシミスティックな思想家が多かったようです。もう一つの感想は、全体に欧州至上主義的な感じがあり、それが鼻につくことです。これはマックス・ヴェーバーの宗教社会学の序論の「○○をここまで発達させたのは西洋だけ」というのが繰り返されるのに感じるものと似ています。オルテガは「西洋の没落」を書いたシュペングラーと自分の意見は違うと書いていますが、基本線は似ているように思います。それからオルテガは西洋の文明の特質の一つを「都市」だとしますが、これもヴェーバーと同じです。調べてみたらオルテガがヴェーバーを研究したということではないようですが、オルテガはドイツに留学して新カント学派やディルタイ、フッサールといったヴェーバーに大きな影響を与えた人達を学んだようなので、それで考え方が似ているのかもしれません。
オルテガは当時の大衆を「甘やかされた子供」と批判し、大ヨーロッパ、つまり今で言うEUの構築を目指す貴族的な精神を持った人が出てくるのを期待していますが、そのEUの現状を知っている今の我々から見ると、ちょっと単なる理想主義者に見えないこともありません。また今や世界でポピュリズムが大流行ですが、ちょっとオルテガのこの本の分析ではポピュリズムの本質は見えてこないように思います。
中村元の「インド思想史」
中村元の「インド思想史」を読了。最近読書傾向が宗教関係と哲学関係という若い時は避けていた分野が増えて来て、我ながら浮世離れしてきたように思います。インドの思想については2年前に立川武蔵の「はじめてのインド哲学」を読んでいますが、正直な所難解であまり残るものがなかったです。しかしこの本はさすが中村元、という感じで難しいテーマをきわめて分かりやすくまとめて得る所が大でした。ただ、古代から現代までというのはさすがに手を広げすぎで、個々の説明がかなりはしょり気味になっている難点を感じました。私は日本の仏教、特に鎌倉仏教について、一種の新興宗教みたいなもの、という印象を持っていますが、この本を読んで分かったのがそもそも大乗仏教からしてが、本来の仏陀の教えからすると新興宗教で、元の仏教にはない異質なものを沢山追加しています。鎌倉仏教についてはそうやって多様化した仏教からそれぞれの宗派が言ってしまえば自分好みのものだけを選択して作り上げたものという風に軌道修正しました。(先日仏壇に置く仏像について、「はせがわ」のWebサイトを見ていましたが、禅宗系が釈迦、浄土宗系が阿弥陀仏、密教系が大日如来、日蓮宗に至っては日蓮そのもの、で何で?と思いました。)また、私はイベリア半島でのイスラム帝国での宗教的な寛容から、イスラム教の寛容さ、という印象を持っていたのですが、13世紀にインドを支配した回教徒は仏教寺院を徹底して破壊しています。2001年にタリバンがバーミヤン大仏を破壊して問題になりましたが、あれはイスラムの一部の過激派だけの問題ではなく、イスラム教が自分と近いユダヤ教とキリスト教には寛容なだけで、偶像崇拝の典型である仏教には完全に妥協しないで弾圧しているということが分かりました。
私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教のような一神教(キリスト教は正確には三位一体教ですが)かつ、人間と似ている神様(というか人間が神様の似姿とされたのですが)、というのがまったく受け入れられません。私が神を認めるとすれば、それは宇宙の根本原理みたいなもので、それはインドのブラフマンに近いのだなと思いました。ただインドで不思議なのが、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教で共通して輪廻を認め、それを不幸な状態だとする所です。私は生命が輪廻の形で永遠に続いていくなら、それは素晴しいことだと感じます。古代のインドには唯物論まであり、ある意味宗教思想のデパートみたいです。