高森日佐志の「弔花を編む 歿後三十年、梶原一騎の周辺」

高森日佐志の「弔花を編む 歿後三十年、梶原一騎の周辺」を読了。筆者は梶原一騎の実弟です。「ワル」の原作者の真樹日佐夫が梶原の実弟ということは知っていましたが、その下にさらに弟さんがいたことは知りませんでした。その三男の日佐志が実父高森龍夫や梶原一騎などについて思い出を書いたものです。
まず梶原作品にイエス・キリストが登場する理由が分かりました。実父の高森龍夫は若い頃神学校で牧師を目指したほどのクリスチャンでした。しかし、周囲にはそれを隠し、葬儀の時にそれが明らかになって回りの者が驚いた、となっています。梶原一騎自身がクリスチャンだったとはどこにも書いてありませんが、一騎自身の葬式も最初仏式でやるかどうかもめて、結局父親と同じキリスト教式の葬儀になったそうです。
梶原の作品では、巨人の星の星一徹、柔道一直線の車周作のように、実力を持ちながら世に受け入れられない人物がかなりの迫真性をもって登場しますが、それは実父の龍夫の人生がそういうものだったからのようです。
また、梶原の自伝的漫画「男の星座」は、梶原が「巨人の星」で有名になる前に梶原の死により終わっていますが、この本ではその始まりの様子が書かれていました。講談社は漫画に吉川英治の「宮本武蔵」のような人間ドラマを持ち込もうとしていたとのことで、私は梶原作品に大衆文学のストーリーテリングの影響を感じるのはやはり間違っていなかったと思います。
またこれは遺族サイドからの証言なので割り引いて考えるべきでしょうが、梶原の晩年の裁判沙汰は、ショーケン(萩原健一)が覚醒剤で逮捕され、その黒幕が梶原一騎だと警察が思い込んで、無理矢理に案件を作り出して起訴した、とされています。元々梶原一騎自身は中学生の頃から掻っ払いや万引きを繰り返していて(梶原の中学生時代は戦後の混乱期で、大人も皆闇取引をやっていたり、風紀の乱れていた時代でした)、ずっと道徳家を装っていてそれが世間にばれたということではなく、以前も書きましたが、梶原自身は常に善と悪との間で揺れ動いていて悩み苦しんでいたのだと思います。最初の奥さんであった篤子さんも、梶原をそういう「複雑な人間」と描写しています。

ラインハルト・ベンディクス著、折原浩訳の「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」(上・下)

ラインハルト・ベンディクス著、折原浩訳の「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」(上・下)を読了。原題は、”Max Weber: An Intellectual Portrait”で1960年が初出。日本語訳は同じく折原浩訳で1966年に中央公論社から一冊本で出ています。今回読んだのは、それを三一書房が上下二冊本として1987年に再版したものです。訳者の折原浩氏は私の大学の恩師です。著者のベンディクスは、1916年にドイツに生まれたユダヤ人の社会学者で、若い頃ナチスに対抗するユダヤ人組織に所属していましたが、1938年にアメリカに移住しています。1969年にアメリカの社会学会の会長に選ばれています。
この本は、マックス・ヴェーバーが1920年に亡くなって40年間、その学問については断片的な利用ばかりで、全体像をきちんと振り返る人が誰もいなかったのを、初めてまとめた労作です。そういう研究は本来ならヴェーバーの祖国の学者が行うべきものと思いますが、ヴェーバーの死後のドイツは社会学がマルクス系と国家社会主義系に分裂し、そのどちらもヴェーバーを重視しませんでした。戦後においても、ドイツではヴェーバーの全体像を探ろうとする動きは見られず、一方で以前紹介したモムゼンのヴェーバー批判のような、ヴェーバーの政治的な面のみが注目されたりしました。そういう中でこのベンディクスの著作が出てきた訳で、大きく分けて「宗教社会学論集」と「経済と社会」という2つの大きな研究の流れに加え、ヴェーバーの初期の研究まで視野に入れたものです。ただ、「理解社会学」「理念型」「価値自由」といった、ヴェーバーの社会科学の方法論については、おそらく著者はそれらが時代遅れだと評価していたのかまったく取り上げられていません。
ヴェーバーの著作というのは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「職業としての学問」「職業としての政治」くらいはまだ何とか読めるのですが、この本で紹介されている「儒教と道教」や「ヒンドゥー教と仏教」、「古代ユダヤ教」の宗教社会学三部作は、繙かれた方はおわかりと思いますが、とても難解というか、はっきり言って知らないことばかり出てきて途方に暮れる、という状態に誰もが陥ります。(「儒教と道教」は東アジアの事を扱っているのでまだましかも知れませんが、ヴェーバー特有の用語で分析される中国社会はこれはこれでまた難解です。)特に「古代ユダヤ教」については、日本人で旧約聖書に出てくるユダヤ人の歴史に詳しい人などまずほとんどいないと思います。その結果、これを読むと、ヴェーバーを通じて旧約聖書を学ぶというある意味倒錯を起こすことになります。
また、もう一方の「経済と社会」については、こちらは有名な編集問題があり、この著作はヴェーバーの生前に一冊にまとまった著作として世に出たものでなく、ヴェーバーの妻のマリアンネがヴェーバーの死後残された遺稿を彼女なりに整理してある意味無理矢理に一冊の著作として出したものです。そういう訳で、各論考のつながりがどうなっているのかという問題に加え、「旧稿」と呼ばれる第一次世界大戦前に書かれた部分に出てくる概念について、本来は「理解社会学のカテゴリー」という論文に準拠すべきなのに、旧稿の後から書かれた「社会学の根本概念」が「間違った頭」として「経済と社会」の冒頭に長い間置かれて来た、という問題があります。また「法社会学」とか「支配の社会学」、「宗教社会学」といった部分部分の論考を一つ一つ取っても、ある意味膨大な比較文明史的な題材が扱われて、どれ一つを取っても簡単に読めるものはありません。
以上のような状況なので、ヴェーバーに関しては、適切な入門書の必要性は非常に高いのですが、残念ながら日本で「○○新書」の類いで出ている「ヴェーバー入門」の諸冊は、きちんとヴェーバーの学問全体をまとめたものは一冊も無いといってよく、それぞれの著者が自分の関心のある所だけをつまんで断片的に論じているものがほとんどです。
そういう意味で、このベンディクスの本は、唯一のきちんと読む価値のあるヴェーバー入門書であり、ある程度ヴェーバーを知っている人にとっても十分読む価値のある本だと思います。
ただ欠点はあって、テンブルックにも訳者である折原浩先生からも同じく批判されていますが、後に執筆された「古代ユダヤ教」を「経済と社会」での主要研究テーマを設定するキーになっている、という解釈はヴェーバーの研究の順番と一致しないため成立しません。ただそうは言っても、私も「経済と社会」の底に流れるテーマは、宗教社会学のメインテーマである「合理化の進展」が様々な文明・社会でどのように発達してきたか、ということだと思い、そのテーマは「古代ユダヤ教」が書かれる前に既にヴェーバーの中ではっきり確立していたと思います。
個人的にこの本で啓発されたのは、私は学生時代ヴェーバーの論考を読みながら、その中に取り上げられている文化人類学的な素材が極めて限定されていることが残念でした。ヴェーバーの時代にもフレイザーの「金枝篇」とか、グリァスンの「沈黙交易」(The silent trade)などの人類学的知見があり、ヴェーバーの論考の中にも出てきます。しかし、近代的な文化人類学の始まりはブロニスワフ・マリノフスキーの「西太平洋の遠洋航海者」とラドクリフ・ブラウンの「アンダマン島民」が出てきた1922年とされており、ヴェーバーの死後2年後です。その後、いわゆるフィールドワークによって、色々な西欧以外の社会の分析が進み事例が集まる訳ですが、ヴェーバーがそうしたものを見ることが出来ていたら、と思わざるを得ません。この本に、私と同じようなことを考えている人が多い、と指摘されていました。(余談になりますが、そういう文化人類学から出てきた素材を用いて、ヴェーバー的な分析を行った人は、私はカール・ポランニーだと思います。)

柊・オ・コジョの「文化の逆転 ―幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)―」

(以下はAmazonへのレビューで書いたものです。)
柊・オ・コジョの「文化の逆転 ―幕末・明治期の西洋人が見た日本(絵画篇)―」という本を読了。Amazonで偶然見つけたもの。Kindle版だけの本で、元はブログの記事をまとめたもののようです。以前「北斎とジャポニズム」という展覧会を見て、北斎の浮世絵に影響された西洋の画家達が、北斎の構図とか人物のポーズとかを真似しつつも、決して浮世絵そのままではなく、線も色も浮世絵よりはるかに複雑微妙だったという違いを感じ、その理由を知るヒントになるかな、と思って読んでみたものです。
作者の方についてはどういう方かまったく知りません。ですが、博引旁証ぶりはかなりのもので、私がほとんど知らない人名がいっぱい出てきて、文献参照は実に800以上にも及びます。
それはいいんですけど、ある意味やり過ぎというか、そこまで文献参照しないと自分の意見を書けないのかな、という所が気になりました。そうやってたくさん引用して出てきた結論が、「日本人は自然と一体化しているという考えを好み、西洋人は自然を人間が支配していると考える」といった、ある意味誰でも知っているようなことだったりします。
それでもまあ参考になったのは、日本の絵画が気韻生動、徹底した観察、線を一気呵成に描くことの重視といった指摘で、それは北斎と西洋画家の違いを知る上で参考になりました。この線を一気に描くという伝統は、たとえば手塚治虫の漫画とかにも受け継がれていると思いますけど、そういう指摘はなかったです。
後、Kindle版で300円という書籍に文句を言っても仕方がないのですが、この人「縦中横」を知らないようです。そのため、アルファベットや数字が横に寝てしまっていて、縦書きとしては読みにくいです。また、Malerei(絵画)というドイツ語が何故かWalereiとMとWがひっくり返っていたり、明らかな誤記があったりして、もうちょっと校正をしっかりやって欲しいです。さらには本文中で参照されている図(絵)が巻末に置かれているだけで、リンクにもなっていないので、一々見に行くのが非常に面倒です。またその絵自体もサイズが小さくて見にくいです。
表紙は萌え風ですが、中身はそれなりにちゃんとしています。たぶん作者はどこかのアカデミズムの世界の人じゃないかと思います。ちゃんと校正すれば普通の紙の本として出して問題ないレベルだと思います。

ヴォルフガング・シュルフターの「「経済と社会」仮構の終焉」

ヴォルフガング・シュルフターの「「経済と社会」仮構の終焉」を読了。岩波書店の「思想」の1988年5月号に載っているもの。シュルフター教授は私の恩師の折原浩先生と並んで、「経済と社会」の再構成問題に取り組んできた方です。また私の個人的な思い出でも、2004年にハイデルベルクを訪問した時に、羽入書問題に関しての調査で面談させていただいたことがあります。この論考ではテンブルックの「経済と社会」編纂批判を受け、ヨハネス・ヴィンケルマンの編纂の問題点を整理して、テンブルックの批判が妥当であることを検証しています。まだ、再編纂の具体的な検討に入る前に、「ヴェーバー全集」の編集スタッフに対しての覚書みたいなものがベースのようです。この問題について理解が深まり有用でした。

NHK杯戦囲碁 井山裕太7冠王 対 志田達哉7段

本日のNHK杯戦の囲碁はいよいよ決勝戦、黒番が井山裕太7冠王、白番が志田達哉7段の対戦です。何とこの二人は初対戦とのことで、今の井山7冠王に当たるには、タイトル戦の挑戦者になるしかないということでしょう。またこれまでのNHK杯戦、志田7段はすべて白番で勝ちというこれまた珍しい記録です。布石は志田7段が得意の向かい小目で、ほとんど準決勝と同じような進行になりました。最近AIの影響で三々打ちとか流行っていますが、志田7段はそういうのにまったく影響されず我が道を行って勝ち進んでいます。左下隅の定石で黒が隅に付けていったのに白は手を抜いて右下隅のカカリを急ぎました。黒は白が手を抜いたので出切りを敢行し隅の白2子を取りましたが後手になりました。白は下辺から右下隅を詰め、黒がコスんで白が押して競い合いが始まりました。黒が下辺からの白にハネを打った時、白は伸びないで右辺を打ちました。これに対し黒が当てて叩くのが気持ちいいかと思いましたが井山7冠王はさらに厳しく急所に置いていきました。この後の折衝で結局黒は下辺でポン抜いている白4子を取り込みましたが、その代わり右下隅の黒を封鎖され、隅に一手入れなければならなかったのはちょっと辛かったかもしれません。右上隅は黒地が大きくなりそうなタイミングで白が三々に入り、黒は左側から押さえて白が右辺に食い込むのを許しています。下辺の折衝で先手を取った白は上辺に開き、次に右上隅を封鎖している黒への攻めを見ました。黒は攻められてはたまらないので上辺を開きました。ここで白がその開いた石にコスミツケて利かしにいきましたが、黒はすかさず反発して結局ノゾキを2つ打ち、両方を白に継がせて、ここは黒が上手く打ち回した感じです。黒は続けて左辺に打ち込み、いろいろありましたが、黒は上辺の白地をかなりへこませ、黒が打ちやすい形勢ではなかったかと思います。非勢を感じていた白は下辺で取られている白4子に向かって右下隅から連絡を匂わせる手を打ちました。ここでも黒は反発して。取られていた白4子が復活する代わりに、右下隅の白を切り離すという振り替わりを目指しました。この結果は白が得した感じで、黒は右下隅を取る手を打たずに、左辺の白への攻めを見せ、一部の白を切り離すことに成功し、ここでまた黒のリードとなりました。また右上隅の白には劫が残っており、全体に厚くなった黒は劫を決行しました。白は劫材が続かず、右上隅は活きる手を打たなければなりませんでした。これで盤面10目くらいの黒リードで、このまますんなり黒の勝ちかと思われましたが、真ん中につくかと思った黒地が志田7段の巧妙な手でほとんどなくなり、差はほとんどなくなりました。しかし最後半劫が2つ残りましたが黒はその両方を白に譲って、結局黒の半目勝ちでした。志田7段の健闘が光りました。井山7冠王NHK杯戦2連覇です。2人ともTV囲碁アジア選手権で頑張って欲しいものです。

Public romance in Japan (7) – Kyoji Shirai’s “Fuji ni tatsu kage”

Let me introduce today Kyoji Shirai’s best romance, “Fuji ni tatsu kage” (“富士に立つ影”, a shadow standing on Mr. Fuji). This romance is not only his best work, but also a big milestone in the history of public romance, or even in all Japanese literature, I should say. The three greatest works in public romance are, “Dai Bosatsu Touge”, “Musashi” (“宮本武蔵”) of Eiji Yoshikawa (“”吉川英治”), and this work.

This romance was serialized in the newspaper “Hochi” (“報知新聞”) from July 1924 through July 1927, for more than 1,000 times. (Novels serialized in newspapers are still popular in Japan, but the average period of continuance is just around a half year.) There are ten volumes (also chapters) in Japanese paper book style, as you can see in the photo. The names of ten parts are, 1. Susono-hen (Chapter of the plain at the foot of Mt. Fuji), 2. Edo-hen (Chapter of Edo city), 3. Shujinko-hen (Chapter of the central character), 4. Shinto-hen (Chapter of a new battle), 5. Shinkyoku-hen (Chapter of Divine Comedy), 6. Kirai-hen (Chapter of coming back to Mt. Fuji), 7. Unmei-hen (Chapter of destiny), 8. Sondai-hen (Chapter of grandsons’ generation), 9. Bakumatsu-hen (Chapter of the end of Edo period), and 10. Meiji-hen (Chapter of Meiji period). The romance was sold for more than 3 million copies.

Let me introduce now basic story of this romance. To make a long story (literally) short, this romance describes 68 years’ (1805 – 1873) battles between two families of castle builders, during three generations, namely fathers, sons, and grandsons. The author said that he described “war and peace” based on humanity. The story starts when Tokugawa shogunal government planned to build a new castle in the plain at the foot of Mt. Fuji for the training of their subordinate soldiers in western style. The government summoned two engineers, namely Kikutaro Sato (“佐藤菊太郎”), as a representative of Sanshi-ryu (“賛四流”) school of castle building, and Hakuten Kumaki (“熊木伯典”), as one of Sekishin-ryu (“赤針流”), another dominant school of castle building. The government tries to determine the chief designer of the new castle by the competition between two schools. Until this work, most public romance used fighting by Japanese swords (Chambara) to solve the conflict between two parties. This work, however, adopted debates between two engineers, which was, and still is, a brand-new style. Kikutaro is a young, talented, and honest guy. Hakuten, an older guy, on the other hand, plays very dirty. Most readers expected the victory of Kikutaro, a white-hat, but the author betrays the readers’ expectation, which is very rare in public romance.

The actual hero of this romance appears at first only from the chapter three. The hero, Kimitaro Kumami (“熊木公太郎”) is the son of Hakuten, a quite evil guy. The son, however, is completely different from his father. He is quite honest, decent, always trying to protect the weak, and at the same time a little bit foolish. A critic compared him with Prince Myshkin in Dostoyevsky’s novel “The Idiot”. Both of them are, so to say, holy idiots. This character is quite new and different from the cruel, nihilistic character of “Ryunosuke Tsukue” in “Dai Bosatsu Touge”. This hero brought the romance into a big success, because many readers really loved the character of Kimitaro. In parallel to Kimitaro, Heinosuke Sato (“佐藤兵之助”), the son of Kikutaro, is described as a very smart, bureaucratic type, but rather cruel guy. This is quite a surprising twist that the good side and the evil side turn over in the second generation.

One English teacher at Eigox told me when I introduced this romance to him that this romance sounds similar as Frank Herbert’s “Dune”, which also describes the battles between two families, namely between the Atreides and the Harkonnens. In Dune, however, the Harkonnes are always described as the evil side. In Fuji ni tatsu kage, we cannot simply say that one side is good and the other is bad, and do not know until the end of the story how the battles between two families are settled. There is also a “Romeo and Juliet” type affair between the two families, which makes the story more complex and attractive. In such viewpoints, this romance goes far beyond the realm of usual public romance. Kyoji Shirai aimed at such a high-level literature even the genre was classified as public romance, which was usually considered as vulgar literature.

It is absolutely impossible to describe all charm of this romance here. I strongly hope that this novel will be translated into English for foreign readers someday.

フリードリッヒ・H・テンブルックの「マックス・ヴェーバーの業績」

フリードリッヒ・H・テンブルックの「マックス・ヴェーバーの業績」を読了。私の大学時代の恩師である折原浩先生の業績である「ヴェーバーの「経済と社会」再構成問題」について、改めて現在までの流れを私なりに出来る範囲で追いかけてみようとして読んだものです。その「再構成問題」はこの本に含まれているテンブルックの「『経済と社会』からの訣別」がスタート地点になっています。ヴェーバーの「経済と社会」は妻であるマリアンネ・ヴェーバーが夫の死後、夫の「主著」としてまとめ上げようと、本来ヴェーバーが一冊の本としてまとめようとしていたかも不明なのですが、遺産として残された膨大な原稿を彼女なりの考えで整理して1922年に出したものが最初です。このマリアンネの版に対して、いわゆる「校訂」作業を施して、膨大な注釈を付けた版を1956年と1976年にヨハネス・ヴィンケルマンが出します。この「訣別」論文はそれに対する徹底した批判です。ヴィンケルマンは、ヴェーバーが当初計画していた「構成表」に従って全体を再構成するということを行っていますが、実はその「構成表」はヴェーバーによって破棄されたものでした。また、マリアンネが残した誤った二部構成をそのままにしました。
以上のようなヴィンケルマンの編集に対して、その内容がヴェーバーの元々の意図とはまるで無関係であり、それを読むものが正しくヴェーバーの本来の意図を理解できるような構成ではないとテンブルックは批判します。
さらには、この本に入っている別の論文である「マックス・ヴェーバーの業績 I」で、テンブルックは「経済と社会」の価値自体も、それが単なる「委託仕事」であって、ヴェーバーの主著とすべきは「宗教社会学論選」の方であるとし、「経済と社会」の評価を貶めます。1962年にアメリカでラインハルト・ベンディクスという人が「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」という本を書いて、それまで断片的な著作だけを個別に評価されていたヴェーバーの、初めてといえる包括的な評価を行います。ベンディクスは、「宗教社会学論選」と「経済と社会」を同時に評価しているのですが、テンブルックはそれを批判している訳です。そのベンディクスの本は1966年に折原浩先生の翻訳で日本語版が出ています。(改訂版が1978-79年です。)次はそれを読んでみます。

日本銀行調査局の「レンテンマルクの奇蹟」

日本銀行調査局の「レンテンマルクの奇蹟」を入手。大学の卒論の時使った資料で、書いてあったことを確認したくて「日本の古本屋」で買いました。結構部数が出たみたいで、1,000円くらいで入手できました。当時の日銀調査局は優秀で、薄い冊子ですが要点はかなり押さえてあり、分析も的確です。今回、いわゆるレンテンマルクについて改めてWeb上を調べてみたのですが、Wikipediaの日本語のみならずドイツ語のサイトさえ、「土地の価値に基づく」という説明しかしていないのに驚きました。(土地の価値そのものではなく、その土地の「地代」に基づく通貨です。)(日本語のWikipediaは私が書き換えました。)また、第2次世界大戦後の日本のインフレに対し、国民から日銀に対し「何故日本でもレンテンマルクを導入しないのか」という声があり、この本はそれへの回答にもなっています。それによれば、レンテンマルクは最初ライ麦マルクという案で、後に地代であるレンテに価値の基礎を置いたことが特に農業界の絶大な信用を得たこと、最大発行額が制限されていたこと、レンテンマルクの発行と同時にライヒスバンクの国債引き受けが停止されたこと、同じく同時に厳しい外国為替管理が実施されたこと、そして何よりレンテンマルクが導入されてすぐ、ドーズ案によってドイツの賠償支払いの猶予が認められたことを決定的な「奇蹟」の原因としています。こうした付随する条件無しに、レンテンマルクのような何か金以外の価値に基づく通貨を作っても効果は限られている、というのが結論です。
前にも書いたように、その当時の日銀がレンテンマルクの代わりにインフレ収拾策として導入したのが預金封鎖と新円切り換えです。しかし、この政策は多少の効果はあったもののハイパーインフレーションを抑えきることは出来ず、金融資産に依存していた層が没落する原因となります。この社会の構造を根底から変えてしまう、という点がハイパーインフレーションのもっとも恐るべき点です。

マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における「誤訳」の連鎖(続き)

「マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における『誤訳』の連鎖」にて、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に出てくるRentenkaufの日本語訳が、大塚久雄が「年金売買」と不適切な訳を使い、それが後の2つの日本語訳にも継承されたことを書きました。その時に、この単語が「中世商事会社史」と「古代農業事情」、そして「経済と社会」にも登場することを書きました。この内、「中世商事会社史」は私が調べた限りではまだ邦訳が出ておらず、取り敢えず「古代農業事情」の日本語訳である「マックス・ウェーバー 古代社会経済史 古代農業事情」を取り寄せました。訳者は、渡辺金一氏と弓削達氏です。(1959年)
この「古代農業事情」でRentenkauf(ないしはその変化形)が登場するのは次の3箇所です。

1.「四.ギリシア」の「a 古典期以前」の「神殿領における永代賃貸借の発生」(この段落見出しは訳者が付与したもので原文には無い。)邦訳P.234
2.「五 ヘレニズム」の「ヘレニズム エジプトの経済事情」の所。邦訳P.318
3.「六 ローマ」の「b ローマの拡大時代」の「公共地利用法の二種。先占による農業資本主義の発生」邦訳P.421

それで共訳者のお二人がRentenkaufをどう訳しているかと言うと、何と「レンテンカウフ」と単にカタカナ語に直しただけで、何の説明もありません。これは誤訳を当てはめるよりはましですが、無責任な態度と言わざるを得ません。実は伏線があり、「訳者序」には、そもそも「Rentenにはあえて訳語を与えなかった。」としています。その方針は分からないでもありませんが、Rentenを訳さないからRentenkaufも訳さない、というのはある意味翻訳放棄に見えます。また、「訳者注」もほとんど付けないことについての言い訳も書いてあって、それをやると出版までに何年かかるかわからず、またそれ自体が自分達の「研究」になってしまうから、と言っています。しかし、私が入手したのは2001年の第25刷ですが、最初に出版された後、まったく改訂されていません。確かにヴェーバーの著作に出てくる細かな事実を調べだしたら大変です。「プロ倫」の注釈の中に出てくるわずかな英訳聖書の記述だけで、ほぼ3年近く、また地球を一周する距離を旅してまで調べた私ですから、それは良く分かります。しかし、「レンテンカウフ」でそのまま済ませてしまうのはあまりにも安易かつ無責任だと思います。

上記のように、この「古代農業事情」の中だけでも、ギリシア、エジプト、ローマの歴史的事実に対して、中世におけるRentenkaufについて言及されています。(一番目は古代ギリシアでも同様のものがあり、神殿が自分の土地から資本投下を行うために設定した永代賃貸借がRentenkaufだとされます。二番目は中世とヘレニズムでの「資本創造」の差について述べており、11・12世紀のジェノヴァや13・14世紀のフィレンツェでRentenkaufを使った国債の発行があったとしています。{これが多分「中世商事会社史」に出てくるのでしょう。}三番目はローマで私的な永代賃貸借が存在しなかった理由を述べており、それが中世でも同様で、市民を隷属民にしない形での土地負担の一形態がRentenkaufで初めて可能になった、としています。)また実質的にヴェーバーの最初の論文である「中世商事会社史」にも登場し、また東エルベの農業労働者の問題にも深く関わったヴェーバーにとっては、非常に重要な概念であったのではないか、という思いが強くなってきました。

「中世商事会社史」についても、邦訳は出ていないながら、分かる範囲で眺めてみたいと思います。