久野暲・高見健一著の「謎解きの英文法 単数か複数か」

久野暲・高見健一著の「謎解きの英文法 単数か複数か」を読了。最近EigoxやAEONで英語をしゃべっていて、よく迷うのが動詞を単数で受けるか複数で受けるかということ。その辺りの知識を整理するために読みましたが、なかなかに有益でした。まずは学校文法で十把一絡げに「集合名詞」と呼ぶものの中に、team, familyのように数えられるものと、cattle, policeのように数えられないものが混在していることを明らかにしてくれます。しかもcattleの場合は、a cattleは駄目だけど、two cattle (two cattlesではない)はOKというなかなか混乱することが書いてあります。また、アメリカの野球チームのThe Boston Red Soxは複数形で受ける、何故ならSoxは元々Socksだから、なんてのは知らないとまず間違えます。(野球チームは原則複数で、日本のHiroshima Carpも見た目は単数形だけど、この場合Carpが単複同形で複数形と見なすべきだそうです。)また私は会社については複数の人が働いているという意識でつい複数で受けてしまいますが、それはイギリス英語で、アメリカ英語の場合なら、General Motorsのように名称自体が複数形になっていても単数で受けなければならないことを再度確認できました。また、none of usの後はisかareというのは、50年くらい前まではisが正しいとされていたのが、今は複数で受ける人の方がはるかに多い、などなかなか目から鱗でした。それがNeither of themの後だと、書き言葉で正しくは単数で受けるけど、話し言葉では単数を使うとものすごく文法の細かい所にこだわっている感じがして却って不自然と思われるなど、なかなか一筋縄ではいかないことが理解できました。また、Nobody can see himself directly. に付加疑問文をくっつけると、Nobody can see themself directly, can they? になるなんて言うのは細かすぎて初めて知りました。この場合のthemselfはthemselvesの間違いではなく、himself or herself という意味です。
そんな感じで、この本では英和辞典の記述も結構当てにならないことがいくつか例示されています。

マイケル・ウォルフの”Fire and Fury”

マイケル・ウォルフの”Fire and Fury”をようやく読了しました。と思ったらもう来週日本語訳が出るのね…苦労して読んで時間を無駄にした感が…
英語自体もスラングみたいなのが多くて易しくないのですが、それ以上にいっぱい出てくる人名や団体名にほとんどなじみがないので、ついていくのが大変でした。(これでも2年半くらいCNNを聴き続けて、それなりに知っている筈ですが、それでも。)またトランプ陣営を支える人達も次から次に更迭されて変わっていくので、これまた大変でした。(日本語訳はすごいスピードで出てきましたが、そういうのにちゃんと注釈を付けてくれているのでしょうか。)
この本は200人以上に取材したそうですし、また著者は以前やはりトランプに関する本を出していて、その本がトランプのお気に召したので、「壁の上のハエ」のような感じで取材を許された、とありますが、どこまで本当か分かりません。ただ、感じるのは全体がトランプがいかに馬鹿で大統領にふさわしくなく、またトランプ陣営がいかにアマチュア的で混乱している上に、内部の対立も激しく、というある種の先入観を前提に全体が構成されているような感じで、事実を淡々と積み上げるという感じではまるでありません。ただ、トランプの性格として、陰謀を企むというより、「皆に好かれたい」だけだという指摘は当たっているように思います。
陰謀という意味では、スティーブ・バノンで、全体を通じてバノンの異常さというのが最初から最後まで頭を離れませんでした。2020年の大統領選への出馬を検討していると書いてありますが、本気なんでしょうか。
トランプ政権の最初の数ヶ月は、そのバノンとジェリバンカ(ジェラード・クシュナー+イバンカ)、そして根っからの共和党のラインス・プリーバスの間の激しい主導権争いの中、非常に混乱しながら進んでいきます。私は知らなかったのですが、ジェラード・クシュナーのお父さんは民主党への大口献金者なんだそうです。そういう訳で政権の中ではリベラルな方のジェリバンカとバノンが特に対立します。
読んでいて、この1年のトランプに関する不快なニュースを逐一また思い出すことになり、何というか楽しくない読書で、「何でこんな馬鹿な奴らの話を読まなければならないのだろう」という思いでいっぱいでした。でも、この本がアメリカで売れているのは、アメリカ人にとっても未だにトランプ政権とは何なのかがよく分からないからだと思います。

ちばてつやの「おれは鉄兵」と村上もとかの「六三四の剣」

今まで誰も指摘しているのを見たことがありませんが、ちばてつやの「おれは鉄兵」と村上もとかの「六三四の剣」には結構共通項があります。といっても、「六三四の剣」の方が後なので、村上もとかがちばてつやの影響を受けているというのが正しいのでしょう。むしろオマージュと言ってもいいかもしれません。ちばてつやは村上もとかの漫画のファンのようなので、別にちばてつやも何も気にしていないと思います。

(1)「六三四の剣」で六三四が小学生の時に中学校の剣道部に武者修行に行って、そこで出会う剣道部の主将が、「おれは鉄兵」の東大寺学園剣道部の一人にそっくり。(2)「おれは鉄兵」で鉄兵は、中学生大会の個人戦で、菊池と対決するのに、菊池のお祖父さんに、「竹刀を弾き飛ばされないように」というヒントを受け、それが「巻技」だと思って急遽その技を身につけます。「六三四の剣」では小学生の大会で、東堂修羅が六三四との対戦で追い詰められて「巻技」を使います。
(3)「おれは鉄兵」では結局菊池の取って置きの技は巻技ではなく「木の葉落とし」でした。この「木の葉落とし」は「打ち落とし」(面打ち落とし面)です。「六三四の剣」で高校生の大会で修羅がこの技を決め技とします。

機械式印刷によるファクシミリ版について

私は、「羽入式疑似文献学の解剖」(PDF版P.8)の中で以下のことを書きました。
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なお、ファクシミリ版というのは、オリジナルの各頁を写真に撮り、それを元にオフセット印刷の版を作成し(あるいは近年ではDTP技術で)、新たに本物に似せて印刷し直したレプリカである。このオフセット印刷自体の発明が1903年から1904年にかけてなので、当然のことながら、ヴェーバーが「倫理」論文を執筆していた時にはファクシミリ版は存在していない。(他の方法による復刻版が存在していた可能性は否定しないが、いずれにせよ今日のファクシミリ版のように一般的に入手できるものはほとんどなかったと推定する。)
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この中で、「ヴェーバーが「倫理」論文を執筆していた時にはファクシミリ版は存在していない。」というのは間違った記述でした。読まれた方にお詫びします。ファクシミリ版は、写真印刷の技術がまだない機械印刷の時代にも存在していました。(ちなみに、書類を電送する装置であるいわゆる「ファクシミリ」よりも、「ファクシミリ版」の方が「ファクシミリ」という言葉にかけては先です。ラテン語の”fac simile”{似たものを作る}から来ています。)このことに気がついたのは、今読んでいる「テクストとは何か 編集文献学入門」(明星聖子+納富信留 編)の中の「聖なるテクストを編集する ---新約聖書」(伊藤博明)の中に、フリードリヒ・コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフという人が19世紀に、新約聖書の写本のファクシミリ版を多く出版した、とあることからです。

なお、マリアンネ・ヴェーバーの「マックス・ウェーバー」の1903年6月9日の記事に、「私はレンブラントの炭素写真版(カーボンプリンティング)版を買わずにはいられなかった。それはたしかに原画を見ているものにしか完全な理解を与え得ないものだがね。」というのがありますが、ここでヴェーバーが言及している「炭素写真版(カーボンプリンティング)」は、初期の写真技術を利用したファクシミリ版のようなものではないかと思います。ヴェーバーが言っているように、しかしそれはオリジナルからかなり劣化したコピーに過ぎず、今日のファクシミリ版とは品質がまるで違います。

という訳で、ヴェーバーの時代にもファクシミリ版は存在していました。ただ、今日のように隆盛を極めている訳ではなく(今たまたま確認したら、1560年のジュネーブ聖書のファクシミリ版がAmazon日本で¥8,351で買えます)限定されたものであると考えられ、特にイギリスの欽定訳聖書より前の古聖書のファクシミリ版が一般に出回っていたとは想定しにくいです。

なお、ついでですが、上記のヴェーバーについての記述は、ヴェーバーがオランダに滞在している時のものです。ウィリアム・ティンダルの最初の英訳聖書が印刷されたのはアントウェルペンですし、その後ジュネーブ聖書についても、海賊版という形でアントウェルペンで大量に印刷されました。もしかすると、ヴェーバーが各種英訳聖書の現物を手に入れたのは、このオランダ滞在中だったのではないか、と思うようになりました。

Public romance in Japan (5) — The life of Kyoji Shirai and his works (1)

Kyoji Shirai’s photo (from his autobiography) when he was living at Asahigaoka, Nakano in Tokyo (1926 – 1933). Kyoji loved slow but steady steps of a cow, and he practiced “Fabian tactics” in literature.

As I stated in the previous article, Kyoji Shirai was one of the most important novelists in an emerging stage of public romance. Let me now describe his life and some of his works in detail.

Kyoji Shirai was born in Yokohama in 1889, as the first son of Takamichi and Tami Inoue, who were both from Samurai (warrior) class of Tottori prefecture. When he was born, Takamichi was working as a policeman of Yokohama city. Kyoji inherited the sense of justice from his father. Because of the frequent changes of his father’s working place, Kyoji kept on the move from Ome, Kofu, Urawa, and to Hirosaki in Aomori prefecture. In 1902, he finally settled in his parents’ home town, Yonago in Tottori. While he was attending Yonago east high school, he wrote two novels and they were put in two local newspapers, showing his precocious talent as a writer.

He entered then Waseda university but he soon moved to Nihon university by his father’s request that he should become a lawyer. While he was studying at Nihon university, he translated many works of Saikaku Ihara (“井原西鶴”) and Monzaemon Chikamatsu (“近松門左衛門”) into the modern Japanese for Hakubunkan (“博文館”), which was one of the biggest publishers at that time in Japan. These works gave him deep knowledge of the Japanese literature in Edo period, and he utilized many episodes or anecdotes in this period later in his works.

After he graduated Nihon university, he started to work at a few publishers and got married with Tsuruko Nakajima, a daughter of a baron Masutane Nakajima, in 1916.
In 1919, he wrote “Kai-kenchiku juni-dan gaeshi” (“怪建築十二段返し”) as his first work under the name “Kyoji Shirai” and the manuscript was offered to Hakubunkan. The publisher put the work in the January issue of “Kodan zasshi” (“講談雑誌”) in 1920. This first work was welcomed and he received requests for other works one after another. Ryunosuke Akutagawa (“芥川龍之介”) praised Kyoji’s “Ninjutsu Koraiya” (“忍術己来也”) enthusiastically and “Shimpen Goetsu Zoshi” (“神変呉越草紙”) also got a favorable reception.

In 1924, he started to write two most famous works, namely “Shinsen-gumi” (“新撰組”) and “Fuji ni tatsu kage” (“富士に立つ影”), and established his fame by these two great novels. The former was put at the head of a weekly magazine “Sunday Maichini” (“サンデー毎日”), which was the first weekly magazine in Japan, and the magazine could get enough number of readers to survive as an independent magazine by his novel. The latter was serialized in the Hochi newspaper (“報知新聞”), which was one of the biggest newspapers at that time, and it continued for more than 1000 times. The hero in this novel, Kimitaro Kumaki (“熊木公太郎”), attracted the readers overwhelmingly by his honest and decent character. As I introduced before, Ryunosuke Tsukue (“机龍之助”) in Dai Bosatsu Touge (“大菩薩峠”) was the first typical character type in public romance with his nihilism and cruelty, but Kyoji created then a completely different type of bright character with this novel. (to be continued)

NHK杯戦囲碁 芝野虎丸7段 対 今村俊也9段

本日のNHK杯戦の囲碁は準々決勝で黒番が芝野虎丸7段、白番が今村俊也9段の対戦です。芝野7段は今各棋戦で勝ちまくっていますし、NHK杯戦でも先日張栩9段に見事な勝ちを収めました。そういう絶好調の芝野7段に今村9段がどう対処していくかが見所でした。今村9段といえば、「世界一厚い碁」と言われていますが、4手目で三々に打ちました。先日もやはりNHK杯戦で三々を打っています。それもあって本局は今村9段が三隅を取って地で先行し、対する芝野7段が右辺から下辺にかけて模様を築く展開になりました。今村9段はこの模様を下辺の黒への肩付きから消しに行きましたが、芝野7段もこの白を追い立て、右辺と下辺の両方を広げました。その後黒は左下隅の白に付けていって下辺を広げ、右辺は白に打たせるという作戦でした。対して白は右上隅の黒の壁にくっついている1子を動き出しました。黒はこの動き出した白を攻めましたが、取ることは不可能で、結局白は活き、その代わり黒は中央が厚くなりました。その後黒は左上隅の三々に入りましたが、白は二段バネで打ち、結局隅は白が取り黒は白1子を抜いて左辺に展開しました。その後黒は左下隅の白にアタリを打ち、この白を攻めることを計画しましたが、白は左辺に二間に開いてこれをかわしました。黒はその後上辺に打ち込みましたが、白は右上隅からの石から一つ押した後、空き三角に打ちました。空き三角は愚形の代表格で通常プロは打ちませんが、この場合は回りの黒が強いので好手でした。黒はここを続けて打たず左辺に回りました。その後白は右上隅からの石を強化し、上辺に打ち込んだ黒を攻めました。その折衝で、左辺方面に石が来たため、白は左辺の黒に打ち込みました。ここの戦いで白は一旦左辺上部の黒を取り込みました。しかしその代償で左下隅からの白が薄くなりました。その後の折衝で、結局白は左辺を捨て、黒の取られていた一段が復活し左辺が左下隅からの通しで黒地になったので黒は大きな戦果を上げました。しかし白も中央の黒3子を取り込んで厚くなり、これが右辺の黒の厚みを消していていい感じでした。ここのやりとりで白の優勢が確立したようです。終わってみれば白の今村9段の3目半勝ちでした。故藤沢秀行名誉棋聖もそうでしたが、厚い碁を得意とする人はむしろ50歳を過ぎてから本当の力が出る事が多いようです。今村9段はこれで準決勝進出です。

梶原一騎と合理性

マックス・ヴェーバーの学問の最大のキーワードは「合理性」で、ヴェーバーは西洋近代が他の文明から区別される最も顕著なものが「合理性」だと考え、その起源を探ることが彼の一生のテーマになりました。
この「合理性」は戦後の日本の社会科学の学者にとっては、便利な概念で、要は日本が戦争に負けたのは、日本が合理主義を十分に発達させることが出来なかったから、という形で受け入れられ、盛んに研究されました。それがピークに達するのが1960年代前半くらいで、何とそれは大衆文化にまで影響を及ぼしています。

ここで紹介するのは梶原一騎原作の漫画です。「巨人の星」で、星飛雄馬の投げる「消える魔球」に対し、外人選手のフォックスは「ア…悪魔ノボールダ!」といって驚きますが、それに対してTV中継のアナウンサーが「なにごとにも合理的な外人には理屈に合わぬ奇跡はいっそう恐怖をそそるのか…」と解説を付け加えています。まったく同じようなシーンが「新巨人の星」にも出てきて、星飛雄馬が投げる今度は「分身(蜃気楼)の魔球」が阪急ブレーブスのおそらくバーニー・ウィリアムス選手にショックを与えますが、それについての上田監督のコメントが、「ウ~~~ン!外人は考えかたが合理的 理論的やさかい ようけショックが大きいようやな」と関西弁(より正確に言えば徳島弁)で解説してくれます。外人といっても、フォックスはアメリカ、ウィリアムスはプエルトリコの出身ですが、ひとまとめに「外人」とされ、「外人は合理的」とされています。

「外人」を「合理的」とするステレオタイプの見方を導入するだけでなく、梶原は自分が提供する漫画原作にも「合理性」を持ち込みました。栗本薫が正しく指摘したように「消える魔球」は、梶原が初めて使ったものではなく、「巨人の星」の前にいくつもの漫画で既に使われていました。例えば福本和也原作の「ちかいの魔球」とか、一峰大二の「黒い秘密兵器」などです。(「黒い秘密兵器」のは正確に言えば「消える魔球」ではなくもっと荒唐無稽な魔球群ですが。)「巨人の星」の「消える魔球」が他と一線を画しているのは、その消える理由に「合理的な」説明を与えようとしたことです。その理屈は皆さんご存知だと思うので詳細は略しますが、今考えると無茶苦茶な理屈ながら、伴宙太から消える魔球の秘密を打ち明けられた川上監督は、「恐るべき理論的裏付けがある」と評します。梶原一騎は後に「侍ジャイアンツ」の「分身魔球」あたりになると、手を抜いてもはや魔球の合理的な説明を省くようになります。また「新巨人の星」の「蜃気楼の魔球」でも何故そうなるかはまったく説明されませんでした。しかしこの頃はまだ説明しようとする意欲がありました。

他のスポーツの漫画原作ではどうかというと、野球以外に梶原が得意とした柔道漫画にもその例を見ることができます。「ハリス無段」は東京オリンピックの直前の1963年に連載された梶原の最初の柔道漫画です。「ハリス」は「ハリスの旋風」と同じようにハリス食品(当時ガムで有名だった)とのタイアップ作品ですが、最初「科学的な柔道を追求する」「ハリス博士」という「外人」が登場し、主人公に「科学的な柔道」を伝授します。もっともこの博士は途中で主人公の敵にやられて死んでしまい、主人公は三船久蔵十段と知り合って、伝統的な柔道に戻ってしまい、この路線はきわめて不徹底でしたが。

「科学的な柔道」は、後にTV化され人気作となった「柔道一直線」の漫画の方でもう一度登場します。ここでは、ガリ勉でスポーツ音痴の秀才君が、昔スポーツが出来なくて女の子に笑われたのに発憤して、「物体ひっくりかえし科学」を完成し、力を使わずに相手選手を吹っ飛ばして、主人公の強敵として登場します。

以上が、梶原一騎の例ですが、他にも白土三平がその忍者漫画で、忍術を「合理的に」説明しようとしたことも例として挙げられると思います。(画像は白土三平の「サスケ」における「炎がくれの術」の「合理的な」説明。)

同じく1960年代に忍者ブームを作った山田風太郎も、その「忍法帖」シリーズに登場する荒唐無稽の極地のような忍法に、自身が医者であることからの「医学的」な説明を付け加えていました。例えばスパイダーマンのような忍者には、その唾液の中に「ムチン」と呼ばれる粘性物質が多く含まれているため、非常に強度を持った糸を吐き出すことができた、みたいなものです。

他にも60年代のSFブームも「合理性」と大いに関係があると思いますが、長くなりすぎたのでこの辺にしておきます。

吉川英治の「随筆 宮本武蔵」

吉川英治の「随筆 宮本武蔵」を読了。小説の方を読み直したののついでです。私の関心は、吉川英治が何故あのように「精神性」を重視した宮本武蔵像を描いたかということです。よく知られているように、吉川英治が「宮本武蔵」を書いたのは、元々菊池寛と直木三十五が武蔵が名人かどうかで論争したことに始まります。その時、菊池寛が名人派、直木三十五が非名人派で、直木にどう思うか聞かれて、吉川英治は名人派でしたが、その理由を聞かれて即答できなかったことが執筆のきっかけになっています。直木の「非名人説」はこの本を読むと、武蔵の剣豪としての実力を否定しているのではなく、吉岡一門との戦いで幼い者まで斬殺しているような武蔵の人間性が名人にはふさわしくないと言っているようです。青空文庫で直木の「巌流島」を読んでみましたが、ここでも直木は武蔵の技量を否定していません。
吉川英治が武蔵の精神性を高く評価するのは、主に武蔵が晩年熊本の細川家に在籍していた時に残した書物や絵などを見てそう判断しているようです。しかし私見では武蔵が五輪書を書いたのは60歳の時ですし、晩年の悟りきったような武蔵と若い頃のヤンチャしていた頃の武蔵とは同列には論じられないのではないかと思います。まあ戦前においては武道において精神性が重んじられていたのは否定しようのない事実で、吉川英治もその雰囲気の中で執筆しただけかもしれませんが。学生時代に、ドイツの新カント派の哲学者で戦前の日本に滞在した、オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」という本を読んだことがありますが、ヘリゲルは日本の武道に禅などの影響を強く感じていて、かなり神秘的に描写されています。

「原田隆史」なる人の著作の詐欺広告

Facebookで「原田隆史」なる人が自分の本の広告をしているのですが、その中でAmazonで非常に高い評価を受けているとして、その画像が貼ってあります。(Amazonとはどこにも書いていませんが、誰が見てもAmazonのレビューです。)ところが、Amazonに行って実際に見てみたら、そんなレビューはどこにも存在しません。その広告している本の実際のレビューは多くの人が☆一つの酷評をしています。平均では☆☆☆になりますが、高い評価はどうも関係者がやっている臭いです。
何より、この広告で貼っているAmazonの画像が変です。実際のレビュー画像とは違います。(例えば☆のバックに色がついていますが、実際の画像にはありません。また評価スコアの分布を示す図も実際のものとは違います。)また、自分の本名を出してレビュー書く人は非常に少数派です。どう考えても捏造です。こういう詐欺広告に騙されないようにしましょう。

ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の智慧」

ジェームズ・スロウィッキーの「群衆の智慧」を読了。この本を読んだ理由は二つ。以前、羽入辰郎の「マックス・ウェーバーの犯罪」というトンデモ本を巡る論争があり、それが北海道大学のある学者が主催するHPで論考を受け付けて公開するという形で羽入氏に対する反論が行われました。それに私も参加し、そこで出てきた論考が後に「日本マックス・ウェーバー論争」という本になりました。その終章のまとめの所で、矢野善郎という人が、私の書いたものを「群衆の叡智」の可能性を示すものと評価したことです。個人的には評価していただいたのは嬉しく思いますが、発表媒体としてWebを使ったというだけで、そのWeb上で出てきた多数の人の様々な意見が集約されて発展していった、というのとはかなり違うので、「群衆の叡智」という評価は私は的外れだと思います。
二番目は、昨年12月にネットで紹介された「Twitterユーザーの呼びかけで正体判明! 謎の巨大観音像写真から始まった歴史ミステリーに「鳥肌立った」「集合知の勝利」」という事件です。こちらは、あるユーザーが関西の寺院で見つけた、巨大な観音立像の正体をTwitterで問いかけた所、様々なユーザーから色々な情報が寄せられ、最終的に長崎のある孤島で戦前に作られた観音像であったことが突き止められるという感動的なストーリーです。こちらはまさに「群衆の叡智」のもっとも適切な例だと思います。
スロウィッキーは「群衆の智慧」という考え方を提唱し、少数の専門家の意見より、飛び抜けてレベルの高い人はいなくても、多様な人が集まった集団は、専門家よりもむしろ正しい判断を下すことが多い、というものです。
この考え方は、私は極めて「条件付き」で限定されていると考えます。リーマンショックの時に会社で研修があり、そのお題は「救命ボートで漂流している際に、船内にあるものを使って救助されてもらえる確率を出来るだけ高くする」というものでしたが、その時の討論グループ6名くらいで出した結論は、専門家の出した正しい答えとはまるで違っていました。スロウィッキーの論が成り立つためには、(1)ある程度以上の人数の集団が(2)それぞれが干渉し合わずに独立に考え(3)全員が問題解決の知恵を出し合う、という条件が必要です。現実的にはこういう条件が揃うケースは比較的少ないのでは無いかと思います。この本の中でも少数の集団がその中の過激な意見に引っ張られて極端になりやすいことや、他人の判断に付和雷同していく人が多くなって結果的にバブルのような現象を引き起こす例が紹介されています。
後、今の日本に示唆的なのは、今の日本は(1)多様性のない同質性の高い少数集団が(2)お互いに過度に依存しあって独立性が弱くなっている、状態で多くの間違った判断をしている、という状況に見えます。移民受け入れの議論と重なりますが、これからの日本にとっては「多様性」をどうやって実現するかが大きな課題だと確信しています。