国枝史郎の「山窩の恋」

国枝史郎の「山窩の恋」を読了。「大衆文藝」の第一巻第二号に掲載されていたもの。青空文庫の国枝史郎の作品の中になく、作業中のリストにもありませんでしたが、2015年に出た「サンカの民を追って ―山窩小説傑作選―」という書籍に収録されているようです。お話は飛騨の裕福な旧家に生まれた主人公が、十五の時に両親が流行病で亡くなってしまい、叔父が後見としてやってきます。ところがこの叔父が放蕩者の上に山林投資をやっており、主人公の家の財産をほとんどそれにつぎこんですってしまいます。主人公はそれに対抗するように山林投資をやり始めましたがうまくいかず、次第に盗伐を行うようになります。ある日それが山林の所有者にばれて追われ、山窩の村に逃げ込みます。そこで主人公は山窩の首領格の男の娘であるお吉に惚れられて…というような話です。特に傑作とは思いませんが、国枝の作品にはよく山窩が登場しますので、ああまたか、という感じです。

NHK杯戦囲碁 金秀俊8段 対 溝上知親9段

本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が金秀俊8段、白番が溝上知親9段でこの2人は昨年のNHK杯戦の1回戦でも対戦し、その時は溝上9段が勝っています。対局は黒の中国流、白の2連星と模様の張り合いになりやすい布石でした。白が右上隅にかかって黒が一間で受けて白が三々に入りました。黒は一本押さえて白がはねた後手を抜き下辺を打ちました。白が這ってきた時、押さえずに上辺を押さえて打ちました。白は黒が押さえなかった右辺を割り継いで黒が下方を継いで、その後白が上辺の2線を継ぎ、黒が右辺を押さえた後白が上を切って黒の3子をほぼ取りました。先手の黒は右下隅を一間に締まりましたが白は上辺での取られている黒3子の策動を封じるため、更に上辺に1手かけました。この間に黒は下辺を更に盛り上げました。その後白は浅く消しに行きました。白がある程度の形に付いた後、黒は白の分断を図る手を打ちましたが、これに白が反発し戦いになりました。白はこの戦いで上辺を頑張って大きく地模様にしましたが、その間に黒も右辺と下辺を頑張って黒地を増やしました。その後攻められていた中央の黒が無事に左辺に脱出したので、後は中央の白のしのぎになりました。白は上辺への被害を最小限にしてしのぎましたが、多少影響が出て、取られていた黒3子が復活しました。その後黒は左辺で巧妙なヨセを打ち、左辺の白の出口を止めました。また左上隅に手を付け、白地をかなり削減しました。これで黒が優勢になったようです。最後は左下隅に手を付け囲まれた黒を攻め取りにさせることで更に白地を減らし、ここで白の投了となりました。

白井喬二と佐渡金山

白井喬二は、佐渡金山にかなりの関心を持っていたようで、佐渡金山やその佐渡奉行が登場する作品を私が知る限りでは3作書いています。

1.「金色奉行」 報知新聞 昭和8-9年
2.「国を愛すされど女も」 内外タイムス 昭和32-34年
3.「維新櫻」 東京日日新聞 昭和14年

1.の「金色奉行」では、2人の主人公が登場しますが、そのうちの一人の猿楽太夫の川勝三九郎が後に出世して大久保岩見守長安となります。この長安は実在の人物で、1603年に佐渡奉行になり、佐渡金山を本格的に開発して徳川幕府に莫大な富をもたらして出世します。

2.の「国を愛すされど女も」の主人公は塩谷一木之助ですが、物語の早い段階で名前を大鳥逸平に変えます。この主人公自体は架空の人物なのですが、「大鳥逸平」というのは1588年生まれで江戸時代の前期に「かぶき者」として有名だった人物で、その名前をそのまま借りています。この「大鳥逸平」が最初に仕えていたのが「金色奉行」の大久保岩見守長安なのです。また、この物語で逸平の父を殺し、逸平が仇と付け狙う来迎寺(大須賀)獅子平は、佐渡金山奉行となって出世し、逸平も佐渡に渡って前半では話がほとんど佐渡で進行します。

3.の「維新櫻」の主人公は、元禄時代に貨幣の質を落としてインフレを招いて新井白石に糾弾された荻原秀重の子孫である於木奈照之助です。この荻原秀重も1960年(元禄3年)に佐渡奉行に任命されています。そして金山の坑内にたまった地下水を排水する仕組みを作り、当時落ち込んでいた佐渡金山の金の採掘量を見事に復活させます。秀重は結局21年もの長きにわたって佐渡奉行を勤めました。

このように、白井喬二の佐渡金山へのこだわり、それを題材として取り上げるのが好きだということは、以上の3作品を見れば明らかです。この理由が今一つよく分かりません。自伝である「さらば富士に立つ影」を読んでも、佐渡島に住んだこともなければ、旅行したという記述もないのですが、「国を愛すされど女も」の佐渡島での話についてはどのような情報を元にして書いたのか不思議です。

大日本雄弁会講談社の「キング」

今回、白井喬二作品を追い求めて、大日本雄弁会講談社の「キング」を十数冊入手。キングは大正14年に創刊され、創刊号から大々的な宣伝で70万部を売り、全盛期の昭和3年には150万部にまで到達します。日本に初めて「大衆社会」というものを形成したのはこの雑誌「キング」だと言われています。内容は、小説が大半で、他に講談、新作落語、漫画、エッセイなどの本誌にさらに、豪華な附録がついていました。例えば昭和10年1月号の附録は、(1)御仁愛(絵画)(2)絵ばなし世間学(3)東亜太平洋地図(非常時国防一覧)(4)東郷元帥の名書、というものでした。ちなみに、「キングレコード」という会社名はこの雑誌の「キング」から取ったものです。昭和18年にはキングという名前が敵性語ということで「富士」に名前が変わります。(元々大日本雄弁会講談社には「冨士」という雑誌が別にあり、用紙統制で一緒になり、さらに「富士」の名前が残ったものです。{厳密に言うと、「冨」と「富」の異体字で字体が変わっていますが。})戦後も発行されましたが、雑誌の多様化の波についていけず、部数が30万部程度と低迷し、1957年で廃刊になりました。

白井喬二の「東海の佳人」

白井喬二の「東海の佳人」、15回の連載の内、10回分を読了。大日本雄弁会講談社の「キング」に1935年1月-1936年3月の間連載されたものです。最後の3回が揃っていたのと、各回に前回までのあらすじがついていたので、何とかストーリーを追っていくことができました。「陽出づる艸紙」をもう一つの「富士に立つ影」と評しましたが、この「東海の佳人」も、「富士に立つ影」と共通の要素を持った作品です。それは何かというと、時代は幕末で、幕府が行った鎌倉から逗子へ抜けるトンネルの工事を巡って、幕府側と倒幕反路軍が争って、最後はどちらが正しいかを論争で決着をつけるという話だからです。「東海の佳人」とは、工学者雲井濱太郎の娘の以勢子のことです。女性を主人公とする白井作品は比較的珍しく、この「東海の佳人」、「露を厭う女」そして「地球に花あり」くらいでしょうか。お話は、この以勢子とその兄の徹也、さらにその友人で幕府と反乱軍の間に立っているような鶴見平夷馬(へいま)、そして徹也と以勢子を捕らえ、さらに以勢子に迫る粗暴で傍若無人な幕府軍路隊長の細木原幹丈らを中心に進んでいきます。お話はトンネルを雲井濱太郎が設計し、その施工を長男である徹也が自ら行い、その工事の位置が間違っていて、トンネルが正しく掘り通せなかった場合には、徹也が射殺される、という緊迫した場面で始まります。ところが、トンネルは正しく掘り通されさましたが、工事を終えトンネルから出てきたのは徹也ではなく平夷馬でした。この事を追及に来た幹丈によって、雲井濱太郎の仕事場は焼き払われてしまい、濱太郎はショックでそのまま死亡してしまいます。以勢子は親の敵と泥酔していた幹丈を刺してしまいます。といった具合にかなり波乱万丈に話は進んでいきます。また、鶴見平夷馬は元々幕命で中国に渡って長髪族の乱(太平天国の乱)を調べてきた、というかなり変わった過去が設定されています。本当にこの頃の白井喬二は充実していると思います。この作品も何故単行本として出版されなかったのか理由がわかりません。

白井喬二と「万能児、万能人間」

白井喬二は「万能児、万能人間」にずっと関心を持っていたと見えて、それに関連する作品を3作も書いています。

1.「陽出づる艸紙」講談倶楽部 1936年1-12月
2.「豹麿あばれ暦」週刊新潮 1958年4月7日号より4回連載(白井喬二の病気のため連載中止。)
3.「神曲 左甚五郎と影の剣士」双葉社 1972年

まず、最初は「陽出づる艸紙」の主人公の綴井萬貴太で、父親が万能児に育てるために実にかけたお金は8万両を超え、また付けた師匠は200人に及ぶというもので、この結果17歳にして武芸百般にも、またあらゆる学問にも通じた、ほとんど完成した万能人間として連載第1回に登場します。萬貴太は父親の期待を背負って、その完成振りを試してみるために、もう一人の万能人間である高月相良と対決に赴くというストーリーです。

これに対し、「豹麿あばれ暦」の豹麿は、萬貴太と同じように万能児として育てられながら、何故か父親の期待を裏切って親の言うことなどまるで聞かない問題児として設定されています。白井喬二によれば、「『粗暴に似た神人』『剣の未知にいどむ善魔』として、これまで書いてこなかった新しいタイプの青年武士を描こうとした」ということです。しかし、この物語は白井の病気(インフルエンザと高血圧)のために、わずか4回しか書かれず、続きが書き継がれることはありませんでした。

この豹麿のキャラクター設定をどうやら引きずっていると思われるのが、「神曲 左甚五郎と影の剣士」の主人公の「影の剣士」こと森十太郎です。十太郎も学者であった父親に武芸と学問の双方を徹底して仕込まれ、若くして万能児として完成するのですが、ここからが面白く、十太郎は完成の後は逆にそれまで身につけて来たものを一つ一つ捨てていきます。その過程で妻を7人替えたと言っています。そして最後に残ったのが剣の腕で、「十全剣法」と名付けられた剣法は名だたる剣の名人と立ち会って危なげなく勝ちを納めます。

「豹麿」が途中までしか読めないのは大変残念ですが、白井喬二の中では「万能児、万能人間」というテーマは一生かけて温められていって深化していったテーマと言えると思います。

白井喬二の「天誅組」

白井喬二の「天誅組」、講談倶楽部に1933年1月-1934年6月の間18回に渡って連載されたものですが、そのうち1933年(昭和8年)の2月号、7月号の2回分だけを読了。全18回の内の2回ですから、ほとんど読んだとは言えないのですが、甲斐野木琢磨という覆面の腕の立つ武士が主人公で、この武士は幕末において反幕の言動を辞して世間を騒がせています。その甲斐野木琢磨は、幕府の高家である日野若狭守のわずか生後三ヶ月の幼児福一をさらってしまいます。浦賀奉行の小森田伊勢守は、この甲斐野木琢磨が房州に上陸したのを追っていますが、実は琢磨は伊勢守の弟でした。結局、伊勢守は琢磨を逃がし失職します。といった話で、実際の天誅組の変とどう関わってくるのか、2回分を読んだだけではまったくわかりません。今後、残りの部分が少しでも読めたら、と思います。

大日本雄弁会講談社「キング」昭和7年4月号「人気花形作家大座談会」

大日本雄弁会講談社の雑誌「キング」の昭和7年4月号に掲載された、「人気花形作家大座談会」を読了。白井喬二の小説が載っているというので買ったものですが、そちらは「天晴れ啞将軍」で既に読んだものでした。それで勿体ないので何か面白い記事はないかと思って見つけたものです。
出てくる作家は、「キング」にその当時書いていた人、過去書いていた人、これから書く予定の人ということで以下のメンバーです。
菊池寛、長田幹彦、前田曙山、本田美禅、久米正雄、白井喬二、江戸川乱歩、大佛次郎、中村武羅夫、加藤武雄、三上於菟吉、佐々木邦、子母沢寛、野村愛正、細木原青起
今でも非常に有名な作家以外に、当時は有名だったけど今はほとんど知られていない作家も多く含まれています。特に中村武羅夫と加藤武雄は、三上於菟吉と合わせて三羽烏と呼ばれたようですが、今は無名です。
座談会全体自体は大して面白くないのですが、いくつか白井がらみなどで抜き出し。
・菊池寛が「大衆小説ではどんな筋も考えられるけど、現代小説は非常に限定される」という意味のことを言ったのに対し、白井が「大衆小説も高級なものになると、やはり範囲が狭められてゆく」と反論しているのが興味深いです。
・国枝史郎はこの座談会には出席していませんが、司会のキングの記者が、「国枝史郎という方は、長篇を一つ書くのに荒筋を五十枚位書かなければ書けないそうです」と述べていて、実に意外。国枝は荒筋なんか作らないでどんどん興の赴くままに書いていっていたのかと(またそれで大体途中で破綻したのかと)思っていました。
・それに対して白井が、「長いものは十編なら十編に分けて、全体の荒筋と十編に分けたものの筋とを大体考える」と言っています。「富士に立つ影」が全十編ですので、それを念頭に置いての発言だと思います。こちらは頷ける話です。
・白井が「昼書くか、夜書くか」という話題を出し、昼でも戸を閉めて夜の気分を出して書くという人の例として「江戸川さんなんか、そうじゃないですか」と振っています。既にこの頃から江戸川乱歩の「土蔵で蝋燭を灯して書く」というイメージが人口に膾炙していたようです。
・前田曙山が、金色夜叉の貫一のモデルは巌谷小波だと言っています。当時の定説だったみたいです。

白井喬二の「陽出づる艸紙」

白井喬二の「陽出づる艸紙」、元は講談倶楽部 1936年1月から12月まで12回連載だったものですが、その1936年(昭和11年)の1月号、8月号と11月号の分だけを読みました。この作品はもう一つの「富士に立つ影」です!何かというと、高月相良と綴井萬貴太という東西のどちらも武芸・学問百芸に秀でた者が、その武芸・学問の様々な分野に渡って争うという、「富士に立つ影」の裾野篇の佐藤菊太郎と熊木伯典の争いの再現のようだからです。1月号(初回)では、下野国塩谷城の家老の綴井左太夫が、自分の最初の息子2人の教育を間違えたのを反省し、3番目の男子である萬貴太を「出来ないことのない万能児」に育てようとします。そのために左太夫は8万両を超えるお金を遣い、また付けた師匠は200人に及びました。その甲斐あって、17歳になった萬貴太は、誰にも負けない万能児として完成します。左太夫はこの萬貴太の完成をテストするために、もう一人猊下と呼ばれる万能の巨人である高月相良と対決させることを決意します。しかし、その旅立ちの時、ちょっとした間違いから殿様の勘気を被り、萬貴太共々蟄居閉門を仰せつかってしまいます。しかし左太夫は妹の幸江を萬貴太の身代わりに仕立て、萬貴太を旅立たせます。8月号ではまず二人が出会い、その瞬間から早くも論争が始まり、萬貴太が懐に忍ばせていた袋の中身を巡って、丁々発止としたやりとりが始まります。二人はお互いに5つの課題を出して、それを籤で一つずつ選んで勝負することになりました。11月号は、二人がお互いの家系についてディベートを行うもので、萬貴太は相良の先祖に平将門がいることを曝露して、自分が閉門蟄居の所を抜け出してきているという弱点をこれでおあいこにします。続けての勝負が流鏑馬探しといって、お互いが矢文を打ってそれぞれが相手の打った矢を探し、その矢に付けられた文を見て、そこに書かれた三つの問題を解いて実行する、という戦いです。3回分だけ読んでも非常に面白い小説であり、なんでこれが単行本になっていないのか、理解に苦しみます。

「陽出づる艸紙」(2)(「つるぎ無双」)へ

白井喬二の「黒衣宰相 天海僧正」(1)

白井喬二の「黒衣宰相 天海僧正」の連載の第5~8回の4回分だけを読了。これも仏教雑誌の「大法輪」で1965年10月から1972年8月の間7年もの長期に渡って連載された作品(全83回)。この4回では、天海僧正のまだ少年時代の話です。天海僧正(南光坊天海)の出自については諸説あり、明智光秀の生き残りという説まであるのですが、白井は須藤光暉「大僧正天海」(1916年)と同じく、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子の兵太郎として天海の少年時代を描いています。全83回もあるので、4回分を読んだだけで論評するのは無茶ですが、白井の創作意欲というものはまったく衰えていないように思えました。白井の悲劇というべきものがあれば、白井の作風というものはデビューした1920年から晩年まで一貫していてほとんど変わっていないと思うのですが、大正から昭和の初めを過ぎると、徐々に飽きられていって以前の作品のように大受けすることがなくなってしまった、ということではないかと思います。もっとも本人はそんなことは苦にしていなかったことが、「さらば富士に立つ影」の記述などから伺うことができます。この「天海僧正」も掲載誌が特殊なこともあって、一般的にはほとんど無視されています。ただ、白井の「さらば富士に立つ影」によると宗教評論家の千葉耕道が愛読し、「この小説がおわるまでは死ねない」という感想を大法輪の編集部に寄せてきたそうです。しかし残念ながら同氏は連載が終了する前に亡くなったそうです。