スーパー並読法

現在、読みかけの本です。実に全部で24冊。1年くらい前に、マックス・ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」の冒頭に言及されている多数の本を同時に読む、ということを始めて、その習慣が続いているもの。通勤中と、エアロバイクでの運動(45分~一時間/日)の間に読んでいます。1冊あたりの時間は、エアロバイク中のは短くて1分/日、長くて6~7分/日です。この方式のメリットは、例えばカントの「純粋理性批判」とかジンメルの「貨幣の哲学」とか旧約聖書が入っていますが、これらはそればっかり読み続けると疲れるのと飽きるので途中で挫折します。それが一日数分だったら我慢できて続く訳です。もちろんそれだけ一緒に読むと、理解という意味では落ちるでしょうが、それでも読まないより読んだ方がマシ、と思ってやっています。ついでにこれまで買っただけで読んでいなかったものも消化しようとして「アンナ・カレーニナ」とか「モーリス」(E.M.フォースター)、埴谷雄高の「死霊」などが含まれています。線形数学の本はさすがにこういう読書法ではきついですが、まあ何が書いてあるか分ればいい、ぐらいの気持ちで読み続けています。詰碁の本は今やっているので5冊目くらいです。

ヴェーバーの翻訳にChatGPT4は本当に役立ちます。

ヴェーバーのドイツ語の翻訳に、ChatGPT4は本当に役立ちます。というか木村相良の辞書のVerfassungの項の記述に「組織・体制」の意味が書いていないのがおかしいのですが。下記の回答見ても分るように、ChatGPT4はこの「ローマ土地制度史」の全体の内容をきちんと理解しています。現在日本にヴェーバーの研究者は掃いて捨てるほどいますが、「ローマ土地制度史」をこのレベルで読んでいる人は一人もいないと思います。(かつてはいたと思いますが。)

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User
以下のドイツ語はマックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史」の一部です。この文章でのFlurverfassungはどういう意味でしょうか?つまり耕地に対する法律の意味なのか、それとも耕地に関する記述でしょうか?
Mag die colonia, die »Bauernschaft« — nach Mommsens Ansicht — die verjüngte Projektion der gentilen Flurverfassung sein, so ist sie ausserdem doch auch eine Organisation zur Abwehr dritter in einem befestigten Ort, also einer Stadt.

ChatGPT
この文脈での「Flurverfassung」は、特定の耕地に関する制度や組織の枠組みを指す用語として使われています。ドイツ語で「Flur」は「耕地」「畑地」などの意味があり、「Verfassung」は「憲法」「制度」「組織の枠組み」などの意味を持ちます。したがって、「Flurverfassung」は直訳すると「耕地の制度」または「耕地の組織の枠組み」となり、耕地に対する法的または組織的な枠組み、つまり耕地に関する制度や管理の仕組みを意味しています。
この文章の中でマックス・ヴェーバーは、ローマの土地制度、特に「colonia」や「Bauernschaft(農民社会)」が、古代の「gentilen Flurverfassung(氏族的な耕地制度)」の影響を受けて形成されたものであると述べています。しかし、それに加えて、「colonia」は外部からの防衛を目的とした固定された場所、すなわち都市としての機能も持っていたと指摘しています。
従って、この文脈では「Flurverfassung」は、耕地に関する記述やその管理・運用に関する法的または組織的な枠組みを指していると解釈できます。この用語は、単に法律の意味ではなく、より広い意味で耕地に関する社会的・組織的な制度を含む概念として使用されているようです。

ジェイコブ・ソールの「帳簿の世界史」

ジェイコブ・ソールの「帳簿の世界史」を読了。筆者は会計学と歴史学の専門家で、この本は「複式簿記」と国の繁栄をセットにして書いた歴史書です。しかし歴史書としては質が低く所々間違ったことが書いてあります。というか主題は「複式簿記をきちんと採用した国は栄え、そうでない国は駄目になった」ということの繰り返しです。私見では複式簿記というかお金の管理はもちろん必要なことでしょうが、それが十分条件では無い訳で、いくら帳簿をきちんと付けていても、歳出が歳入より大幅に多ければその国はいつかは破綻します。というか大体戦争とインフレでチャラになるんですけど。それとこの本で良く分る別のことは、複式簿記は常に複複簿記というか二重複式簿記になりやすい、平たく言えば常に表帳簿と裏帳簿が使われてきたということで、複雑で元帳とか仕訳帳が多数あるので、ごまかしやすいというか、簿記の歴史は粉飾の歴史でもあります。今会社で内部統制の手伝いをやっていますが、こんなのがうるさく言われるようになったのも、最近の粉飾決算によるスキャンダルが原因です。これについては今後も無くなることが無いどころか、フィンテクとかのIT技術の進歩で財務情報がますますブラックボックス化し、もっと状況が悪くなるような気がします。ある生成AIが粉飾決算情報を作り出し、別の生成AIがそれを暴こうとする、といった世界がもうすぐ来そうだと思います。まあまとめて、暇つぶしにはなりますが、学術的な本ではないです。

白井喬二の「名乗り損ねた敵討」、「紙城」

もう一冊、ヤフオクで落札した白井喬二作品掲載誌。「ポケット講談社」(大日本雄弁会講談社と関係あるかどうか不明)の「文藝講談」創刊号です。(大正15年10月発行)この雑誌に白井喬二は「名乗り損ねた敵討」という戯曲(!)と「紙城」というエッセイを載せています。白井以外では、三上於菟吉、長谷川伸なども名前を連ねており、それなりに気合いの入った雑誌だったように見えます。ちなみに表紙がこれもカストリ雑誌みたいに見えますが、おそらくピエロとコロンビーヌかと。「名乗り損ねた敵討ち」は初めて出会った白井喬二の戯曲です。(未読ですが、他に戦前の「苦楽」に載った「古代マーチ」という戯曲もあるようです。)一幕三場ですが、この号には一場の途中で終わっています。古書店でも国会図書館でも、この雑誌の2号以下は発見出来ませんので、初の戯曲も全容を知ることが出来ず残念です。主人公はサイコロ作り師で、とある親分が雇いたがっているということで、おそらくグラ賽(特定の目が出やすいイカサマ用のサイコロ)作りであることが匂わされていますが、詳細は不明です。実際に上演されかも不明ですが、おそらく無いと思います。
「紙城」というエッセイは、白井が何かの文献でこの表現を見つけ、本当に紙で作った城があったのかと思ったけど、実際は「金城湯池」の反対で比喩的に攻め破られやすい脆弱な城のことを言うことが分ってがっかりする、というまあ城師同士の戦いを描いた白井らしいエッセイです。

白井喬二の「強い影武者」

久しぶりに白井喬二の未読作品を入手。しかし掲載誌は昭和26年7月発売の、「青春サロン」という誰が見てもカストリ雑誌です。題名は「強い影武者」。残念ながら失敗作以外の何物でも無く、トップページに書いてある要約がそのままで、それ以上の内容はまったくありません。紀田順一郎さんによるとカストリ雑誌の多くは昭和25年頃姿を消した、とあります。しかし古書店では、昭和26年発行のカストリ雑誌が多数売られています。これはおそらく、ブームは過ぎたのにまだ売れると思って出したカストリ雑誌がまったく売れずに出版社の倉庫などに残って、それがそのまま古書店に流れたのではないかと思います。なお、白井喬二以外にも一流の作家がカストリ雑誌に書いていたケースは多数あります。しかし天国の白井喬二も「こんな作品まで発掘しなくていいよ」と言いそうな気がします。

塩野七生の「ギリシアの物語 [4] 新しき力」

塩野七生の「ギリシアの物語 [4] 新しき力」を読了。これが塩野七生の最後の作品(と本人が言っている)ですが、その最後の最後が大王と称されたマケドニアのアレクサンドロス。20歳で王になり、32歳でおそらくマラリアで倒れて亡くなるまで、「太く短く」をこれだけ体現した人はいません。また徹底した率先垂範の人で、後のカエサル、ハンニバル、ナポレオンに至るまで誰にも真似の出来ないスタイルでした。「最後に若い英雄を」という気持ちがあったようです。
巻末の「十七歳の夏――読者に」を読んで「あっ」と思ったのが、塩野七生の最初の編集者が塙嘉彦だったこと。私は小林信彦のファンでもあってほとんどの本を持っていますが、その中で文学作品としてもっともレベルが高いと思っている短篇集「袋小路の休日」が文芸誌「海」で塙嘉彦のアドバイスの下書かれたものです。人の縁というかつながりというのは不思議なものです。
塩野七生さんは最後に読者に対し「ほんとうにありがとう。」という言葉を残していますが、こちらこそ「ほんとうにありがとう。」と言いたいです。塩野七生の作品を読むことでそれだけ私の人生は豊かになったと思います。それにアレクサンドロスがやろうとした多民族共生の夢をローマ人が引き継いで完成させる、というのがこの本に出て来て、今やっているヴェーバーの「ローマ土地制度史」の翻訳にも役立ちます。丁度「ローマ市民 対 異人」という対立が「単一のローマ帝国民」に解消する、というのが出て来たばかりでしたから。

塩野七生の「ギリシア人の物語 [3] 都市国家ギリシアの終焉」

塩野七生の「ギリシア人の物語 [3] 都市国家ギリシアの終焉」を読了。この巻は正直な所、読むのが辛い、悲しい展開でした。アテネは長期に渡ったペロポネソス戦争を結局ペルシアの資金を使ったスパルタによって敗れ、常時200隻のガレー船を誇った最強の海軍はわずか20隻のみを許され、エーゲ海一帯への制海力に支えられた経済的な優位も、そして都市中心部と外港を結ぶ外壁もほぼ破壊され、完全に凋落します。しかし、勝ったスパルタの方もアテネに代わってギリシア全土に覇を唱え都市国家群を支配するということが出来ず、その内台頭してきたテーベに伝統の重装歩兵の軍が打ち破られてしまいます。しかしそのテーベも弱小ポリスであり優れた指導者二人が死ぬとあっという間に衰え、そこに台頭してきたマケドニアのフィリッポスに敗れ、かつては後進地域として馬鹿にされてきたマケドニアが今やギリシアの盟主となります。という流れですが、いわゆる有名なソクラテスへの死刑判決がこの時期だったのは理解していませんでした。要するにアテネの凋落への不満に対するスケープゴートが必要だったのだろうな、と思いました。かつてドイツの第2次世界大戦の敗北がヒトラーによって引き起こされたのは、マックス・ヴェーバーがワイマール共和国の成立時に人民による選挙の大統領制を主張したからだ、というきわめておかしな批判がモムゼンという人によって行われましたが、スケープゴート探しという意味で同じだな、と思いました。(念のため、ヴェーバーは1920年に死んでいますので、ナチスの台頭とは何の関係もありません。)
次の巻はいよいよアレキサンダー大王の登場です。塩野七生の最後の著作になります。

塩野七生の「ギリシア人の物語 [2] 民主政の成熟と崩壊」

塩野七生の「ギリシア人の物語 [2] 民主政の成熟と崩壊」を読了。この巻では前半が傑出した政治家であるペリクレスの下でのアテネの絶頂期、後半はそれが一転していわゆる衆愚政治に陥り、あれほど絶頂を誇ってエーゲ海一帯をデロス同盟という形で支配したアテネがついにはスパルタに敗れほぼ全てを失うまでが描かれます。著者が言っているように民主政と衆愚政治は同じコインの裏表であり、その制度自体がその国の成功と繁栄を約束するのではなく、結局は優れた指導者とそれを冷静に支持する国民がいるかどうか、だということがこの巻の歴史によって良く分ります。後半の時代でも優れた人物がいなかった訳ではなく、例えばアルキピデスはソクラテスに学んだ弁論の術と美貌、そして軍事的才能を誇りましたが、結局その足を引っ張る者が多数いて、極めつけはシラクサとの戦いの真っ最中に総司令官であったアルキピデスが涜神行為の容疑でアテネに召喚され戦場を離れます。(アルキピデスはアテネに戻る途中で逃亡し、何とスパルタに亡命します。)ローマが共和制から三頭政治を経て結局帝政になり、パクス・ロマーナという平和な時代を築きましたが、エイレーネー・アテーノーン(アテネの平和)はわずか75年(ペルシア戦争に勝ってから)しか続くことが出来ませんでした。(しかも最後の方は途中のニキアスの和平を含めて27年も続いたペロポネソス戦争でまったく「平和」とは言えませんでしたが。でもパクス・アメリカーナだって実際は戦争ばかりしていますから。)しかしそうは言っても、そのわずかな間に頂点を極めたギリシア悲劇や哲学がその後の欧州に対し大きな影響を与えていくことになったのですが。

塩野七生の「ギリシア人の物語 [1] 民主政のはじまり」

塩野七生の「ギリシア人の物語[1]民主政のはじまり」を読了。考えてみると塩野七生とも長い付き合いで、学生時代に「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」や「神の代理人」「海の都の物語」あたりから始って「コンスタンティノープルの陥落」とか「ロードス島騎士団」、そして「ローマ人の物語」と、私の世界史の知識の半分くらいはマックス・ヴェーバーと塩野七生で出来ていると言ってもいいかも。イヴァン・ジャブロンカの「歴史は現代文学である」じゃないですけど、無味乾燥な教科書的な歴史書を読むより、塩野七生の小説を読んだ方がはるかに身につくと思います。その理由は塩野七生がいくつになっても、歴史を作った英雄達にある意味惚れ込んで、その女性の眼で魅力を描いているからではないかと思います。この巻ではそれはテミストクレスですね。陸上で10倍、海上で3倍近いペルシア軍を、普段はバラバラなギリシアの都市国家連合が、結束して3度の戦いで見事に打ち破るのですが、その2回目のサラミスの海戦での中心人物がテミストクレスです。その目的のために手段を選ばずあらゆることをするやり方が、男の目から見ても魅力的です。晩年政敵に陥れられ陶片追放になり、さらには殺害されそうになった時、何とかつての敵のペルシアに渡ってそこで重用されたというのもすごいです。

ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」

ロバート・A・ハインラインの「宇宙の戦士」を読了。引っ越しで手持ちの書籍の全てにすぐアクセス出来るようになったので、買っただけで未読だった本を読んでいこうとしているものの一つです。この文庫本は2017年に買いました。
日本ではこの作品のパワードスーツがガンダムのモビルスーツを産んだということで有名ですが、実際に表紙に描かれているパワードスーツ(これは最初の日本語訳である矢野徹訳の表紙にあったもの)はガンキャノンにそっくりです。しかし私見ではガンダムのモビルスーツは大き過ぎると思います。せいぜい普通の乗用車ぐらいの大きさにし、文字通り「スーツ」にふさわしいものにして欲しかったです。モビルスーツはそれまでの人が乗り込むロボット(マジンガーZ以来の)とどこが違うの、と感じます。
それでお話は、軟弱で取り立てて際立った能力がない主人公がひょんなことから軍隊を志願し、もっとも過酷な機動歩兵部隊に配属され、敵である昆虫型(蟻のイメージ)エイリアンと戦いながら成長していく、という昔ながらのビルドゥングスロマンであって、あまりSF的な感じはしませんでした。機動歩兵のベースは、古代ギリシアやローマの「重装歩兵」ではないかと思います。(丁度今塩野七生の「ギリシア人の物語」を読み始めた所です。)兵役を経験した者だけが投票権がある社会というのも、これまた古代ギリシアのアテネやスパルタを思わせます。
という訳でまあ面白かったですが、取り立てて「SFの傑作」だとは私は思いません。