NHK杯戦囲碁 苑田勇一9段 対 富士田明彦7段

本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が「西の宇宙流」で有名な苑田勇一9段、白番が富士田明彦7段の対戦です。富士田7段は昨年度全棋士の中で勝率1位という華々しい活躍をしましたが、なんと今回が初出場です。この碁のポイントは右上隅で星の黒が白に両ガカリされ、一方にツケノビた後、白が隅に延び込んで来たのに押さえず、もう一方の白に付けていき、白がまた隅に延び込んでというまったく見たことがない展開になったということです。その後の折衝で黒は上辺の白に切り込みを入れ、2子にして捨て、その利きで右辺を上手く処理しようとしました。しかし白はそれに反発し、当たりに受けずに逆に黒1子を当て返しました。この結果、お互いの抜き抜きの振りかわりになりました。白は黒の想定図は外しましたが、黒が厚く黒の悪くない結果でした。その後黒は右辺の白を劫で切断する手を見ながら攻めることにより、気がつけば中央に30目以上の黒模様が出来、「西の宇宙流」の面目躍如の展開になりました。ここまでは黒が優勢でしたが、ヨセで緩みが出て、白に追い上げられました。特に左下隅で這いを打って活きを確保する手を打たなかったのは問題で、逆に白から押さえを打たれた結果、単独では活きがなく、中央に連絡する必要があり、白から色々利かされ、白の下辺の地が大きくまとまる結果となりました。それでもまだ形勢は細かかったですが、白は右下隅の効を頑張り抜いて黒に謝らせたのが大きく、おそらくここで逆転したのではないかと思います。終わってみれば、白の2目半勝ちでした。富士田7段は今期のダークホースになりそうな気がします。

IELTS(General)を準備中

IELTSの”General”を5月11日に受験するので、その対策のお勉強中です。IELTSには留学を目的とする人向けの”Academic”と、私が受験する就労目的の”General”があります。既にIELTSの参考書を2冊買ってあったのですが、参ったのはどちらも”Academic”用だったということです。この2つでは、リスニングとスピーキングは共通ですが、リーディングとライティングが内容が違います。それで、”General”に対応した参考書をAmazonで探しましたが、残念ながら日本語解説付きのものは見当たりませんでした。唯一の例外が写真の公式問題集(すべて英語)で、これはちゃんとAcademic用とGeneral用が別々に売られています。価格は5,000円前後で、そんなに厚い本じゃないのにかなり高いですが、他に選択肢がありません。
取り敢えず試験の形式に慣れるために模試をやっていて、ライティングとリーディングをやりました。ライティングは制限時間60分で、150ワード以上と250ワードの2つのエッセイを書かされます。AEONのライティングコースでこれまで300~400ワードのエッセイを61回書きましたので、さすがにこれは大きな問題はなく、時間内に175ワードと284ワードのエッセイを完成出来ました。採点はしようがないようでやりません。リーディングも60分で3つの文章を読まされます。かなり実用系の文書です。TOEICのように文法の質問とかは一切なく、ひたすら内容についての質問で、それぞれの段落のタイトルとしてはどれがふさわしいかを選択肢から選んだり、文章の内容を要約して文の穴埋めとかそんなので、かなりの部分英語の問題というより国語の問題で、それはまあ得意なので大きな問題はないかなと思います。単語はさすがにTOEICより難しくていくつか知らない単語がありましたが、それで解答に困るという程ではありません。

グスタフ・クリムト展(東京都美術館)

上野の東京都美術館で行われているクリムト展を観て来ました。良かったですが、クリムトの有名な作品がすべて網羅されている訳ではないようです。私にとってはグスタフ・クリムトとマックス・ヴェーバーは頭の中で不可分に結びついているんですが、今回クリムトがヴェーバーより2年先の1862年に生まれ、そして2年先の1918年に死んだことを知りました。つまり2人はほぼ同世代で生きた長さもほとんど同じです。この2人が私の記憶の中で結びつく理由はクリムトらの分離派が出した雑誌の名前の”Ver Sacrum”(聖なる春)によります。この「聖なる春」とは古代のイタリアのローマを含む諸族にあった習慣で、ある年の秋に大凶作に見舞われた場合とか戦争に負けて疲弊して存続の危機にあった場合、翌年の春にその年の3月と4月に生まれたばかりの新生児を神への捧げ物として選別し、その子達が一定の年齢になると共同体から追い出して未開の地に追いやり、そこで新天地開拓に従事させたという故事です。この風習は結果的にそれを行った種族の版図を拡大していくことに貢献します。クリムト達がこの故事を自分たちの雑誌の名前に用いた理由は、保守的な当時の画壇から分離して、新天地に追いやられた子達のように逆境に負けず新しい世界を切り開いていくのだという心意気によると思います。また分離派の最初の展示会が4月から5月と文字通り春に開催されたことも関係していると思います。
ヴェーバーは「経済と社会」の種族の社会学の所でこの「聖なる春」に言及します。(種族的共同社会関係 中村貞二訳
疑う余地のないことなのだが、なにかの理由から無事平穏に母なる共同社会を分離ないし移住して、よその土地に共同社会を起こしたという思い出’(「海外移民(コロニー)」、「聖なる春(ヴェール・サクルム)」、その他類似のこと)が生き続けているところには、一つのきわめて特殊な「種族的」共同感情(エトニッシュ・ゲマインシャフトゲフュール)がしばしば非常に強力に存在している。)大学での折原ゼミの「経済と社会」の訳読演習で、偶然私がこの部分の訳読の担当でした。その時、折原先生が珍しくこの語を誤訳していたのを、私がクリムトの雑誌名から正しい意味を突き止めることが出来た、という思い出です。当時折原先生には語学力を含めてその他学問全般でまったく敵いませんでしたが、そんな中で初めて小手一本くらいのポイントを上げることが出来たかな、ということで今でも良く覚えています。
絵については、クリムトも19世紀後半のジャポニズムの影響を強く受けていて、それを絵の中に採り入れようとしていたのは意外でした。後は分離派として旗揚げする前はかなり伝統的な画家という感じがしますが、分離派以後は不思議な境地を開いたのではないかと思います。後は本物の金とか宝石を使った壁画みたいなのがありましたが、宝石はともかく金を使うのは明らかに日本の技法を採り入れたんでしょうね。

ハンナ・バーベラアニメの日本における受容について

昨日の「トムとジェリー展」で思ったこと。1960年代にハンナ・バーベラのアニメがほとんど毎年のように日本で放送されました。その時日本側のスタッフが単に吹き替えで日本語化して、ということだけではなくて、かなり工夫をしているということです。単純にタイトルだけだって、「チキチキマシン猛レース」は元はWacky racesで「いかれたレース」という意味です。また「スーパースリー」も原題のThe impossiblesよりいいと思います。(原題は、Mission impossible スパイ大作戦 のもじりでしょう。)
また、主題歌も全部日本側で独自に作っています。逆の例で、日本の「マッハGoGoGo」がアメリカに輸出されていてかなりの人気だったのですが、主題歌はアメリカ風にアレンジされてはいますが、元のままです。
さらには「大魔王シャザーン」のシャザーンのセリフの「ハイハイサー」とか「パパラパー」とかはすべて日本側が付け加えた物のようです。さらにはこの「シャザーン」の第1回分については日本語吹き替えを2種類作り、どちらが良いか検討することまでやっていたみたいです。ジャパニメーションに対するハンナ・バーベラアニメの影響は誰も否定出来ないと思いますが、その過程ではこんな日本側スタッフの努力があったのであり、頭が下がります。1960年代は小林信彦が言うように、日本のテレビの黄金時代でした。

「トムとジェリー展」(銀座松屋)

銀座の松屋デパートの8Fで開催されていた「トムとジェリー展」行って来ました。
ともかくハンナとバーベラの2人がどの写真を見ても楽しそうに仕事をしているのが印象的でした。自分で楽しめないものが他人を楽しませることは出来ないですよね。後2人とも、ハンナが工学系、バーベラが金融系でアートとはまったく関係ない経歴なのも驚きました。また、1940年当時最初に2人がトムとジェリーの企画を出した時、MGMのトップが「今時ネコとネズミの追いかけっこ?」と難色を示したというのが面白く、しかし試しに一作作って公開したら、非常に好評を博し、観客から「あれの続篇はないのか」という問い合わせが殺到したそうです。
それから勉強になったのは、60年代のテレビアニメは低予算と本数をこなさなければならないという事情から、トムとジェリーの動き主体から、動きを抑えてセリフを中心にした「リミテッドアニメーション」というスタイルに切り替えたということです。それでも例えば「チキチキマシン大レース」(Wacky race)とか結構動きがあったと思いますが、あれでもセーブしていたんですね。
現在日本のアニメーションはジャパニメーションとして高く評価されていますが、その作り手はほとんど子供の頃ハンナ・バーベラのアニメを観て育ったのであり、それなしには現在の日本のアニメは存在していないと思います。
実は現在、「大魔王シャザーン」のDVDを取り寄せ中。パパラパ~(笑)。

手持ちの包丁の棚卸し

2019年5月2日時点の包丁の棚卸し。全部で19本で数と種類だけは一人前。後は腕が伴えば。毎週鎌形の薄刃包丁で大根の桂剥きを練習しています。また豊洲市場の通販で買って裁いた魚も天然鯛とか天然ヒラメを入れて40匹を超えました。またステンレスではない合わせ以上の鋼を使った包丁が全体の半分以上になり、最近はステンレス包丁は使っていません。

柳刃 本鋼 1本、合わせ 1本、ステンレス 1本
相出刃 本霞み 1本
出刃 本鋼 1本、合わせ 1本、ステンレス 1本
小出刃 ステンレス 1本
薄刃(関西型、鎌形) 本鋼 1本
薄刃(関東型) ステンレス 1本
菜切り 合わせ 2本
和風三徳 合わせ 1本
皮むき 合わせ 1本
牛刀 ステンレス 1本
三徳包丁(中) ステンレス 2本
三徳包丁(小) ステンレス 1本
ペティナイフ ステンレス 1本

(本鋼 3本、本霞み 1本、合わせ 6本、ステンレス 9本)

日本ラジオ博物館補遺

日本ラジオ博物館補遺。
最初の写真はトヨタ自動車が刈谷工場(現在のデンソーの刈谷工場)で作っていたラジオです。戦後すぐは車は軍需品ということでGHQに製造を禁止されていたので、やむを得ずということで、トヨタ自動車でもラジオを作ったということです。当時の電気系のエンジニアであればラジオを自作する人は多くいて、作るのはそんなに難しくなかったみたいです。そういうラジオはコストは高いけど概して品質は良かったとのことです。出光興産の創業者について書いた「海賊と呼ばれた男」でも、出光が戦後すぐ売りたくとも石油がなくて、やむを得ずラジオの修理を始めたというのがありました。
もう一つは、三菱のラジオ。三菱がラジオをやっていたなんて、まったく記憶にありませんが、このカタログを見る限り、かなり幅広く製品を出していたんですね。

日本ラジオ博物館(松本市)

今回の旅行は宿は白骨温泉から5Kmぐらい下った別の温泉宿に泊まりましたが、白骨温泉を観た後、松本市に出かけました。何故かこの松本とは縁があり、今回が4回目の訪問になります。一番最初は1991年ぐらいだったかと思いますが、その当時Nifty Serveというパソコン通信のサービスの中に、日本語変換のWXシリーズを開発していたエー・アイ・ソフトのフォーラムがあり、私はそこの初期の常連でした。その当時オフ会(これも説明しておかないと死語かもしれませんが、パソコン通信の常連がいつもはオンラインで会話を交わしているのを、直接集まって飲み会などを開くのをオフ会と言っていました。オンラインの「オン」の反対で「オフ」ということです。)がエー・アイ・ソフトのオフィスがある松本市で開かれ、参加したのが最初です。その常連の中にはSF作家の高千穂遙さんなどもおられ、温泉に行って一緒の湯船に浸かったという思い出があります。
さて、そういう訳で松本城などは前に観ているので、今回時計博物館というのに行ってみました。そうしたらそこの地図に近くに「日本ラジオ博物館」というのがあるのが分かりました。「ラジオ博物館」と聞いて、元ラジオ少年が胸がときめかない筈はありません。13時から開館という不思議な開館時間でしたが、行ってみて大正解でした。たまたま最初は私一人が見物人だったため、館長の岡部匡伸さんの懇切丁寧な解説をたっぷりと聞かせていただくことが出来、大変参考になりました。(以下写真はすべてクリックで拡大します。写真撮影については許可をいただいています。)
最初の写真は、1925年頃の、玉電社という会社の5級ニュートロダイン受信機です。(ラジオ放送が日本で始まったのは1924年です。)
ニュートロダインというのはオーディオマニアにおなじみの言葉でいえばネガティブフィードバックで、信号の一部を逆の位相にして元の信号に戻してやることでノイズを減らすものです。この方式を発明したのは日本人です。(実際はアメリカ人と日本人の間で特許紛争があり、最終的に日本人が最初に発明したと認められたということのようです。)
大きなダイヤルが3つあるのはすべてバリコン(バリアブル・コンデンサー、選局に使用)で、私は知らなかったのですが、昔の回路だと増幅が3段あると、その各段にバリコンが必要だったみたいです。
なお、この松本の地にラジオ博物館がある理由ですが、
(1)東京などの大都市にしか放送局が無かった時代に、高感度のラジオで長野で放送を聴く人がいた。(主として生糸の相場情報などをラジオで得ようとした富裕な商人。)
(2)長野市にもその後放送局が出来たが、松本と長野の間は50Kmあるため、依然として高感度のラジオが必要だった。
(3)全体に長野県は山がちで電波状況が悪かった。
ということみたいです。
これは日本無線の単球式ラジオです。日本無線は現在無線機のメーカーですが、昔はラジオも作っていました。単球で検波だけを真空管でやるもので、強電波地域用で写真のようなレシーバーで聞くものでした。初期のメーカーとしてはこの日本無線と早川電気(シャープ)です。シャープはいわゆるシャープペンでスタートしますが、関東大震災でその工場が崩壊し、ラジオ製造に転じます。その後松下も参入します。日本のラジオは最初期段階では、日本放送協会の認定を受けた受信機だけが使えましたが、これが高価な上に技術の進歩に追いつけなくて性能が悪く、NECや沖電気といったメーカーはこの認定タイプのラジオを作っていましたが、その後認定が不要になって価格競争が激化するとついていけなくなり撤退します。このため日本ではアメリカのRCAや欧州のフィリップのような大手のラジオメーカーが育ちませんでした。
初期の真空管ラジオは直流で動き、また電圧を分けるための抵抗に良いものがなかったため、真空管を動かすのに必要な3種類の電源(A電源というフィラメント加熱用と、B電源というプレート用、およびBを反転させたC電源)をそれぞれ個別に供給するというきわめて原始的なことが行われていました。その電源は鉛蓄電池が使われましたが、やがて乾電池が使われるようになり、それを発明したのは日本人だということです。しかし、その乾電池もかなり高価であり、いずれにせよ庶民にとっては高嶺の花でした。
これは松下(パナソニック)が作った最初のラジオです。日本放送協会の東京放送局が実施したコンテストにある別の機種と同じく一位になります。しかし性能を上げるためにコストがかさみ、値段が高すぎてあまり売れなかったそうです。パナソニックの社史には必ず登場するそうです。

これは戦後になって作られた、スーパーヘテロダイン方式の高級機で、何と5局がプリセットになっています。しかし実際には2種類あって、低価格の方はプリセットは表示だけで実際はロータリスイッチで切り換え、高価格の方が直接プリセットの表示部を押して切り替えるようになっていたようです。
スーパーヘテロダイン方式とは、ラジオ少年には常識でしたが、ラジオの電波が高周波のままだと増幅するのが難しいので、一度中間周波数という低い周波数に下げてから増幅する仕組みです。この方式はトランジスタラジオになってもそのまま使われていました。

そして1955年、東京通信工業(現ソニー)が最初のトランジスタラジオであるTR-55を発売します。価格は実に19,800円で当時の初任給の倍以上ですから、今で言えば50万円くらいの感じです。それだけ高い割りには5石で感度も音質も不十分であまり売れなかったようです。しかしその後トランジスタラジオの低価格化と高性能化は進み、その内日本の輸出におけるドル箱商品となり、アメリカとの間で貿易摩擦を引き起こします。その当時ラジオ用のトランジスタは国内ではほぼソニーが独占(元の技術はウェスタン・エレクトリックからの技術供与)していたみたいで、他の会社もトランジスタはソニーから買っていたみたいです。
これは、初期の真空管ラジオの中を見せるスケルトンモデルです。
この配線の仕方、今から考えると信じられないような方式です。ワイヤラッピングですらなく、銅線でもない、金属片によるダイレクトな配線。ベースになっているボードについてベークライト板みたいな絶縁板なのかと思ったら、木材で、元々アメリカでパンをこねるのに使っていた板をそのまま使ったそうです。今、電子回路の実験を行うため、部品取付け穴がいっぱい開いていて、短いリード線で配線する「ブレッドボード」というものがありますが、これは元々Bread boardであり、このパンこね板から名前が来ているんだそうです。

このページをお借りして、岡部館長に感謝申し上げます。

白骨温泉(大菩薩峠記念碑)

連休で信州の白骨温泉に行きました。ここはいわゆる山奥の秘湯で、昔は訪れるだけで大変だったと思われ、実際に遭難した人の慰霊碑もありました。ここを有名にしたのは言うまでもなく中里介山の「大菩薩峠」であり、机龍之介とお雪ちゃんが一冬をここで過ごします。写真がその記念碑で、題字は白井喬二によるものであり、それを確認出来ただけでもここまで来た甲斐がありました。一軒の宿で温泉にも入らせてもらいましたが、名前の通りの白濁した湯で(一時期入浴剤を使っていたということで騒がれましたが、今はもうしていないと思います)少し硫黄臭がしました。
白骨温泉全体はこんな↓感じです。(なお、県道白骨温泉線というのが完成したため、年中マイカーでアクセス可能です。駐車場は2箇所にあり、おそらく20台くらいは駐められます。無料でしたし、清潔な公共トイレもありました。)

原子力潜水艦シービュー号の”Sealed Order”

原子力潜水艦シービュー号の”Sealed Order”を観ました。また出ました!William Welchの脚本です。そして彼の脚本の中でも、これまでのシービュー号の全ストーリーの中でも、これ以上ないくらい最低のストーリーです。おそらく脚本家のWelch自身が何かLSDか何かをやりながらラリって書いたとしか思えない脚本です。ネルソン提督は大統領からの秘密の指令を受け取りますが、それはシービュー号が運ぶよう頼まれた弾頭が実は中性子爆弾であって、それを無事にサイロBという海中の核兵器格納庫まで運搬するようという命令です。一方シャーキーとコワルスキーは運んでいた弾頭から放射能が漏れていることを発見し、それを直そうといじって中性子爆弾を作動させてしまいます。ネルソン提督はそれを何とか止めようとしますが、ここからが無茶苦茶で、突然ネルソン提督、クレーン艦長、モートン副長、シャーキーの4人を残してシービュー号のクルーが全員消えてしまいます。シャーキーも消えたクルーを探している途中で消えてしまいます。次にモートン副長は以前出てきた大クラゲを目撃した後、姿を消します。そしてついにクレーン艦長も消え、ネルソン提督だけになります。しかしネルソン提督も変な幻覚を見て気絶してしまいます。その次のシーンではコワルスキーがネルソン提督を起こそうとしています。そしてシャーキーも見つかります。で3人になった所から、変なストップモーションで赤色が消えた緑の画面になりますが、そこにクレーン艦長がやってきて3人に襲いかかります。そして4人が乱闘になり、クレーン艦長はノックアウトされますが、それでようやく正気に戻ります。モートンも戻って来て、コントロール室でのアラートを報告します。中性子爆弾が爆発寸前になりますが、シービュー号の核ミサイル発射装置は大統領の許可がないと作動させられません。(といいつつ、勝手にネルソン提督が核ミサイルを発射している回が何回もありますが、それはさておき。)と思っていたら、フェイルセーフシステムの表示がいつの間にか”War”に変わっており、ネルソン提督はなんとか中性子爆弾を発射して空中で爆発させます。で一件落着はいいんですが、何故クルーが消えたのか、で結局全員無事に戻ったのか、何の説明もなく終わってしまいます。もうストーリーとはまったく言えないデタラメです。