台所のまな板は木製が2つあったのですが(2つあるのは昔釣りをやっていた時、魚をさばく{血で汚れる}とそれ以外を分けていたからです)、最近あまり使っていないのでどちらも黒カビが生えて洗っても綺麗になりません。最近部屋の中の片付けを延々と進めていて、その一環でまな板も新しくすることにしました。それで買ったのがちょっと贅沢して檜の一枚板のまな板です。これがなかなか良くて、檜のちょっと刺激のある香りが台所全体に充満します。水に濡らした時の感じもなかなか良いです。で、何を切っているかというと今は写真のようにリンゴを剥いているだけなんですが。(笑)
この目的のための包丁を研ぐためにも、砥石が3種(荒砥、中砥、仕上げ砥)+砥石を研ぐ砥石+ダイヤモンド粉(同じく砥石自体を研いでへこんだのを修正するために使用)まで持っています。完全に手段が目的化するという、典型的な男の料理です。
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マーティンD-35復活
NHK杯戦囲碁 佐田篤史3段 対 金秀俊8段
本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が佐田篤史3段、白番が金秀俊8段の対戦です。佐田3段は22歳の新鋭でNHK杯戦は初出場です。布石は比較的オーソドックスでしたが、白が上辺から右上隅にかかり、上辺に開いたのに、いきなり黒が打ち込んでいったのが珍しい展開でした。黒は打ち込んだ石を2線に下がればどちらかに渡れましたが、そうせずに捨てて打ち回りを厚くしました。その後左下隅にかかった黒石を挟まれていたのをケイマに進出しその後左辺の白にかけて打ち、黒は中央を厚くしました。白は上辺で包囲している黒の穴を出るぞ、という手を打ったのですが、黒はここを継がず右上隅から利かして中央の黒は軽く見て打ちました。その後右下隅で黒は三々に入り、定石の転回で隅は白が取り、黒は白1子を抜くという別れになりました。その後の黒の手が面白く、中央を囲うような囲わないようなふわっとした手で「耳赤の一手」みたいな手でした。その後あまり戦いらしい戦いはなく、左辺で黒から仕掛ければ大きな劫になる可能性があったのですが、黒は劫を決行せず、白に守らせる手を打ちました。どちらかと言うと白が厚いかなぐらいのペースでヨセに入ったのですが、ここで白の金8段が下辺の受けで頑張った手を打ちました。金8段は形勢に自信が無かったのかもしれません。それに対し黒は強手で逆襲し、結局白が中央の黒4子を取り、黒が白数子を取るというワカレになったのですが、白の下辺の地が大きく減ってしまっており、このワカレは明らかに黒有利でした。これで完全に黒の優勢となり、結局この後数手打って白が投了しました。佐田3段はNHK杯戦初勝利です。
回線切り替え工事完了しました。
明日一時的にアクセス出来なくなります。
明日4月22日の午後のどこか1時間くらい、NTT東日本の光ファイバー回線を現状の100Mbpsマックスから1Gbpsマックスのものに切り替えます。(速度10倍になります。)この切り換え工事のため、このブログが1時間くらいアクセス出来なくなりますが、ご了解願います。
折原浩先生の「日独ヴェーバー論争 「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて」
折原浩先生の「日独ヴェーバー論争 「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて」を読了。「経済と社会」の再構成問題についての最後の読書です。これで一応現在の状況に追いついたことになります。この本は、結局「経済と社会」の旧稿部分を、「頭」である「理解社会学のカテゴリー」を載せず、またテーマ別に5つの部分にばらばらに並べ直すという形で「全集」に収録した編集陣への痛烈な批判の書です。その編集陣とは、ヴォルフガング・J・モムゼンと、ヴォルフガング・シュルフターの2人です。(編集陣は他にもいますが、この問題について態度表明をしているのはこの2人だけです。)この内、モムゼンは、「理解社会学のカテゴリー」が旧稿の「頭」であることを否定し、また、シュルフターは旧稿が2つの時期に分かれて書かれていて、最初の時には確かに「頭」だったが、後半の時期では「頭」の意義が薄れた、としています。折原先生は、この2人の議論に対し、徹底的にヴェーバー自身のテキストに内在し、その論理を追いかけ2人の説に根拠がないことを論証します。実は編集陣の中でも意見が統一されていなくて、それは全集の旧稿の巻のタイトルにも現れていて「経済と社会」と「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」が並記されています。これは前者がモムゼンの説、後者がシュルフターの説です。これを見ても分かるように、編者の中ですら意見統一が行われておらず、全集の編集が見切り発車だったことがよく分かります。
ともかく読んでいて思うのが、折原先生が徹底してヴェーバーの本来の意図をテキストに内在して探り出し、何とか未完の大著を復元しようとしているのに、ドイツ側が「どうせ未完成なのだから、復元などの努力は無駄である」という投げやりな態度が透けて見えることです。「マックス・ウェーバーの日本」という本を書いたシュヴェントカーという人がいますが、この人の言うには、日本のヴェーバー研究者にはヴェーバーの視点や方法論を使って現在の日本を分析しよう、という意欲が強く見られるのに対し、ドイツの側の学者にはそういう点がほとんど見られない、としています。この日独論争にはまさにそういう対立を見ることができます。
これで一応「再構成問題」に関する読書を終了したので、次にこの本に示されている折原先生の再構成案(仮説)に従った順番で、「経済と社会」(旧稿)を日本語訳でもう一度読んで見るつもりです。
外国語遍歴の跡ー本棚
NASの設置
学術の世界でのFOSS(フリー/オープンソースソフトウェア)的な動き
今私がやろうとしている、フリーソフトウェア/オープンソース的なヴェーバーの日本語訳プロジェクトですが、調べてみたら世界ではもう10年以上も前から行われていることがわかりました。https://mag.osdn.jp/07/08/07/0012247
もっとも、ITの話に一般的に弱い日本の社会科学系の学者さん達がどこまでそういう世界の動きを把握しているかは不明ですが。
ヴェーバーの「中世合名会社史」オープン翻訳プロジェクト
例のmax-weber.jpのサイトでやろうと考えていることは3つあります。
(1)折原浩先生の「経済と社会」旧稿の再構成案(仮説)の順番に並べた旧稿のドイツ語テキスト(もちろん「理解社会学のカテゴリー」を頭に据えて)をこのサイトで提供する。その際に折原先生が綿密に時間をかけて調査された「前後参照指示」の飛び先にリンクを貼り誰でもその適否が簡単に確認出来るようにする。(日本語訳もこのサイトで同じように提供できればもっといいですが、それはこれからの課題です。)(言うまでもなく、ヴェーバーの著作権は死後70年である1990年で消滅しており{というか元々子供のいなかったヴェーバーにマリアンネの死後に著作権の継承者はいたのかという疑問もありますが}、そのテキストを誰がどこで公開しようと自由です。ドイツの「全集」側があれこれ理由をつけて折原説を採用しないなら、日本でやってやろうということです。)
(2)ヴェーバーの文献で日本語訳されていないものについて、「オープン翻訳プロジェクト」を立ち上げること。オープン翻訳プロジェクトとは、
[1] 翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。
(ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
[2] 出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。
(日本の法律では著作権を完全に放棄することは出来ませんが。)
[3] 翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
[4] 翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
[5] 可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。
要は、ソフトウェアにおけるフリーソフトウェア、オープンソースの考え方を学問の世界にも持ち込めないかということです。
(3)ヴェーバーの著作リスト、日本語訳リストなどのヴェーバー関係のリソースの提供。
(2)のオープン翻訳プロジェクトでまずやろうと考えているのは、ヴェーバーの博士号論文である「中世合名会社史」です。これはヴェーバーの研究のスタートとなった重要な論文ながら、何故か未だに日本語訳がありません。特に大塚久雄はこの辺りが元々専門であった筈なのに何故訳していないのかがわかりません。一説によると、文章中に大量の中世イタリア語(というより実際はほぼラテン語、書き言葉としてのイタリア語はダンテが13世紀末から14世紀初にかけて「神曲」でトスカーナ方言を用いたのが最初ですが、すぐにそれが定着した訳ではありません)やスペイン語が多数出てきて、それをきちんと訳せる人がいないから、ということでした。しかし、調べたら英訳は既に2002年に出ています。Amazonのアメリカに注文していましたが、それが今日届きました。またモール・ジーベック社の全集の内この論文を含む第1巻も既に入手済みです。それには注釈が多数付いています。こうしたものの助けを借りれば日本語訳を行うことは現時点ではそう難しくはないと思いますが、何故かやる人がいません。それで私がトライしてみようと思いました。上記の「オープン翻訳」方式であれば、誰でも翻訳に参加でき、群衆の叡智を集めて日本語訳が完成できるのではないかと思います。