アウター・リミッツの”The Hundred Days of the Dragon”を観ました。第1話はエイリアンもので、そういうエイリアンとかモンスターみたいなものばかりかと思ったら、第2話は何と中国ものでした。おそらく毛沢東をモデルにしたと思われる首席の前で、モンゴルの研究所のスタッフがある男の紹介をしています。その男はアメリカの大統領戦でセルビィという当選確実の男と背格好が同じです。実は中国は人間の筋肉をプラスチックのように可塑化する薬品の開発に成功しており、その男はそれを注射された後、金型に顔を押し当てそれを外すとセルビィの顔そのものになっていました。一行は大統領戦が行われているロサンゼルスに行き、そこでセルビィをやはり薬品で顔を変えた後殺して、その中国人がセルビィに入れ替わります。首尾良くセルビィは大統領になりましたが、その内これまで対立していた中国と親和的な政策を行おうとするので、副大統領が怪しみます。そのため中国は副大統領もそっくりさんに入れ替えようとしますが失敗し、副大統領自身が自分のそっくりさんを目撃し、中国側のトリックがばれます。中国側は再度副大統領を殺して入れ替わろうとしますが、失敗してそっくりさんが逮捕されます。副大統領は大統領が出席しているパーティーにその偽物を連れていって中国の陰謀を暴き、偽の大統領には可塑化剤を注射して顔を戻して偽物であることを皆に分らせる、というストーリーです。
うーん、そこまでやるほど中国とアメリカが当時対立していたんだろうか、と思いましたが、まあ確かに朝鮮戦争ではお互いに戦っている訳で、1963年ぐらいではそういうお話が作られる素地はあったということなんでしょう。
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トワイライト・ゾーンの”The Man in the Bottle”
トワイライト・ゾーンの”The Man in the Bottle”を観ました。何というか良くある願いをかなえてくれるランプの魔神(ジーニ)ものでした。アーサー・キャッスルは祖父の代からのアンティーク商ですが、商売は儲からず借金ばかりで破産寸前でした。そんな日近所の老婆が古いワインボトルを買ってくれと持ってきます。キャッスルはこんなものはガラクタで価値は0だ、と言います。でも老婆が可哀想になったので、その壺を1ドルで買ってやりました。キャッスルが壺を誤って床に落とすと、栓が開いて煙りが出、やがてファレル・ウィリアムスみたいな格好の男が登場します。男はランプの魔神(ジーニ)で願い事を4つ叶えてくれると言います。キャッスル夫妻はかなり疑っていましたが、まず一つめの願いで、割れていたショーウィンドウのガラスを修理して欲しい、と頼んだら魔神はあっという間に修繕しました。これで魔神が本物だと分り、次にキャッスルは100万ドルを要求します。そうすると100ドル紙幣が天井からバサバサと降ってきました。大喜びの夫妻は近所の人達に大盤振る舞いで紙幣を配りますが、そこに招かれざる客の税務署の人間がやって来て、税金が90万ドルだと言います。キャッスルが慌てて紙幣を数えたら、残ったのはたったの5ドルでした。次に国で一番偉い人、を考えつきましたが、選挙で選ばれる首長はダメなので、選挙で変えられることのない、そして現代のどこかの外国の支配者を望みます。そうするとキャッスルは、何とヒットラーになり、しかも1945年5月のベルリン陥落の直前でした。部下が自殺用の毒薬を持ってきますが、それを飲まずに最後の望みで元のキャッスルに戻ります。結局4つの願いはどれもダメで、でもショーウィンドウが綺麗になったからいいか、と言っていたら、それも傘の柄で突いてまた割ってしまいました…
という話で、これは別にトワイライト・ゾーンで無くてもきわめて色んな所で使われているもので、もう一つでした。
アウター・リミッツの”The Galaxy Being”
ジョー90を観終わったので、アウター・リミッツを観始めました。1950年代後半から1960年代にかけて、トワイライト・ゾーンと並ぶSFTVドラマの代表で、日本のウルトラQなどにも影響を与えました。最初のエピソードが”The Galaxy Being”でした。60分もの。あるラジオの放送局のエンジニアのアラン・マックスウェルは、ラジオ局の出力を半分に落とすまで、局内の電気を使って何やら宇宙との通信を試みていました。ある日彼はついに遠いアンドロメダの中の惑星の光るターミネーターみたいなエイリアンと通信することに成功します。そのエイリアンが言うには、地球人が炭素で出来た生物なら、そのエイリアンは窒素で出来ているということで、死ぬこともないと言います。マックスウェルはその晩どうしても出席しなければならないパーティーがあり、一時間ほど局から離れます。その間に局のDJがカナダからのリスナーからのリクエストに応じて、局の出力を全開に戻します。そうすると何故かそのエイリアンは通信経路を使って地球に転送され、町へ出たエイリアンは何か雷鳴のようなものを発して接触するものに被害を与えます。慌てて局に戻ったマックスウェルは、エイリアンに元の星に戻るように言いますが、そのエイリアンは向こうの法を破ってしまったので、もう戻れず、消去されると言います。マックスウェルの奥さんが駆けつけた警官に撃たれて死にかけますが、エイリアンが彼女を蘇らせます。結局エイリアンは消えて行きます。
という感じで、トワイライト・ゾーンと違って、捻りがなく、ただ恐ろしいエイリアンの話という感じで、子供が観たらこちらも悪夢を見そうな内容でした。
手紙の作法続き-草々と早々
NHK杯戦囲碁 小池芳弘7段 対 富士田明彦7段(2022年9月25日放送分)
本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が小池芳弘7段、白番が富士田明彦7段の、最近勝ちまくっている若手対決で、噛み合う対戦でした。しかも二人は高林拓二門下の同門で、富士田7段が先輩とのことでした。なので小池7段からすれば勝って「恩返し」したい所、富士田7段からすれば成長著しい後輩に先輩の貫禄を見せたい所でした。局面が動いたのが右辺の攻防で、白が右下隅にかかった石からの一団がまだ治まって、ないのに、右辺上方に打ち込んでいってからです。黒は右辺中央の石から右辺下方の白にもたれて強化し、右辺上方の石をボウシで包囲しました。白はここで右上隅の黒の二間高締まりの間に付けて行きました。ここの折衝で、黒が1子を捨てて下から当てて行ったのが冷静で、白が若干厚くなったものの、黒は右上隅から右辺で40目以上の地を確保し、黒が優勢になりました。黒はその後左下隅にも潜り込んで活きたため、4隅取った形で地合いは更に開きました。こうなると白は中央と左辺でどのくらい地を作れるかの勝負になりました。黒は右下隅からつながっているかが微妙な位置に出て行きました。結果から見ればこの「つながっているかどうか」が勝敗を分けるカギになりました。黒はその石の繋がりを確かにする手を打たず、白の左下隅を脅かしつつ中央に進出して白地を削減し、順調に優勢を保っていました。どこかでバックして中央と右下隅を確実に連絡しておけば勝ちだったと思いますが、実戦心理として、つながるだけで地にはならない手を打つには抵抗があり、それが災いしました。富士田7段が一瞬の黒の隙を衝いて1目を捨てて巧みに白の眼を奪い、そして中央と右下隅の白の分断を決行しました。中央の黒が上辺の黒とつながりそうでつながらないのも読み済みで、黒はもう一眼が作れず、大石が憤死しました。富士田7段の中押し勝ちで、まるで故加藤正夫9段のような殺し屋ぶりを1回戦に続いて発揮し、見事に先輩の貫禄を見せました。
P.S. 故高林拓二6段について、正直な所あまり知識が無かったので調べてみました。ご本人の棋士としての活躍はそれほどでもなかったようですが、弟子がすごいです。許家元九段、富士田明彦七段、小池芳弘七段、伊藤優詩五段、張瑞傑五段、外柳是聞四段、日野勝太初段。日野初段のインタビュー記事によると、高林6段に生前(2019年7月に亡くなられています)に1,000局以上対局してもらったそうです。通常囲碁の師匠は入門の時に一局だけ打って、後は弟子同士が対局するもので、木谷道場とかは特にそうだったと思います。例外的に石井邦生9段が井山裕太4冠を、その才能を見込んでやはり1,000局くらいオンラインを中心で打って鍛えた、というのがありますが、弟子達の素晴らしい活躍振りを見る限り、高林6段は、全ての弟子と多くの対局を繰り返したのかなと思います。ご本人の、例えば本因坊戦や名人戦リーグに入るとか、タイトルの挑戦者になる、タイトルを取る、そういう夢は残念ながら叶わなかったのですが、それを弟子に託して鍛え上げる、これはこれで素晴らしい棋士人生だったのではないでしょうか。
「謹啓ー敬具」問題ー大正時代の手紙の書き方本の説明
芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」(冨山房、大正2年初版の手紙の書き方と例文集で、当時の大ベストセラー)にて、手紙の前文(拝啓など)、と末文(敬具)などについて確認しました。
(1)そもそもこの手の「拝啓」「敬具」等は候文の手紙用であり、口語文の手紙では本来は付ける必要無し。
(2)江戸時代までは前文は「一筆啓上仕候」などと書いたが、明治になって簡略化されて2文字が多くなった。但し「頓首再拝」「恐惶謹言」などの4文字タイプも使われていた。
(3)拝啓の場合は敬具、謹啓の場合は謹言、といった前文と末文が呼応するといったことはまったく書いてない。
(4)「慶弔、感謝など儀式張った場合には同輩でも「謹言」「敬具」を用いてよい。」とあり、そもそも敬具も謹言も元はある意味堅苦しい上位者への手紙に使うものであり、またその2つとも慶弔の場合に用いて良いとあり、「謹言」が「敬具」より丁寧、ということも言っていない。
要は時間が経って候文が廃れていくと、その本来の書き方が分らなくなり、いつしか「謹啓の後は謹言で結ぶ」といったローカルルールを勝手に作り出す人が出てきて、それがあたかも正しい用法のように思われるようになっただけだと思います。または「格別のご高配」と同じで、本来目上にしか使わなかった「謹啓」が多用されるのは、ともかく丁寧に書けばOKという、敬意のエスカレーション現象かと思います。
(ちなみにジャストシステム時代に冨山房に電話し、この書籍の著作権について問い合わせたことがありますが{候文の例文集を作ろうとしていました}、口頭ですが「自由に使って良い」という返事でした。本当はどこかがこの本再版して欲しいんですが。復刊ドットコムに登録はしています。また、芳賀矢一、杉谷代水共に没後70年以上が過ぎており、著作権は失効しています。)それから、ローカルルールと言えば、封書の閉じる所には現在は「〆」(というよりメ)と書くと教わったと思いますが、これは元々女性用であり、男性は「緘」「糊」「封」などを使っていました。私は高校の時に漢文の先生に、「緘」と書けと教わりました。今でも一部の官公庁とか銀行などで、スタンプで「緘」を押したものを見ることがあります。
謹啓-敬具、は問題ありません。
日経ビジネスの河合薫という人の文章から。安倍元総理の国葬の招待状についてのエッセイに以下の文章がありました。
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「招待状の頭語は「謹啓」なのに、結語は「敬具」というお粗末ぶり。」
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00214/?n_cid=nbpnb_fbed
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「敬具」つつしんで具す(申し上げる、「具申」の具)という意味で、冒頭が「謹啓」の場合でもOKです。最近、こういう自分の限られた知識だけが正しいと思い込み、人の書いたものにけちを付ける人が多いという典型例として紹介させていただきます。画像は大修館の明鏡国語辞典第二版です。私はジャストシステムに勤務していた時に、手紙のソフトの企画に携わっていた(ソフトは単体のソフトとしては日の目を見ず、その時に整備した例文が一太郎の中に入っている程度です。)ので、手紙の書き方については、普通の人より詳しいですし、大正2年に出た芳賀矢一・杉谷代水合編の「書翰文講話及び文範」という候文の手紙例文が多数入った本も持っています。
しかし、この「謹啓ー敬具」を間違いだと言い張る人であれば、この候文も「前略」で始っているのに「(頓首)謹言」で終っているのはおかしい(「草々」でなければならない)とか言うんでしょうね。ちなみに「草々」は同輩以下に使うもので、このようなお詫びの手紙には合いません。(出だしが「前略」なのは詫び状なので、時候の挨拶等は省いてまずはお詫びします、という意味での使用です。)要するに昔は手紙の書き方は法律で決まっていた訳では当然なく、状況に応じて色々な書き方があったのに、今はそれが固定化されたルールのように考えられていて、自分が教えられた、学んだのと違うと間違いだと決めつけるのでしょう。大体今手紙を書く人は激減していますから。
ちなみにビジネスの手紙で多用されている「平素は格別のご高配賜り深謝申し上げます」という言い方も、文字通り読めば「貴社はこの世の中であり得ないような非常な程度の便宜を当社に図っていただきましたので心から感謝します。」という異常に誇張した文章になります。たかがビジネスの関係であれば「日頃はご高配賜り有り難うございす。」「平素はご配慮を賜り御礼申し上げます」とか書けばいい訳です。「格別の御高配」は、強調が二重になっていて却って嘘臭く響きます。このことは以前、大修館の「言語」という雑誌の編集長をされていた方から教わりました。
トワイライト・ゾーンの”King Nine Will Not Return”
トワイライト・ゾーンの”King Nine Will Not Return”を観ました。この話から第2シーズンで、オープニングの音楽があの有名なものに変わります。時は1943年で、チェニスから南イタリアへの爆撃に飛び立った、ジェームズ・エンブリ-が指揮するB-25ミッチェルが、燃料タンクに開いた穴でアフリカの砂漠に不時着します。エンブリーが気絶から醒めると、破壊された機体だけが残されており、他のクルーはどこにもいません。クルーを探している中で、エンブリーは乗組員の幻を2回見ます。そしてあるクルーの墓を砂漠の中に見つけます。また上空をジェット機が飛んでおり、エンブリーは何で1943年にジェット機が飛んでいて、また自分がジェット機を知っているのかをいぶかります。結局また気絶しますが、目を覚ますとそこは病院のベッドでした。医者の言うには、数日前にアフリカの砂漠の中でB-25の残骸が発見された新聞記事が彼をおかしくしたとのことです。実はエンブリーはたまたま急な病気になり、そのB-25には載らずに助かったのです。しかし自分だけが助かって部下が皆死んだという良心の呵責が、新聞記事によって触発され、悪夢を見たということになります。
エンブリーが実はB-25に乗らなかったというのは、実は聴き取れなくて、Wikipediaで解説を読んで初めて分りました。ちょっと第2シーズンの始まりにしては暗いだけの話でした。
ジェームズ6世による最初の戦争スピーチ(原文と日本語訳)
英国王のスピーチに出てくるジェームズ6世の最初の戦争スピーチの全文を入手しました。ついでに英語の勉強会用に日本語訳したので紹介します。ちなみにpeoplesと元々複数扱いのpeopleにsが付いていますが、これは一つの国の人々をpeopleとして、本国及び100以上の植民地の人々に対して呼びかけているためです。
1.1939年9月3日、英国王ジョージ6世による国民へドイツとの戦争開始を告げるスピーチ
In this grave hour, perhaps the most fateful in our history, I send to every household of my peoples, both at home and overseas, this message, spoken with the same depth of feeling for each one of you, as if I were able to cross your threshold and speak to you myself. For the second time in the lives of most of us, we are at war. Over and over again we have tried to find a peaceful way out of the differences between ourselves and those who are now our enemies. But it has been in vain. We have been forced into a conflict, for we are called to meet the challenge of a principle, which, if it were to prevail, would be fatal to any civilized order in the world. Such a principle, stripped of all disguise, is surely the mere primitive doctrine that might is right. For the sake of all that we ourselves hold dear, it is unthinkable that we should refuse to meet the challenge. It is to this high purpose that I now call my people at home, and my peoples across the seas, who will make our cause their own. I ask them to stand calm and firm and united in this time of trial. The task will be hard. There may be dark days ahead, and war can no longer be confined to the battlefield. But we can only do the right as we see the right, and reverently commit our cause to God. If one and all we keep resolutely faithful to it, then, with God’s help, we shall prevail.
この重大な、そして我々の歴史の中でもっとも過酷な運命にさらされている今この時において、私はこのメッセージを国民一人一人の全ての家庭に、国内だけでなく海外在住の方々に対しても送ります。そのメッセージには皆さん一人一人が感じられていることと同じ重さの思いが込められていますし、私はあたかも皆様の家の玄関から中に入り、皆様一人一人に直接語りかけられているように思っています。皆様の中のほとんどの人にとっては人生で2度目となりますが、今や私達は戦争の真っ只中にいます。私達は何度も繰り返し、私達と今や敵となっている国々との考え方の違いを乗り越えて、平和的な解決を図ろうと模索して来ました。しかしその努力が実を結ぶことはついにありませんでした。私達は今や紛争の中に無理矢理送り込まれてしまいました。というのも私達はある政治思想からの挑戦を受けているのであり、もしそれが仮に勝利を収めた場合には、世界の全ての文明秩序が致命的な打撃を受けるからです。そういった政治思想は、その表面のごまかしを全て取り払ってしまえば、力こそ正義、という本当に野蛮きわまりない教義に過ぎないのです。私達全員が愛し尊重する全てのもののために、私達はこの挑戦を受けなければなりません。この高邁な目的のために今私は国内におられる全ての皆さんそして海の向こうにいる皆さんに呼びかけ、それらの人々が私達の大義の実現を図ることを要請します。私はそれらの人に今こそ余計なおしゃべりはせずに確固として立ち上がり、この困難な試みにおいて一致団結して苦難を乗り越えようと呼びかけます。やるべき事は決して簡単なものではありません。おそらく行く手に待ち受けているのは暗黒の日々でしょうし、戦争はもはやただ戦場だけのものではあり得ません。しかし私達は正義を傍観するだけなくそれを実現するのみであり、そしてこの大義を心の底から神に捧げるのです。我々の一人一人、そして我々の全員がこの大義を貫らぬこうとする時、その時こそ、偉大なる神のご加護により、我々は勝利するのです。
傘の藤骨と桜骨
小学生の頃(昭和40年代の半ば~後半くらい)に、当時はまだ安いビニール傘が普及しておらず、傘は貴重品で傘の折れた骨を修理する人がいました。おそらくそういった人から聞いた話だと思いますが、傘の骨で中央から直線状に伸びている通常のを藤の花が垂れているのと同じということで「藤骨」といい、それに対し根元が二重になっていてまるで桜の花のように見えるのを「桜骨」といい、桜骨の方がはるかに丈夫と教わったことがあります。しかし、コストや重さの問題なのかやがて桜骨の傘も桜骨という言葉も見かけなくなりました。インターネットで検索が出来るようになってから、「藤骨」「桜骨」で検索しても何もヒットしなかったので、本当にそういう言葉があったのかと自分の記憶を疑うようになっていました。しかし、今日また「桜骨」で検索したら、写真のように何と桜骨の傘がちゃんとそう表記されて販売されていました。これも昭和の遺産と思い紹介しておきます。