折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」

折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」、本日先生より贈っていただき届きました。但しAmazonで9月30日に別に予約したものはまだ届かず、今日見たら「注文後1~2ヵ月で発送」になっていました。(発送予定自体は10月14~16日)この本は、元々2019年7月の「東大闘争総括」の書評会での質問や批判に応答するというのが執筆動機であり、本来は2020年のヴェーバー没後100年の年に出る筈だったのが遅れに遅れてやっと出たものです。折原先生自身のご病気、奥様のご病気、またコロナのパンデミックによって、おそらくはスペイン風邪で亡くなったと思われるヴェーバーとの関連での記述が追加になったとか、色々な理由で遅れています。
人名索引に私の名前が出ていたので、また羽入批判関連かと思ったら、私が大学時代に先生のヴェーバーの「経済と社会」解読演習に参加していた、という話でした。
中身は、文字通り「総括」でヴェーバー研究を始めた動機、東大紛争での闘争と学問、宗教社会学の公開自主講座の話から始って、「経済と社会」の編纂問題のまとめ、宗教社会学3部作(「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」「儒教と道教」)の読解とまとめ、などです。この3部作は本当に難解なので、個人的にはとても助かります。

最近の手紙本はひどい…

以前、J社で手紙文自動作成というプロジェクトに関係していました。その時市販の手紙の書き方本・文例集を何冊か買って調べましたが、中身は噴飯ものでした。最近のはどうかと思って、Amazonで一番売れていそうなの(敢えてタイトルと著者は書きませんが、出版社は主婦の友社)を買ってみましたが、さらにレベルが落ちていました。封筒ののり付けする所に書くのは「メ」じゃなくて「〆」なんですけど…
芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」では、元は「〆」だったのを明治になって男性で「緘」「糊」「封」などを書く人が増えたと言っています。1896年の樋口一葉の「通俗書簡文」では、一葉は「状封じて墨を引くこと古くよりの法なりとぞ、封、しん、鎖、糊、いづれも女のものならず、まして此處に検印みとめおしたるいかなる心にかと怪し、ただ〆とばかりかきてありぬべきを。」として、女性はただ「〆」と書きなさい、と教えています。(この部分、故山本夏彦氏がそのエッセイの中で何度か引用していました。尚、「緘」は封緘紙の「緘」で現在では「かん」としか読みませんが、「通俗書簡文」は「しん」とルビを振っています。「書翰文講話及び文範」は「かん」です。)
それから日付は手紙の本文中に書くもので、封筒に書く必要はないと思いますが。(履歴書を郵送する時とかは別)
手紙の本を買うんだったら、大正時代以前のものが良いです。戦後のものは買う価値無いです。

中根千枝先生の「社会人類学 アジア諸社会の考察」

中根千枝先生の「社会人類学 アジア諸社会の考察」を読了しました。昨年10月の先生の訃報を聞いてからしばらくして買い求め、読み始めたものです。ここの所半年くらい、6冊くらいの日本語の本をほぼ常に同時に読んでいるので、読了が遅くなりました。内容は家族の構造などの社会人類学の基礎概念の解説と、中国、インド、韓国、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ネパール、シッキムなどの社会構造を、階層とか社会構造、人間ネットワークの観点で比較分析したものです。後者については先生も書いておられるように、まだ最初の試み、という感じがありますが、しかし社会学者が「社会」を研究対象にしながら、このような視野の広い比較による社会分析が十分出来ていないのに比べると、先生のこの研究のようなものの方が一歩先を行っていると思います。また現在文化人類学はサイードの「オリエンタリズム」におけるような欧州中心主義に対する批判とか、ポストモダン側からの極端な相対主義による批判にさらされ、かつての勢いを失っているようですが、日本を含むアジアの文化人類学者というのは、そういう批判の外にいて、独自の貢献が出来る可能性を持っているように思います。少なくとも私にとっては社会学と文化人類学は車の両輪のようなものです。

千葉一郎の「ちばあきおを憶えていますか」

千葉一郎の「ちばあきおを憶えていますか」を読了。著者はちばあきおのご長男です。ちばあきお、存命なら79歳ですが、1984年に41歳の若さで世を去ります。その死因を今まで知らなかったのですが、アルコール依存からの自殺だった、ということにショックを覚えました。また「プレイボール」のまだ本当にこれから、という所での唐突な終わり方も、本書を読んで、当時ちばあきおが仕事に追い詰められて書けなくなっての終了だということを知りました。また完璧主義者で、単行本になった状態の自分の絵に、さらにまた赤で修正を入れるのが常のことだったということです。また、元々兄であるちばてつやのアシスタントとして漫画家人生を始めたちばあきおですが、41歳で亡くなった時に連載中だった「チャンプ」をちばてつやが自分が引き継ごうかと考えたことがあるそうです。この場合原作は千葉兄弟の末弟の七三太朗ですから、絵さえ誰かが描けば続けられた訳です。しかし「チャンプ」の頃のちばあきおの絵は、ちばてつやですら既に真似をすることの出来ない独自のものになっていて断念したとのことです。この本の中のファンの言葉として、「ちばてつやの作品も素晴らしいけど、本当に影響を受けたのはちばあきおのキャプテンやプレイボール」という言葉は、そっくりそのまま私の感想でもあります。

手紙の作法続き-草々と早々


手紙の作法、追加。今は「前略」に対応する結びは「草々」になっていますが、元々は「早々」の方が多く使われていました。「取り急ぎ」という感じは「早々」の方が出ると思います。「草々」はどちらかと言えば「草々不一」の形で使われる方が多かったと思います。「草々」は走り書きで、「不一(ふいつ)」は言いたいことを尽くせず、という意味で、元々中国の奉書前後式という極めて煩雑な手紙の作法の最後で「不盡」とか書いていたのを日本人が真似するようになったのが「敬具」とか「不一」などの後文です。

「謹啓ー敬具」問題ー大正時代の手紙の書き方本の説明


芳賀矢一・杉谷代水合編「書翰文講話及び文範」(冨山房、大正2年初版の手紙の書き方と例文集で、当時の大ベストセラー)にて、手紙の前文(拝啓など)、と末文(敬具)などについて確認しました。
(1)そもそもこの手の「拝啓」「敬具」等は候文の手紙用であり、口語文の手紙では本来は付ける必要無し。
(2)江戸時代までは前文は「一筆啓上仕候」などと書いたが、明治になって簡略化されて2文字が多くなった。但し「頓首再拝」「恐惶謹言」などの4文字タイプも使われていた。
(3)拝啓の場合は敬具、謹啓の場合は謹言、といった前文と末文が呼応するといったことはまったく書いてない。
(4)「慶弔、感謝など儀式張った場合には同輩でも「謹言」「敬具」を用いてよい。」とあり、そもそも敬具も謹言も元はある意味堅苦しい上位者への手紙に使うものであり、またその2つとも慶弔の場合に用いて良いとあり、「謹言」が「敬具」より丁寧、ということも言っていない。
要は時間が経って候文が廃れていくと、その本来の書き方が分らなくなり、いつしか「謹啓の後は謹言で結ぶ」といったローカルルールを勝手に作り出す人が出てきて、それがあたかも正しい用法のように思われるようになっただけだと思います。または「格別のご高配」と同じで、本来目上にしか使わなかった「謹啓」が多用されるのは、ともかく丁寧に書けばOKという、敬意のエスカレーション現象かと思います。
(ちなみにジャストシステム時代に冨山房に電話し、この書籍の著作権について問い合わせたことがありますが{候文の例文集を作ろうとしていました}、口頭ですが「自由に使って良い」という返事でした。本当はどこかがこの本再版して欲しいんですが。復刊ドットコムに登録はしています。また、芳賀矢一、杉谷代水共に没後70年以上が過ぎており、著作権は失効しています。)それから、ローカルルールと言えば、封書の閉じる所には現在は「〆」(というよりメ)と書くと教わったと思いますが、これは元々女性用であり、男性は「緘」「糊」「封」などを使っていました。私は高校の時に漢文の先生に、「緘」と書けと教わりました。今でも一部の官公庁とか銀行などで、スタンプで「緘」を押したものを見ることがあります。

エンツォ・トラヴェルソの「歴史記述における<私> 一人称の過去」

エンツォ・トラヴェルソの「歴史記述における<私> 一人称の過去」を読了。この本は、未來社という出版社のサイトを折原浩先生の「マックス・ヴェーバー研究総括」の状況(当初の予定より2年以上遅れています)を確認するため何度か訪れている時に、同社の新刊として発見したもの。この本を買った動機は更に二つあります。
(1)以前、イヴァン・ジャブロンカの「歴史は現代文学である 社会科学のためのマニフェスト」と、その実践編である、「私にはいなかった祖父母の歴史 -ある調査」を読んでいます。この本にも登場しますが、ジャブロンカは歴史記述に小説的な一人称を持ち込んでいる代表者です。
(2)以前、AEONで英語のライティングの教材をやった時に、「フォーマルな文章では一人称を使ってはいけない。」ということを言い張るネイティブ教師が2人もいて、この問題について調べた事があること。
(1)については、元々ジャブロンカが歴史学者と文学者のどちらになるかの選択を迷ったというのが背景にあるようです。この本に拠れば、ジャブロンカだけでなく、主観的な視点での歴史記述を行っている人が何人もいて、筆者は一種の新個人主義だとしています。実はジャブロンカのような主張は、19世紀終わりから20世紀の初めにかけて、デュルケームやマックス・ヴェーバーなどが厳として否定していたもので、この2人は科学として歴史をどう扱うについて模索し、様々な方法を提唱しています。有名なのはヴェーバーの理念型とか価値自由です。それから約100年経って、今度は行き過ぎた客観主義に対する揺り戻しのような現象が出てきている訳です。
しかし、私見ではジャブロンカの方法論は濫用されるときわめて危険であり、また19世紀のような主観による歴史の脚色に戻ってしまう可能性も秘めています。但し、過去に生きたある人物を理解するためには、歴史学的な年表形式での事実の羅列が不十分であるのもまた事実で、ジャブロンカの「私にはいなかった祖父母の歴史 -ある調査」はジャブロンカの祖父母の生きた時代と二人の置かれた状況(二人ともポーランドのユダヤ人で共産主義者で、ポーランドから追放されてフランスに移り、ヴィシー政権下で捕らえられアウシュヴィッツに送られ、二人ともそこで死にます。)をより良く描写するという点で成功していると思います。ちなみにこうした1人称歴史記述は、ジャブロンカ以外でもやはりホロコースト関係だったり、第2次世界大戦期のある個人の記録だったりが多いようです。
(2)の英語のライティングの際の1人称使用禁止という誤った主張(昔はこういうことをルールとして言う人がいたのですが、今はアメリカの大学のライティング・ガイドでも、1人称を適切に使うことがむしろ推奨されています)も、20世紀初めの行き過ぎた客観主義の遺産と思われます。大体、マックス・ヴェーバーの論文読んでいると、ほぼ毎ページにわたって1人称が出てくるので、そういう意味で元々ナンセンスと思っていました。自分の単なる意見や証明されていない仮説を3人称で書くのは、むしろ客観性を装うごまかしと思います。受動態で主語を隠すのと同じです。
まあこの本は現状を整理しているだけで、これからどうなるのかを興味深く見守って行きたいと思います。

デイヴィッド・グレーバーとデイヴィッド・ウェングロウの”The Dawn of Everything”

Facebookの紹介でこの本が出てきて、内容が学生の頃から私が思っていることにかなり近いので、取り寄せてみました。私は昔から「発展段階説」が大嫌いで、例えば日本のいわゆる「縄文時代」について、原始共産制みたいなユートピアでもなく、逆に現代から見て文字通り「原始的」で常に飢えに脅かされて必死に狩猟採集を行っていた時代とも思っていません。この本は、いわゆる原始時代の社会構造がきわめて多種多様であって、現代人が考えるような低レベルのものではないことを、様々な考古学や文化人類学の事例を元に論じているようです。同様の本にマーシャル・サーリンズの「石器時代の経済学」がありますが、そこでの議論からどう発展しているかに興味があります。
ちなみに、日本の原始時代を「縄文時代-弥生時代ー古墳時代」とするのはマルクス主義的な発展段階説に毒された結果であり、私は異を唱えています

ヴェーバーの「ローマ土地制度史」の日本語訳11回目を公開

マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史」の日本語訳11回目を公開しました。
今回の箇所は、古代ローマにおける植民市が多数出てきて、それを地図にプロットして見て、ローマがどのようにイタリア半島において版図を拡げて来たのかが伺えて興味深かったです。

オーランド・ファイジスのクリミア(読了)

オーランド・ファイグスの”Crimea”をようやく読了。毎日20~30分音読して2ヵ月かかりました。しかし読んで良かったです。この戦争はロシア以外にはほとんど「忘れられた戦争」です。
イギリスは、海軍力は優れていたのでしょうが、民主主義の祖国の一つでありながら、貴族階級と平民という階層をそのまま軍隊が引き継ぎ、無能で優柔不断な貴族出身の指揮官が、多くの戦いで多数の犠牲者を出し、フランス軍の足を引っ張っています。(ちなみにイギリスの軍隊の階層システムをそのまま導入したのが大日本帝国海軍です。海軍での士官以上と一般兵卒の待遇の大きな差は有名です。例えば戦艦大和で士官以上用のトイレは70人に対し11箇所{6.4人に1箇所}、一般兵用は1,330人に12箇所{111人に1箇所}でした。出典:「日本軍の小失敗の研究」)この戦いでのナイチンゲールの行動はあまりに有名ですが、有名になった理由の一つが、イギリス軍があまりもだらしなくて、ろくに功績も挙げられなかったので、ナイチンゲールぐらいしか讃えるものが無かったとう事情があるようです。またセヴァストポリ攻城戦の冬で、フランス軍が1812年のナポレオンのロシア征服の失敗の教訓もあったのでしょうが、十分な防寒装備を用意して対策したのに対し、イギリス軍は黒海沿岸だから冬の寒さはそれほど厳しくないだろうと考え、ろくな装備も準備せずに、多くの兵士を凍死させたり凍傷にかからせています。
フランスはそれに対し、戦勝に大きく貢献していますが、クリミア戦争終結の14年後に対プロシアで敗北して、クリミア戦争のことは忘れてしまいます。
ロシアについては、推定死者45万人という大きな犠牲者を出し、なおかつ南下政策が完全にストップしますが、軍隊の近代化で大きく遅れて劣勢だったにもかかわらず、セヴァストポリ攻城戦で11ヵ月も持ちこたえたことは、ロシア兵士の愛国心の賜、ということでセヴァストポリは一種の聖地のようになります。プーチンが何故クリミアを併合したかの一つの理由にはこのこともあるようです。なお、プーチン大統領は、クリミア戦争で列強の情勢を見極めないで不利な戦争をしかけたことによって非常に不人気なアレクサンダー1世の写真を執務室に飾っているそうです。ロシアにとっては、この戦争は農奴解放や軍の近代化などの改革につながり、歴史的にはそれなりに意味がありました。また南下政策が止められた結果としてアジア進出を強化して、その結果日本と戦争になるのはご承知の通りです。
ロシアが最初にこの戦争を始めたのは、オスマン帝国内のギリシア正教徒住民を保護するという目的がありました。当然ながら敗戦によってこの目的は達成されませんでしたが、オスマン帝国内のスラブ民族の問題は持ち越され、結局それが第1次世界大戦を引き起こすことになります。