シオドア・スタージョンの「人間以上」を読了。実はこの作品の存在は昔から知っていて、既に大学生の時に一度買っていますが、読んでいません。何故読まなかったのか、今回ちゃんと読んでみてその理由がわかりました。とても読みにくいのです。まずスタージョンの原文がたぶんとてもわかりにくく、ある個体の視点で進んでいた話が、突然別の個体の話に変わり、その個体同士の関係というのはほとんど明らかにされません。半分くらい読み終わっても物語の世界に没入するという感覚になれずに違和感を感じ続けていました。次に翻訳が良くないです。登場する黒人の双生児を普通に「双子」と訳せばいいのに、「双児」などという存在しない日本語をわざわざ作る訳者のセンスが理解できません。また「エイト・レーン・ハイウェイ」(たぶん”eight-lane highway”)を「八台通りの高速道路」と訳す感覚にはついていけません。(誰が考えたって「八車線の高速道路」の筈で、この訳者はたぶん運転免許を持っていなかったのでは。)「デューン」の古い方の訳も同じ人で、Amazonではかなりぼろくそに言われていますが、さもありなん。SFの日本語訳の先駆者として貢献されたのでしょうが、もう時代に合っていないですね。
原文に戻ると、「中途半端な超能力者が複数集まって協力して一つの個体(ホモ・ゲシュタルト)」を作るというのは、なかなか素晴らしいアイデアですが、でもそれが人類の進化した姿だという説明はちょっと違うような気がします。人間は子供を作ろうと思ったら男女のペアが必要ですが、それすら結構苦労しているのに、5人も6人も一緒にチームを作るなんてことが簡単に行くはずがなく、無理があると思います。実際、この小説に登場するチームのメンバーはかなりご都合主義で出会うのですし。
この小説を前から知っていたのは、吾妻ひでおがこの作品のファンで、その漫画によく登場していたからですが、吾妻ひでおがこの作品を好きなのは何となく理解できるように思います。吾妻の作品に、ストーリーのはっきりしない幻想的なものがありますが、それはこの小説の展開に近いように思います。また、石ノ森章太郎が「サイボーグ009」を描くにあたってこの作品から影響を受けたそうですが、それもよくわかります。知能の高い赤ん坊がグループの頭脳となっている、という所はそのままですから。
そういえば、確かスタージョンはスター・トレックの最初のである「宇宙大作戦」のある回の台本を書いていたと思いました。
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丹下左膳のモデルはネルソン提督か?
古谷三敏の漫画の「レモン・ハート」に林不忘が丹下左膳(片目、片手)を生み出したのは、イギリスのネルソン提督(同じく片目、片手)をモデルにしたのではないかという説が紹介されています。林不忘は1920年から3年半アメリカで暮らしたので、この説は信憑性あるなと思っていましたが、Wikipediaの「丹下左膳」の項を見ると、「原型となる大岡政談の鈴川源十郎ものは多くの講談本でも扱われている題材で、邑井貞吉の講談「大岡政談」では、隻眼隻手の日置(へき)民五郎と旗本鈴川源十郎の二人が組んで悪行を働くというものだったが」とあり、林不忘が片目片手という設定を生み出したのではなく、原型となった講談に既に片目片手のキャラクターが出てくるそうです。となると、ネルソン提督モデル説はちょっと違うのではないかと思います。
洪清泉の「碁が強い人はどのように上達してきたか?」
洪清泉の「碁が強い人はどのように上達してきたか?」を読了。正直な所、がっかりした本でした。確かに洪道場からは一力遼、芝野虎丸、藤沢里菜といった今をときめくプロ棋士が多数出ていますが、この本に書いてあるような内容が特別なものとは思えません。日本では「ヒカルの碁」で囲碁の底辺が広がり、たくさんの子供が棋士を目指し、そういう才能を持った棋士の卵が集まる環境として洪道場がたまたまあった、ということだと思います。強い子供同士で切磋琢磨させれば、各人の棋力は自然に伸びています。かつて同じようにプロ棋士を輩出した道場に「木谷道場」がありますが、「木谷道場での訓練の仕方」のような本は見たことがありません。木谷道場も才能のある若手を集めてお互いに切磋琢磨させたことが一番大きいと思います。
個人的には、これからはこの本に書いてあるような従来型の強くなり方とは違って、最初からコンピューターをフル活用して強くなった棋士が登場すると思います。そっちの方にずっと興味があります。詰碁が重要とか棋譜並べがどうの、とかというのはもう聞き飽きています。私個人の体験からいっても、本当の意味で囲碁の力が上がったのはコンピューターと数多く対局しだしてからです。
獅子文六の「おばあさん」
獅子文六の「おばあさん」を読了。昭和17年から19年の戦争の真っ最中に「主婦之友」に連載されたもの。タイトル通り明治生まれの「おばあさん」が主人公ですが、このおばあさんが69歳という設定にちょっと驚かされます。今なら老け込む年齢ではなく、この物語自体が成立しないのですが、当時は自然な設定だったのでしょう。このお婆さんを巡って、孫娘の結婚(養子縁組)、末の息子の自立と結婚、娘夫婦の家庭争議などを、このおばあさんが仕切って解決していくのですが、そのおばあさんの筋の通った行動が痛快です。昔の日本人の多くの人が持っていた自然な知恵という感じです。時節柄ということで、開戦をおばあさんが知るシーンがありますし、孫娘の結婚相手(養子縁組の相手)は結婚と同時に出征します。この結婚相手についてはおばあさんは最後まで「男らしさが足らない」と心配していたのですが、それがおばあさんの死の間際に解決されておばあさんは安心して死の旅に出ます。実際の自分の祖母のこととかを思い出してちょっとほろっと来る小説です。
獅子文六の「信子」
獅子文六の「信子」を読了。「悦ちゃん」で人気作家になった文六が昭和13年から15年にかけて「主婦之友」に連載したもの。以前紹介した「胡椒息子」が「坊ちゃん」の設定をそのまま使っていましたが、この「信子」はさらにそのまんま女性主人公版の「坊ちゃん」です。解説によると、冒頭の汽車で上京するシーンは三四郎の影響もあるそうです。この小説の中では主人公が「胡椒息子」の映画を観て、自分と似ていると思うなんてシーンがあります。九州の大分(獅子文六の父の故郷です)から上京した小宮山信子が、教師として働き始めた女子校で、校長と校主-教頭の二派の間の争いにまきこまれるという展開で、ほぼそのまんま「坊ちゃん」です。違うのはその女子校の移転と校長の辞任を巡って生徒が騒ぎ出して大騒ぎになるという展開で、下村湖人の「次郎物語」の第五部あたりにもそんな展開があったような記憶があります。まあ時局柄とでも言うべきでしょうか。「胡椒息子」はあまり感心しませんでしたが、この「信子」も途中までは「坊ちゃん」の亜流振りが鼻についてあまり楽しめなかったのですが、後半の展開はなかなか良く、不覚にもちょっと涙してしまいました。「悦ちゃん」と同じくこの頃の文六の展開の巧さが光っています。ただ、大団円の話がちょっとデウス・エクス・マキーナ的ですが、まあ大衆小説というのはこういうものです。なお、NHKがこの「信子」と獅子文六の別の小説の「おばあさん」をくっつけて「信子とおばあちゃん」という昭和44年の朝の連続ドラマを作り、原作とまったく違う話になり獅子文六が憤慨していたみたいです。今年放映された「悦ちゃん」のTVドラマの台本もかなりひどかったですが、NHKは昔からそういうことをやっていたんですね。
SFの古典的名作について
SFの古典的名作を実はあまり読んでいなくて、アーサー・クラークの「幼年期の終わり」を読んだのは光文社から新訳が出たのがきっかけですし、フレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」と「発狂した宇宙」を読んだのはつい最近で、「デューン」に至っては先日です。それで思うんですけど、これらのSFの名作って、純粋SF的な科学的要素だけでなく、多くの場合何か別の要素がミックスされて作られているケースが多いような気がします。たとえば「幼年期の終わり」はイギリス人が大好きなオカルトとSFを混ぜ合わせたものです。(アーサー・クラークは超常現象大好き人間として知られています。)またフレドリック・ブラウンの「火星人ゴー・ホーム」は一見火星人というSF的な素材を使いながら、そこで論じられているのは哲学の唯我論(私が考える故に世界は存在する、という中二病的な考え方。)です。「デューン」もSFに色んな宗教的要素を混ぜ合わせたもののように思います。
別にそういうのが悪いとは言いませんが、私としてはジェームズ・パトリック・ホーガンの三部作の最初の作品である「星を継ぐもの」みたいな純SFが好きです。
尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」
尾崎秀樹の「大衆文芸地図 虚構の中にみる夢と真実」を読了。昭和44年に、数多くの大衆小説を復刊させた桃源社から出たもの。大衆小説作家19人を取り上げた作家論です。もちろん白井喬二は含まれていますが、何故か国枝史郎はありません。尾崎秀樹は白井喬二の葬儀の時に弔辞を述べていますが、その中で言及されている白井の戦後の作品は、短篇の「怪盗マノレスク」と「明治女学校図」だけです。私はこの選択にとても不満があります。白井の戦後の短篇の中でこの2作は大した作品ではありません。短篇の中から選ぶのなら、「坂田金時」「石川五右衛門」「助六」なんかの方が作品としてはずっと上です。それに「国を愛すされど女も」や「天海僧正」のような長篇作品もまったく無視されているのも不満です。そういう訳で私は尾崎秀樹が白井の戦後作品を短篇以外はほとんど読んでいなかったのではないかという疑いを持っていましたが、この本では「捕物にっぽん志」や「鳴滝日記」などの作品が紹介されていますから、まったく読んでいなかった訳ではないようです。
他には林不忘(長谷川海太郎、牧逸馬、谷譲次)についてはあまり情報を持っていなかったので、それを補足できて有用でした。
尾崎秀樹の「大衆文学」
フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)
フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(下)を読了。2/3くらいまで読んで、「後1/3でどんなことが起こるのだろう」とわくわくして待っていたら、実は物語は既に終わっていて、残りの1/3は用語集とかのオマケでした…残念ながらEigoxの先生が言っていた「どんでん返し」は私には不発でした。また、本文で十分に説明仕切れなかったことを、オマケで解説するのは小説としてのルールに反しているように思います。
この作品は作品世界の構築という点ではこの上もなく見事だと思いますが、ストーリーテリングに関しては結構課題の多い作品のように思います。白井喬二の「富士に立つ影」との対比で言うと、アトレイデス家とハルコンネン家が対立して、視点は常にアトレイデス家の方からで、一方的にハルコンネン家が悪役として書かれます。しかし(上)の終わりで、実はレベッカとポールがハルコンネン家の血を引いていることも描かれ、この先二つの家の対立が結局どう終結するのか興味をもって読み進めました。しかし残念ながら最後までハルコンネン家は悪役のままで、ハルコンネン男爵は自分の孫娘であるアリアにあっさり殺されます。アリアはその殺害に何の葛藤も持ちません。この点は「富士に立つ影」の方がはるかに優れていて、熊木家と佐藤家の両方の視点から物語が描かれ、初代での悪役と良役は二代目で逆転し、あまつさえ二代目で双方の息子と娘が恋仲になって子供を孕むという複雑な展開になります。
また、この「デューン」では色々な宗教、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教までが登場するのですが、そのほとんどはキリスト教視点という感じがしました。後、エヴァンゲリオンの「人類補完計画」はこの作品でのベネ・ゲセリットの人類血統改良計画のパクリなのだなと思いました。各聖典を統一するという話がオマケに出てきますが、実際の所は、キリスト教の中で聖書の翻訳を統一しようとする試み(エキュメニズムというキリスト教統一運動の中から出てきたもの)ですらなかなかうまくいかなくて、強行にそれに反対する一派がいるくらいです。(昔J社で「キリスト教用語」の辞書を作ったことがありますが、その時に人名の固有名詞には新共同訳のを使ったんですが、それに対して文句を言ってきた福音主義派の牧師さんがいました。)
デューンは作者自身が書いたのは後5作あるんですが、続けて読むかどうかはちょっと考えます。
フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」(中)
フランク・ハーバートの「デューン 砂の惑星」の中巻を読了。この巻では砂漠の中に逃げ込んだポールとレベッカの親子が砂漠の民のフレメンと合流して一緒に暮らし始めます。ポールがフレメンから名前を与えられたシーンで、「これでおまえは、イフワーン・ベドウィー --- われらの兄弟となった」というセリフが出てきます。鈍感な私も、ここでやっとフレメンのモデルが実在の砂漠の民ベドウィンであることに気がつきました。(「ベドウィー」はアラビア語で、「ベドウィン」の元になっている単語。「イフワーン」はアラビア語で「同胞」の意味。)またこの作品が出版されたのは1965年ですが、1962年に公開されたデイヴィッド・リーンのあまりにも有名な映画「アラビアのロレンス」の影響も感じました。ついでに言うと、ハルコンネン男爵の名前は「ウラジーミル」でこれにはソ連のイメージが若干投影されているのかも。Eigoxの先生によると、作者は作家になる前はジャーナリストで中東に興味を持って色々調べていたとのことです。しかし、「聖戦 ジハード」という言葉もそのまま登場するので、どうしてもISISとかを想像してしまいます。Wikipediaによると、この小説はすぐに読者に受け入れられた訳ではなく、いくつもの出版社に出版を断られた後にようやく陽の目を見た作品のようですが、もしこの作品が「今の」アメリカで出版されていたら、更に困難があったのではないかと想像します。中巻はポールとリエト・カインズの娘のチェイニーが愛し合うようになる場面で終わります。Eigoxの先生によれば最終巻でまた大きなどんでん返しがあるとのことですので、期待しながら続きを読みます。