デジタルTVとノートPCの液晶の色みの違い

デジタルTVに映したPCの画面とノートPCの液晶では随分色見が違います。デジタルTVの方がやや派手ですが綺麗です。それに対して液晶はかなり青が強いです。これは前にキャリブレーション付きのディスプレイを試した時にも思ったことで、一般的なPCの液晶ディスプレイはほとんどかなり青が強いです。(上がデジタルTV、下がノートPCの液晶です。)

Pentax K-1のカードスロット故障

Pentax K-1のカードスロット1がおかしくなり、問題のないSDカードを挿入しても「カードに異常があります」と出て、そのスロットが使えません。K-1にはカードスロット2もあるので、それを使えば撮影自体は可能ですが、ファームウェアを更新する時には、スロット1を使わないといけないので、このままではファームウェア更新が出来ません。また、私はスロット1をRAW、2をJPEGに指定していましたが、こういうRAWとJPEGの同時記録も出来ません。サービスセンターで診てもらったら、カードスロットの故障ということで、基板交換で2万9千円くらいかかると言うことでした。泣く泣く承知しましたが、トホホです。私は撮影した後、カメラからSDカードを抜いて、これをノートPCのカードスロットに挿して現像する、ということをほぼ毎日約2年間に渡ってやっていましたが、どうもK-1のカードスロットはあまり耐久性が高くないようです。今後は、USBでカメラとPCをつないで、SDカードの抜き差しは最小限に留めるようにします。ちなみにこのUSBケーブルですが、カメラ側の端子がPentax独自のものとなっています。なので買った時に付いていたものを使う必要があります。(一応サードパーティーの互換ケーブルがAmazonで900円くらいで売ってはいます。)

追記:上記USBケーブルでPentax独自仕様のものなのは、K-5II用のものでした。K-1用については、普通のUSB電源用ケーブルが使えます。ただ、K-1については、USB3用のケーブルを使ったらカードを認識せず、USB2用のケーブルを使ったらOKでした。(2018年6月3日)

NHK杯戦囲碁 伊田篤史8段 対 藤沢里菜女流立葵杯(4段)

本日のNHK杯戦は伊田篤史8段の黒番、藤沢里菜女流立葵杯の白番という注目の一戦です。藤沢4段はまだ19歳ですが、既にNHK杯戦の常連となっています。布石は黒の伊田8段が目外しから大高目という意欲的な布石です。白が右下隅で三々に入り、黒がかけていってという展開になりましたが、白は封鎖を避けて中央に頭を出しました。しかし黒から劫含みで切断に行く手が残りました。先手を取った黒は左下隅で両ガカリしました。以前はこの両ガカリを許すのはあまり良くないとされていましたが、最近はAIの影響で敢えて手を抜いて他に打ち、両ガカリを許すことも多くなっています。AIの影響と言えば、黒が左上隅にかかったのに白が上辺のハサミがない状態でコスミツケたのも今風の打ち方です。しかし黒は先に右上隅にかかった白を挟んで、白が頭を出した時、上辺を好形に構えました。私としてはこれは黒に不満がないと思います。またコスミツケた左上隅についてはまだ完全に地にしたとは言えず、実際黒に2線に潜り込まれ、白は封鎖して打ちましたが、左上隅は黒地になりました。その後黒は左辺に取り残された3子をどうするか、まず左上隅と連絡させるかどうかの打診の手を打ちました。白はワタリを拒否したので、黒は3子を助け出すことになりました。この黒との競い合いで、白は4つ伸びた後2段にはねました。しかしその断点を継がず、他で地を稼ぐ手を打って頑張りました。黒は白が上辺に打ち込んで目一杯頑張って地を稼いだ時、左上隅から伸びる白へ切りを断行し、かつ上辺の白と左上隅から伸びる白のワタリを止める打ち方をしました。結果として左上隅から伸びた白の眼が怪しくなり、白はここでも目一杯頑張った活き方をしましたが、その代償として中央に取り残された3子がほとんど取られた形になりました。しかし白は下辺に手を付けていき、そこで地をかすろうとしましたが、白が覗いた時反発して跳ねだしたのが好手で、白の下辺の2子を手をかけないで取り込むことに成功しました。更に中央も目一杯広げて黒地にしたので、形勢は大きく黒に傾きました。その後更に右下隅の劫による切断を敢行し、白の中央での劫立てに受けずに劫を解消しました。この結果、白の一団は死残りで、たとえ取りかけに行かなくても地合で黒が優勢ということで、ここで白の投了となりました。伊田8段の戦い方のうまさと読みの確かさが光った一局でした。

PC画面をワイヤレスでデジタルTVにミラーリング(miracastなど)

Netflixに入ってPCで動画を観るようになりましたが、やはりノートPCの画面では今一つで、音もあまりクオリティがよくありません。また、アメリカのAmazonなどで買った、リージョンコードが違うDVDソフトがいくつかあり、これは手持ちの国産のブルーレイディスクプレーヤーでは再生できず、PCで再生するしかありません。HDMIケーブルでデジタルTVとPCをつなげば当然デジタルTVの大画面(40型)で映せるのですが、一々つなぐのが面倒だし、ケーブルが邪魔です。それでWi-Fiでつなげるんじゃないかと思って、調べてみたらmiracastというのがWindows 8からサポートされているようです。そこで、ELECOMのLDT-MRC02/Cというmiracastのレシーバーを購入しました。他には、Googleのchromecastというのがあって、これもPCの画面をキャストする機能があり、これも試しに買ってみました。そんなかんなで色々やって調べていたら、以前買っていたAmazon TV stick(2015年バージョン)もmiracastをサポートしていることがわかりました。そういう訳で3つのデバイスが手元にあるので、色々使ってみました。

(1)エレコム Miracastレシーバー ミラキャスト Windows10スマホ対応 Continuum機能搭載 LDT-MRC02/C

これは値段が高い(¥7,127)のがネックでしょうか。取り敢えずPCの画面をデジタルTVにWi-Fiで映すという目的は100%達成されています。miracastというのはP2P(ピアーツーピア)のWi-Fi接続のことらしいです。難点は、一回接続出来ても、PCを再起動するとまたつなぎなおさないといけないことで、前の接続のプロファイルも一々削除してからじゃないと接続し直しが出来ません。また接続にも20~30秒くらいかかるので、ちょっとイラっと来ることもあります。一旦接続してしまうと、途中で切れたりすることはありません。Netflixなどの動画も問題ありません。なお、TVにUSB端子が付いている場合は、TVから電源が取れるようになっていますが、Amazonのレビューによるとこれをやると電流が不足して動作が不安定になるみたいです。別に電源を取った方がいいと思います。

ただ、問題があったのはPCでのDVD再生で、手持ちのPowerDVDの12もPCに最初から入っていたWinDVDもmiracastをサポートしていませんでした。仕方がないのでPowerDVDをアップグレードして18にして今度はOKになりましたが、余計な出費でした。

(2)googleのchromcast

このデバイスは、AmazonのFire TV Stickとかなり機能的にかぶるせいか、現時点では日本のAmazonでは販売していません。ヨドバシカメラとかJoshinとかで購入可能です。
PCの画面をデジタルTVに映すのは、ブラウザーのChromeから操作します。設定の中の「キャスト」というのを使います。しかし、これについては色々と問題があって、PCの画面を切り替えたのに切り替えた新しい画面が表示されずに前のがそのまま残ったりします。またスピードも問題があり、PC上でマウスを動かした時のマウスカーソルの軌跡がキャストされたデジタルTV上では明らかに遅れて表示されます。
また操作はスマホにアプリを入れてそれをリモコン代わりに使います。専用のリモコンはなくちょっと面倒です。

(3)Amazon Fire TV Stick (2015年モデル)

私は、Fire TV Stickについては、Amazon Videoを観るためのものだと思い込んでいましたが、実はこれでもNetflixやHuluの動画を観ることが出来るのでした。また非常に分かりにくいのですが、何とmiracastも最初からついていました。しかし、何回かこれによるmiracastを試してみましたが、双方(PCとFire TV Stick)がきちんと認識されているにもかかわらず、接続はいつも失敗に終わりました。2015年モデルでのmiracastはオマケなんでしょう。たぶん2017年度モデルでは問題なくつながるんじゃないかと思います。

ということで、PCの画面を映したり、DVD再生の画面を映すためには(1)を使っており、Netflixの動画の再生には(3)を使っています。(2)は今の所あまり使い道が無いですね。
尚、Amazonで”miracast”で検索すると、2500円くらいの中国製のデバイスがトップに出てきます。これはNetflixやHuluを正式にサポートしていないということで買いませんでしたが、レビューを見ると一応いけるみたいです。
後、PCのことしか書きませんでしたが、(1)ではAndroidのタブレットやスマホの画面をデジタルTVの画面に映すことは簡単に出来ました。残るはiOSですが、iOSはmiracastをサポートしていません。ですが、(3)のFire TV Stickで”AirReceiver”という¥305の有償のアプリを入れると、iOSの画面もデジタルTV上にミラーリングすることが出来ました。

マックス・ヴェーバーの「経済行為の社会学的基礎範疇」(富永健一訳)

マックス・ヴェーバーの「経済行為の社会学的基礎範疇」を読了。これは、折原浩先生による「経済と社会」旧稿の再構成案で、「理解社会学のカテゴリー」に続いてトップに置かれているものです。但し注意が必要なのは、この部分は第一次世界大戦後にヴェーバー自身が旧稿を見直して校正を終了した「新稿」だということです。中を読めばこのことを裏付けるものはいくらも出てきて、戦争中の各国の金本位制の停止の話だとか、戦争中の統制経済の話、または終戦後にドイツの労働者が力をつけて経営者と話し合う協議会みたいなものを作って企業の経営に参加した話などが出てきます。
また、この「基礎範疇」部は、ヴェーバー自身が何度も書いているように、「決疑論(カズイスティーク)」の典型例だということも重要です。「決疑論」というのはあまりなじみのない言葉で、説明を聞いてもなかなか理解できない概念ですが、元はカトリックから出てきた言葉で、カトリックの教会の神父が、信者から告解(懺悔)を聞いた時に、基本的なことしか定めていないカトリックの教義体系からは、どう扱っていいか分からないような複雑で時には教義と矛盾する個別の事実に対し、どのように神学として処理して現実的な指針を与えるか、ということを研究した学問のようです。ラテン語の”casus”(事例、ドイツ語化するとKasus)に学問や技術を表す接尾辞である”istik”がくっついたものと言えます。
このように、元はカトリック神学から来ている言葉なのですが、ヴェーバーの文脈では、むしろ法学的な発想が元になっていると思います。法学の世界においても、既に存在している法が規定する事態と、現実に起こる数々の事例の間には、簡単に既存の法概念を適用すれば終わり、ということではなく、どのような法概念を持ちだしてくれば、新しく出てきた事例をきちんと法的に処理できるか、という問題が常に発生しています。ヴェーバーにおいては、理念型として設定された歴史上の事実を描写するための各類型が、実際の事象にどのように適合するのかしないのか、しないのであれば各類型をどのように考え直せばいいのか、そういったせめぎ合いがまさにヴェーバーのいう「決疑論(カズイスティーク)」なのではないかと思います。
ちなみに、私がこの語の意味を理解するきっかけとなったのは、森鴎外の小説「カズイスチカ」を読んだ時です。その中で、若い医者である花房がある農民の息子が破傷風にかかったのを往診し、実際の患者を診て「内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺(わす)れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。」ということに感心する、といった話です。医学の世界でも医学書が規定する各種の病気の病態と、現実の患者に現れる様々な病状を照らし合わせて病名を決定していく時に、まさしく神学や法学と同じような「決疑論」が使われる訳です。
また、ヴェーバーの社会学を理解する上で重要なのは、この決疑論の部分もそうですが、やはり原点は法学からだということです。ヴェーバーより25年若いドイツの法制史家のハインリヒ・ミッタイス(ヴェーバーの先輩の法制史家でRentenkaufの概念を古代ギリシアの事例を分析するのに適用したルートヴィヒ・ミッタイスの息子)は、「ドイツ私法概説」の中でこう書いています。「人間の団体に関する理論は、ドイツの法律学の最も重要な部分である。諸国民の社会的・文化的・政治的生活は団体の中でおこなわれ、団体は国家とその部分団体において頂点に達する。」「ローマ法は個人法の領域で、ドイツ法は社会法の領域で、その不滅の功績をあげたのである。」(創文社、世良晃志郎・廣中俊雄共訳、1961年初版、P.82)ヴェーバーの社会学はこうしたドイツ法学の伝統と切り離して考えることは出来ないと思います。
また、もう一つ興味深いのは、この「基礎範疇」の中で、ヴェーバーは貨幣論を取り上げますが、その内容のほとんどが、クナップの「貨幣国定学説」の再構成だということです。クナップは金属貨幣に見られるような実質的な使用価値よりも、紙幣に見られるような国家権力によって支えられた「シンボル性」を重視します。しかし、私はそれをさらに進めて、「貨幣とは言語と同じようなシンボルの体系である」と言い切る、カール・ポランニーの貨幣論を既に知っていますので、まったく驚きませんし、またヴェーバーは1920年に亡くなっていて、いわゆるハイパー・インフレーションの初期の状態は経験しているのですが、後数年生きてその後の大インフレーションの時期を経験していたら、その後自分の貨幣論をどう書き直したであろうか、という興味があります。

関連記事を出すプラグイン

Jetpackが出している、関連記事ですが、デフォルトは3つなのですが、それを6つにする方法をここに書きました。
しかし、何故か最近のWordPressのアップデートのせいではないかと思いますが、これが働かなくなって、また関連記事が3つに戻ってしまいました。
色々やってみたのですが、結局functions.phpに記述を追加するやり方では関連記事を6にすることは出来ませんでした。
結局のところ、いろいろ調べて”Contextual Related Posts”という関連記事を出すためのプラグインを入れました。こちらは最初から関連記事の数が6になっています。このプラグイン、最新のWordPressではテストされていない、という注が出ますが、今の所問題なく動いています。

原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」

原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」を観ました。この有名な映画を観たことがなかったのでDVDを買ったものですが、あまり予備知識がなく観たので、最初普通の映画と同じく俳優が演じているのだと思っていたら、途中からどうもこれはドキュメンタリー、つまり奥崎本人なんだということにようやく気がつきました。奥崎の過激な思想にはついていけませんが、それよりショックを受けたのは戦時中のニューギニアのあまりにも悲惨な話です。ニューギニア戦線での日本軍の飢えとの戦いは、水木しげるの漫画などでも扱われていますが、戦争が既に終わって20日も経っている(しかも戦争が終わったことは皆知っている)にもかかわらず、2人の兵隊に敵前逃亡の罪を着せて軍法会議も無しに5人の人間で射殺し、なおかつその死肉を皆で食べた、というのに衝撃を受けました。さらに別の部隊ではくじ引きで犠牲者を決めていたとも。おそらく関係者が口をつぐんでいるだけで、この手の話は他にも山のようにあったのではないかと。所詮私たちが知っているのは氷山の一角だと思いました。
奥崎謙三本人については、その暴力肯定の思想は承服出来ませんが、ある意味筋を通している人という感じはしました。また昭和天皇が責任を取っていないので皆無責任のまま、というのは丸山真男の「無責任の体系」と同じ発想です。

マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳

(以下は4月17日に書いたものです。)
マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳がアメリカのAmazonから到着。モーア・ジーベック社の全集のこの論文を含む巻は既に到着済みですから、これで翻訳を開始できます。懸念点であった中にかなりたくさん出てくるラテン語の引用文もこの英訳ではきちんと英訳されていました。これならラテン語の初級文法を終わっただけの私でも、ラテン語と英語を見比べてラテン語の内容を理解することは十分できると思います。開設済みのmax-weber.jpのサイトを使い、準備が出来たら「オープン翻訳プロジェクト」を開始したいと思います。
「オープン翻訳プロジェクト」とは、
(1)翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。(ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
(2)出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。(日本の法律では確か著作権を完全に放棄することは出来ないと思いますが。)
(3)翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
(4)翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
(5)可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。

このプロジェクトで、日本における学術書の翻訳に新たな流れを作ることが出来ればいいなと思います。

ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」

(この記事は4月14日に書いたものです。)
ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」を読了。例のテンブルックの「「経済と社会」からの訣別」への応答である論考が含まれているの読んでみたもの。既に「「経済と社会」仮構の終焉」も読んでいるため、重複する部分が多く、あまり新しい知見は得られませんでしたが、シュルフターという人は論点を整理するのがうまい感じで、その面での益はありました。ちなみに、シュルフターは一貫して「経済と社会」ではなく「経済及び社会的秩序と勢力」であると主張しており、「全集」でも「経済と社会」に固執するモムゼンとの妥協が行われず、結果的に「経済と社会」と「経済及び社会的秩序と勢力」が並記される(但し後者はあくまでも副題的な扱い)ことになっています。後書きでこれまでのシュルフターの経歴が示されていましたが、意外だったのは元々はシュルフターは決して「ヴェーバー学者」ではなかったということです。

NHK杯戦囲碁 中野寛也9段 対 鈴木伸二7段

本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が中野寛也9段、白番が鈴木伸二7段の対戦です。鈴木7段は7年ぶりの出場だということです。布石は双方が隅にかかった石を挟まれたまま放置するというのが何ヶ所も出来た不思議な進行でした。右上隅では黒はかかった白にコスミツケて、白は立たずにケイマにかけて打ち、黒がぐずんで切りに行った時手を抜いて他に打ちました。結局黒はぐずんだ所から出て右上隅は完全な黒地になりました。その後白は上辺に左上隅にかかった黒へのハサミというか打ち込みを行い、黒が中央に一間に飛んだ後、上辺に渋く一間に開きました。黒は左上隅にすべりましたが、ここで白は元々かかった石の上の2線に付けました。黒は押さえずにコスミで打ち、結局白が隅を取り、黒は白の左辺の1子を切り離す振り替わりになりました。この結果は黒に不満がないものでした。その後白はすぐ左辺で切り離された1子を動き出しました。黒はそれをすぐに受けずに上辺の白に利かしに行きました。これに白が反発し、中央での戦いとなりました。結局黒は左辺で動き出した白を取りました。中央の左側の白は左辺を犠牲にしてほとんど活き形になったのですが、黒はしかしこの白への攻めを決行しました。結果から見ると、左側の白より右側の白を攻めた方が良かったのではないかと思います。ただ黒の攻めも厳しく、白は一眼しかありませんでした。黒が攻めながら左下隅になだれ込んだ時、三々にまで踏み込んだのがある意味手拍子で、白に割り込まれて黒3子か三々の黒かのどちらかが取られることになり、結局黒は隅で活きて3子を捨てました。この結果左側の白がはっきり活きてしまうと今度は中央の黒が非常に薄くなりました。しかし黒は形勢不利と見て、右辺を目一杯囲い、中央は放置しました。その後の白の攻めに黒は右下隅の黒に悪影響を与えないように活きようとしましたが、さすがにこれは無理があり、結局中央の黒は一眼も出来ずに取られて、ここで黒の投了となりました。