「原子力潜水艦シービュー号」の”The mist of silence”を観ました。冷戦まっただ中での番組だけあって、今度は明らかにキューバを舞台にしています。そこの革命を主導した政治家がアメリカに亡命を希望しているという秘かな連絡があって、シービュー号がランデブーの海上に向かいます。しかしそこに現れた船には人が乗っていませんでした。そこでクレーン艦長以下3名がその船に乗り込んで探っていましたが、そこに突然新種の神経ガスが流れてきて全員気絶し拉致されます。その町には赤い星のマークを付けた戦車が走り、政府ではある政治家が革命を主導した政治家を薬漬けにして自分の思うままに操り、そして写真のように裏ではアジア人(多分北朝鮮?キューバは当時中ソ戦争でソ連側に付いたので中国との関係は悪かったようです)がキューバとつるんで陰謀を企んでいるという、実にわかりやすい設定。クレーンの部下は順番に射殺されていきますが、2人目の処刑の所で、毒ガスのトラックを奪ったネルソン提督が政府のビルに突っ込んで、クレーン達と老革命家を救ってという話です。しかし、シービュー号の話である必然性があまりない話でした。ちなみにDVDは最後の方で再生できなくなり、やむを得ずYouTubeで続きを観ました。
小津安二郎の「東京物語」
小津安二郎の「東京物語」を観ました。いまさら私がこの名作に何か言っても仕方がないのですが、「紀子三部作」の中ではこの作品の紀子さんが一番不自然だと感じました。
実際の子供たちが冷たいように描写されていますが、非難すべき筋のものではなく、あんなもんだと思います。母親が子供の頃亡くなったのであればそれなりに悲しみは強いでしょうが、子供たちが既に十二分に自立しており親もそれなりの年であれば、愁嘆場はあまりないと思います。むしろ紀子さん出来過ぎでちょっと実在感がないです。彼女はこの先どのように生きていくのでしょうか。
この映画での老母は68歳で亡くなっています。今だとかなり早いでしょうが、1953年当時だと普通ではないかと思います。私の母は67歳で亡くなりました。
「原子力潜水艦シービュー号」の”The fear-makers”
「原子力潜水艦シービュー号」の”The fear-makers”を観ました。潜水艦ものには必ずと言っていいくらい出てくる「圧壊深度」もの。潜水艦ポリドールが最高深度のテスト中に、クルーが突然パニックを起こしたため潜水艦はコントロールを失い、深度4,200フィート(1,280m、現在の潜水艦でも圧壊深度が1,000mを超えるものはまずない)の深海で本当に圧壊してしまいます。実はこの事件は「某国」の陰謀で、ある博士が開発した人間に恐怖心を与えるガスのせいでした。ネルソン提督はこの事故の原因を突き止めるため、今度はシービュー号でその現場に向かいますが、クルーの心理的な調査を行うという名目である心理学の博士が乗船しますが、それに付いてきた助手が某国のスパイで、シービュー号にも恐怖ガスを仕掛けます。シービュー号は圧壊深度で破壊されたポリドールの残骸に衝突し、浮上に使うバラストタンクのポンプが動かなくなります。クルーの一部がパニックを起こします。某国のスパイは博士から恐怖ガスが時間が経つと神経ガスに変わってそれを吸った人間を殺してしまうことを聞き、騒ぎ出してネルソン提督に真相を打ち明けます。ネルソンは博士から室温を上げればガスは天井付近に移動することを聞いて、シービュー号のあらゆる熱源を使って船内をサウナ風呂状態にします。シービュー号のクルーの必死の頑張りでポンプが動き出し、ようやくシービュー号は危機を脱して浮上するという話です。某国の目的はアメリカに深海開発を諦めさせて自分達だけが深海航行のメリットを享受することでした。さすが冷戦まっただ中での番組だけあてそういう設定がきわめて多いです。
エーリヒとカルロス/二人のクライバー
クレメンス・クラウスの97枚組を聴き終えた後、私は今度はエーリヒ・クライバーが聴きたくなり(二人は同じウィーン生まれで同時期に活躍していたライバルです)、既に沢山エーリヒのCDを持っているにも関わらず、重複覚悟でエーリヒの34枚組を購入しました。まだ聴いている途中ですが、驚くのはベートーベンの「田園」(交響曲第6番)が5種類も入っていることです。そもそも私がエーリヒ・クライバーという指揮者を大好きになったのは、学生時代にエーリヒの指揮によるコンセルトヘボウ管弦楽団の「田園」を聴いてからです。そのオケの自在なコントロール振りと、歌心溢れる演奏に一発で魅了されました。この34枚組に「田園」が5種類も入っているのは、やはりエーリヒの得意曲だったということでしょう。
面白いのがエーリヒの息子のカルロス・クライバーで、元々カルロスが有名になった演奏はベートーベンの交響曲5番と7番ですが、6番の「田園」については私の知る限り1983年のライブ盤のみが残されています。父親が「田園」を得意としていたから、カルロスの「田園」が素晴らしいかと言うと、私に言わせると、彼の残したCDの中でおそらく最低の演奏がこれです。極めてテンポがせかせかしていて落ち着きが無く、最終楽章もさらっと終わってしまって、ライブですが聴衆が「え?もう終わったの?」という感じで呆然としてしまい、拍手が始まるまでかなりの時間がかかっています。今、Amazonのレビューを見たらそういう演奏を褒め称えている人もいますが、カルロスのCDにしてはレビューの数も少なく、私は少数意見と思います。
エーリヒは彼自身の書き込みが入った多数の楽譜をカルロスに残したとされています。カルロスのレパートリーがかなりの部分エーリヒとかぶっているのはそのせいもあると思います。しかし、「田園」に関しては一子相伝の芸にはなっていないように思います。
白井喬二の「筒井女之助」
白井喬二の「筒井女之助」を読了しました。週刊朝日別冊の1960年11月号に収録されています。この筒井女之助というのは、尼子十勇士の中の一人の井筒女之介(実在した可能性がある人物のようです。かぶき者で女装し女性の髪型をしていた、と伝えられています)をモデルに白井が創作した人物だと思います。女之助は安芸の境備後の子ですが、5歳までは女装させられて育ち(昔は魔除けの意味で男子に女装させて育てるのは珍しい話ではないと思います)、めそめそ泣いてばかりいた弱虫でした。元々「翁丸」という名前でしたがそういう所から「女丸」と呼ばれるようになり、これが転じて「女之助」になったと説明されています。この女之助は9歳で初陣に出ますが、11歳頃から功名手柄をあらわして、そのうち自分で曰く「戦さやくざ」となり、戦場の高揚した雰囲気ではないと満足を感じなくなります。女之助は松永弾正から稚児にされかけますが、これを敢然とはねつけます。また青屋広忠の娘の露姫が女之助に恋しますが、これもまったく相手にしません。そのうちに松永弾正は織田信長との戦いになり、戦さが大好きな女之助はその見物に出かけます。そこで露姫に再会しますが、露姫は女之助を思う気持ちが昂じて正気を失っていました。さらに露姫は松永弾正に毒殺された父親の仇を討つために弾正を付け狙っていました。弾正が信長との最後の戦いで追い詰められていた所に露姫がかけつけ仇を討ち同時に火中に身を投じます。それを見ていた女之助も同じく火中に身を投げ自害するというちょっと不思議な話です。
3枚目の写真はオマケでこの週刊誌のグラビアにあった若き日の黒柳徹子です。(左側)
原子力潜水艦シービュー号の”The city beneath the sea”
原子力潜水艦シービュー号の”The city beneath the sea”を観ました。ある男が海底に秘密基地みたいなのを作って世界征服をたくらんでいるのを、シービュー号がそれを破壊する話です。まだクレーン艦長がその秘密基地に捕まっているかもしれないのに、何も考えずに魚雷をぶっ放してその基地を完全破壊するネルソン提督。どうでもいいですが、最新鋭の潜水艦の割りには魚雷のセットが手動だったりします。前方のカメラのモニターも明らかにブラウン管で、近未来という感じはまるでなく時代を感じます。
NHK杯戦囲碁 秋山次郎9段 対 河野臨9段
日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が秋山次郎9段、白番が河野臨9段のトッププロ同士の興味深い対局です。布石はごくオーソドックスでしたが、今時の対局でAI風の手が出ないということはまず無く、この碁でも白が右上隅の黒の小ゲイマウケに肩付きし、更に右下隅の大ゲイマジマリの星の位置に付けていったのがそうです。しかしながら布石はどちらも手堅く打っていました。局面が動いたのは黒が左辺から左上隅にすべった時で白は三々に受ければ普通ですが利かされと見て左辺の黒に付けて行きました。黒は上からハネて、どちらも石が分断され、急に戦いが始まりました。ここで白の打ち方が変幻自在というか、取られかけていた3子を更に大きくして5子にして捨て、その代わり左辺でサガリと当てを利かし、また絞って、左下隅の地模様を大きくしました。黒は5子をポン抜いてこれ以上ないくらい厚くなりましたが利かされた石のせいで石が重複気味でした。黒はその後鉄壁の厚みを活かして上辺に打ち込んでいき、白を分断しましたが、白も両方の眼形を確保して黒にチャンスを与えませんでした。その後焦点は右辺と右下隅になりました。黒は白を分断し攻めを狙いましたが、上方の白はほとんど活き形でした。それで黒は右下隅から延びる白を狙いました。その過程で下辺の白にモタレて攻めの体制を作ろうとしましたが、途中疑問手があり、白への攻めは不発で却って自分の活きを図らないといけなくなりました。ここで白が完全にリードしました。その後白が右上隅に置いて行って攻め取りにさせて締め付けるヨセを狙いましたが、白が間違えあまり締め付けが利きませんでした。そういうミスはありましたが、その後は手堅く打ち、終わってみれば白の2目半勝ちでした。
エストニアのタリン Tallin in Estonia
Eigoxの英語のレッスンで、海外に70回以上行ったことがあると言ったら、何人かの先生からどこが一番良かったか聞かれました。私としては一番印象に残っているのは2008年に訪問したエストニアの首都のタリンです。
In some lessons of Eigox (online English lesson), when I said to the teachers that I had ever traveled abroad more than 70 times, they asked me which country was the most impressive one. For me, Tallin in Estonia, which I visited in 2008, was the most impressive place.
「ペンギン・ハイウェイ」(森見登美彦原作のアニメ)
「ペンギン・ハイウェイ」を観て来ました。なかなか良かったです。主人公が小学4年生の少年のせいか、子供連れの客が多かったですが、ちょっと子供には難しいのではないかと思います。原作は森見登美彦です。私は森見登美彦の小説は全部読んでいるので、この小説も2010年に出た時に読んでいます。その時は森見登美彦もちょっと新しい方向を模索しているな、という感じで、ストーリーもほとんど覚えていません。なので映画で原作とどこが変わっているかは分かりません。印象的なのは主人公の少年が全くの不条理な現象に対しとことん「科学的」アプローチを貫こうとしている所で、また少年のお父さんがいわゆるヒューリスティックス(エウレカ)的な問題解決のアドバイスを与えたりしてなかなか格好いいです。この辺り京都大学農学部出身の森見登美彦自体の少年時代がおそらく反映されているのでしょう。しかし森見ワールドと言うのはそういう合理的・科学的な世界と幻想的な非合理的世界が境界が曖昧なままミックスされていることで、日本の高度なアニメ技術はその辺りをうまく表現していました。またアニメそのものはCGだけに頼らず、かなりの部分手描きが行われていたのだと思います。実際にクレジットにはかなりの数のアニメーターが参加していたようで、タツノコプロの名前も見えました。このアニメはまた少年のVITA SEXUALISでもあります。結構あの年頃って年上の女性に憧れたりしますが、その辺りが上手く描かれ、その少年が好きで「お姉さん」に嫉妬する同じクラスの女性もいかにもありそうな感じで良かったです。
Bangaku no Issho (The life of Bangaku) by Kyoji Shirai
Let me introduce today one of the most impressive novels of Kyoji Shirai: Bangaku no Issho (The life of Bangaku, “盤嶽の一生”). This novel is a collection of short stories featuring Bangaku that Kyoji wrote for several magazines from 1932 to 1935.
As the title shows, this novel describes the life of Bangaku Ajigawa (“阿地川盤嶽”), a lone wolf Samurai worrier, who loves rightness and always try to find it and is eventually betrayed. He was born in Bushu (the curent Saitama-Tokyo-Kanagawa area) and lost his father at 12 years old and his mother at 14. After the death of his parents, he was raised by his uncle, but because the daughter of his uncle (namely his cousin) disliked him much, he left his uncle’s house when he became an adult. Since his skill of swordplay reached the expert level when he was 26 years old, his master gave him a noted sword named Heki Mitsuhira (“日置光平”) .
As I wrote in my introduction of Kyoji Shirai’s life, Kyoji inherited the sense of justice from his father who was a policeman when he was born. Bangaku can be considered to be an alter ego of Kyoji. All Christians know the Jesus’ Sermon on the Mount: “Blessed are they which do hunger and thirst after righteousness: for they shall be filled.” (Mattew 5.6, KJV). Bangaku is truly one of those who do hunger and thirst after righteousness. If he were a Christian, he might have been filled, but he was not.
Repeated stories of Bangaku that he expects righteousness and he is finally betrayed and disappointed are funny but sad at the same time. For example, when he was living in a slum of the Edo city, he sympathized with miserable workers of a match factory. Since he had some scientific knowledge, he tried to construct an automated machine of match production in order to reduce the heavy work of the workers. When the machine was completed, however, the owner of the factory fired many workers because he can save them by the power of the machine. If we see another example, Bangaku tried once a fortune-telling play by throwing some unglazed dishes (fortune is judged by how dishes broke) because he thought that such thing can be completely coincidental and no human malicious intention is included. The truth was, however, the fortune-teller was preparing several patterns of broken dishes in advance and was selecting the results according to the economical status of the customer.
Bangaku gradually lost any expectation for adults and started to hope for young people. But some young guys betrayed him bitterly and then he started to hope for children, or finally for babies. All his trials were not satisfactory at all.
These stories had not been finished. IMHO, the author, Kyoji, could not find out an appropriate end for these stories, or he might have thought that Bangaku, a kind of dreamer, should wander in the limbo between expectation and disappointment eternally.
This novel was picturized twice and made to a series of TV drama also twice.
The first movie was taken by Sadao Yamanaka in 1933. Sadao Yamanaka was a gifted movie director but died as a soldier in China at the age just 29. While Kyoji Shirai was not satisfied with most movies based on his stories, he evaluated the talent of Sadao Yamanaka very highly. Although the film itself was lost by war, there was a legendary scene in the movie where some thieves of watermelon (Bangaku was having his eyes on a watermelon field in the night) act like rugby players passing a watermelon from one to another. Kon Ichikawa, a Japanese movie director who picturized the first Tokyo Olympic in 1964, watched this movie of Bangaku when he was a child, and he scripted for the TV drama of Bangaku broadcasted in 2002. Bangaku was played by Koji Yakusho (“役所広司”).