本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が張栩9段、白番が芝野虎丸7段の好カード。この碁の見所は中盤以降の双方がっぷり組んだねじり合いに尽きます。まずは張9段が中央で取られている黒石の利きを利用して下辺の白石を切り離し、下辺の地を大きく確定させました。その後黒がさらに取られている石を使って利かしに行きましたが、芝野7段はここを受けずに右上隅の黒1子を切り離して頑張りました。黒はそこで取られていた黒を再度担ぎ出し、この生死が勝敗のカギになりました。途中、両アタリにされるのが分かっていて白が当て返して打ち、これが好手のようでした。黒はそこで左辺に出ましたが、白が進出を押さえずに、2線を1間に飛んだのがまた好手でした。黒は結果として左辺を割りましたが、眼は出来ませんでした。普通ならここで黒の投了ですが張9段は諦めずに左上隅にからめて行き、ここを劫にしました。劫材は黒に多く、結局左上隅は黒が活き、また取られていた大石もヨセコウ付きの攻め合いになり、黒がかなり持ち返したように見えました。しかし冷静に形勢を見れば、やはり取られていた石から動いて損を大きくしたのが悪く、白の優勢でした。黒は左上隅の攻防で劫材を使い果たしてしまったのが痛く、大石の攻め合いのヨセコウは白がとことん頑張りました。終わって見れば白の4目半勝ちでした。芝野7段の読みの深さと形勢判断の確かさが光った一局でした。
グリムのドイツ語大辞典でのルターの言葉の原典(1月28日追記)
私は、2006年11月23日にアップした「羽入式疑似文献学の解剖」(ナカニシヤ出版の「日本マックス・ウェーバー論争」にも収録)の注釈の中で以下のように書きました。
http://www.shochian.com/hanyu-hihan-fc107.pdf
「グリムのドイツ語大辞典(CD-ROM版)で、”Beruf”と”Ruf”を調べてみた。このドイツ語大辞典が最終的に完成したのは、本文中に記述した通り1961年のことであるが、”Beruf”の項は1853年にJ. Grimm、”Ruf”の項は1891年にM. Heyneにより編集されており、ヴェーバーが倫理論文を書く前の編集である。ヴェーバーがグリム大辞典(の当時出版されていた分冊)を参照したかどうかは倫理論文中には記載されていないが、OEDの前身のNEDをあれだけ参照しているヴェーバーがグリム大辞典を参照しなかったということは想定しにくい。
“Beruf”の項では、2つの語義が書かれている。1つめはラテン語のfamaにあたる、「名声・評判」という意味である。2番目の語義が、ラテン語のvocatioに相当し(ドイツ語ではさらに新たな意味が付与された)、いわゆる「天職」である。ここでグリム大辞典は、この意味での語源の一つを、”bleibe in gottes wort und übe dich drinnen und beharre in deinem beruf. Sir. 11, 21; vertraue du gott und bleibe in deinem beruf. 11, 23” 、つまりヴェーバーと一致して「ベン・シラの書(集会の書)」としている。
これに対し、”Ruf”の項では、「過渡的な用法」として、「(内面的な使命としての)職業」を挙げている。また、「外面的な意味での職業」、つまり召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかったと説明されている。さらにはルター自身の用例が挙げられている:” und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff. LUTHER 2, 314a” このルターの章句がどのような文脈で使われたものなのか、残念ながらまだ突き止められていない。しかしながら、ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言しているのは非常に興味深い。(以下略)」
このグリムのドイツ語大辞典のルターの用例の原典を、実に11年2ヵ月の期間をかけて、ようやく突き止めることが出来ました。
それはJohann Georg Walchというルター派の神学者が1740年から1753年にかけて出した24巻のルター全集(ルターの著作にはドイツ語だけではなくラテン語のものも多く含まれますが、この全集はラテン語のものをすべてドイツ語に翻訳しています)の中のルター全集の第8巻の中に含まれていました。( Dr. Martin Luthers Sämmtliche schriften, Achter Theil, Auslegung Johannes 7-20, ApG 15 und 16 und 1 Kor 7 und 15, kürzere Auslegung der Epistel an die Galate)
ルターがこの部分の説教を行ったのは1523年8月となっています。ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を完成させた約1年後です。
該当部分の画像をアップします。そして、問題の箇所を含む部分をテキスト化(元はFraktur=ヒゲ文字のドイツ語)したのが以下です。
(全巻のテキストは、 https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015074631824;view=1up;seq=1 で見ることができます。)
Und ist zu wissen, daß dies Wörtlein “Ruf” hier nicht heiße den Stand, darinnen jemand berufen wird; wie man sagt: Der Ehestand ist dein Ruf; der Priesterstand ist dein Ruf; und so fortan. Ein jeglicher hat seinen Ruf von Gott. Von solchem Ruf redet hier St. Paulus nicht, sondern er redet von dem evangelischen Ruf, daß also viel sei gesagt: Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist, das ist: Wie dich das Evangelium trifft, und wie dich sein Rufen findet, so bleibe. Ruft dir’s im Ehestande, so bleibe in demselben Rufen, darinnen dich’s findet; ruft dir’s in der Knechtschaft, so bleibe in der Knechtschaft, darinnen du berufen wirst.
(一部小文字を大文字に変更)
やはり原典に当たってみるということは重要で色々と注意事項があります。
(1)元のルターの説教はラテン語だということです。つまりグリムのドイツ語大辞典に引用されているのは、ルターのラテン語テキストをWalchが(その当時の)ドイツ語に訳したもので、ルターが自分でこのようなドイツ語をしゃべったのではないということです。
(元のルターのラテン語は、別途探してみるつもりです。)
→1月28日追記:これは私の勘違いで、最初からドイツ語でした。ワイマール版ルター全集の第12巻のP.132にオリジナルがありました。
D. Martin Luthers Werke, Weimar 1883-1929
Weimarer Ausgabe – WA
12 Reihenpredigt über 1. Petrus 1522; Predigten 1522/23; Schriften 1523
Das siebente Kapitel S. Pauli zu den Corinthern. 1523.
P.132
興味深いのは、このルターのオリジナルでは、”Bleybe ynn dem ruff, darinnen du beruffen bist,”がWalch版では”Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist”になり、ruffがBerufに置き換えられていることです。Walch版はルターの死後約200年後(ヴェーバーの約150年前)ですが、この間にruffがBerufに置き換わったという文献的証拠の一つになります。(羽入はルター聖書ではBerufではなく、ruffだったということを世界的発見のように書きますが、要はruffが使われなくなりその後Berufに変わったということは、ヴェーバーの当時は公知の事実だったということです。)
尚、このワイマール版のが検索で見つからなかった理由ですが、Frakturのテキスト化が無茶苦茶だからです。おそらく普通の書体用のOCRでFrakturをテキスト化しています。PDF版からこの部分のテキストを取り出すと以下のようになります。これではヒットする訳がありません。
Unb ift au tüiffen, ba§ bi$ luortlin ‘ytuff’ Ijie nid^t Ijeljffe beu ftanb,
borljuueu Ijemaub beruffen tüirt, iDte mau fagt: Der cljeftanb ift belju ruff,
ber priefter ftanb ift belju ruff, unb fo fort au el)u iglic^er ^^att feljueu ruff 25
öon ©Ott. 3>ou foldjem ruff rebet l)ie 6. 5pautu’^ uidjt, Sonbern er rebet öon
bem Gnaugelifdjen ruff, ba§ alfo öiel fei) gefagt: ^leljbe ijnii bem ruff,
barl)nnen bu beruffen bift, ha§ ift, loie bic^ ba§ ©öangelion trifft, uub mie
bidj fel)u rüffeu finbet, fo bleljbe. ^Küfft bQrs ijui eljcftanb, fo bleljbe l)uu
bem fclben rüffeu, barljuncn bic^y finbet. Ütüfft bljrS l)un ber fnec^tfd^afft, 30
fo bleljb Ijun ber fnec^tft^aff t , barljunen bu beruffen luirft.
(ワイマール版ルター全集は、ここで参照できます。)
(2)確かにルターは、コリントⅠ7,20の”Ruf”を、「結婚している状態」の「状態」や、「聖職者としての身分」の「身分」の意味ではない、と言っていますが、上記の部分を読む限り、それが「世俗職業」の意味だとは一言も言っていません。テキストから読み取られるのは、そうした「結婚している状態」や「聖職者としての身分」にある時に「福音としての召命」を受け、その「福音としての召命」がからんだ「状態」や「身分」がRufだと言っているように思えます。これはパウロが元々言っていることと大きく隔たっていないように思います。グリム辞書が「召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかった」と書いているのはまさに正しいと思います。
ところで、今回テキストの原典を発見できた理由ですが、それはGoogleがこの本を電子テキスト版にしてネットにアップしてくれたからです。2008年当時は色々検索語を変えて検索してもまったくヒットしませんでしたが、今回”wie man sagt, der ehestand ist dein ruff,”のGoogle検索で1番目に出てきました。それまでに、「ルター全集」のソフトウェアを買ったり、ワイマール版ルター全集のテキストが参照できるページで必死に検索を繰り返していたのが馬鹿みたいです。テクノロジーの進化というのは恐ろしいもので、自称だけのインチキ文献学者とか、インターネット上の文献をぱくって論文を書くような学者は、もう完全に淘汰されていると言っていいと思います。
ちなみに、昨年の10月31日が、ルターが95ヶ条の論題を発表し、宗教改革が始まって丁度500年でした。そういう節目の年にルターの発言の原典が見つかって感無量です。
吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(風の巻)
吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(風の巻)を読了。全6巻の内の第3巻です。この巻でも戦後吉川英治がGHQの検閲を恐れてせっせと削除したくなるような箇所は出てきていません。もしかすると、削除ないし書き換えたのは、非常に細かい表現の部分なのかも、と思い始めました。この巻では吉岡一門との戦いが出てきて、吉岡清十郎、吉岡伝七郎の兄弟と続けて倒し、そのため吉岡一門全部とも戦うことになります。この吉岡一門との戦いは実在の武蔵が晩年良く語っていたということで、ある程度事実なんでしょうが、伝七郎との戦いは引き分けだったとか、この戦いの後も吉岡一門が存在していたという説があります。
またこの巻では武蔵のライバルである佐々木小次郎が登場します。実は朝日新聞に連載していた時は、この巻くらいまではまるで人気がなかったそうです。主な理由は話が暗いから。ところが小次郎が出てきてから人気に火が付いたみたいです。その小次郎は武蔵が求道者タイプに描かれているのに対し、とても生意気で成功欲の強い俗物に描かれています。一説に拠れば直木三十五をモデルにしているのだとか。元々吉川英治がこの小説を書き始めたのは、「武蔵が名人かそうでないか」という直木三十五との論争がきっかけです。
吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(水火の巻)
中学の「技術・家庭」の教科書(2)
Wiliam Fulkeのカタカナ表記は「ファルク」か「フルク」か-羽入辰郎の(ある意味どうでもいい)指摘への反論
羽入辰郎が、「マックス・ヴェーバーの犯罪」に対する批判に対して回答した書が「学問とは何か -『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後-」です。この本の内容はあまりに低劣極まりないものなので、あまり言及したくないのですが、その中のP.135からP.142が私の文献調査への言及となっています。その中のP.138に「ファルク[sic: 正しくはフルク]」というのが執拗に何度も登場します。Wiliam Fulkeという、カトリックを批判した注釈を付けた新訳聖書を1589年に出したイギリス人のことなのですが、私はウィリアム・ファルクという表記を使っています。これに対して羽入はそれは誤りで「フルク」が正しいと言っているのですが、果たしてこの訂正は正しいでしょうか?(sicというのは、「原文のまま」という意味で、誤りだと思っているけどそのまま引用します、という意味)
ちなみに、外国人名のカタカナ表記というのは、辞書屋にとってはある意味非常に頭の痛い問題であり、色々と考えることがあります。お役所的な基準としては、文科省から内閣告示二号として「外来語の表記」というのが出されています。しかし、この基準はどちらかと言うと、「チェ」とか「ツァ」とか「ディ」のように、外国語の表記でしか登場しないカナ表記の基準を定めているだけで、一番問題になるその表記の「揺れ」については、留意事項の2で「「ハンカチ」と「ハンケチ」,「グローブ」と「グラブ」のように,語形にゆれのあるものについて,その語形をどちらかに決めようとはしていない。」とあっさり逃げてしまいます。
例えば、英語で”interface”という単語がありますが、インターネットを検索していただければ分かりますが、これの日本語カタカナ表記は、「インタフェース」「インターフェース」「インタフェイス」「インターフェイス」と実に4種類もあります。また、一部のエレクトロニクスメーカーのエンジニアが”computer”の語尾の”er”は長音ではない、とある時期言い出し、「コンピュータ」という表記がそういうメーカーやJISなどで使われ、マスコミでは「コンピューター」が使われる、という変な状況が長く続きました。これについては、かつてマニュアル執筆者の団体から批判が起き、マイクロソフトなどのIT系は「コンピューター」表記に変更して譲歩し、今は「コンピューター」が優勢になっています。しかし、こちらが本当に正しいのかというと、”slipper”については軒並み「スリッパ」であり、「スリッパ-」と表記する人はまずいません。(私はこれらの語尾の”er”は短音でも長音でもなく、1.5倍音とでも言うべきものだと思っています。)
外国人名のカタカナ表記について、準スタンダート的に扱われたものがあるとすれば、岩波書店の「西洋人名辞典」だと思います。私はこの本は持っていないのですが、この本も色々問題があって、たとえば「ポーランド人の氏名には長音を使用しない」という原則を出しているらしいです。そのせいで「なんとかスキー」とか「なんとかツキー」というスラブ系には共通する名前が、ポーランド人の場合だけ「なんとかスキ」とか「なんとかツキ」と表記される、というおかしな現象を生み出す元凶になっています。(この問題については、詳しくはここを参照ください。)
さらに例を挙げれば、アメリカのアイダホ州の州都はBoiseといいますが、これのカタカナ表記が「世界地名辞典」などに収録されているものが見事にばらばらで、「ボイス」「ボイシ」「ボイシー」「ボイジー」などが乱れ飛んでいます。私が発音機能付きの英和辞典で確認した限りでは一番原音に近い表記は「ボイシー」でした。
さて、Wiliam Fulkeのカタカナ表記に戻りますが、羽入の言うように、「フルク」が正しい表記で「ファルク」は間違っているのでしょうか?
日外アソシエーツという会社が、「外国人名読み方字典」というのを出していて、これで”Fulke”を引いてみると、「ファルク; フルク; フルケ」のように、「ファルク」が先頭に来ています。
(この日外アソシエーツという会社の作るものは個人的にはあまり信用していませんが、それはさておいて)
では、ネイティブである現代のイギリス人がFulkeをどう発音しているかですが、次のようなサイトで実際に音声を聞くことができます。
https://www.babynamespedia.com/meaning/Fulke
https://www.howtopronounce.com/fulke-greville/
http://www.pronouncekiwi.com/Fulke%20Greville
聞いていただくとわかりますが、一番多いのが「ファルク」に相当する発音、次が「フルク」ですが、「フルカ」に聞こえるのもあります。
また
https://www.babynamespedia.com/names/boy/lke-endのサイトでは以下の記載があります。
The baby boy name
Fulke is pronounced as FAHLK- †. Fulke is an English name of Germanic origin. Fulke is a variant spelling of the English name Fulk as well as a variant form of the English and German name Folke
とあります。厳密に言えば、ここの説明は「名前」としてのFulkeであり、「姓」としてのFulkeではありませんが、おそらく発音上での差はないと考えられます。ここでははっきりと発音は「ファルク」(またはファールク)であるとしており、なおかつ元々英語/ドイツ語のFolkeが英語に入って綴りが変わった単語(ヴァリアント)だとしています。ドイツ語式にこれを発音すれば「フォルケ」で、「ファルク」という発音はそれを踏襲していると言えます。
英語全般の発音の感覚から言っても”Fulke”を「フルク」と発音するのはきわめて違和感があります。(念のため、私の英語力はTOEIC 965点です。)上記のサイトでの確認でもわかるように、”Fulke”をイギリス人ネイティブに読ませたら一番多い発音は「ファルク」に近いものです。
以上の調査の結果から、羽入が言っている「正しくはフルク」という指摘は何の根拠もないことが判明しました。(この聖書学者だけ「フルク」と発音する、というのもおそらく何の根拠もないと思います。)多少譲歩したとしても現地で「ファルク」と「フルク」と「フルカ」という発音の揺れが存在するのであり、そのうち一つだけが正しいとする根拠は見当たりません。羽入の主張は、おそらくは日本の英語学者(の一部)が「フルク」というカタカナ表記を採用している、というだけのことだと思います。羽入のパターンとして、日本人英語学者の説を鵜呑みにして、それを根拠に他を居丈高に非難するというのがあります。典型的な例としては、永嶋大典の「英訳聖書の歴史」のある意味誤った記述を鵜呑みにして、ヴェーバーのみならずOEDまで間違っているというきわめて滑稽な批判をしたというのがありますが、今回もほぼ同じだと思います。
羽入が執拗に「ファルク[sic: 正しくはフルク]」を繰り返しているのは、要は他の論点に関しては完膚なきまでに反論されてしまい、何も言うことができないので、口惜しくてこんなどうでもいい所を執拗に言っているのだと思います。しかし、ここで論証したように、それすら根拠のない批判に過ぎません。
ノーマン・G・フィンケルスタインの「ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち」
ノーマン・G・フィンケルスタインの「ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち」を読了。デボラ・リップシュタットの「肯定と否定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」をより客観的に評価するために読んだもの。フィンケルスタインは自身もユダヤ人で、その両親は両方とも強制収容所の生き残りです。フィンケルスタインは、アメリカのユダヤ人エリートたちが、「ホロコースト」を政治・経済的な道具として、スイスの銀行からなどから金をむしり取ろうとする動きを「ホロコースト産業」と呼んで強烈に批判します。筆者によれば1960年代の終わりまで、アメリカで「ホロコースト」が話題にされることはほとんどなかったと言います。それが変わったのがイスラエルがアラブ諸国に対して完全な勝ちを収めた第三次中東戦争からで、アメリカはイスラエルを中東における自分たちの権益の代弁者と見なすようになります。またイスラエルのプロパガンダとして、この戦争でアラブ諸国に対して圧倒的な軍事力を持っていたのにも関わらず、ユダヤ人に対して「第二のホロコースト」が行われようとしている、という考えを広めていきます。その過程で「ホロコースト」の政治・経済的な価値が見直されていきます。それがもっとも顕在化したのが、1995年から始まるスイスの銀行に眠っているとされたユダヤ人の休眠口座のお金を返還するように求める運動で、その過程で「強制収容所からの生還者」は実数の10倍近く水増しされ、法的に正当な要求というより一種の「ゆすり」であったことが述べられます。しかもスイスから支払われた巨額のお金が本来それを手にすべき強制収容所からの生還者にはほとんど回らず、ユダヤ人の諸団体によって別の目的に流用されたことが強く批判されています。
デボラ・リップシュタットもこの本に登場し、筆者によればリップシュタットの本は、実際にはそれほど力を持っていた訳ではない現在の反ユダヤ論者の存在を誇張し、聞いたこともないような反ユダヤ論者をリストアップしたとしています。また、リップシュタットの裁判の相手であるアーヴィングについては、ヒットラーの賛美者で大きな問題がある学者であることは認めつつも、アーヴィングが第二次世界大戦の事実で新しいものをいくつか発見し、それは歴史家によって支持されていることを述べています。
筆者の批判はきわめて辛辣ですが、ユダヤ人が非常に強い力を持つアメリカでは当然支持されず批判を受け、反ユダヤ論者達に力を与えるようなものだ、とされています。しかし、言語学者・政治学者のノーム・チョムスキーはフィンケルスタインを一貫して支持しているとのことです。(念のため、チョムスキー自身もユダヤ人です。)
いわゆる歴史修正主義については、反ユダヤ論者の側だけでなく、ユダヤ人の方からも逆の意味で事実をねじ曲げようとしている動きがあることは、きちんと知っておくべきと思います。また韓国からの執拗な「慰安婦問題」の追及にうんざりしており、さらに解決済みの補償問題を何度も蒸し返されている日本にとっても、ある意味他人事ではない問題です。
NHK杯戦囲碁 井山裕太7冠王 対 蘇耀国9段
本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が井山裕太7冠王、白番が蘇耀国9段の対戦です。意外なことに、この両者の対戦は1局だけで、蘇9段の1勝です。黒の布石は最近珍しい高い中国流です。白は右上隅に対し右辺から掛かっていくという珍しい打ち方でした。さらにその後、下辺が広く開いている状況で右下隅に掛かっていき、何か相手の地に嫉妬して先に狭い方に入るアマチュア的な打ち方でした。結果論から言えば、こうした打ち方がマイナスになりました。黒は左上隅に掛かっている石から左上隅に付けて跳ねてという最近流行の打ち方をしましたが、これに対し白は上辺を押して行きました。白が押して黒が伸びさらに白が押した時、黒は手を抜いて左辺を打ち、白が2子をたたいたのにさらに手を抜き、左辺から左下隅に滑りました。この結果は白は上辺で2子を取る手が残り、上辺を割ることが出来ましたが、黒も左辺を2手打てて悪くないと主張していました。白は形勢が容易ではないと見て、左辺の黒に置きを敢行しました。これは厳しい手でのっぴきならない戦いとなりました。この戦いで中央が劫になりましたが、黒は当たりを逃げる手がそのまま劫立てになりました。ここで黒は左下隅を活きる手があり、非常に大きな手でしたが、井山7冠王は下辺を外から押さえて打ち、敢えて左下隅を捨てました。この戦いの結果、白は左辺と左下隅で40目ぐらいの地を確保しましたが、黒は白の3子を取って中央が分厚くなりました。この厚みを生かして、右下隅に掛かった白と右辺で右上隅に掛かった白とをカラミにして攻め、結局白は両方をしのぐことが出来ず、右辺の右上隅に掛かった石は取られてしまいました。これで形勢ははっきり黒が優勢になりました。その後白は右上隅の三々の石を動き出して地をかすりましたが、黒の優勢は変わらず、黒の中押し勝ちになりました。
吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版)(地水の巻)
吉川英治の「宮本武蔵」(戦前版:大日本雄弁会講談社による昭和11年の出版)の全6巻の内の第1巻、「地水の巻」を読了。「戦前版」とわざわざ書いたのは、1949年に戦後初めてこの作品が復刊された時に、GHQの検閲を恐れて多くの箇所が削除されているからです。この作品の「戦後版」は既に中学生の時に読んでいるので、今回読み直している理由は「戦前版」の実態を知りたいということです。しかし、この「地水の巻」を読んだ限りでは、検閲で削除されそうな箇所はほとんど発見出来ませんでした。ちなみに「戦後版」は、吉川英治の著作権は既に切れているため青空文庫で簡単にチェック可能です。
最初に読んだ時も、この作品に夢中になった、という記憶はないのですが、今回もやはりそうでした。正直な所、本位田家のお杉婆さんみたいなキャラは私は苦手です。また、武蔵の最初の弟子として城太郎という少年が出てきますが、これが自作の歌を歌ったりして、「大菩薩峠」の清澄の茂太郎とそっくりです。またこの作品で「求道者」としての武蔵、「名人」としての武蔵のイメージが確立しますが、どちらも吉川英治のある意味創作で、歴史的実態からは遠い所にあります。吉川英治の作品では「鳴門秘帖」みたいな作品の方がずっと好きです。
消火器
昨年末に会社で避難訓練があって、消火器の使い方の講習がありました。そういえば、と思って家に置いてある消火器を調べてみたら、2016年で使用期限が切れていました。なので新しいのを買いました。ついでに古いのを試しに使ってみました。古くなっていたせいか、一度レバーを握ったら、離しても噴射は止まらず、結局約14秒粉末が出続けで、あたり一面(当然外ですが)真っ白(ややピンク)になってしまいました。今回のは10年保つみたいです。
調べてみたら、古いのは加圧式というもので、これは途中では止まらないみたいです。それに対し今回買ったのは蓄圧式で(圧力メーターがついています)、これは途中でも止められるみたいです。