舛添要一の「ヒトラーの正体」を読了しました。舛添さんは、私が卒業した学科でその頃政治学を教えておられて、私はその講義は受けませんでしたが、公務員試験とか外交官試験を目指しているような人には人気があったと思います。政治家としてはほとんど評価していませんが。
先日、A.J.P.テイラーの「第2次世界大戦の起源」を読んで、その関連で続けて読みました。舛添さんが「ヒトラーマニア」だとは知りませんでしたが、それなりにコンパクトな本ですが良くまとまっていると思います。私も未だにヒトラーというのはどういう人間だったのかは判別しかねていますが、ユダヤ人に対する考え方はまったく同意出来ませんが、金融の天才のヒャルマール・シャハトを経済相に任命して、いわゆるケインズ政策で積極的な公共投資(アウトバーンなど)を行い、また各種の社会保険類の充実を図り、完全雇用をほぼ達成したということで、その政治家としての実力は少なくとも今の日本の首相よりはずっとあると思います。当時ドイツで多くの政治家がヒトラーの実力を見くびり、上手く利用してやろうとして結果的には逆に利用されたりしています。「第2次世界大戦の起源」が言うように、ヒトラーは世界征服のきちんとした青写真など最初から持っておらず、場当たり的に行動したのが上手く行って、途中でストップすればいいのに、ギャンブルと同じで始めに上手く行くと止められなくなり、結局無謀極まりない両面作戦で米英以外にソ連とも戦い、最後は破綻するというのはご存知の通りですが、舛添さんも指摘する通り、少なくとも独裁者になるまでのプロセスは全て合法的に進めたのであり(裏でナチス党が暴力をふるったりはしていますが)、当時のドイツ人はヒトラーを熱狂的に支持したんだということは忘れるべきではなく、トランプ大統領がもう一人のヒトラーになる危険性も十分見極めるべきと思います。まあ、ヒトラーについて手っ取り早く知りたい方にはお勧め。
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小泉志津男の「日本バレーボール五輪秘話 東洋の魔女伝説」
私の中の東洋の魔女と大松監督マイブームはまだまだ続いています。小泉志津男の「日本バレーボール五輪秘話 東洋の魔女伝説」を読了しました。このシリーズは全5巻で、「バルセロナへの挑戦」で終わっています。東洋の魔女と大松監督について調べれば調べるほど、本当の意味のすごさが分かってきて、素直に頭が下がります。この本で初めて知ったのは、オリンピックの前年に日本バレーボール協会の中に「反ニチボー貝塚」みたいな動きがあり、またニチボーチームは主力の6人の時は素晴らしい結果を出すけど、控えの選手になるとガクンとレベルが落ちるということで、ニチボーチーム単独の日本代表ではなく、混成チームにすべきではないかという意見が出ます。それで作られたのが一般選抜チームで、ニチボーのライバルである倉紡、鐘紡、ヤシカなどのチームの選手を集めたものです。それでこのいわば二軍チームが、オリンピックの前年の1963年に何とソ連チームを2度も破る、という快挙を果たします。このチームの監督は四天王寺高校の監督で後に大松監督の後を継いでニチボーの監督になった小島孝治です。(ニチボーチームの谷田、松村、磯辺、松村選手は四天王寺高校出身で元々小島監督が鍛えた選手です。)そこでニチボーと一般選抜チームを対決させるという話に当然なり、二度対戦が実現します。一度目は一般選抜チームがニチボーに食い下がり、敗れはしましたが2-3の結果を出します。これでさらに混成チーム論が盛り上がり、マスコミ曰くの「巌流島の対決」と呼ばれた二度目の対決が1964年3月21日に行われます。しかし、結果はニチボーチームの3-0の完勝でした。大松監督曰くは、「一度目はソ連が偵察しているのに全力を見せる必要がないということで、前日に8時間の猛練習をして疲れていただけ。二度目が実力。」ということでした。大松監督は1962年の時の世界選手権では4-6でソ連に負けていたのを精神力で勝ったけど、東京オリンピックでは7-3で圧倒して勝つ、と言っていましたが、まさしくそれを実現しており、ソ連のチームはニチボーチームが3-0で勝つチームにさえ負けたことになります。
後は面白かったのは男子の東京オリンピックでの活躍。1961年の欧州遠征で女子が22連勝し「東洋の魔女」と呼ばれるようになったのに対し、男子は2勝21敗という屈辱的な成績に終わります。モスクワから地方に移動しての試合では女子が飛行機で移動したのに対し、男子は汽車で往復させられます。この最低の状態からしかし建て直し、1963年にはソ連チームを2度破り「男女ともに金メダルか」という期待が高まります。そして本番の東京オリンピックでは、緊張したのか緒戦の韓国戦こそ勝ちましたが、その後ハンガリーとチェコに惨敗します。この時点で早くも自力の金メダルは無くなり、世間から「やっぱり男子はダメだ」と見放されます。しかしここから男子は奮起し、何とこの後ソ連を3-1で下し6連勝で、7勝2敗となり、銅メダルを獲得します。1961年の惨敗からよくもここまで持っていったものでこれも「奇跡」と言っても良いでしょうが、マスコミは女子の活躍一色で男子は完全に無視されます。この時の屈辱がメキシコの銀、ミュンヘンでの金につながります。
ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳第11回目公開
ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第11回目を公開しました。
正月休みだから少しペースを上げたかったのですが、ハッキング騒ぎによるサイトの再構築作業などで時間が取られ、思うようには進みませんでした。でもこれで全体の約2割が完了です。
なおこの部分はコムメンダが実はイスラム圏起源ではという説を頭において読むと、それは違うんでは、という突っ込みが出来て面白いです。
NHK杯戦囲碁 伊田篤史8段 対 志田達哉8段
本日のNHK杯戦囲碁は黒番が伊田篤史8段、白番が志田達哉8段の対戦でした。伊田8段はNHK杯戦初出場の時に優勝(最年少記録)、また志田8段は2018年に準優勝の経験があり、好対局です。棋風的にも伊田8段は一杯に打つ豪腕、志田8段は地味に受けながらヨセで抜き去るというもので対照的です。対局は左辺の白への攻めをにらんで黒が下辺の白にもたれて行き、白がハネたのを黒が切っていっていきなり戦いが始まりました。結果として黒は下辺に潜り込んで地を稼ぎ、白は黒2子を取り込んで厚くなりました。戦いは続いて右辺に移り、白がコスミツケられて立った所から二間に開けば普通でしたが、それだと右下隅からの地が大きすぎるということで、右下隅に侵入し、黒が立った白2子に迫ってここでも競い合いになりました。ここでの戦いは、途中で白が右上隅の三々に打ち込みましたが、結果論としてはあまりうまくなかったようです。白は右辺の3子を捨てて最初に立った石を中央に脱出し、なおかつ右上隅で活きる手を残しました。黒は右上隅を気にせず上辺に展開したのが好判断で、白は右上隅で活きるのを強制されその間に黒が上辺で地を確保したということになり、ここで黒がリードしたように思います。黒が上辺に展開した結果、白の左上隅も薄くなりました。この後の焦点は左下隅から中央に延びる黒の一団の眼がはっきりしていないので、白の戦略としてはこれへの攻めを図り、それを利用して中央に地を付けるということでしたが、黒は左辺と右辺の白の連絡を妨げ、かつ左辺で取られていた2子をうまく活用して白に数手利かしを打ち、この結果左下隅からの黒の一団にまったく心配が無くなっただけでなく、中央に黒地が10目弱付くという戦果を挙げました。これで黒の勝勢でしたが、最後は白が右辺で取られている3子を利用して利かそうとしたのが逆に黒に切り換えされ、結局その3子が生還した代りに、右辺から延びる白の一団が切り離され最終的には攻め合いでしたが白の手が短く、この白が全滅し投了となりました。伊田8段の戦いの巧みさが光った一局でした。
A.J.P.テイラー著、吉田輝夫訳の「第二次世界大戦の起源」
A.J.P.テイラー著、吉田輝夫訳の「第二次世界大戦の起源」を読了。最初は1977年に出版され、論争を呼んだ書です。何故論争を呼んだかというと、従来は第二次世界大戦(欧州での)の原因をもっぱらヒトラーに負わせ、そこからヒトラーと話し合って何とか平和を保とうとしたチェンバレンなどの宥和主義者は間違っていた、という論調が主流だったのを、ヒトラーの行動には最初から首尾一貫した戦略があり、それに従って、(1)オーストリア融合(2)チェコスロバキア融合(3)ポーランドへの領土要求(ダンツィヒ=グダニスク、ポーランド回廊)(4)ポーランドへの侵攻、を進めていったのではなく、むしろ成り行きに任せてそういう進行になったとし、従って宥和主義者が努力したヒトラーとの平和的な解決というのは決して可能性が無かったことではないとしたものです。この二つの立場のどちらが正しいかを判定出来るほどの知識は持っていませんが、少なくともヒトラーは狂人ではないですが、その戦略構想は思いつきが多い、という部分には同意します。ただ、いわゆるドイツの「生存圏(Lebensraum)」がかけ声だけのもので、1939年当時ドイツは東欧との貿易で十分な利益を得ていたので、新たに領土拡張を意図したのは経済的な理由からではない、というのは同意しかねます。ヒトラーとナチスのドイツでの台頭は、ヴェルサイユ条約とその結果としての天文学的金額の賠償金、それによるドイツのハイパーインフレ、そして1929年の世界大恐慌による列強の関税による世界市場の分割ということが背景にあり、「生存圏」という目標は十二分に経済的な理由が裏にあると思います。1939年当時に東欧との貿易で利益を得ていたというのも、世界恐慌後ドイツは徹底した外国為替への管理体制を作り上げて、東欧の諸国とは二国間取引で閉鎖的な市場圏を作り上げた結果です。その次のステップとしてそれらの地域を自分の領土に取り込もうとするのは自然な流れと思います。
ちなみにこの本で同意出来ないのは、いわゆる太平洋戦争を欧州での戦争での裏で起きたもので、副次的なものに過ぎないとしていることです。日本とアメリカにとってこの論はとうてい承服出来ないものです。以前やはりイギリス人学者が太平洋戦争について書いた本を読んだことがありますが、その本では「太平洋戦争は日本とアメリカの戦争というより日本とイギリスの戦争であった。」と論じており、これまた日本人には到底承服出来ないものでした。何というか欧州中心主義、自国中心主義を感じます。そういうのがBrexitにもつながるのかなと思います。
ともかく、現在の世界あちこちでのきな臭い状況を見るに付け、先の大戦が何故起きたのかをもう一度考えることは重要だと思います。
NHK新春スペシャル囲碁対局 黒嘉嘉7段 対 藤沢里奈4段
NHKの新春スペシャル囲碁対局は、日台美人棋士対決で、黒番が黒嘉嘉(こく・かか)7段、白番が藤沢里奈4段の対戦でした。将棋でも囲碁でも美人棋士というのはまあ4割増しに言っているということが多いですが、黒嘉嘉7段は、お父さんがオーストラリア人、お母さんが台湾人のハーフで本当に美人で、その証拠に棋士以外にモデルでもプロとして活躍しています。里奈ちゃんも決して負けておらず、晴れ着が良く似合っています。対局は大きな戦いのない地道な神経戦といったものでした。黒が左下隅と左上隅で両方とも三々に入り、それに対し白がどちらも二段バネで応じ、左辺で黒のポン抜きが2つ出来るという珍しい形になりました。白が右下隅の黒の小ゲイマジマリに肩付きして、黒が伸びて白が一間飛び、そこに黒が割り継ぎして、白がラッパ継ぎという形になっていた所に、何と黒はそのラッパ継ぎに対し切りを敢行しました。そもそもこのラッパ継ぎは相手が強いところで軽くさばこうした打ち方であり、切られてもどちらからか当てていって軽く打とうと準備しているものであり、それを実際に切ったという実戦例はあまりないのではないかと思います。ともかく黒は実利を稼ぎました。それに対し白は黒の上辺から伸びる石に対しどれだけ攻めが利くか勝負でした。黒はしかし、先ほどの左下隅の切り以外では、きわめてオーソドックスで固い手を打ち、それでいて形勢は若干リードを保っているようなそんな打ち方でした。形勢が動いたのは、大ヨセに入りかけた所で、左辺で黒がハネた所を白が切っていって、結局黒が切った石は取られましたが、黒も白の左上隅の地を減らしたのでという折衝で若干白がポイントを挙げました。さらには白が黒の左辺の石に覗きを打ち、黒が継がずに左辺を受け、白が切っていった所がポイントでした。ここの折衝で白が黒2子を当てたのに黒が受けられず(受けると切られた黒2子が取られる)、白が2子を抜いて中央と左下隅がつながり、左下隅の嫌みが無くなったのが大きく、ここで白がはっきりリードしました。最後まで打てば白の数目半勝ちだったでしょうが、黒が投了しました。藤沢4段の終盤力が出た対局でした。
ブログサイトの改ざん
「日本マックス・ヴェーバー研究ポータル」のサイトですが、1月2日の早朝、ハッキングされて一部のコンテンツを書き換えられて、アクセスするとフィッシング詐欺サイトに飛ばされるようになってしまいました。
現在、一旦ブログ自体を全部削除して再構築中ですが、新年早々トホホです。
1月3日0時10分、ようやく復旧しました。バックアップ用のSQLファイルからリストアしましたが、何故かwordpressでは表示されず、全コンテンツを手動でアップし直すことになりました。
新年のご挨拶
電電公社黒電話
河西昌枝さんの「バレーにかけた青春 キャプテン生活八か年」
河西昌枝さんの「バレーにかけた青春 キャプテン生活八か年」を読了。言うまでもなく、「東洋の魔女」ニチボー貝塚のバレーボールチームのキャプテンを8年も務めた方です。中に、「東洋の魔女」が辞めた後の新生ニチボー貝塚チームの試合の話があって、決勝戦の相手が「日立武蔵」だったということです。「サインはV」の主人公のチームはテレビでは「立木大和」ですが、原作の漫画では「立木武蔵」です。誰が考えたって「日立武蔵」をモデルにしたに決まっていますが、既にこの頃から台頭していたようです。しかしその日立武蔵チームをニチボー貝塚の新しいチームは「キャリアが違う」と一蹴します。(ちなみに「サインはV」で立木大和のライバルチームは「レインボー」でこれもニチボーそのまま。)
河西さんは、キャプテンとして大松監督が仕事で遅くなる時には代わってチームを鍛えていた人で、「大松監督より厳しい、怖い」ということで有名でした。また大松監督に対しても、監督がへそを曲げて「わしゃ帰る」と立ち去ろうとした時に、いつも真っ先に謝り役をやる人でもありました。しかし、そんな河西さんが一度は大松監督を突き飛ばして尻餅をつかせたこともあるのだとか。
東京オリンピックの時、河西さんはチーム最年長の31歳でした。今なら31歳で独身は珍しくもなんともありませんが、当時では完全な「行き遅れ」でした。オリンピック後、大松監督は河西さんのお婿さん捜しに奔走します。実は河西さんのお父さんが東京オリンピックの直前に亡くなり、そのお父さんから「呉々も昌枝の結婚をよろしく」と頼まれていたとのことです。そして大松監督は何人かを河西さんに紹介したようですが、河西さんも「自分より背の低い人は嫌」(河西さんは174cm)と断ります。そしてついに大松監督はオリンピックの金メダルの報告で佐藤栄作総理に会った時に、何と総理大臣に河西さんの婿捜しを依頼します。そして本当に河西さんは佐藤栄作総理夫妻の媒酌で、自衛官の人(その人は身長172cmだったみたいです)と結ばれます。
その後もバレーボールが忘れられず、いわゆるママさんバレーを最初に組織化したのが河西さんです。もう亡くなられていますが、勇気と一つのことに打ち込む尊さを教えてくれました。