岩崎航介の「刃物の見方」

岩崎航介の「刃物の見方」を読了。ある日本刀屋のHPに紹介されていて買ったもの。著者は1903年の明治生まれで、刃物の町として有名な新潟の三条市の出身。父親が刃物の卸をやっていて、第一次世界大戦の間にドイツやイギリスの刃物が供給されなくなった間隙を突いて、インドなどのアジアへナイフの輸出を拡大します。しかし戦争が終わってゾーリンゲンなどにある欧州のメーカーが復興すると、その性能にはまったく敵わず、次第に押されてその会社は結局他社に買収されます。主人公はその息子としてドイツ製の刃物に品質で打ち勝つには、日本伝統の日本刀の技術、正宗の名刀の技術でナイフを作れば絶対に負けないと考えます。それでまず日本刀の研師に入門し、その後鎌倉のある刀鍛治の弟子になり、日本刀鍛造の基礎技術を身につけます。それだけに留まらず、日本刀の品質の秘密を知るためには、多数残されている刀鍛治達の秘伝書を読むことが必要だと考え、逗子高校の教師として働く一方で東大の国史に入学し、古文書の読み方を学びます。そこを卒業した後、更に刀剣の金属としての分析が必須であると考え、理系科目も独習して今度は東大の工学部に入り直します。学部で5年間、大学院でも3年間学び、卒業した時には36歳になっていました。学びながら全国の刀鍛治を訪ね歩き、そこに伝えられている秘伝書をほぼすべて見せてもらい、その内容を解読します。しかし秘伝書はそのほとんどが江戸時代に書かれたもので、日本刀の品質がもっとも優れていた平安時代から鎌倉時代のものは一つもありませんでした。また江戸時代の刀鍛治が「正宗の刀の秘密を見出した」と書いているのは、筆者が確認した限りでは全て嘘か思い違いで、刀鍛治は炎を見続けた結果、晩年には目を悪くして、正宗に遠く及ばない技術を正宗に追いついたと誤解したのだろう、と結論づけます。こうして、「正宗の日本刀の秘密を解き明かし、それをナイフなどの刃物に応用する」という筆者の一生の夢は挫折します。
その後筆者は、昭和天皇の理髪師だった人が、「日本製の剃刀で天皇陛下のお顔は剃れない」と発言しているのを知り、ドイツやイギリスなどの剃刀と日本製の剃刀の硬度などを調べ、確かに日本製の方が品質が劣っていることを確認します。それで世界でもっとも純度の高い鋼である出雲の玉鋼で剃刀を作ったら外国製に負けない剃刀が出来ると考え、国の助成金をもらって日本剃刀の製造に従事します。試行錯誤があって、玉鋼での剃刀製造は難航しましたが、最終的には欧州メーカー製の切れ味、切れ保ちをはるかにしのぐ日本剃刀が完成します。しかし、玉鋼は焼き入れの工程で一定部分が割れてしまったりして歩留まりが悪く、玉鋼で作った剃刀は高価になって、かつ製造本数も限られていて商売としては成功しませんでした。(なお、この日本剃刀は、航介氏の息子さんの岩崎重義氏によって今でも作り続けられています。しかしAmazonで買えるものは現在スウェーデン鋼製であり、玉鋼のものはもうほとんど入手出来なくなっているようです。)
面白いエピソードとしては、吉川英治の「宮本武蔵」の空の巻に、「厨子野耕介(ずしのこうすけ)」という本阿弥光悦の弟子である日本刀研師が登場しますが、これが岩崎航介氏をそのままモデルにしたものだそうです。(岩崎氏は当時逗子市に在籍。)何でも、氏が日本の大衆小説での日本刀の描かれ方が間違いだらけなのに立腹し、その代表者として吉川英治氏を選んで談判に言ったそうです。吉川英治がその談判の内容を面白がって、そのまま宮本武蔵の中で、厨子野耕介に武蔵に対して語らせているそうです。また、私にとって嬉しかったのは、ある時岩崎氏が大衆小説の挿絵画家に対し、日本刀の絵が間違っていることを指摘した事があります。白井喬二がその画家から話しを聞いたのではないか、ということで白井喬二が日本刀について書いたエッセイには間違いがなかったことを紹介しています。
最後の方に天然砥石について書いてあって、これがまた目から鱗です。三河の名倉の砥石は元々刀剣用のコマだけが売られていて、残りのものは砥山の坑道を支える詰め物に使われていただけだった。その内良質なコマの産出が減ると、コマ以外も売れるようになり、詰め物にしていたのが再度引っ張り出されて販売されたのだそうです。また、京都の本山砥のうち、からす砥がもてはやされるけど、あれは昔は不良品として捨てられていたもの。それを頭の良い行商人が安く買って、良い砥石と宣伝して高く売ったので、高価で取引されるようになった。しかし元々不良品なので決して最良の刃はつかないので、剃刀には使ってはいけないと主張されています。また剃刀研ぎの仕上げに、天然砥の上にシャンプーを2、3滴垂らして研ぐという方法が紹介されています。
ともかくも、こんな面白いかつ素晴らしい方がかつていたんだということが分かって楽しい読書で、得る所も多かったです。

NHK杯戦囲碁 河野臨9段 対 余正麒8段

NHK杯戦の囲碁、新春の第1局は黒番が河野臨9段、白番が余正麒8段です。布石は黒が右辺で変形の高い中国流(右辺の石が中国流より一路下)で、右辺から下辺の模様で打つかと思いましたがそうはならず、黒は足早に各所で地を稼ぎ、下辺はむしろ白の領域になりました。途中までは黒がいい感じでしたが、転機となったのは左辺の攻防で、黒の構えに対し白がハサミツケていったのが好手で黒はその手をうっかり見落としていた可能性があります。そこの折衝で黒の中央の3子が切り離され、黒はどうするかと思いましたが、黒はあっさりその3子を捨てて打ちました。黒からは下辺白へのシチョウアタリを打つ手が残りましたが、白が厚くなって下辺の模様が大きくなり、白が優勢になりました。黒はその後下辺へシチョウアタリを打ちましたが、白に受けられた後厳しい後続手段がなく、ちょっと形勢を挽回するには至りませんでした。その後黒は右辺の白を攻め、また左上隅から延びる白とからめ攻めにしようとし、左辺で取られている3子へのシチョウアタリの後続手段を打つのではなく、中央から曲げて利かせて白に3子を抜かせました。しかし右辺の白は結局下辺に連絡し、また左上隅からの白は上辺の黒、左辺の黒ともはっきり活きていなかったため利きが色々あり、黒の攻めは不発に終わりました。その後黒が下辺の白模様に対し頭を出そうとしたのに白がハネたのが打ち過ぎで真ん中から黒に出られて事件かと思いましたが、白は3子を捨てて黒の進出を止めて下辺に大きな地が完成し、ここで黒の投了となりました。

渡辺京二の「北一輝」

渡辺京二の「北一輝」を読了。北一輝については、以前からもちろん名前は知っていますが、実際にどんな思想を持っていたのかほとんど知っていないため、興味があって読んでみたもの。北一輝は佐渡の両津生まれ(両津港は新潟からのフェリーやジェットフォイルが着く所です。)です。この事を知ったのは、林不忘(「丹下左膳」の作者)がやはり佐渡の生まれで、林不忘の父親が佐渡中学の英語の先生で、その生徒に北一輝がいた、ということからです。丁度佐渡に向かう新幹線の中、フェリーの中、そして佐渡の相川のホテルで読みました。
北一輝については、一般的には二・二六事件のクーデーターを決行した青年兵士の思想的裏付けを与えた人物として知られており、実際に二・二六事件の嫌疑で死刑に処せられています。しかし、実際の所は、北自身がクーデーターを計画した訳ではなく、ただ青年兵士にクーデーターの計画を打ち明けられ、それを止めることはせず、逆にアドバイスを与えたりした、という程度の関わり方だったようです。
北の思想の特徴としては、まずは社会主義者であり、天皇制の擁護者ではないということが重要です。北の父親が自由民権運動に関わっていた関係もあり、北は明治維新をその後の自由民権運動も含めて社会主義革命として捉えているのがまず特異的です。そして西郷隆盛が決行しようとした「第二革命」を引き継いで、日本を本当の意味での社会主義の国にするというのがその思想でした。そこにおいて天皇については政治的に価値があれば利用するスタンスであり、美津濃達吉の「天皇機関説」ときわめて近い発想です。戦前に天皇機関説は美津濃達吉だけではなく、かなり一般化していた考え方だったことが窺われます。二・二六事件の青年将校らは、クーデターの中心に天皇を据えて、天皇中心の親政を行おうとし、結局昭和天皇にそれを完全否定されて失敗する訳ですが、もし仮にそれがうまく行ったとしても、北の思想の天皇機関説の部分は結局青年将校らと相容れず、どこかで破綻が生じたと思います。
そうした北の主張が最初に現れるのが、23歳の時に出された「国体論及び純正社会主義」です。これは23歳という若さで書かれたのが信じられないくらい良く出来た論考であり、北の一生での頂点です。明治維新の指導者達が打ち出した、日本は昔から天皇を奉った体制でいた、という幻想を「乱臣賊子論」という形で、実際に政治を担ってきたのは、天皇に従わなかったり逆らってきたものばかりであることを論証します。また北は1883年生まれで、1864年生まれのマックス・ヴェーバーよりも19歳年下です。マックス・ヴェーバーはドイツ歴史学派の影響を受けながら、それを批判していくことで彼の学問的方法論を確立していきますが、北のこの「国体論及び純正社会主義」にも、19世紀的な歴史学派的な考え方、例えば社会ダーウィニズムとか、国家を一種の有機体としてその成長と発展を考えるやり方とか、またヘーゲル的な発展段階説とかの影響を強く感じます。北は早稲田大学の図書館にこもってこの論考をまとめていますが、その過程でこうしたいかにも19世紀的な考え方を採り入れていったんだと思います。経済史家でヴェーバーと資本主義の本質について論争したルヨ・ブレンターノの弟子かつ研究家である福田徳三はこの論考の論理水準の高さと著者の才能を激賞します。そして福田は北が今後も研鑽を続けてその理論を深めていくことを期待しますが、北のその後の人生は、福田が期待したものとはまったく違うものになりました。
北はその後中国に渡り、孫文の一派と交わり、いわゆる辛亥革命に色々と協力します。しかし孫文とは意見対立していたグループと好んで交わっていたのであり、孫文を直接支援した訳ではありません。
辛亥革命で北が親交を持っていた宋教仁が暗殺されると、北は夢破れた形で日本に戻ります。そこで北は法華教に傾倒します。(日蓮は佐渡に流されたため、日蓮宗は佐渡で一定の力を持っていたと思われ、その影響もあるかと思います。)北はいわゆる「幽霊を見ることが出来る人間」であり、自身の妻に「お告げ」を言わせたり、夢の中のお告げを書籍にしたり、とかなり非合理的なことも行っています。ただ、直感力というか洞察力は否定出来ない能力を持っていたようで、日本が結局中国との戦いになり、その結果英米と対立して戦争になり、最終的には日本が負ける、ということをかなり正確に見通していて、それを何とか避けようとしていました。
その後「国家改造案原理大綱」を書き上げ、これが日本を改革しようとしていたけれども、理論的な裏付けを欠いていた一部の人々に対し、明確な改革の指針を与える書として注目されます。しかしその後の北がやっていたのは、自分の信奉者を使って財閥の不正を攻撃させ、その口封じで大資本家より大金を受け取って贅沢な暮らしをするという、まったくもって感心できない人生を送ることになります。北は社会主義者でありましたが、通常の社会主義者が貧しい人に対する同情心から社会主義に傾倒するのが普通であるのに対し、北の場合はそういう要素がまったく欠けているということが特筆的です。
北の著作を直接読んだ訳ではなく、この本から得られた北の印象としては以上の通りですが、なかなか興味深い人物であることは否定出来ません。ただ、これから北の著作を直接読んでみるかは、現時点ではまだ未定です。

刀剣研ぎ日記その5

日本刀用の砥石を蒲鉾形にするのにトライ。グラインダーを使ってみました。その結果、内曇は非常に堅くて、グラインダーでもなかなか削れません。それに対し鳴滝砥は非常に柔らかく、あっという間に削れて逆に削りすぎました。また辺り一帯に粉塵が飛び交い、マスクを付けてやりましたが、一面真っ白に。単なる土砂なら拭けばいいだけですが、砥石の粉だけに下手に力を入れて拭うと床などに細かい傷が入ってしまいます。蒲鉾形というのは、図のように全体になだらかな曲面を作るのが本当みたいなのですが、それをやってしまうと日本刀専用になり包丁などには使えません。また今回研いでいるのが脇差しで短いので、今までサンドペーパーや刃艶・地艶で磨いた限りでは結構直線的に研げる箇所が多いような気がします。なので今日の所は面取りをするレベルまでにしました。多分図のようにするのは、刃の曲面に合わせるという意味もあるのでしょうが、一回の研ぎであまりに広範囲が削れてしまわないように、砥石が刃に当たる所を限定するのが狙いかなと思います。

佐渡歴史伝説館

大晦日にホテルのチェックインの15時まで時間があったので行ってみた「佐渡歴史伝説館」。かなり高度なレベルのロボットで佐渡に関係ある歴史的人物を見せていますが、客は私一人で、採算がこれで取れているのか不思議。しかもお化け屋敷か秘宝館的雰囲気が満載。最後の写真は写っている4人の内、1人だけ本当の人間がいますが、分かります?(写真はクリックで拡大します。)
ちなみに北一輝(佐渡の両津生まれ)が法華経信者だったのって、日蓮が佐渡に流されたのと関係があるのではないかと思います。

折原浩先生の「東大闘争総括 戦後責任 ヴェーバー研究 現場実践」

折原浩先生の「東大闘争総括 戦後責任 ヴェーバー研究 現場実践」を読了。(折原先生から戴いたもの。)シノドスというWeb雑誌での、北海道大学の橋本努氏の10項目に渡るインタビューが元になっています。折原先生のヴェーバー研究については、他にも色々書いたことがあるので、ここでは東大闘争総括に限定します。東大闘争が何だったのかということに関しては、曖昧な知識しか持っていませんでした。しかしこの本でかなりクリアーになり、全学連全体の70年安保反対という純政治的な闘争というより、医学部と文学部における不当な学生処分を巡る大学の自治に関する闘争、というのが本質のようです。この内医学部の処分に関しては、医学部出身の青医連が当時のインターン制度(今の就職予備活動のインターンとは違い、国家試験に合格した医者が一年間無給で特定の病院で研修を行う仕組み)に対する改革を呼びかけたのに対し、医学部当局がそれに関する立法化を盾に取って、運動に関わっていた医学部学生14人の大量処分を行ったというのがきっかけのようです。
これに対し文学部処分の方は、学生と教授会の団交の場で、ある学生がある教授のネクタイを引っ張って暴言を浴びせたということを理由にして、その学生への処分が行われたものです。折原先生はこの文学部処分の方に深く関わり、社会科学的な事実分析を行い、この学生がある教授に手を出したのは、その教授が先にその学生に対し何かをやったからではないのか、という仮説を立てます。その仮説はあくまで仮説で100%検証されたものではありませんでしたが、状況的には明証性の高いものでした。色々とあって最終的には当時者二人の話し合いが実現し、事実はその教授がまずその学生を話し合いの行われた部屋から引きずり出そうとし、それに対してその学生が「何をするんだ」と反応した、ということになります。しかし文学部の処分はこの教授の先手を実は把握しておきながらその事実を伏せ、学生が一方的に悪いとして処分を強行したものでした。しかも、自分達が都合が悪くなり、学生達の騒ぎを抑えきれないと判断し、大学の自治を放棄した機動隊の導入という暴挙に出ます。
東大紛争と言うと、例の安田講堂のイメージで、学生側が全面的に敗退した、というイメージが強いのですが、実際は医学部処分も文学部処分もどちらも学生側の方が正しいことが判明し、両方の処分が撤回されています。
折原先生は学生の裁判の特別弁護人を引き受けて、大学側の虚偽と学問の府でありながら、まったく学問的ではない対応を繰り返した大学側を鋭く批判していきます。
今年は安田講堂事件から50年だそうで、再度あの「政治の季節」の意味を考え直すのにはいい機会だと思います。

尖閣湾

佐渡の北西にある尖閣湾です。「君の名は」(アニメじゃなくて真知子と春樹のアレ)のロケが行われたみたいです。なかなか良い景色で、福井の東尋坊をちょっと思い出しました。

「原子力潜水艦シービュー号」の”Terror on Dinosaur Island”

「原子力潜水艦シービュー号」の”Terror on Dinosaur Island”を観ました。タイトル見てすぐに嫌な予感がしましたが、その予感通りでした。出ました、またもトカゲ恐竜の使い回し!私はこのトカゲ恐竜を見るのって既に4回目です。一応申し訳程度に新顔も登場していることはしていますが。
お話は、海底火山の噴火を観察に行って大爆発に巻き込まれたフライングサブが故障し、パラシュートで脱出を余儀なくされ火山島に着陸したネルソン提督とシャーキーを、クレーン艦長以下が救いに行く話です。ちょっとひねってあるのは、海中でシービュー号が恐竜に襲われて浸水し、クレーン艦長がまだ水没した部屋に一人残っていたのにハッチを閉めてそのクルーを殺したとして、そのクルーの親友だったベンソンが火山島でクレーン艦長を殺そうとします。
しかし、この先何回このトカゲ恐竜を見ることになるのでしょうか。予算が不足しているとはいえ、あまりといえばあまりの使い回しです。