茨木竹二の「『倫理』論文解釈の倫理問題」(特に『マックス・ヴェーバーの犯罪』における”不正行為”をめぐって)

茨木竹二の「「倫理」論文解釈の倫理問題」を読了。
副題が「特に『マックス・ヴェーバーの犯罪』における”不正行為”をめぐって」になっていることから分かるように、羽入辰郎の「マックス・ヴェーバーの犯罪」についての批判がメインですが、それだけではありません。
筆者は、いわゆる「羽入-折原論争」とそれに関連した「日本マックス・ウェーバー論争」の議論について、論争が尻すぼみに終わったと考えており、それを「総括」するつもりでこの本に書いてある諸論文を書いたようです。
まず、「日本マックス・ウェーバー論争」への執筆者の一人として、何故「論争」が止まったかについて言及しておきます。基本的には「論争」と前後して出版された羽入辰郎の「学問とは何か―『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後」という反論本が、学問として許される範囲の叙述を大きく超えた、非常に奇妙なデマゴギーの固まりであることが明らかな本であり、おそらくはこれを読んだ多くの人が、「もはやこの人は学者とは言えない」という感じを抱き、これ以上同氏の批判を続けることは学問としてまったく無意味と判断したであろうことが挙げられます。これは別に論争に参加したメンバーに直接確認した訳ではありませんが、おそらく大きくは外れていないと思います。
そういう状況にこの茨木氏の本が登場する訳ですが、同氏の論考は北海道大学の橋本努氏が開設した「羽入-折原論争」のHPの最後期に一度だけ、単なる「書誌情報」として紹介されていました。それは氏の在職する大学の研究紀要であり、一般には入手困難でまたインターネットで公開もされていなかったため、私は中身を見ていません。そうした氏が、何故今頃になって、「証文の出し遅れ」のような論考を発表したのかが、私は理解に苦しみます。氏は論争の総括が必要だと思った、と書いていますが、私が今回の論考を通読した限り、「総括」と呼べるようなまとめ的な内容はまったくありません。それ所か、私の論考を含む「先行する批判」に対しても、ほとんどといっていいほど言及がありません。(折原浩氏の論考・著作は除く。)

たとえば、この本では、ウェーバーのBerufという語の解釈について、グリムのドイツ語辞書での語義の言及がされます。しかし、ウェーバーがグリムのドイツ語辞書を参照しているのではないかという指摘は、既に私の論考の注釈に記載してあります。これに対して「終章」というまとめの中で矢野善郎氏が、ドイツででのマックス・ウェーバー全集の編集の際に、このグリム版辞典への参照の可能性などは、是非とも取り込まれるべき、と評価してくれています。以下、原文を引用します。

(引用開始)
 グリムのドイツ語大辞典(CD-ROM版)で、”Beruf”と”Ruf”を調べてみた。このドイツ語大辞典が最終的に完成したのは、本文中に記述した通り1961年のことであるが、”Beruf”の項は1853年にJ. Grimm、”Ruf”の項は1891年にM. Heyneにより編集されており、ヴェーバーが倫理論文を書く前の編集である。ヴェーバーがグリム大辞典(の当時出版されていた分冊)を参照したかどうかは倫理論文中には記載されていないが、OEDの前身のNEDをあれだけ参照しているヴェーバーがグリム大辞典を参照しなかったということは想定しにくい。

 “Beruf”の項では、2つの語義が書かれている。1つめはラテン語のfamaにあたる、「名声・評判」という意味である。2番目の語義が、ラテン語のvocatioに相当し(ドイツ語ではさらに新たな意味が付与された)、いわゆる「天職」である。ここでグリム大辞典は、この意味での語源の一つを、”bleibe in gottes wort und übe dich drinnen und beharre in deinem beruf. Sir. 11, 21; vertraue du gott und bleibe in deinem beruf. 11, 23” 、つまりヴェーバーと一致して「ベン・シラの書(集会の書)」としている。

 これに対し、”Ruf”の項では、「過渡的な用法」として、「(内面的な使命としての)職業」を挙げている。また、「外面的な意味での職業」、つまり召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかったと説明されている。さらにはルター自身の用例が挙げられている:” und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff. LUTHER 2, 314a” このルターの章句がどのような文脈で使われたものなのか、残念ながらまだ突き止められていない。しかしながら、ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言しているのは非常に興味深い。

 コリントI 7.20の翻訳にあたって、ルターは羽入が指摘したように、生前の翻訳においては、”ruff”または”Ruf”を使用し、”Beruf”とはしていない。このことの理由は、ヴェーバーが倫理論文で述べているように、古いドイツ語訳の訳語を尊重しただけなのかどうかはわからない。しかしながら、グリム大辞典にあるように、”Ruf”(”ruff”)は過渡的に使用され、最終的には”Beruf”に収斂している。この場合、ルターがコリントI 7.20を一貫してたとえば”Stand”とし、ルターの死後、ルターのあずかり知らないところでそれが”Beruf”に改訂されたのなら、確かにヴェーバーの議論は成立しない。しかしながら、”Ruf ”(”ruff”)にせよ、”Beruf”にせよ、元々は動詞であるrufen、berufenからの派生語であり、そのどちらにも今日のような「世俗的職業」という意味はまったく含まれていなかったのである。「神の召し」という意味に、世俗的職業という意味を含有させる可能性がある章句は、新約聖書全体では、このコリントI 7.20以外はありえないであろう。(コンコルダンスの「召す」の項目を参照。)その意味で、コリントI 7.20が「架橋句」であると解釈される。

 このコリントI 7.20で橋渡しされた「召し」と「世俗的職業」という意味が、ベン・シラにおいて、翻訳者のある意味「意訳」によって、通常ならArbeitやGeschäftと訳されるべきものがBerufと訳され、ここに「翻訳者による新たな語義創造」は完成するとヴェーバーは述べている。この「ベン・シラの書(集会の書)」は、旧約聖書外典に含まれ、いわば「処世訓」的な性格のものである。ルターは、外典を含む聖書の全体をすべて同格にはけっして扱っていない。正典に含まれる「ヨハネ黙示録」や「ヤコブの手紙」を自分の教義とは違うからという理由で排除しようとしたのは有名である。その意味で、ベン・シラにおいて比較的「自由な」翻訳が行われたとしても、決して不思議ではない。
 また、この「ベン・シラの書」の翻訳者がルターかメランヒトンなどの他の人間か、という議論も些末にすぎよう。ヴェーバーは「翻訳者の精神」の翻訳者を複数形にしており、「ルター」と書いてあっても、それは「ルターが中心になっていた聖書の翻訳グループ」と解釈すべきであろう。
 なお、この問題について、改めて整理して詳論する機会もあるかもしれないが、当論考においては、脚注にとどめておくことにしたい。
(引用終了)

私はここで、グリムの辞典に出てくる用例で、「ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言している」という、ある意味非常に重要な指摘をしています。これについては、どのような文脈でいつ言われたのかを調べることが、ルターがどのようにこの部分を「状態」から「職業」に解釈替えしたのかということを明らかにすることになります。残念ながら、その後ルター全集を個人で買うことも、図書館で調べることも私は出来ていません。(インターネット上に全文がなく、検索で発見することも出来ていません。)折角またウェーバ-のグリム辞典への参照を指摘するのであれば、こうした点についても調べて欲しかったです。少なくとも「総括」という言葉を使うのであれば。

羽入批判として見た場合、その多くの部分が羽入の文献の引用の仕方についてであり、羽入が著作権法や文科省から出ているガイドラインで規定されている引用のルールを無視し、かなり恣意的な引用操作が行われていることを明らかにしています。このこと自体は重要な指摘で、羽入批判として十分な価値があることを認めるのは何らやぶさかではありません。しかしながら、羽入以外に中野敏男氏への批判としても使われているこの引用のルールですが、何か「引用ルールパリサイ人」のような、あまりにも窮屈なルールの主張のように思えることも事実です。私見ですが、著作権法が定める引用の制限は、ある意味自由な学問の発展にとってはそれを阻害するものでもあり、あまりにも厳格なルールの主唱は、今後論文を書いていく若手研究者にとっての足枷になるのではないかと懸念せざるを得ません。もちろん恣意的な引用操作は言語道断ですが、少なくとも文献表で該当文献が別途確認可能である限りにおいては、「パリサイ人」的なルール化は私は望ましくないと思います。

そのことと関連しますが、中野敏男氏への批判として、”Gewiss…, Aber”(なるほど…だが、だがしかし…)の解釈を巡っての、実に長大な批判が展開されます。まず批判の最大の根拠は、”Gewiss”と”Aber”の登場位置が離れすぎているということですが、この点はごもっとも、と思いつつも、ウェーバーの場合、最初に書いた文章に付け足していってどんどん増えていって、最初は近接していた2つの語が、最終的には遠く離れてしまった、という可能性も否定できません。実際に「経済と社会」の解読を、中野氏と一緒に行った経験がありますが、そういうケースは常に考慮していたと記憶しています。それもあって、きわめて長大な(正直な所くどいとしか言いようがない)説明にもかかわらず、私は中野敏男氏の解釈がまったくの誤りだという風には思えません。茨木氏は”:”をd.h.の代わりだとしますが、それ自体は間違いではないにせよ、GewissやAberの後にいきなり”:”が来るのはある意味異常な用法であり、遠く離れていてもその2つを関連付けて読もうとするのがまったくの間違いだと断定する気にはなれません。

後、情報として良かったのは、シュルフター教授が羽入の「ルター聖書はBerufではなくruff」という指摘を、あっさり否定して片付けているということがわかったことです。私は2004年9月20日にハイデルベルク大学を訪問してそこでシュルフター教授に面会し、羽入事件について報告しています。その時のシュルフター教授からの回答として「もうすぐ詳細な注釈付きのウェーバー全集が出るので、そこでそうしたことも論じられる」というお言葉をいただきましたが、それがきちんと実現していることがわかって嬉しく思いました。

更に、些末な指摘ではありますが、氏が引用について、””を「証明引用」、「」を「参照引用」として使い分けているのに、かなり面喰いました。本文についてはあらかじめ「凡例」で解説してあるので良しとしても、それがタイトル(副題)にまで説明なしで使われているのはどうかと思いました。また、Idealtypusの日本語訳について、「理想型」と「理念型」という2種類の訳語を混在させているのも理解に苦しみました。おそらく氏の別の論考に詳述されているのかもしれませんが、この論考だけを読む読者には何のことかわかりません。また「非難/批難」のような意味不明な表記ゆれや、「意外」を「以外」とする誤変換の放置(P.340)、私から言わせれば「老人語」である「如上の」という表現の過剰な使用、など日本語理解で苦労することが多くありました。ご自身で書いておられるように論旨が錯綜した上に冗長で、もう1回読みたくない文章と言わざるを得ません。

それからグリム辞典の「ベン・シラ」の引用の章句番号が間違っているのではないかということで、「ママ!」のような実に「耳目聳動的」な表現が用いられています。羽入がOEDを間違っていると断定したのと同じ匂いを感じざるを得ません。私はむしろ、聖書の章節分けが1551年のエチエンヌのギリシア語テキストから始まったもので、ルター聖書はルター自身による最後の校正は1545年なので、この時には章節番号自体が存在していない、ということを指摘させていただきます。またベン・シラという「旧約聖書続篇」であることも考慮すると、むしろルター死後のルター聖書に章節番号が付けられた時に、何かのミスか混乱で今日のものとは違う番号がついてしまったことも考えられ、単純に辞書の誤りとするには即断が過ぎると思います。

最後に、羽入書の悪影響で、社会学会でここ数年ウェーバーに関する研究発表をする若手がいなくなったということが指摘されていますが、私に言わせれば羽入ごときの指摘でびびってしまうような者はそもそもウェーバーについて研究することなど不可能だと思います。ある意味丁度いいフィルターなのではないでしょうか。

羽入辰郎の「引用」の例

今、茨木竹二という人の「「倫理」論文解釈の倫理問題」という本を読んでいます。この中で茨木氏は羽入辰郎という学者を装ったデマゴーグの引用の仕方が著作権法や文科省によるガイドラインの内容を無視したもので、恣意的な引用操作に満ちていることを明らかにしています。

羽入の引用については、もっと面白い例があるので紹介しておきます。

羽入辰郎のマックス・ウェーバー本の中でも最低のトンデモ本に「マックス・ヴェーバーの哀しみ―一生を母親に貪り喰われた男」というのがあります。
マックス・ウェーバーについて根拠もない罵詈讒謗を尽くした本ですが、笑ってしまうのが、冒頭に「マックス・ウェーバーの業績」についての言及があり、それが何とWikipediaのマックス・ウェーバーの項の中身のコピペです。博士号までもらった学者で一応ウェーバーの研究者でありながら、自分でウェーバーの業績をまとめて書くことができない訳です。

もっと笑ってしまうのが、そのWikipediaの文章を書いたのが、他ならぬこの私だということです。証拠を貼っておきます。2006年9月23日(土)の15:51に書き込んだものです。
「58.1.251.8」が書き込み主になっていますが、ブラウザでこのIPアドレスを入れていただければ分かりますが、これは私のHPの固定IPアドレスです。

ミック・ジャクソンの「否定と肯定」(映画)

「否定と肯定」の映画を観ました。よくまとめていて、それなりに感動的ではありましたが、肝心の裁判の中身があまりにはしょりすぎ。原作ではアーヴィングの歴史捏造が30箇所くらい逐一反証されていきますが、映画はほとんど1/10くらいに短縮されてしまっています。私はそういう歴史捏造者の手口に興味があったのですが、残念ながら映画はかなりのダイジェストと言わざるを得ません。私は原作の方をお勧めします。

河野臨・小松英樹・一力遼の「アルファ碁は何を考えていたのか?」

河野臨・小松英樹・一力遼の「アルファ碁は何を考えていたのか?」を読了。アルファ碁に関する本も実に8冊目です。この本ではアルファ碁対人間棋士の対局が6局、アルファ碁同士の対局が3局、そしてZenの対局が2局取り上げられています。小松英樹9段がその11局の中のある局面を取り上げて、問題とし、小松英樹9段、河野臨9段、一力遼8段がそれぞれどう打ってどうその後の局面を構想していくかを解説したものです。実際それぞれの説明を見ると、プロであればほとんど考えることが一致しているというのが分かり、「次の一手」もかなりの確率で一致している場合が多いです。このことは、AI碁の登場で、今まで人間が作り上げてきた棋理が否定された訳ではなく、AI碁の打ち方はむしろ人間が盲点となっている所を教えてくれた、という風に思えます。ただ、一力8段は、アルファ碁が星に対していきなり三々に入る打ち方を「自分は絶対に打たない」と書いていますが、先日のNHK杯戦の対本木克弥8段戦の碁で確か打っていたんじゃあ…
人間より強いAI碁の登場は、個人的な感想では、棋聖道策による手割りなどを使った棋理の確立、そして木谷実9段と呉清源9段による新布石の提唱、に続く第3の囲碁革命であると思います。今後もプロ棋士によるAI碁研究は続き、その中から新しい打ち方が出てくることを大いに期待しています。

デボラ・リップシュタットの「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」

デボラ・リップシュタットの「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」を読了。丁度この本が映画になって日本でも公開されているので、それに合わせて出版されたものと思います。リップシュタットはアメリカ在住のユダヤ人でユダヤ人の迫害史の専門家。リップシュタットがイギリスの歴史家のアーヴィングをその著作の中で「反ユダヤ主義者、ホロコースト否定論者」として厳しく非難したことに対し、アーヴィングがリップシュタットを名誉毀損で訴えます。イギリスでは名誉毀損の裁判は原告側ではなく被告側に立証責任があることになっており、アーヴィングはおそらくそんな面倒なことはせずリップシュタットが和解をもちかけ、その著作の表現を取り下げるだろうと思って告訴したのでしょうが、リップシュタットは全面的に戦うことを決意します。その裁判費用に日本円で2億円近い費用が必要でしたが、色々なアメリカのユダヤ人の団体が彼女に対し全面的な資金援助を申し出ます。この辺りさすがユダヤ人という感じで、他の学者だったらまず諦めてしまうのではないでしょうか。援助を受けたお金で、最高のリーガルチームを結成し、アーヴィングの著作とその主張を徹底的に調べ上げて裁判に臨みます。裁判の内容は対等な闘いというよりも、アーヴィングの主張の杜撰さや意図的な歴史の事実の書き換えや脚色が30以上も明らかにされていきます。そういう訳で途中で既に判決の結果は予想でき、その予想通りの結末となりますが、個人的にはメデタシ、メデタシとはいかないような後味も強くありました。

1.ちょっと調べれば分かるようなアーヴィングの悪質な資料操作にも関わらず、イギリスの歴史家の多くがアーヴィングの研究を高く評価した。

2.日本の裁判所でこの内容が争われたら、「高度な学問的な判断は司法にはなじまない」とか言って逃げてしまうんではないか、という懸念が湧きました。

3.過去に私も深く関わった「羽入辰郎事件」との類似性が嫌でも想起されました。ちょっと調べれば分かるような羽入本の誤謬にも関わらず、かなりの数の学者が羽入本を褒め称えました。

4.アーヴィングがヒトラー擁護、ホロコースト否定の姿勢を強めていくのは、ドイツの中でネオナチ勢力が台頭していくのと同時です。ご承知の通り、2017年の総選挙で極右政党「ドイツのための選択肢」が94議席も獲得しました。

5.アウシュビッツ他のホロコーストを否定する気は毛頭ありませんが、現在イスラエルがパレスチナに対してやっていることはまったくもって容認できません。また、ホロコーストの生存者であるユダヤ人による「ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち」(ノーマン・G. フィンケルスタイン著)という本が出ていることも知っておくべきと思います。

なお、読んだのは山本やよいによる日本語訳ですが、翻訳自体はまったく問題なく読みやすかったです。ただ、ドイツ語のカタカナ表記にいくつか違和感があった(ausをアオス、ichをイヒ、小文字にすべき拗音を大文字にしているなど)のと、Ausrottung(絶滅、根絶やし)という裁判の中でもその解釈が争われた単語のスペルが間違っている(Austrottungになっている)など、翻訳者のドイツ語の知識はほとんどないと思いました。

Public romance in Japan (4) — Kyoji Shirai and Niju-ichi-nichi kai

During an emerging stage of public romance, another outstanding novelist was Kyoji Shirai (“白井喬二”) (1889 – 1980). Not only he created some great works one after another such as “Shimpen Goetsu Zoshi” (“神変呉越草子”) (1922 – 1923), “Shinsen-gumi” (“新撰組”) (1924 – 1925), or “Fuji ni tatsu kage” (“富士に立つ影”, A shadow standing on Mt. Fuji) (1924 – 1927), he also started to use the word “大衆” newly as the translation of an English word “public”, adding it a new reading as “Taishu” instead of the conventional “Daisu” or “Daiju” that meant a group of Buddhist monks, and thus triggered that the word “大衆文学” (Taishu Bungaku, literature for common people) was created by the then media.
The reason I use “public romance” here is that the word “大衆” was originally the translation of “public” and most works appeared in this stage were to be regarded rather romances than novels.
He also initiated a social gathering of public romance novelists in 1925 named “Niju-ichi-nichi kai” (“二十一日会”, a party of twenty first day). The members were, Kyoji Shirai, Shin Hasegawa (“長谷川伸”), Shiro Kunieda (“国枝史郎”), Sanju-san Naoki (“直木三十三”, he changed the name later to Sanju-go Naoki (“直木三十五”)), Rampo Edogawa (“江戸川乱歩”), Fuboku Kosakai (“小酒井不木”), Tekishu Motoyama (“本山荻舟”), Roko Hirayama (“平山蘆江”), Fujokyu Masaki (正木不如丘”), Soun Yada (“矢田挿雲”), and Seiji Haji (“土師清二”). Except Rampo, Fuboku, and Fujokyu, all of them were novelists of period romances. Although Rampo Edogawa was a writer of early-stage detective novels in Japan, that genre was also classified as a type of public romance at that time. From 1926, the party started to publish a magazine named “Taishu Bungei” (“大衆文芸”). (See the pictures.) With the magazine, they presented the emergence of a new genre in the Japanese literature.

ミニお伊勢参り(東京大神宮)

初詣は元旦に2社、2日に1社いって3社詣りを済ませていますが、休日なのでもう1社、東京のお伊勢さんといわれる東京大神宮に詣ってきました。1月8日だというのに、かなりの人出で参拝まで1時間近く待たなければならず、またその間に雨が降ってきて結構大変でした。ご本家と比べると本当にこぢんまりとした神社です。
ちなみに、昔はお詣りの仕方についてあまりうるさいことは言わなかったのに、最近はどこの神社に行っても、いわゆる「二礼二拍一礼」を守るようにという説明書きがあり、かなり多くの人がそれに従っています。でも調べてみたら明治の時代に神道が「国家神道」に変わった時に、国家の宗教なのだから各神社ばらばらの参拝の仕方はよくない、ということで決められたやり方のようで、決して神道本来のものでも何でもありません。神道は本来小うるさいことを言わないで、各人の素朴の信仰に任せるというのがいい所だと思います。

西山隆行の「移民大国アメリカ」

西山隆行の「移民大国アメリカ」を読了。移民に関する本も既にこれで5冊目です。「移民」について今議論が喧しいのはアメリカと欧州だと思い、アメリカの実情を知りたくて買いました。ただ難点は2016年6月の出版で、2016年の大統領選については途中までしかフォローしていない状態でこの本が書かれているということです。筆者は東大法学部出身の人ですが、何かいかにもその手の優等生が要領よく複数の資料をまとめた、という感じで情報を得る上では有益でしたが、西日本新聞の本みたいに、良く調べたな、という感動はまるでありませんでした。一つ面白かったのは、アメリカの労働組合が、移民の流入は労働者の平均給与水準を下げると最初は反対していたのが、今は労働組合に入る人が激減したため、今度は逆に移民の取込みを図っているのだとか。西日本新聞の本に日本の連合の人が出てきて、これがどうしようもない移民反対論者でしたが、いつかは連合も外国人労働者を組織化しようと躍起になる日が来るのかも。後面白かったのは、黒人といっても、例えばオバマ大統領の父親はケニアからアメリカにやってきた留学生で、一種のエリートであり、いわゆるアメリカに奴隷として連れてこられた人達の子孫ではなく、この手の人はむしろ共和党支持者なんだとか。その他、エスニック・ロビイングの話とか、最後に日本の課題についての話もありますが、どれも突っ込み不足という印象を受けます。

NHK杯戦囲碁 余正麒7段 対 高尾紳路9段

新春最初のNHK杯戦は黒番が余正麒7段、白番が高尾紳路9段の対戦です。この二人の対戦成績は余7段から見て8勝1敗とトップ棋士同士としては信じられない程偏っています。また、余7段は各棋戦で勝ちまくっていて7大タイトルにも2回挑戦していますが、まだ井山裕太7冠王には手が届かない感じです。布石は黒が右上隅で二間高ジマリ、そして左上隅の白の星に対しいきなり三々入りと、AIの打ち方を模倣した最近流行の布石です。黒は左下隅でもかかった後三々に入り両方で実利を稼ぐ展開でした。局面が動いたのは、白が下辺に開いた黒に打ち込んでからで、白は右下隅と下辺で活きましたが、黒も左下隅を封鎖している白に切りを入れ、こちらも下辺を荒らし、五分五分のワカレでした。その後中央での競り合いがあった後、白は右上隅に手を付けました。ここの折衝は劫になり、劫は黒が勝ちましたが、白は代償に左上隅を取り切りました。この結果は白が地を稼ぎ、黒の容易でない形勢になりました。ここで余7段は右辺を開いている白に横付けを敢行しました。付けてハネて継いだ黒3子は取られてしまいましたが、黒はこの3子を捨て石にして右上隅の白2子を先手で切り離して締め付けることが出来、これで黒が逆転しました。その後白は左下隅で劫を仕掛けるなどして粘りましたが、わずかに及ばず、黒の2目半勝ちになりました。白は右辺の対応が悔やまれます。正しく打っていたらわずかに白が優勢だったのではないでしょうか。

Public romance in Japan (3) — Dai Bosatsu Touge

Everybody agrees that Kaizan Nakazato’s (“中里介山”) “Dai Bosatsu Touge” (“大菩薩峠”, Dai Bosatsu pass) is the first typical example of public romance in Japan, excluding the author himself. He did not accept at all that his novel is classified as a public romance, instead he called it a “Mahayana novel” (“大乗小説”). (Mahayana Buddhism is a school of Buddhism that was missionized in East Asian countries including Japan.)
It is true that the novel is in many aspects beyond any classification. As you can see in the picture, it has twenty volumes in Japanese paper book style, and continued for 28 years (1913 – 1941) to write, yet is still uncompleted.
When we start to read this novel, we are shocked by the first scene where the hero, Ryunosuke Tsukue (“机龍之助”), kills an old male pilgrim on the top of Dai Bosatsu pass without any specific reasons. He further kills Fuminojo Utsuki by a match at a shrine and kidnaps Fuminojo’s wife and rapes her. You may think then this novel is a picaresque roman, but the hero is not at all jovial but very nihilistic. He will become blind later by an accident, but he still keeps killing many innocent people without clear motives.
Although we classify the novel as “public” romance, this novel is rather favored by intellectual people, as Hiroshi Nakatani (“中谷博” ) pointed out. In 1910, Taigyaku affair (“大逆事件”) occurred and Shusui Kotoku (“幸徳秋水”) and his fellows were sentenced to death by the suspicion that they planned to assassinate the emperor of Meiji. The suppression was much strengthened after the affair, and many intellectual people (among them there were many socialists or anarchists) felt depressed. For them, the acts of Ryunosuke, who kills people disregarding conventional morals completely, were kinds of relief.
The novel was turned into a play by Shinkokugeki (“新国劇”) in 1921, and the sword actions in the play made this novel and Ryunosuke Tsukue very popular. It has been so far picturized as well for five times, though all of them handle just early parts of the novel. Through the play and the movies, Ryunosuke Tsukue became a typical character type in Japanese public romance, and we can find many mimics.
Because the intellectual right of the author has already expired, you can read this novel on the internet. As for English translation, I don’t think it has been released, unfortunately. If you try to understand public romance in Japan, however, this work is a must-read.

P.S.
I found an English translsation by C. S. Bavier at a museum in Hamura city. (Hamura is Kaizan Nakazato’s birthplace). It was released in 1929 as one volume book. Perhaps it might be a digest version or a translation of the beginning part.  (August 14, 2018)