キネマ旬報の昭和41年(1966年)2月号別冊の「日本映画シナリオ古典全集 第二巻」にて、山中貞雄監督・白井喬二原作の「盤嶽の一生」のシナリオを読むことが出来ました。まず言っておかないといけないのはこの映画はサイレントだということです。日本で初めての本格的なトーキー映画は昭和6年(1931年)の「マダムと女房」とのことですが、この映画は昭和8年の制作で、トーキーが普及するにはかなり時間がかかったみたいです。この映画の特徴として、キャプションがかなり効果的に使われていて、例えば最後のシーンでは、「盤嶽どこへ行く?」「江戸へ」「騙されに」といった具合です。弁士が解説する前提のサイレント映画ではある意味こういうやり方は禁じ手だったみたいですが、山中貞雄は積極的に使いこなしています。またシナリオを読んだだけでも、原作のいくつかのエピソードをテンポ良くつなぎ合わせて、盤嶽というキャラが観る人に良く分かるような作りになっていると感じました。西瓜畑のラグビーシーンも出てきますが、ただ「ラグビーのように西瓜を奪い合う」といった感じにしか書かれておらず、実際のシーンを想像するのは難しいです。何はともあれ、シナリオだけでも残ったというのは素晴らしいことです。いつの日かどこかでフィルムが発見されないか、というのが私の夢です。
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白井喬二(厨井道太郎)の「銀の火柱」
白井喬二の「銀の火柱」を連載1号分だけ(博文館 淑女画報 大正10年{1921年}2月号)を読了。というか名義が「白井喬二」ではなく、「厨井道太郎」名義です!最初本当に本人が書いたのか疑いましたが、白井喬二の自伝の「さらば富士に立つ影」の巻末の年譜にちゃんと出ているので間違いないでしょう。また白井と「淑女画報」は、白井が学生時代に近松門左衛門の作品の現代語訳である「雨乞い小町」「恋のはやりうた」をこの雑誌に載せていますので、以前から付き合いがあります。また内容は時代小説ではなく、(その当時の)現代ものであり、しかも丁度この回はある男子学生が女性に恋の告白をする(「あなたを愛しています」ではなく「あなたを恋しています」が使われています)、という白井の作品としては非常に珍しいものです。白井は他にも「東遊記」とか「旧造軍艦」の時も、前者で飛鳥亭主人、後者で白井狂風という別名を使っていますので、この白井の最初期(連載は1920年4月-1921年3月、「怪建築十二段返しは博文館の「講談雑誌」の1920年1月号{おそらく発売は1919年12月}に掲載)に別名で作風が異なるものを書いていても特に不思議はないと思います。林不忘=牧逸馬=谷譲次のような例もありますし。
白居喬二の「由公の回顧録」(「盤嶽の一生」別篇)
学藝書林の白井喬二全集は全16巻の内半分くらいを所有していました。他で読んでいる巻の分は買わなかったのですが、各巻に付いている「月報」を全部読んでみたかったため、古書店で月報付きの全16巻を重複覚悟で新たに買い求めました。それで思わぬ収穫だったのが「盤嶽の一生」で、巻末に「由公の回顧録」という未読の番外篇があって、読むことが出来ました。未知谷から出ている「盤嶽の一生」は盤嶽がある不正を暴こうとして却って彼自身が捕らえられて牢に入れられ、そこを盤嶽が破牢するところで終わっています。「由公の回顧録」はその後の盤嶽を描いたものです。由公は、盤嶽が浮浪者であったのを引き取って世話した一人です。読んで嬉しかったのは、盤嶽に恋して田舎から出てきたお稲について、盤嶽は逃げ回ってしまってお稲の気持ちに応えることはなかったのですが、この回顧録ではその後12年経ってから二人が夫婦になったことが描かれています。(盤嶽43歳、お稲28歳)この結果はとても気持ちがいいです。また色々と苦労し浪々の身であった盤嶽が、幕府に対し「参勤交代廃止」の建白書を出し、それが採用されることは無かったものの、その見識の立派さが評価されて、ある幕府に仕える学者の相談役みたいなものになっていることが示唆されています。
この阿地川盤嶽は、言ってみれば白井喬二の分身みたいなキャラクターです。そして盤嶽の物語は戦前から戦後へと書き継がれました。「正義」というものの基準が大きく変った戦前と戦後で、盤嶽のキャラクターがまったく変更なく書き継がれている、というのはある意味すごいことだと思います。これで盤嶽ものの未読は、昭和26年12月の「オール読物」に掲載された「盤嶽の仇討」だけになりました。
文藝通信 昭和9年5月号「仕事部屋を覗く3 白井喬二氏」
文藝春秋社から出ていた「文藝通信」という薄い雑誌の昭和9年(1934年)五月号の「仕事部屋を覗く3 白井喬二氏」を読了。白井喬二の普段の仕事振りが分かる貴重な記事です。それによると朝は書生よりも早く5時頃起き、それから仕事で9時、10時まで続け、その後朝食。その後はまた仕事をしたり客に会ったり。午後の2時・3時くらいにパンの軽い昼食を取って、そこから欠かさず毎日30分~1時間の昼寝。その後は来客と会う時間など。それから夕食で、白井喬二の夫人は栄養学の専門家ですが(結婚する時に、白井が女性も職を持つことを奨励した結果です)、意外なことに白井喬二はかなりの大食漢で、洋食皿が3~4、更に夫人特製の皿が2~3皿で、それをペロリと平らげるんだそうです。平凡社の「大衆文学全集」を手伝った時、この大食がたたって胃潰瘍で倒れたんだそうです。大食もあるんでしょうが、この全集の仕事はかなりハードだったんでしょう。夕食後は音楽を聴いたり、子供たちと剣道の稽古をしたりで、9時か10時には就寝。でも12時にはまた起きてそこから2時くらいまでが読書の時間だそうです。合計すると1日の睡眠時間は6~7時間です。
仕事の量はこの記事の10年前は1日原稿用紙60枚も書いていたようです。この頃はさすがに1日20枚くらいに落ちていたようです。といった感じです。
白井喬二の「江戸から倫敦へ」(連載三回分)
白井喬二の「江戸から倫敦へ」の連載三回分を読了。大日本雄弁会講談社の「現代」の昭和6年(1931年)二月号・三月号と昭和7年(1932年)一月号です。(ちなみに亡父が生まれたのが1932年の1月26日です。)
読んでみてびっくり、白井喬二の猶太禍捕物帳の第二弾です!
第一弾というのは、「傀儡大難脈」で、何故かユダヤ人が日本の色々な伝統芸能の家の秘伝書を盗んでいくのを、名与力の千面小三郎が暴いていくという話でした。この話を収めた「至仏峠夜話」という本の後書きで、白井自身が「猶太禍捕物帳」を更に書いていく予定があるようなことを述べていました。しかし私はそれで終わったのだと思っていたら、恐るべし、白井喬二、ちゃんと書いていました!
しかも、ユダヤ人が伝統芸能の家の秘伝書を盗んでいくという設定はそのままこの「江戸から倫敦へ」でも使われています。それどころか更に陰謀はこれを入れて全部で10あり、他は日本語を乱れさせる、教育を頽廃させる、機械により人間の職を奪う、風紀を紊乱する、女性の良い所を無くす、武術を貶めて文弱にする、国土をならす、重職にある武士の暗殺、という実に恐るべきものです。しかしいくらなんでも、江戸時代の日本に対して何故ユダヤ人がそんな陰謀を企むのかその辺りはまったく書いていないように思います。
ともかく一話読んだだけでも、荒唐無稽の極地で、ユダヤ人差別はいただけませんが、ストーリーとしては実にわくわくさせる展開でした。この頃の「現代」は日本の古本屋さんサイトで後2冊見つけて取り寄せ中ですが、全部(18回)読んでみたいものです。
文化人類学受講の思い出/阿部年晴先生
大学の時に文化人類学でアフリカについて、確か「阿部…」という先生の授業を聴講したのを記憶していて、ググって確かめてみたら阿部年晴先生でした。しかし、下記のブログによると2016年に鬼籍に入られているようです。
ブログ:「王様の耳そうじ」
何で阿部先生のことを思い出したかというと、1980年代にはアフリカに関する本が結構出ていて、私もナイジェリアの民話みたいな本を読んだ記憶がありますし、阿部先生の授業の課題でナイジェリアの複雑な民族構成に関する英語の論文を読んだこともあります。(ハウサとかヨルーバとか、ナイジェリアには全部で数十の部族がいて、お互いに争っていたりします。)先日Eigoxの新しい先生でナイジェリア出身の人がいたので、レッスンを受けようとしてその準備で色々調べてみました。しかし当時の本はことごとく絶版で、かといって新しい本もあまり出ていないようです。(その先生は、結局レッスン直前にキャンセルしてきて、キャンセル率を見たら何と30%もあって、ちょっと問題なんで改めてレッスンを予約することはしていません。)
1980年代は1985年頃から円高が進み、その結果として日本企業の海外進出も進みました。そういう意味で海外に関心があったり仕事で関わる人は多かったのだと思います。文化人類学に関心を持つ人もそれなりにいたと思います。それが今は日本人全体が内向きで閉鎖的になり、あからさまな外国嫌いを標榜する人も増えています。また世界の文化人類学全体でも、サイードのオリエンタリズムによる西洋の植民地主義の正当化という批判を受け、その研究のスタンスが根底から問い直されてきていて、かつてのエネルギーを失っているようです。
私はあくまでもこうした方向とは逆を目指していきたいです。取り敢えず、阿部先生の「アフリカの創世神話」をAmazonでポチりました。
マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」のドイツ語版読書開始
今日から、マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」のいよいよドイツ語版の読解開始。このヴェーバーの博士号論文は実質的にヴェーバーの学者としてのスタートの論文ですが、これまで何故か日本語に訳されていません。それを無謀かもしれませんが、私が英訳の力を借りて日本語訳しようとしているものです。ドイツ語をまとめて読むのはかなりブランクがあるので心配でしたが、やってみたら意外とスラスラと頭に入ります。この点、ドイツ語は英語より優れていて、英語で本当の意味の読解力をマスターしたのは最近ですが、ドイツ語は大学時代に4年やったくらいでも結構読むことが出来ます。冠詞の格変化があったりするのは覚える時は大変かもしれませんが、一旦マスターすれば文章の意味を理解するには非常に助けになります。後はラテン語とかギリシア語をやったのもプラスになっています。例えばドイツ語で前置詞 in の後に3格(与格)が来ると、「~の場所で(静止)」を意味し、4格(対格)が来ると「~の場所へ(移動)」を意味しますが、こういう前置詞の後ろに来る名詞の格によって意味が違うというのはそのまんまギリシア語にあります。むしろギリシア語の影響でドイツ語に入ったんだと思います。
白井喬二の書誌情報をWikipediaからこちらへ移しました。
Wikipedia自警団との戦いの一環として、Wikipediaの「白井喬二」の項(ほぼ8割を私が記述)にある、白井喬二の書誌情報をこのブログに移しました。今後、Wikipediaの方のリストはメンテしませんし、また追加もしません。全てこちらのブログのものを更新していきます。
「ゼロ戦と戦艦大和」(秋田書店)
昭和40年代の小学生のある意味必読本だった、秋田書店の「ゼロ戦と戦艦大和」を古書店で入手。この本で得た知識は多かったですが、今見ると結構間違ったことを書いています。例えば20mm機関砲こそが、ゼロ戦の戦果の最大の原因みたいなことを書いていますが、特に初期の20mm砲は弾数が少なくて一連射するとすぐに弾切れ、また弾丸自体の重力が大きいため、どうしても山なりにしか飛ばず、よっぽど接近しない限りまず当たらないので、ベテランパイロットは皆7.7mmを使って敵機を落としていました。
表紙の絵は小松崎茂大先生だと思います。
この頃(1960年代後半)は本当に戦記物ブームだったのです。TVでもアニメンタリー「決断」(なんとタイムボカンシリーズのタツノコプロの作品です)という戦記物をやっており、第一回が真珠湾攻撃で第二回がミッドウェー海戦でした。主題歌がほとんど軍歌でPTAからの抗議が強く、26回で終了になりました。
「ロンドン爆撃」(シュタッケンベルク原作、白井喬二・池田林儀 監修編訳)
シュタッケンベルク原作、白井喬二と池田林儀の監修編訳の「ロンドン爆撃」(田中宋栄堂、1942年6月10日発行)を読了。白井喬二の名前が入っていますが、おそらく訳したのは池田林儀(東京外語大学出身のジャーナリストで、大日本雄弁会講談社、報知新聞などに勤務。優生学の紹介者。ドイツ関係の著作や翻訳が多数有り)で、白井はせいぜい日本語のチェックをしたか序文を書いたぐらいではないかと思います。元の本はドイツの参謀本部が資料を提供したというものです。「ロンドン爆撃」「ワルソー爆撃」(ワルソーはワルシャワのこと)「エッシェ伍長」の3篇を収録。「ロンドン爆撃」は1940年9月から約9ヵ月間行われたドイツによるロンドン爆撃のおそらく初期の頃の夜間爆撃の話です。爆撃機の乗組員の中に、第一次世界大戦時のロンドン爆撃経験者が混じっているというのがちょっと面白いです。実際に第一次世界大戦の時、最初はツェッペリン飛行船によって、その後ツェッペリン・シュターケン Rという複葉の大型機でのロンドン爆撃が行われています。
「ワルソー爆撃」は子供の時模型飛行機づくりで腕を競った二人の少年が共にパイロットになって、ワルシャワ爆撃に参加し、一人が敵弾を受けて不時着したのを、もう一人が自分の飛行機で助けに行く話です。中に、「1939年9月、ドイツはポーランドへ進撃しなければならないハメとなった。」とあって、良く言うよ、と思いました。
「エッシェ伍長」は、陸軍でポーランドに侵攻した兵士の話で、戦意高揚ものというより、実際の戦場の厳しさがかなりリアルに書いてあり、実際に主人公のエッシェ伍長も至近距離で手榴弾の炸裂を受けて、右目を失明するという結構暗い話になっています。
白井喬二はこの時期田中宋栄堂と結構仕事をしていて、東亜英傑伝全8巻とか、このドイツ戦記シリーズ全5巻(判明しているもので)とかに関わっています。日本文学報国会の常任理事を務めていたり、また中国大陸に戦線視察にいってその手記を他の作家に先駆けて発表したりしていますので、かなりの部分戦争に協力的でした。しかし幸い戦後に戦犯として告発されることはありませんでした。