囲碁を覚えて、初めてのリアルタイムの7大タイトルの戦いは、1981年の本因坊戦で、本因坊の武宮正樹に名人の趙治勲が挑戦した戦いでした。この棋譜はその時の第3局で、武宮の黒番です。上の棋譜の右半分の黒の打ち方が、いわゆる宇宙流で、特に上辺の白を平行に打って囲んだ手は何と美しくて簡素な打ち方だろうと当時感動しました。しかし、宇宙流は大模様の中にどかんと打ち込んで活きてしまうのが得意な趙治勲に対しては勝率が悪かったです。この時の碁も黒の中央の打ち方で問題があって、下の棋譜のように、黒模様の中の半分くらいに白が殴り込むように入り込んで生きてしまい、結局この碁は白の三目半勝ちになりました。この結果、武宮は三連敗になりました。その後武宮が二勝を返しましたが、最終的には四勝二敗で、趙治勲が自身初めての名人本因坊になりました。
日別アーカイブ: 2017年1月11日
遠藤周作の「沈黙」
遠藤周作の「沈黙」を読了。マーティン・スコセッシの映画が1月後半に封切られるので観ようと思い、その前に原作を読もうと思って読んだものです。感想はネタバレさせないと不可能ですので、以下はこれから原作読むか、映画で初めてストーリーに触れる人は読まない方がいいです。
まず、戦国時代から江戸時代にかけて日本に来たポルトガル人宣教師の中で、幕府による迫害に負けて棄教して日本人になったという人が複数いたことは、今回初めて知りました。遠藤周作はこの歴史的事実を元にして、その棄教に至るまでの事情を追っていきます。物語はまずフェレイラという司祭が日本で棄教したという事情がローマ教会に伝えられる所から始まり、フェレイラにかつて教えを受けた3人の若い司祭が日本に渡ろうとし、2人がそれに成功します。それでロドリゴという司祭の方が、最終的にフェレイラの勧めもあってキリスト教を捨てるのですが、その理由は直接的には彼がキリスト教を捨てないと、日本人信徒が拷問で殺されるからですが、もう一つは幕府のキリシタンへの弾圧に対し、神が「沈黙」を続けることに対して、疑問の心が起きたからです。ここの所、私は非常に引っかかります。本当のキリスト教では、旧約聖書のヨブ記に見られるように、どのような苦しみを神から与えられようと、決して神を疑ってはいけないとされているのが、まず第一点です。さらには、キリスト教は現世利益を求める宗教ではなく、むしろ苦難を与えられることこそ神に選ばれたということという考え方があります。(マックス・ウェーバーはこれを「苦難の神義論」と呼びました。キリスト教というより元々迫害され続けた流浪の民であるユダヤ人の宗教であったユダヤ教の考え方ですが。)この作品に出てくるカトリックの司祭は、何度もこれだけ信者が苦しんでいるのに、何故神が奇跡を起こして信者を救わないのか、と疑問に持ち続けます。この考え方自体がまったくキリスト教の本来の考え方から見ると相容れないものに思えます。この本は最初に出た時に九州のカトリック教会から「禁書」に指定されたそうですが、なんとなくわからないでもありません。そういう訳で非常に違和感のある作品ですが、ただロドリゴが「転ぶ」所で、この場にもしイエス・キリストがいたならば、彼もまた(苦しんでいる信徒を救うため)「転んだ」であろう、という議論は重いです。
後、本筋とは関係ありませんが、フランシスコ・ザビエルが最初にキリスト教(カトリック)を日本に伝え、わずかな間に最盛期では40万人もの信徒を獲得した、ということに驚きました。今の日本でのカトリック教徒の数もせいぜい50万人なんで、ほとんど変わりません。
映画については、スコセッシが最初に映画化するのではなく、1971年に既に篠田正浩監督によって映画化されています。(最初に棄教するフェレイラを演じたのはなんと丹波哲郎。)ともかく、スコセッシの映画が楽しみです。