クルアーン(コーラン)の日本語訳を、半年ぐらいかけて毎日少しずつ読んでやっと読了しました。
まず第一印象としては、非常に面白くない経典だということです。こういうことを言うと問題かもしれませんが、例えば旧約聖書には創世記などの神話とか、列王記、申命記のようなユダヤ民族の歴史に関するものが多く含まれ、そして新約聖書ではイエスの様々な例えを用いた説教を興味深く読むことが出来ます。しかしクルアーンについては、まずは「アッラー」というのは決して固有名詞ではなく、アラビア語での普通名詞の「神」の意味です。そしてこの神はユダヤ教やキリスト教のものと同じであるとされます。なので神話的な部分はほとんどが旧約聖書からの、それも正しくない形での借用(正しくないというのは、例えば歴史的に違う時代のものを同じ時代に起きたかのように扱ったりしていたりしています)です。ただ、固有人名はアラビア語風に変えられ、モーセはムーサー、イエスはイーサー、ノアはヌーフなどとなります。ちなみに聖母マリアは、マルヤムです。そして例えばキリスト教徒から見ると、クルアーンでは「アッラーが子を設けることはない」ということで、キリスト教の根幹の部分をバッサリと斬り捨てていますので、基本的にはキリスト教徒はイスラム教を許容出来ず、何故十字軍のようなことが起きたのかもそれで理解出来ます。そういう訳で独自の神話も無く、またたとえを用いた説法もほとんど無く、全体のほとんどは「ただアッラーを信じよ」の繰り返しで、新約聖書で言えばパウロ書簡に近いと思います。また若干ですが当時の社会での道徳的な訓戒もあり、勝手に妻を離縁してはダメだ、といったものが出て来ます。またアッラーについて何度も何度も繰り返されているのがアッラーが慈悲の神であり、「よく赦す」神であることが強調されています。要するに改宗を迫る異教徒たちに悔い改めさせてアラーの慈悲に従えば赦される、というのが中心的な命題になっています。クルアーンは元々、ムハンマドが神から受けた啓示を口頭で語ったものを、弟子の内の教養があるものが文書化したものです。ムハンマド自身は文盲だったので、現在あるクルアーンの文書をムハンマド自身が書いた訳ではなく、複数の人間の共同作業でかなりの時間をかけて現在のものにまとまったものです。その意味でクルアーンのアラビア語は今でも文章語の模範とされる格調の高いものだそうですが、残念ながら日本語訳で読むとそれはまったく伝わって来ませんでした。全体にも論理的な構成というよりも順不同に色々な内容が出て来ます。これは私の勝手な意見ですが、日本の仏教でいえば弥陀の本願にひたすらすがる浄土真宗に近いものがあると思いました。どちらも大衆への布教に成功しているという意味でもそうですし、最後の審判で裁きを受けるといって脅かすのも仏教での地獄に落ちると脅かすのと近いものを感じました。
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回を公開
マックス・ヴェーバーの「ローマ土地制度史―公法と私法における意味について」の日本語訳の第42回を公開しました。これまでの所でWordファイルで既に188ページに達し、ほぼ「中世合名・合資会社成立史」と同じくらいの分量に達しています。それでもまだようやく6割弱です。先は長いです。
ウルトラマンタロウの「怪獣ひとり旅」
ウルトラマンタロウの「怪獣ひとり旅」を観ました。この時期の特撮によくある観光地とのタイアップで、宮崎のえびの高原が舞台です。九州だから温泉、という安直なイメージで、温泉掘りの名人がボーリングをしているのが原因で怪獣ボルケラーが登場します。東隊員は今回も無謀にも怪獣の角に飛び移ります。ZATが攻撃しにくくなるだけでほぼ無意味な行動です。お約束で角から振り落とされてそれでタロウに変身するというワンパターンな展開です。うーん名人の林田を追って九州までやって来たタケシ少年がまあほのぼのとした展開を作っていますが、それだけのエピソードです。
新しい(?)ATOK
これも2004年~2005年で元々携帯電話用ATOKの補助辞書でしたが、私は本当にバラエティに富んだ辞書を100近く作りました。それに比べて今回の例で出ているのを見ると、なんだこの程度か、という感じです。
中根千枝先生の「タテ社会と現代日本」
中根千枝先生(私は大学の時1年間文化人類学入門と社会人類学の初歩を中根先生に習っています)の「タテ社会と現代日本」を読了。この本は「タテ社会の人間関係」出版50年を記念して、講談社が中根先生にインタビューした内容をまとめたもの。附録で1964年の中央公論に載った「日本的社会構造の発見――単一社会の理論――」が付いています。この本を読んだのは、先日の仏教学者がその著作の出版にあたって別の年長の学者の妨害を受けた、という暗澹たる話を読んで、再度中根先生の「タテ社会」を確認したくなったからです。
この本で驚いたのは「タテ社会」というのは中根先生自身の命名ではなく、講談社の当時の編集部のアイデアだということです。確かに「日本的社会構造の発見」の方を読んでも、タテという言葉は使われていません。ただ発想の元は、インドと日本の比較ですが、インドはカースト制度で差別が強い社会のように思われていますが、実際には同じ職能階層の間ではお互いに助け合う仕組みが出来ていて、たとえ最下層のカースト民であっても決して不幸だけということはないということです。日本は閉ざされた「場」の空間の中で、要するにその「場」に長くいるほど階層が上(先輩-後輩の序列)で、その「場」の中での上昇していくことは可能だけど、職能階層、専門家集団のようなヨコのつながりがほとんどないということです。なのでマルクス主義的文脈でも、日本では個々の会社単位ではない資本家対労働者という対立はほとんどなく、実際には同業他社同士の熾烈な争いの方がよっぽど強いということになります。
ただ中根先生は2021年に亡くなられていて、この本は2019年ですが、さすがに中根先生の日本の現状認識もかなりズレが出ています。今は「せっかく苦労して入った会社だからなかなか辞められない」なんていう状況には全くなく、新入社員の1/3は入って3年以内に辞めて別の会社に転職したりしています。それにそもそも正規社員になれる人が減って、会社に勤める人の全体の約1/3は今や非正規社員です。また、私の例を出して恐縮ですが、私は1年半前に前の会社を辞め、今の会社に移っていますが、どちらも産業用スイッチの会社でお互いに競合会社です。(それぞれ強いジャンルが違っていて、それほど強い競合ではありませんが。)そのきっかけは、私が「ヨコ」の関係であるある工業会で同業他社同士が所属する委員会の委員だったことです。こういうのも50年前にはあまりなかったと思います。また「家」が典型的な場として挙げられていますが、私のように独身で老後を迎える人がやはり1/3になりつつあり、そもそも「家」も崩壊寸前です。
ただそうは言っても、タテ社会の弊害と言うのはまだまだ沢山残っていて、仏教学者の出版妨害もまさにその一例です。(ある意味、アカデミズムの世界が遅れていて未だに昔の悪弊から抜けられていない、とも言えそうですが。)そういう意味で中根先生のタテ社会論は今でも読む価値があると思いますし、またそれをベースにして今の日本を分析する新しい理論が出てくるべき時でもあると思います。
NHK杯戦囲碁 河野臨9段 対 結城聡9段(2024年12月1日放送分)
本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が河野臨9段、白番が結城聡9段の重量級対決です。布石は伝統的な布石とAI的な布石の組み合わせで、2つの隅でカカリにハサミが出来たのが最近では珍しいです。下辺から左下隅の戦いで、黒がちょっと左右の連絡を絶たれて苦しくなり、左側を劫にしたのですが、黒の劫立てに白は受けずに劫を解消し、黒7子を取り込んで白がリードしました。その後上辺に白が打ち込んでからの攻防が激しかったですが、白が右上隅を荒らす手を選んだのが打ちすぎで、ここもまた劫になったのですが、白の劫立てが少なく、黒が劫を解消して黒地が多く黒が打ちやすい碁になりました。唯一左辺から中央の黒が心配でしたが、実は上辺での白の渡りが不完全で、そこを付いていって結局は上辺の白を取り込んでつながったので、これで完全に黒のリードになりました。しかしその後白が右辺を荒らしに行ったのですが、黒も右下隅から出ていって、結局黒も白も眼が無いという攻め合い含みの状況になりました。この攻め合いをAIは正しく読めておらず、結局黒から右辺に一眼作る手があったので、攻め合いは眼有り眼無しで白が最後ダメを詰めることが出来ず、黒の攻め合い勝ちとなり、白の投了となりました。河野9段のさすがの読み、という感じでした。
ニュータウンの末路
結構この記事(画像クリックでリンク)には感慨がありました。何故かというと1973年(当時12歳)に山口県下関市から福岡県の宗像市(当時は宗像郡宗像町)にあった、その当時西日本最大のニュータウンと言われていた日の里団地(想定人口20,000人)に引っ越したからです。確かにこの記事にあるように、トイレが水洗になったり、お風呂がガスになったり(下関の時は石炭でお風呂沸かしてました!)とか、生活の改善はあったのですが、それ以上に何もない所に来た、という感じが強かったです。大体引っ越して1ヵ月くらいで、日の里団地の中央にあった高層アパートで、ガス爆発事故が起きました。これは手違いで赤ちゃんを折檻死させた母親がガス栓を開いて自殺を図ったものでしたが、このガス爆発が結構な被害になったのは、当時の宗像町の消防署には、この高層アパートの高さに届くはしご車がなかったためです。その他、私の家から駅(鹿児島本線東郷駅)までは2Kmぐらいあるのに、バスすらありませんでした。(バスが開通したのは、団地が出来てから7年ぐらい経ってからです。)それから大きなショッピングセンターというと、車で2時間くらいかかる香椎アピロスまで行かないとダメでした。(これも5~7年目くらいにダイエーが出来た、今は閉店しています。)そして東郷駅は快速電車が停まりませんでした。(3年ぐらい経って署名運動とかあってようやく快速が停まるようになりましたが、今度は赤間-東郷-福間と快速が3駅連続で停まるという、別の問題が発生しました。)後、家は新築だったのですが、この当時の家はやたらと気密性を上げすぎて結露が発生しやすく、そのためダニが多く発生し、このため私はかなり重症の気管支喘息を発病し、その後も長くこれに悩まされました。その後どうなったかと言うと、多摩ニュータウンと同じで、ここで育った子供達は皆他に出ていって、今は高齢者ばかりの限界団地になっていると聞きます。ちなみに私の両親は、兄も私も東京で働いていたため、1990年に自宅を売却して西八王子に出て来ています。
参考:宗像地区消防本部のHPより
昭和48年11月15日宗像郡宗像町の日の里公団アパートにおいて、プロパンガスの爆発火災(死者2名、重軽傷者9名)が発生し、これに端を発し、直ちに宗像町議会で常備消防の必要性が議論され、これが郡内他町村へ波及し、広域消防設立への気運が高まった。
その後、数回にわたる郡内町村長会議による協議の結果、宗像郡消防組合設立が決定され、昭和49年4月1日付をもって福岡県知事より消防組合設立の許可を受け、同年6月1日宗像郡消防本部、同年10月1日宗像消防署の設置を見るに至った。
日本電解が倒産
会社で毎日倒産情報のメールが来るようになっているのですが、そこに「日本電解」倒産の記事が…
この会社はプリント配線板用の銅箔を作っていて、本社工場は日立化成(現レゾナック)の下館事業所のすぐ側にあります。
元々日立化成と住友ベークライトの銅張積層板大手2社の共同出資で作られた会社です。大昔になりますが、ここで作られた銅箔を使った銅張り積層板を毎月億単位で売っていた私にとってはちょっとショックです…もっとも既にレゾナックとの資本関係は無くなっていたようですが。
スタートレック・TNGの”Deja Q”
スタートレック・TNGの”Deja Q”を観ました。タイトルはDeja vuのもじりで「またQ?」という感じでしょうか。エンタープライズ号はブレールIVからのSOSで、その星の月が軌道を逸れ地上に落下するのを何とか止めてくれということで、努力しますが如何せん相手が大きすぎてトラクタービームで牽引しようとするとインパルスエンジンが焼き切れそうになります。そこに話をややこしくするようにまたQが登場します。Qは仲間から罰を受け、そのパワーを一切剥奪され、完璧に人間となった状態でエンタープライズ号にやって来ました。Qは月を何とかする手段として、宇宙定数?を変更して月の重量を減らすというアイデアを出し、それでジョディが成功しかけますが、突然現れたカラマリアンの宇宙船が人間体のQを攻撃して来ます。言うまでもなくカラマリアンも過去Qにひどい目に遭わされており、その復讐です。2回目の攻撃の時に、攻撃を受けたQを助けようとして、データが動かなくなってしまいます。結局Qは今回は人間らしく?シャトルでエンタープライズ号から離れ自殺?しようとしますが、監視していたQの仲間がもう罰は十分と考えたのか、Qの力を戻します。Qは少しは恩義を感じていたのか、データに笑う能力を与え、かつ月を軌道に戻します。
という話ですが、正直なところ、このQが出てくる話は好きではないです。Omnipotent(全能)の神のようなパワーというのが、SFとは相容れないように思います。
ウルトラマンタロウの「血を吸う花は少女の精」
ウルトラマンタロウの「血を吸う花は少女の精」を観ました。どうでもいいけどタロウのタイトル、説明しすぎのように思います。親に捨てられ施設に入れられていた少女がある家庭に養女として引き取られるけど、世間体上子供があった方がいいからという打算的な理由で引き取って、少女は捨て子塚の花と同調し、結局その花が吸血植物怪獣で…という話です。タイガーマスクじゃないですけど、結構この頃孤児にからめた話というのは多かったように思います。今だと差別的ということでなかなか微妙な扱いになるのではないかと思います。