アーウィン・アレンの「タイムトンネル」第1話と第2話

アーウィン・アレンの1960年代のSFのTVドラマで、「宇宙家族ロビンソン」「原子力潜水艦シービュー号」ともう一つ並んで有名だったのが「タイムトンネル」です。昔NHKで放映していましたが、全30話の内、日本で放送されたのは28話です。残りの2話は日本軍が敵として登場するので、日本での放送にはふさわしくない、とカットされたみたいです。それが観たくてアメリカのAmazonでDVDを買いました。
取り敢えず、1話と2話を視聴。リージョンコードの違うDVDを大画面で再生するというのも、miracastを買った目的の一つだったんですが、手持ちのPowerDVD12も、PCに最初から入っていたWinDVDもmiracastに対応しておらず、結局PowerDVD18のアップグレード版を買う羽目に…トホホ…
1話目はタイタニックの沈没に乗り合わせ、2話目は10年後の未来(といっても1978年)で何と火星に向けた有人飛行のロケットの中に転送される、という展開です。(1960年代の終わりに、10年後は火星への有人飛行が実現していると思っているのがなかなかすごいです。)
どっちの話も、今一つ話の進み方が中途半端です。また特撮も、タイムトンネルの装置そのものはいいですが、宇宙空間シーンは書き割りそのものでかなりちゃちです。

iPod touch (6th generation)故障

2年と10ヵ月くらい使ったiPod touchが写真のような状態に。一応動いていますが、Homeボタンが押しにくくかつ反応が鈍くなっています。これはリチウム電池が古くなって中にガスが貯まって膨れ、それによって液晶部分が剥がれてしまったものです。昔からリチウム電池とはそういうモノみたいですが、以前は電池が金属で覆われていたため、このような不良はほとんどありませんでした。iPhone側が高速通信に対応するとか、ワイヤレス給電に対応するなどの種々の理由で金属ケースを止めてガラスに変えた結果、このようなことになっています。(このiPodの第6世代品は、単にiPhoneから通話機能を取り除いただけのものです。)Webで検索するとiPhone、iPodで山のように出ている不良のようです。ほとんど商品の設計ミスと言って良いと思います。この手の不良は買ってから2年までなら無償で交換のようですが、私の場合は2年以上経っているため、¥9,504かかりました。実に納得いきません。ちなみにAndroidのスマホも去年の夏にバッテリー交換を行いましたが、5,000円くらいでした。

マックス・ヴェーバーの「社会学の基礎概念」(阿閉吉男、内藤莞爾訳)

マックス・ヴェーバーの「社会学の基礎概念」(阿閉吉男、内藤莞爾訳)を読了。今、折原浩先生の仮説に基づく順番で「経済と社会」の旧稿を読み直している最中ですが、その前にこれもやっぱりきちんと読んでおかないといけないかと思い読んだものです。私が学生の時は清水幾太郎訳が岩波文庫で出ていましたが、この日本語訳がかなり問題が多いものだと聞いていましたので、今日まで読む機会がありませんでした。この阿閉・内藤訳は丁度私が卒業した年の翌年に出ています。
この「社会学の基礎概念」は、以前の「経済と社会」(ヨハネス・ヴィンケルマン編集による二部構成のもの)では、トップに置かれており、あたかもこれが「経済と社会」全体でのヴェーバーの方法論を示す論文だと理解されてきました。しかし、第二部のいわゆる「旧稿」については、この論文ではなく、1913年にLogos誌に発表された「理解社会学のカテゴリー」に準拠して読まなければならない、というのが折原浩先生の主張の内のもっとも重要な部分です。
それでは何故マックス・ヴェーバー自身が一度既に書いているカテゴリー論を新たに書き直す必要があったのか、という疑問が出てきます。それについては、ヴェーバーが1919年からミュンヘン大学で学生相手に「理解社会学のカテゴリー」に基づく講義を行った時の経験が影響していると言われています。「カテゴリー」論文では、ヴェーバーはゲマインシャフトとゲゼルシャフトという用語を、テンニースが最初にしたように「共同社会」と「利益社会」という対立概念ではなく、ゲマインシャフトの方がゲゼルシャフトをも包括する広い概念で、ある条件が整った特殊な場合のみがゲゼルシャフトであると定義していました。(正確に言うと、ゲマインシャフトとゲマインシャフトを直接定義したのではなく、ゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為という、人間の行為の種類の定義ですが。)ところが、このヴェーバーの定義がミュンヘン大学の学生にとってはテンニースの概念とごちゃごちゃになって極めて理解しづらいものだったと言われています。そのために、方法論論文をより一般向けにわかりやすく書き換えると同時に用語法も大幅に変更したのがこの「社会学の基礎概念」論文になります。そこではゲマインシャフトとゲゼルシャフトの定義がテンニースのものにかなり接近します。さらにゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為と言ったドイツ語そのものに起源を持つ特殊な用語法が消えて、その代わりにラテン語のsocietas(人の集まり、社会、組合といった意味)に起源を持つ、sozial-という形容詞を使ったsoziales Handeln(社会的行為)というかなり一般的な用語が使われるようになっています。
それと並んで重要なのは、「理解社会学のカテゴリー」ではかなり重要な概念として定義されていた「諒解」という概念(ゲマインシャフト行為の中で、例えば法律などによって目的合理的に協定された秩序を欠いているにもかかわらず、ある個人が理解していることを他の個人も理解しているであろうと予測しているのが「諒解」で例として貨幣の市場だとか言語共同体が挙げられています。)が、この「基礎概念」ではまったく消え去ってしまうことです。この理由は今の所私には理解できていません。しかし、例えば「法社会学」の冒頭部などを読めば、この「諒解」概念を理解することなしには、ヴェーバーの言わんとすることを理解するのはきわめて困難です。その意味で、この「社会学的の基礎概念」は「間違った頭」とされます。

NHK杯戦囲碁 謝依旻女流本因坊 対 秋山次郎9段

本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が謝依旻女流本因坊、白番が秋山次郎9段の一戦です。黒も白も初手が三々で3手目に黒がいきなり三々の肩を付き、白が這う方向で残りの隅のどちらに打つかを決めるという、昔梶原武雄9段の本に出てきたような布石でした。左上隅から左辺で競い合いが始まり、黒が白の一団を切り離していって仕掛けました。黒が下辺の白にモタレる手を打った時、白は受けずに中央の黒の一間に飛ぶ所に打って黒の形を崩しに行きました。黒はこの白に付けて行きましたが、結果として白は中央で黒1子を取り、上辺からの白が立派な形になりました。その代償として左辺の白を封鎖されましたが、この白は中央でウッテガエシをにらんだ利きで一眼あり、また左上隅に付けていって左辺で一眼あり、活きることが出来ました。この結果は白がポイントを挙げたようです。その後焦点は右上隅に移り白は黒の根拠を奪って中央の厚みを生かして攻めようとしました。しかし黒を追い立てた結果として中央が薄くなり、それを補強するため左上隅に付けたのですが、黒は跳ねだして反撃しました。この反撃は的確で結果として黒は白地が付きそうだった上辺に5目の地を持って活き、なおかつ左上隅もこれ以上ない形で白1子を飲み込んだまま確定地にしたので、黒が優勢になりました。しかし謝女流本因坊のその後の打ち方が優勢を意識してやや甘く、黒は中央に大きな地をまとめましたが、白も右下隅から下辺にかけて大きく地をまとめたため、ヨセ勝負になりました。黒は右上隅で劫を仕掛け、これに勝って右上隅の地を大きく増やしましたが、白も劫立てで下辺のヨセを打ち、形勢は微細でした。終わってみれば白の半目勝ちで、謝女流本因坊には惜しい一局でした。

伊藤大輔監督の「王将」

伊藤大輔監督の「王将」を観ました。「富士に立つ影」のDVDが単独では手に入らず、「阪東妻三郎傑作選」みたいな10枚組で求めたのでその中に入っていたものです。いわゆる将棋指しの坂田三吉のお話です。1948年の撮影で阪妻の戦後の主演作品ですが、阪妻の芸域の広さにちょっと感動します。ただ、お話は原作の北條秀司によるかなりな脚色が入っており、事実とはかなり異なっているそうです。ただ子供のような無垢な性格、という所は間違いないようです。なお大映からは「将棋が映画になるか」と反対され、伊藤監督が執念で仕上げたもので、ワンシーンワンシーンよく考えて撮ってあって、特に最後の小春の危篤の際に、東京に関根名人の就位祝いに来ていた坂田三吉が電話でお題目(南無妙法蓮華経)を唱え、それを聞いた小春がお守りであった王将の駒を握りしめながら微笑みながら死んでいくシーンは、感動的です。なお知りませんでしたが、「ガラスの仮面」の主人公の北条マヤは、坂田三吉がモデル(一芸に秀でているが、他のことは何も出来ない人として)なんだそうです。なお、坂田三吉自身は「贈名人・王将」ですが、坂田の曾孫弟子の谷川浩二が実力制の名人(十七世)となり、坂田の夢を果たしています。

ロスト・イン・スペース 新シリーズ@Netflix

Eigoxの授業で、アーウィン・アレンの1960年代のTVドラマをYouTubeで探して観ている、という話をしたら、その先生がNetflixで「宇宙家族ロビンソン(ロスト・イン・スペース)」の新シリーズをやっていることを教えてくれました。「宇宙家族ロビンソン」はちょっと不思議なことに、東日本で育った人は観ていた人が少なく(多分放映される機会が少なかったのだと思います)、西日本で育った私ぐらいの世代の人では逆にまず知らない人はいない、というドラマです。(何度も再放送されていました。)
新しいNetflixでの「ロスト・イン・スペース」は、元のドラマの登場人物だけを借りて、ほとんど別のストーリーにしてそれがかなりの部分成功していると思います。「ロスト・イン・スペース」は映画にもなっていますが、それは元のストーリーを再現しようとして却って失敗していましたので、今回のNetflix版のストーリー構成はいいと思います。元のドラマでのロビンソン一家は、ある意味1960年代のアメリカの理想的な家族でした。しかし今回のドラマは色々と問題をはらんだ家族構成になっています。一番違和感があるのはジュディ(長女)がアフリカン・アメリカンだということで、妹(ペニー)と弟(ウィル)とは父親が違うという身も蓋もない設定です。差別する気はないですが、”black sheep in the family”そのものだと思いました。まあそれは置いておいて、色々と問題のある家族が、様々な苦難に遭遇して次第に一致団結していくという、ある意味西遊記の一行の天竺への旅みたいな、王道のドラマ構成になっています。
ただ、10話観てずっと違和感があったのが、ドクター・スミスです。元のドラマでは、ドクター・スミスは元々ロビンソン一家の地球以外の惑星への移住を妨害しようとしたスパイで、完全な悪役でした。しかし、理想的な家族のロビンソン一家と対照的な悪役は次第にドラマの進行上無くてはならない役柄になり、途中から完全にロビンソン一家を喰った主役となります。そういう中で、「ずるくて自己中心的だけどどこか憎めないキャラ」となっていきました。しかし、今回のドクター・スミスは、まず女性だというのが驚きなのですが、それ以上に性格が完全に変で、自分の目的(犯罪者としての過去を消して、移住先のアルファ・ケンタウリで人生をやり直す)ためには、平然と殺人も行います。この新しいドクター・スミスのダークさに、最後までなじめませんでした。
もっとも、今公開されている最初の10話は導入編に過ぎず、「ロスト・イン・スペース」というタイトルとは裏腹に、ロビンソン一家は孤独ではなく、他の家族も一緒に遭難しています。それが最後の第10話でオリジナルのドラマのメンバーだけで孤立します。従って本篇はこれから始まる、という感じです。

ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の写真のレタッチについて

このレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の写真ですけど、もちろん現物を撮影したものですが、写したそのままだとぼんやりしすぎで、色彩も弱く、かなりボケボケです。(最初に描かれた時から既に500年以上経っているため、退色が激しいですし、絵の具自体もかなりの部分欠け落ちています。もちろん修復はされていますが、ダ・ヴィンチが描いた当時とはおそらく見た目はかなり異なっている筈です。)
なので私はRAW現像の時に、
(1)コントラストを上げる
(2)「霞を除去する」(現物のスポット照明のため、ライトが当たった部分が霞んで見えます。)
(3)「自然な彩度」を上げる
ということを現像ソフトのLight Roomでやっています。
なので、現物よりも良く見えるように加工されたものなのですが、Webで検索して他の「最後の晩餐」の写真を見ると、もっと無茶苦茶なレタッチがされたものばかりです。ちょっといいのか、っていう感じです。

私は浮世絵に関しては、印刷されたばかりの頃はもっと色が鮮やかだったと思っており、浮世絵の写真については結構彩度を上げたりすることが多いですが、この「最後の晩餐」については、ほとんどはやり過ぎのように思います。結構絵画をどう鑑賞すべきかって、難しいです。大体において有名な絵は現物を見るとがっかりすることが多いのですが。

竹内洋の「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」

竹内洋の「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」を読了。私は、羽生辰郎を批判した論文の最後でこう書きました。「バランス感覚に優れた研究活動をするためにも、またそうした研究活動を正当に評価するためにも、「長い時間をかけて涵養された深くて広い教養」は不可欠であると確信する。羽入の出身学科が「『教養』学科」であるというのは、皮肉なことである。筆者はアマチュア研究者として、そしてもう一人の「『教養』学科」出身者として敢えて今、「教養」の意義を世の中に訴えたい。 」
私の大学の出身学科は「教養学部教養学科」で「教養」が2つも付きます。しかし、世の中で「教養学科」というのはほとんど認知されておらず、就職してから何度も「先生にはなろうとは思わなかったんですか」と「教育学部」と間違えられました。しかし、元はと言えば「教養学科」は戦後英語での”liberal arts school”をモデルとして作られたもので、欧米では非常にポピュラーであり、根源を辿れば古典ギリシアの「7つの自由学芸”Seven liberal arts”」にまで行き着く伝統的な概念です。(ちなみに7つとは、文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何学・天文学・音楽です。私は色んな語学でさんざん文法はやっていたし、修辞学も結構その頃流行り{ロラン・バルトの「旧修辞学」など}で学んでいたし、音楽は石井不二雄先生や杉山好先生に教わったし、算術・幾何学・天文学といった理科系科目を除けば結構この7つに近いことを学んでいました。)
そういう訳で、日本における「教養」概念の変遷を求めてこの本を読んだんですが、1942年生まれの筆者の昔懐かし話という面が強いと言わざるを得ません。上記したような「教養概念」の東西での比較(ヴェーバーが「儒教と道教」で書いたように儒教には間違いなく「読書人」という一つの理想があります)とかはまるでなく、「昔はこうだった」という話に終始しています。まあ高橋和己(昭和6年生まれ)が旧制高校の教養主義を経験した最後の世代で、その後の大江健三郎や石原慎太郎は新制高校世代である、といった説明はそれなりには興味深いものでしたが。(ちなみに私の亡父は昭和7年生まれなので、新制高校第一期生みたいな世代です。)
また私の世代(1980年代に大学に入った世代)にとっては、かつて総合雑誌(「中央公論」「太陽」「改造」といったもの)に載った論文がそんなにインテリ層に読まれていた、というのはちょっと想像が付かないです。私の世代ではもはや読むべき雑誌というのは、むしろ「ぴあ」みたいなカルチャー系になっていたと思います。しかしだからといって1980年代になって教養主義が大学から完全に無くなったとは私には思えません。筆者は認めないかもしれませんが、手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」、白土三平の「カムイ伝」を読むのだって、立派な教養主義だと思っています。

デジタルTVとノートPCの液晶の色みの違い

デジタルTVに映したPCの画面とノートPCの液晶では随分色見が違います。デジタルTVの方がやや派手ですが綺麗です。それに対して液晶はかなり青が強いです。これは前にキャリブレーション付きのディスプレイを試した時にも思ったことで、一般的なPCの液晶ディスプレイはほとんどかなり青が強いです。(上がデジタルTV、下がノートPCの液晶です。)

Pentax K-1のカードスロット故障

Pentax K-1のカードスロット1がおかしくなり、問題のないSDカードを挿入しても「カードに異常があります」と出て、そのスロットが使えません。K-1にはカードスロット2もあるので、それを使えば撮影自体は可能ですが、ファームウェアを更新する時には、スロット1を使わないといけないので、このままではファームウェア更新が出来ません。また、私はスロット1をRAW、2をJPEGに指定していましたが、こういうRAWとJPEGの同時記録も出来ません。サービスセンターで診てもらったら、カードスロットの故障ということで、基板交換で2万9千円くらいかかると言うことでした。泣く泣く承知しましたが、トホホです。私は撮影した後、カメラからSDカードを抜いて、これをノートPCのカードスロットに挿して現像する、ということをほぼ毎日約2年間に渡ってやっていましたが、どうもK-1のカードスロットはあまり耐久性が高くないようです。今後は、USBでカメラとPCをつないで、SDカードの抜き差しは最小限に留めるようにします。ちなみにこのUSBケーブルですが、カメラ側の端子がPentax独自のものとなっています。なので買った時に付いていたものを使う必要があります。(一応サードパーティーの互換ケーブルがAmazonで900円くらいで売ってはいます。)

追記:上記USBケーブルでPentax独自仕様のものなのは、K-5II用のものでした。K-1用については、普通のUSB電源用ケーブルが使えます。ただ、K-1については、USB3用のケーブルを使ったらカードを認識せず、USB2用のケーブルを使ったらOKでした。(2018年6月3日)