ビルギット・ヴァイエの「マッドジャーマンズ ドイツ移民物語」を読了。Amazonで「移民」で検索して上位に出てきたもので、ドイツで出版された漫画です。正直な所、今私が調べているような日本の移民受け入れ問題とはあまり関係はなかったのですが、内容的には重かったです。今のドイツの話ではなく、1980年代後半の東ドイツのモザンビークからやってきた労働者の話。当時モザンビークは、ポルトガルに対し独立運動を進めて成功し、社会主義の国となっていました。同じ社会主義の国同士ということで、当時の東ドイツとは仲がよく、東ドイツで不足していた単純労働の労働者を補うため、モザンビークからの移民を受け入れます。モザンビークからは政府が行う試験にパスしたある意味優秀な人達が、ドイツで何か技術を身につけようとやってきたのですが、実際の仕事は単純な肉体作業でした。しかも、支払われる給料の60%がモザンビークの左派政府によってピンハネされ、それはプールされて、将来この労働者達がモザンビークに戻って来た時に返却されるという約束でしたが、実際はこの左派の政府の幹部が贅沢をするのとか、あるいは武器の購入に消費され、労働者達にそのお金が返却されることはありませんでした。しかも1990年代になると、東西ドイツの統一が起き、東ドイツとモザンビークで交わされた契約は無効になり、モザンビークの労働者達は単なる邪魔な存在となってしまいます。多くの労働者はモザンビークに戻りましたが、そこで待っていたのは碌な仕事が無いという失業状態と、自分達がプールした金がどこかに行ってしまって、支払われないという厳しい現実でした。しかもドイツ帰りは現地の人から「マッドジャーマンズ」(Made in Germanyの意味)と蔑称で呼ばれ差別されつことになります。一部の人はドイツに残り、そこで教育を受け、ドイツ人となる道を選び、ごく少数の人だけがそれに成功します。しかし、モザンビークはその後、資本主義と共産主義の代理戦争としての内乱が起こり、多くの国民が殺され、ドイツで成功した人も二度と故郷に戻ることはできませんでした。
という重い内容で、この漫画は2016年のドイツでマックス&モーリッツ賞を受賞しています。(マックス&モーリッツはドイツ人なら誰でも知っている絵本のキャラクターです。)おそらくドイツ人の中でもモザンビーク移民の悲劇についてはほとんど知られていなかったんだと思います。
白川郷の合掌造りの家
白川郷の合掌造りの家。以前既に五箇山に行っているので、あまり感動はありませんでした。豪雪のため屋根を急角度にするっていうのは、アメリカのニューイングランドで見られる家もそうですよね。「合掌造り」で思い出すのはむしろ、将棋漫画の「5五の龍」で出てきた、真剣師「飛騨の中飛車」がプロ相手の対局で見せた、「合掌造りの駒組み」。遊び駒が一枚も無いという究極の駒組み。(どんな駒組みか知りたい方は、こちらを見てください。)
初詣
未読の本
西日本新聞社 編「新 移民時代 外国人労働者と共に生きる社会へ」
西日本新聞社 編「新 移民時代 外国人労働者と共に生きる社会へ」を読了。移民問題について、3冊目でやっと良書に出会いました。この本の内容は西日本新聞という福岡の地方新聞に連載されたものです。まずは何より取材に手間を惜しまず、時にはネパールやタイにまで出かけて関係者に取材してまとめた労作です。最近マスコミがフェイクニュースを垂れ流すものとして批判されますが、こういう地道ないい仕事を、全国新聞ではなく地方新聞がやっていることに救いを感じました。福岡という場所、九州という場所は、よく考えれば昔から海外の文化の取り入れで日本の最前線にあった所だと思います。またある意味「よそ者」に寛容な土地柄で、私も小学6年の時に山口県から福岡県に引っ越した経験がありますから、余計にそう思います。
内容については、この本で暴かれているのは、日本の政策の建前と本音の使い分けのひどさ。表では移民政策を否定しておいて、裏では留学生や研修生の名前で外国人の安い労働力を搾取する構図というのが見えて憤りを感じざるを得ません。ネパールから来た留学生が、ほとんど睡眠時間を取らずにいくつもバイトを掛け持ちし、結局精神を病んだり、失踪したりという悲劇が語られています。「女工哀史」は明治時代だけの話ではありません。また色々と識者に話を聴いている中でひどかったのが、連合の副事務長の安永とか言うの。自分達の既得権益が侵される心配ばかりして、人口減というある意味日本の危機を無視してはっきりいって何も考えていません。その逆に、自民党の石破茂氏については、意外なことに移民推進派であり、「移民庁」という官庁を作ってはどうかと提言しています。ちょっと見直しました。
この問題については、更に色々調べていきたいと思います。
堀口茉純の「江戸⇔東京節」と「大江戸=痛快伝」
毛受敏浩の「自治体がひらく日本の移民政策 人口減少時代の多文化共生への挑戦」
毛受敏浩の「自治体がひらく日本の移民政策 人口減少時代の多文化共生への挑戦」を読了。かなり飛ばし読み。この本は「外国人労働者受け入れを問う」よりはましな内容と思いますが、正直な所、「多文化共生」といういわばきれい事を強調し過ぎと思います。どのような事にもポジティブな面とネガティブな面がありますが、この本はポジティブな事を中心にかかれており、ネガティブな懸念みたいなことに対しては、きわめて通り一遍の説明しか与えられていません。たとえば「移民が増えれば犯罪が増えるのではないか」という懸念に対しては、近年の外国人による犯罪が減少しているから問題ない、といったレベルで片付けられてしまいます。しかし、本格的に移民を受け入れ、外国人の永住者が今の10倍になった時に、果たしてその説明で、反対者を説得できるかというと、きわめて疑問です。
ただ、この本で良かったのは、国の移民政策の立案がほとんどされていない一方で、都市部よりもいち早く深刻な人口減少に直面している地方都市のいくつかが、外国人受け入れを真剣に検討し始めているというのがわかったことです。例として沖縄県や浜松市、あるいは北海道のいくつかの都市が挙げられます。
しかし、二冊読んでも相変わらず私が知りたいことを十分に知ることは出来ませんでした。
宮島喬、鈴木江理子の「外国人労働者受け入れを問う」
宮島喬、鈴木江理子の「外国人労働者受け入れを問う」を読了。人口が減少していく日本の対策としては、移民の積極的な受け入れを考えるべきで、それに向けての予想される諸問題をオープンに議論していく必要があると思いますが、残念ながら今の政治家にそういう気概のある人は見当たりません。ちょっとこの問題を自分で考えようと思って、2冊買った本の1冊がこの本。残念ながら本自体薄いですが、中身も薄かったです。大体「移民の是非を問う」ではなく、何故「外国人労働者受け入れを問う」なのか。タイトルからは、これまで日本政府が進めてきた、表ドアは閉じておいて、都合の良い時だけ期間を限定して外国人を労働者として使う、という発想しか見えてきません。私は日本のあらゆる産業がガラパゴス化している今、外国から人を受け入れ、日本文化の多様化を図る「第二の開国」が必要と思います。
ロバート・L・フォワードの「竜の卵」
ロバート・L・フォワードの「竜の卵」を読了。ハードSFとして、お友達のKさんのお勧めによるもの。感謝。前半ちょっとかったるい部分はありましたが、通して読んでみるとなかなかの作品と思いました。まず、表面の温度が8000℃、そして重力が地球の370億倍という、中性子星(パルサー)上に生物が発生しているという設定がすごいです。解説によると先行作品としてハル・クレメントの「重力の使命」があり、また1970年代に、パルサー上の生物の可能性は科学者の間で指摘されていたそうですが、しかしそれを実際に書くのはかなりの難度だと思います。フォワードはそれを見事にやり遂げています。また、いわゆる異星人とのファーストコンタクト物なのですが、パルサー上の生物であるチラーが人間より100万倍の時間感覚で生きているという設定が秀逸です。このために、コンタクト当初は遅れていたチラーが人間側が与えた情報を元に、人間時間でほんの数日の内にあっという間に人間を追い越してしまいます。ただ、マイナーな欠陥を指摘すると、たとえばチラーの姿形に関する描写が曖昧で、今一つ文章だけでその姿を具体的に思い浮かべることがうまくできなかったことです。もっともナメクジみたいなものかという予想は大体あたっていましたけど。「デューン」もそうだったですけど、本文だけで語りきれないで、巻末のおまけで解説するというのは、どうも私にはフェアではないように思えます。また、イエスキリストを思わせるような予言者が登場して、民衆に殺害されますが、このお話は全体の中では取って付けたような印象を受けます。そうは言っても、1960年代初めに生まれた私は、子供の頃色んなアニメとか漫画で(当時は平井和正、辻真先、豊田有恒、眉村卓、そして筒井康隆に至るまでの若いSF作家が黎明期のSF設定のアニメに台本を提供していました)、「科学技術の進歩による明るい先進的な未来」というのを刷り込まれているせいか、こうしたちゃんとしたSFを読むとちょっと安心します。
ディケンズの「クリスマス・キャロル」
ディケンズの「クリスマス・キャロル」を「英語で」読了。このお話のラジオドラマ(英語)を、高校の時英語の授業で使って、懐かしかったので改めて英語で読んでみたものです。よく知られた小説で、ストーリーも分かっているし、そんなに難しくないだろう、と思っていましたが、実際には知らない単語だらけで、結構苦労しました。それでもストーリーは分かっているので知らない単語を一つ一つ辞書で引いたりはせずに読み進めました。この小説が書かれたのは1843年で、日本で言えば天保年間の最後の年です。さすがにこれだけ昔の本だと今の英語とはそもそも語彙自体が違うように思います。後読んでいて感じたのは、結構韻を踏むような文章も出てくることでした。
この物語に出てくる、ボブ・クラチットの末の息子で、足の不自由なTiny Tim(これも韻を踏んでます)が、私は好きで、スクルージ爺さんが改心して、ボブの一家を助けてTiny Timを死の運命から救い、Tiny Timの第2の父のような存在になる、というお話が好きです。




