RainLoopでアドレス帳を使えるようにする。

RainLoopは驚くべき事に初期状態ではアドレス帳がありませんでした。
意外とWeb上にも情報なかったんですが(使っている人少ないんでしょうか)、以下のようにして無事アドレス帳を使うことが出来るようになりました。

(1)mysqlでrainloopのアドレス帳用のデータベースを作る。
(mysqlを入れていない場合は、SQL Liteも設定できますが、アドレスデータがかなりの量あるなら、mysqlを使った方が無難です。)

# mysql -u root -p
Enter password:(パスワード入力)
Welcome to the MySQL monitor. Commands end with ; or \g.
Your MySQL connection id is 3577
(以下表示略)
mysql> create database rainloop;
mysql> create user hogehoge identified by ‘パスワード’; (’パスワード’の所は実際に設定するPWを)
mysql> grant all privileges on rainloop.* to hogehoge;
mysql> quit

(2)rainloopの管理画面にログインし、左のタブで「連絡先」をクリック。
「連絡先」の所で、「連絡先を有効化」をチェック。
「ストレージ」の所で「タイプ」で「MySQL」を選択。
DSNの所で、”mysql:host=127.0.0.1;port=3306;dbname=rainloop”を設定。
ユーザー名、パスワードを入力。
「iテスト」ボタンを押して、ボタンが緑になればOK。

これでログアウトして、一般ユーザーで入り直せば、アドレス帳ボタンが新規作成ボタンの右に追加されている筈です。

RainLoop(Webメール)を自宅サーバーに入れる

自宅サーバーでのWebメールは、昔Squirrel Mailというのを使っていましたが、サーバーを更新して入れ直した時にいつからか文字化けが発生して使えなくなりました。それ以来Webメールは設定していませんでしたが、今回ググってみてRainLoopというWebメールを入れてみました。インストールは非常に簡単でした。しかし、管理画面には問題なくログインできましたが、そこでドメインを設定して、ユーザー名でログインしようとすると認証エラーでダメです。しかし、10回くらい繰り返してやっていたら、そのうちログイン出来るようになりました。しかし、次の問題は、メール受信はOKですが、送信がやはり認証エラーになりました。あれこれやって、結局ドメインのSMTPの設定で、”php mail() 関数を使用する” にしたら送信できるようになりました。

マックス・ヴェーバー「理解社会学のカテゴリー」(海老原明夫・中野敏男訳)

マックス・ヴェーバーの「理解社会学のカテゴリー」を学生時代以来、再読。海老原明夫・中野敏男訳の日本語訳です。訳者のお二人は、折原浩先生の「経済と社会」の精読の演習の中心的メンバーで、1984年から先生がこの演習を始めた時に、まずこの「理解社会学のカテゴリー」から精読を開始しました。従って私もその時にドイツ語の原文を解読する作業に参加していますが、しかしその内容をほとんど忘れてしまっています。今回折原浩先生の「経済と社会」再構成の作業を追いかけていく上で、この論考の内容をもう一度押さえておく必要性を感じて読み直したものです。従来この論考の日本語訳としては、林道義氏のものがありました。しかし、その日本語訳には明らかな誤訳も含まれており、今回読んだ海老原・中野訳には訳者注も解題も含まれていて、日本語訳のレベルとしてははるかに上です。しかし、とはいってもこの論考の内容は非常に理解するのが大変です。この論考では、「ゲマインシャフト行為」、「ゲゼルシャフト関係」と「ゲゼルシャフト行為」、そして「諒解(行為)、諒解(ゲマインシャフト関係)」といったカテゴリーが定義され、更にアンシュタルトと団体、という二つの社会学的な人間のグループが区別されて定義されます。「ゲマインシャフト、ゲゼルシャフト」というのは、ヴェーバーの前にテンニースの有名な論文があって、そこではゲマインシャフトが「共同社会」として、ある意味素朴な人間関係に基づく前近代的なものとして定義され、それに対してゲゼルシャフトが「利益社会」としてある意味冷たい利害関係に基づく人間関係として対立概念として定義されていました。注意しなければならないのは、ヴェーバーのゲマインシャフト、ゲゼルシャフトという言葉の使い方が、テンニースのような対立概念ではない、ということです。ヴェーバーの用語法では、まずゲマインシャフト(行為)があり、その特殊な形態としてゲゼルシャフト(行為)が定義されており、ゲマインシャフトはゲゼルシャフトを包摂する上位概念です。
こうしたヴェーバーの用語法は、非常にわかりにくく、この論考が書かれた後にヴェーバーはミュンヘン大学で学生にこのカテゴリーを講義しますが、結局テンニースの概念と混同されてほとんど理解されず、この結果ヴェーバーがカテゴリー論を見直し、後に「社会学の根本概念」という論考につながります。そこでは社会的行為、社会的関係という一般的な用語にある意味では後退し、「諒解」に関してはまったく出てこなくなります。
しかし、「経済と社会」の旧稿にはまだ「理解社会学のカテゴリー」のものが使われており、それを理解するためにはこの「理解社会学のカテゴリー」を踏まえる必要があります。
なお、ヴェーバーの有名な「現世の呪術からの解放」と言う言葉はこの「理解社会学のカテゴリー」で初めて登場します。

中山元訳マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

何と、2日連続で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の日本語訳についてレビューを書くことになりました。
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マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、昭和13年に梶山力が初めて日本語に訳しました。しかし、彼は病弱(32歳で亡くなっています)で本文を訳すので力尽きてしまって、主に第二章の注釈部が未訳のまま残りました。それを戦後になって、梶山の2年上の同窓だった大塚久雄が未訳部分を訳して、昭和32年に岩波文庫から「大塚・梶山訳」として出版されました。(本当は梶山力訳、大塚久雄補訳とすべきでしたが。)それを更に昭和63年になって大塚久雄が改訳を施し、梶山力の訳した部分も大塚が大幅に見直した、という理由で「大塚久雄新訳」という形で、岩波文庫版が改版されます。これに対し、安藤英治が大塚の行為を良しとせず、梶山力の訳に、梶山が訳していなかった注釈部分を自分で訳して、梶山訳を復活させます。という経緯で、通称「プロ倫」の日本語訳はこれまで2種類あった訳です。それに対し、この中山元氏によるものが2010年に第3の日本語訳として登場します。その特長は訳者の後書きによれば「これまでの日本語訳より読みやすい」ことのようです。実際に、このAmazonの他の方のレビューを見ると「読みやすかった」という声があるので、それについては一定の成功を収めているのだろうと思います。

しかし、今この論文の新しい日本語訳を出すのであれば、
(1)これまでの日本語訳に寄せられている誤訳の指摘を調べ、同じ誤訳を引き摺らないようにする。
(2)この論文にちりばめられている膨大な専門用語について訳者も調べ、読者にはまずなじみがないようなものはできる限り訳注を載せる。
ということを心がけて欲しかったです。

(1)の誤訳という点で言えば、例えばRentenkauf(レンテンカウフ)という概念がありますが、この本のP.108に「年金売買」と訳されています。これは大塚訳、そして梶山訳に追加された安藤訳の誤訳を踏襲しています。この概念については、ウェーバーの「法社会学」にも登場し、世良晃志郎氏が「レンテ売買」と日本語訳し、なおかつ10行に及ぶ詳細な注釈を付けてくれています。(世良訳「法社会学」のP.173)そこの説明を読めば分かりますが、この「レンテ売買」とは、「地代請求権を担保にした金銭貸借」であり、教会の利子を付けた金銭貸借禁止の裏道であったので、ここのウェーバーの議論ではその内容を把握しておくことは重要です。(ちなみにドイツの第一次世界大戦後のハイパーインフレーションを収束するために考案されたレンテンマルクとは、まさに金本位の代わりに「地代請求権」を本位とする{ある意味インチキな}通貨でした。)

また、この論文の最後に出てくる「鉄の檻」も、元々パーソンズが英訳した時にiron cageと訳したことから広まった誤訳であり、それを大塚久雄が採り入れてしまったものです。ここのGehäuseは「檻」ではなく、中にいる者を保護するものでもある「殻」と訳すべきであるとされています。

(2)の訳者注については、なるほど一応訳者注が200ちょっと巻末には付いてはいます。しかし、その中身を見ると、大半は人名についての注で、それもルターやカルヴァンについてのものまで含まれています。そういうのを入れるなとは言いませんが、「注釈が必要な事項に注釈が無く、不要なものに注釈がある」というよくあることになっています。この本が出た時にはまだでしたが、現時点(2018年3月)ではドイツのジーベック社から全集の中の一巻として、この論文(ドイツ語)が改めて出されています。そこにシュルフター教授によるかなりの注釈がついている筈で、そうしたものも改訂する機会があれば取り入れて欲しいと思います。

また、気になるのは、ドイツ語や英語の部分をカタカナで表記している部分が見受けられます。これは一体何の意味があるのでしょうか?どうせ原文を読んでも分からない人にとって、発音が分かっても何の意味もないと思います。また、英単語やドイツ語単語を日本語にして、フリガナで言語の読みを振っているものがあります。たとえばP.141ではコリントI 7.20の英訳で、stateを「地位」としてステートと読みを振っています。しかしここでstateと訳される場合は明らかに「状態」の意味(パウロは召された時、結婚していなければ独身のままで、奴隷でいたなら奴隷のままで、割礼を受けていなければそのままで、留まれと勧告しています。つまり全て「状態」を変えるな、と言っています。)であり、現在の英訳聖書もほとんどconditionまたはstateで「状態」の意味に訳しています。こういう場合には勝手に日本語に直さずにそのまま原語を載せて読者の判断に任せるべきです。

以上色々厳しいことを書きましたが、この翻訳で新しい読者が増えるであろうプラスの効果については否定しません。今後改訂の機会があれば、是非とも上記のようなことを考慮していただきたいと思います。