出井康博の「ルポ ニッポン絶望工場」

出井康博の「ルポ ニッポン絶望工場」を読了。移民に関する本の6冊目。この本は長年の取材により書かれた良書です。この筆者は日本が巨大なブラック企業と化して、留学生と技能実習生を食い物にしている実態を的確に暴き出します。この筆者によれば、今仮に日本が移民の受け入れの方針に転換したとしても、既に遅く質の高い移民が日本に喜んでやってくることなどあり得ず、日本人が日本が良かった時代の感覚が抜けていない「上から目線」の議論だとばっさり斬り捨てます。また留学生達の悲惨な労働状況を大新聞が何故取り上げないかの理由が震撼させるもので、要は新聞の宅配がいまやそうした留学生の違法な労働(留学生の労働は週28時間までに制限されていますが、実質的にまったく守られていません)に支えられているから、ということです。
ともかく、留学生も技能実習生も、建前と本音の解離がひどすぎ、日本の最悪な所が実に良く出ています。中国からの出稼ぎは中国での平均賃金が上がると激減し、外国人介護士の受け入れはまったく機能しておらず、かつて多数いた日系ブラジル人の日本への定住はほとんど実現せず、この筆者は本当に使い捨てられたのは日本そのものではないかと指摘します。日本の未来というのは本当に暗いです。

茨木竹二の「『倫理』論文解釈の倫理問題」(特に『マックス・ヴェーバーの犯罪』における”不正行為”をめぐって)

茨木竹二の「「倫理」論文解釈の倫理問題」を読了。
副題が「特に『マックス・ヴェーバーの犯罪』における”不正行為”をめぐって」になっていることから分かるように、羽入辰郎の「マックス・ヴェーバーの犯罪」についての批判がメインですが、それだけではありません。
筆者は、いわゆる「羽入-折原論争」とそれに関連した「日本マックス・ウェーバー論争」の議論について、論争が尻すぼみに終わったと考えており、それを「総括」するつもりでこの本に書いてある諸論文を書いたようです。
まず、「日本マックス・ウェーバー論争」への執筆者の一人として、何故「論争」が止まったかについて言及しておきます。基本的には「論争」と前後して出版された羽入辰郎の「学問とは何か―『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後」という反論本が、学問として許される範囲の叙述を大きく超えた、非常に奇妙なデマゴギーの固まりであることが明らかな本であり、おそらくはこれを読んだ多くの人が、「もはやこの人は学者とは言えない」という感じを抱き、これ以上同氏の批判を続けることは学問としてまったく無意味と判断したであろうことが挙げられます。これは別に論争に参加したメンバーに直接確認した訳ではありませんが、おそらく大きくは外れていないと思います。
そういう状況にこの茨木氏の本が登場する訳ですが、同氏の論考は北海道大学の橋本努氏が開設した「羽入-折原論争」のHPの最後期に一度だけ、単なる「書誌情報」として紹介されていました。それは氏の在職する大学の研究紀要であり、一般には入手困難でまたインターネットで公開もされていなかったため、私は中身を見ていません。そうした氏が、何故今頃になって、「証文の出し遅れ」のような論考を発表したのかが、私は理解に苦しみます。氏は論争の総括が必要だと思った、と書いていますが、私が今回の論考を通読した限り、「総括」と呼べるようなまとめ的な内容はまったくありません。それ所か、私の論考を含む「先行する批判」に対しても、ほとんどといっていいほど言及がありません。(折原浩氏の論考・著作は除く。)

たとえば、この本では、ウェーバーのBerufという語の解釈について、グリムのドイツ語辞書での語義の言及がされます。しかし、ウェーバーがグリムのドイツ語辞書を参照しているのではないかという指摘は、既に私の論考の注釈に記載してあります。これに対して「終章」というまとめの中で矢野善郎氏が、ドイツででのマックス・ウェーバー全集の編集の際に、このグリム版辞典への参照の可能性などは、是非とも取り込まれるべき、と評価してくれています。以下、原文を引用します。

(引用開始)
 グリムのドイツ語大辞典(CD-ROM版)で、”Beruf”と”Ruf”を調べてみた。このドイツ語大辞典が最終的に完成したのは、本文中に記述した通り1961年のことであるが、”Beruf”の項は1853年にJ. Grimm、”Ruf”の項は1891年にM. Heyneにより編集されており、ヴェーバーが倫理論文を書く前の編集である。ヴェーバーがグリム大辞典(の当時出版されていた分冊)を参照したかどうかは倫理論文中には記載されていないが、OEDの前身のNEDをあれだけ参照しているヴェーバーがグリム大辞典を参照しなかったということは想定しにくい。

 “Beruf”の項では、2つの語義が書かれている。1つめはラテン語のfamaにあたる、「名声・評判」という意味である。2番目の語義が、ラテン語のvocatioに相当し(ドイツ語ではさらに新たな意味が付与された)、いわゆる「天職」である。ここでグリム大辞典は、この意味での語源の一つを、”bleibe in gottes wort und übe dich drinnen und beharre in deinem beruf. Sir. 11, 21; vertraue du gott und bleibe in deinem beruf. 11, 23” 、つまりヴェーバーと一致して「ベン・シラの書(集会の書)」としている。

 これに対し、”Ruf”の項では、「過渡的な用法」として、「(内面的な使命としての)職業」を挙げている。また、「外面的な意味での職業」、つまり召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかったと説明されている。さらにはルター自身の用例が挙げられている:” und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff. LUTHER 2, 314a” このルターの章句がどのような文脈で使われたものなのか、残念ながらまだ突き止められていない。しかしながら、ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言しているのは非常に興味深い。

 コリントI 7.20の翻訳にあたって、ルターは羽入が指摘したように、生前の翻訳においては、”ruff”または”Ruf”を使用し、”Beruf”とはしていない。このことの理由は、ヴェーバーが倫理論文で述べているように、古いドイツ語訳の訳語を尊重しただけなのかどうかはわからない。しかしながら、グリム大辞典にあるように、”Ruf”(”ruff”)は過渡的に使用され、最終的には”Beruf”に収斂している。この場合、ルターがコリントI 7.20を一貫してたとえば”Stand”とし、ルターの死後、ルターのあずかり知らないところでそれが”Beruf”に改訂されたのなら、確かにヴェーバーの議論は成立しない。しかしながら、”Ruf ”(”ruff”)にせよ、”Beruf”にせよ、元々は動詞であるrufen、berufenからの派生語であり、そのどちらにも今日のような「世俗的職業」という意味はまったく含まれていなかったのである。「神の召し」という意味に、世俗的職業という意味を含有させる可能性がある章句は、新約聖書全体では、このコリントI 7.20以外はありえないであろう。(コンコルダンスの「召す」の項目を参照。)その意味で、コリントI 7.20が「架橋句」であると解釈される。

 このコリントI 7.20で橋渡しされた「召し」と「世俗的職業」という意味が、ベン・シラにおいて、翻訳者のある意味「意訳」によって、通常ならArbeitやGeschäftと訳されるべきものがBerufと訳され、ここに「翻訳者による新たな語義創造」は完成するとヴェーバーは述べている。この「ベン・シラの書(集会の書)」は、旧約聖書外典に含まれ、いわば「処世訓」的な性格のものである。ルターは、外典を含む聖書の全体をすべて同格にはけっして扱っていない。正典に含まれる「ヨハネ黙示録」や「ヤコブの手紙」を自分の教義とは違うからという理由で排除しようとしたのは有名である。その意味で、ベン・シラにおいて比較的「自由な」翻訳が行われたとしても、決して不思議ではない。
 また、この「ベン・シラの書」の翻訳者がルターかメランヒトンなどの他の人間か、という議論も些末にすぎよう。ヴェーバーは「翻訳者の精神」の翻訳者を複数形にしており、「ルター」と書いてあっても、それは「ルターが中心になっていた聖書の翻訳グループ」と解釈すべきであろう。
 なお、この問題について、改めて整理して詳論する機会もあるかもしれないが、当論考においては、脚注にとどめておくことにしたい。
(引用終了)

私はここで、グリムの辞典に出てくる用例で、「ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言している」という、ある意味非常に重要な指摘をしています。これについては、どのような文脈でいつ言われたのかを調べることが、ルターがどのようにこの部分を「状態」から「職業」に解釈替えしたのかということを明らかにすることになります。残念ながら、その後ルター全集を個人で買うことも、図書館で調べることも私は出来ていません。(インターネット上に全文がなく、検索で発見することも出来ていません。)折角またウェーバ-のグリム辞典への参照を指摘するのであれば、こうした点についても調べて欲しかったです。少なくとも「総括」という言葉を使うのであれば。

羽入批判として見た場合、その多くの部分が羽入の文献の引用の仕方についてであり、羽入が著作権法や文科省から出ているガイドラインで規定されている引用のルールを無視し、かなり恣意的な引用操作が行われていることを明らかにしています。このこと自体は重要な指摘で、羽入批判として十分な価値があることを認めるのは何らやぶさかではありません。しかしながら、羽入以外に中野敏男氏への批判としても使われているこの引用のルールですが、何か「引用ルールパリサイ人」のような、あまりにも窮屈なルールの主張のように思えることも事実です。私見ですが、著作権法が定める引用の制限は、ある意味自由な学問の発展にとってはそれを阻害するものでもあり、あまりにも厳格なルールの主唱は、今後論文を書いていく若手研究者にとっての足枷になるのではないかと懸念せざるを得ません。もちろん恣意的な引用操作は言語道断ですが、少なくとも文献表で該当文献が別途確認可能である限りにおいては、「パリサイ人」的なルール化は私は望ましくないと思います。

そのことと関連しますが、中野敏男氏への批判として、”Gewiss…, Aber”(なるほど…だが、だがしかし…)の解釈を巡っての、実に長大な批判が展開されます。まず批判の最大の根拠は、”Gewiss”と”Aber”の登場位置が離れすぎているということですが、この点はごもっとも、と思いつつも、ウェーバーの場合、最初に書いた文章に付け足していってどんどん増えていって、最初は近接していた2つの語が、最終的には遠く離れてしまった、という可能性も否定できません。実際に「経済と社会」の解読を、中野氏と一緒に行った経験がありますが、そういうケースは常に考慮していたと記憶しています。それもあって、きわめて長大な(正直な所くどいとしか言いようがない)説明にもかかわらず、私は中野敏男氏の解釈がまったくの誤りだという風には思えません。茨木氏は”:”をd.h.の代わりだとしますが、それ自体は間違いではないにせよ、GewissやAberの後にいきなり”:”が来るのはある意味異常な用法であり、遠く離れていてもその2つを関連付けて読もうとするのがまったくの間違いだと断定する気にはなれません。

後、情報として良かったのは、シュルフター教授が羽入の「ルター聖書はBerufではなくruff」という指摘を、あっさり否定して片付けているということがわかったことです。私は2004年9月20日にハイデルベルク大学を訪問してそこでシュルフター教授に面会し、羽入事件について報告しています。その時のシュルフター教授からの回答として「もうすぐ詳細な注釈付きのウェーバー全集が出るので、そこでそうしたことも論じられる」というお言葉をいただきましたが、それがきちんと実現していることがわかって嬉しく思いました。

更に、些末な指摘ではありますが、氏が引用について、””を「証明引用」、「」を「参照引用」として使い分けているのに、かなり面喰いました。本文についてはあらかじめ「凡例」で解説してあるので良しとしても、それがタイトル(副題)にまで説明なしで使われているのはどうかと思いました。また、Idealtypusの日本語訳について、「理想型」と「理念型」という2種類の訳語を混在させているのも理解に苦しみました。おそらく氏の別の論考に詳述されているのかもしれませんが、この論考だけを読む読者には何のことかわかりません。また「非難/批難」のような意味不明な表記ゆれや、「意外」を「以外」とする誤変換の放置(P.340)、私から言わせれば「老人語」である「如上の」という表現の過剰な使用、など日本語理解で苦労することが多くありました。ご自身で書いておられるように論旨が錯綜した上に冗長で、もう1回読みたくない文章と言わざるを得ません。

それからグリム辞典の「ベン・シラ」の引用の章句番号が間違っているのではないかということで、「ママ!」のような実に「耳目聳動的」な表現が用いられています。羽入がOEDを間違っていると断定したのと同じ匂いを感じざるを得ません。私はむしろ、聖書の章節分けが1551年のエチエンヌのギリシア語テキストから始まったもので、ルター聖書はルター自身による最後の校正は1545年なので、この時には章節番号自体が存在していない、ということを指摘させていただきます。またベン・シラという「旧約聖書続篇」であることも考慮すると、むしろルター死後のルター聖書に章節番号が付けられた時に、何かのミスか混乱で今日のものとは違う番号がついてしまったことも考えられ、単純に辞書の誤りとするには即断が過ぎると思います。

最後に、羽入書の悪影響で、社会学会でここ数年ウェーバーに関する研究発表をする若手がいなくなったということが指摘されていますが、私に言わせれば羽入ごときの指摘でびびってしまうような者はそもそもウェーバーについて研究することなど不可能だと思います。ある意味丁度いいフィルターなのではないでしょうか。

羽入辰郎の「引用」の例

今、茨木竹二という人の「「倫理」論文解釈の倫理問題」という本を読んでいます。この中で茨木氏は羽入辰郎という学者を装ったデマゴーグの引用の仕方が著作権法や文科省によるガイドラインの内容を無視したもので、恣意的な引用操作に満ちていることを明らかにしています。

羽入の引用については、もっと面白い例があるので紹介しておきます。

羽入辰郎のマックス・ウェーバー本の中でも最低のトンデモ本に「マックス・ヴェーバーの哀しみ―一生を母親に貪り喰われた男」というのがあります。
マックス・ウェーバーについて根拠もない罵詈讒謗を尽くした本ですが、笑ってしまうのが、冒頭に「マックス・ウェーバーの業績」についての言及があり、それが何とWikipediaのマックス・ウェーバーの項の中身のコピペです。博士号までもらった学者で一応ウェーバーの研究者でありながら、自分でウェーバーの業績をまとめて書くことができない訳です。

もっと笑ってしまうのが、そのWikipediaの文章を書いたのが、他ならぬこの私だということです。証拠を貼っておきます。2006年9月23日(土)の15:51に書き込んだものです。
「58.1.251.8」が書き込み主になっていますが、ブラウザでこのIPアドレスを入れていただければ分かりますが、これは私のHPの固定IPアドレスです。

河野臨・小松英樹・一力遼の「アルファ碁は何を考えていたのか?」

河野臨・小松英樹・一力遼の「アルファ碁は何を考えていたのか?」を読了。アルファ碁に関する本も実に8冊目です。この本ではアルファ碁対人間棋士の対局が6局、アルファ碁同士の対局が3局、そしてZenの対局が2局取り上げられています。小松英樹9段がその11局の中のある局面を取り上げて、問題とし、小松英樹9段、河野臨9段、一力遼8段がそれぞれどう打ってどうその後の局面を構想していくかを解説したものです。実際それぞれの説明を見ると、プロであればほとんど考えることが一致しているというのが分かり、「次の一手」もかなりの確率で一致している場合が多いです。このことは、AI碁の登場で、今まで人間が作り上げてきた棋理が否定された訳ではなく、AI碁の打ち方はむしろ人間が盲点となっている所を教えてくれた、という風に思えます。ただ、一力8段は、アルファ碁が星に対していきなり三々に入る打ち方を「自分は絶対に打たない」と書いていますが、先日のNHK杯戦の対本木克弥8段戦の碁で確か打っていたんじゃあ…
人間より強いAI碁の登場は、個人的な感想では、棋聖道策による手割りなどを使った棋理の確立、そして木谷実9段と呉清源9段による新布石の提唱、に続く第3の囲碁革命であると思います。今後もプロ棋士によるAI碁研究は続き、その中から新しい打ち方が出てくることを大いに期待しています。

デボラ・リップシュタットの「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」

デボラ・リップシュタットの「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」を読了。丁度この本が映画になって日本でも公開されているので、それに合わせて出版されたものと思います。リップシュタットはアメリカ在住のユダヤ人でユダヤ人の迫害史の専門家。リップシュタットがイギリスの歴史家のアーヴィングをその著作の中で「反ユダヤ主義者、ホロコースト否定論者」として厳しく非難したことに対し、アーヴィングがリップシュタットを名誉毀損で訴えます。イギリスでは名誉毀損の裁判は原告側ではなく被告側に立証責任があることになっており、アーヴィングはおそらくそんな面倒なことはせずリップシュタットが和解をもちかけ、その著作の表現を取り下げるだろうと思って告訴したのでしょうが、リップシュタットは全面的に戦うことを決意します。その裁判費用に日本円で2億円近い費用が必要でしたが、色々なアメリカのユダヤ人の団体が彼女に対し全面的な資金援助を申し出ます。この辺りさすがユダヤ人という感じで、他の学者だったらまず諦めてしまうのではないでしょうか。援助を受けたお金で、最高のリーガルチームを結成し、アーヴィングの著作とその主張を徹底的に調べ上げて裁判に臨みます。裁判の内容は対等な闘いというよりも、アーヴィングの主張の杜撰さや意図的な歴史の事実の書き換えや脚色が30以上も明らかにされていきます。そういう訳で途中で既に判決の結果は予想でき、その予想通りの結末となりますが、個人的にはメデタシ、メデタシとはいかないような後味も強くありました。

1.ちょっと調べれば分かるようなアーヴィングの悪質な資料操作にも関わらず、イギリスの歴史家の多くがアーヴィングの研究を高く評価した。

2.日本の裁判所でこの内容が争われたら、「高度な学問的な判断は司法にはなじまない」とか言って逃げてしまうんではないか、という懸念が湧きました。

3.過去に私も深く関わった「羽入辰郎事件」との類似性が嫌でも想起されました。ちょっと調べれば分かるような羽入本の誤謬にも関わらず、かなりの数の学者が羽入本を褒め称えました。

4.アーヴィングがヒトラー擁護、ホロコースト否定の姿勢を強めていくのは、ドイツの中でネオナチ勢力が台頭していくのと同時です。ご承知の通り、2017年の総選挙で極右政党「ドイツのための選択肢」が94議席も獲得しました。

5.アウシュビッツ他のホロコーストを否定する気は毛頭ありませんが、現在イスラエルがパレスチナに対してやっていることはまったくもって容認できません。また、ホロコーストの生存者であるユダヤ人による「ホロコースト産業―同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち」(ノーマン・G. フィンケルスタイン著)という本が出ていることも知っておくべきと思います。

なお、読んだのは山本やよいによる日本語訳ですが、翻訳自体はまったく問題なく読みやすかったです。ただ、ドイツ語のカタカナ表記にいくつか違和感があった(ausをアオス、ichをイヒ、小文字にすべき拗音を大文字にしているなど)のと、Ausrottung(絶滅、根絶やし)という裁判の中でもその解釈が争われた単語のスペルが間違っている(Austrottungになっている)など、翻訳者のドイツ語の知識はほとんどないと思いました。

西山隆行の「移民大国アメリカ」

西山隆行の「移民大国アメリカ」を読了。移民に関する本も既にこれで5冊目です。「移民」について今議論が喧しいのはアメリカと欧州だと思い、アメリカの実情を知りたくて買いました。ただ難点は2016年6月の出版で、2016年の大統領選については途中までしかフォローしていない状態でこの本が書かれているということです。筆者は東大法学部出身の人ですが、何かいかにもその手の優等生が要領よく複数の資料をまとめた、という感じで情報を得る上では有益でしたが、西日本新聞の本みたいに、良く調べたな、という感動はまるでありませんでした。一つ面白かったのは、アメリカの労働組合が、移民の流入は労働者の平均給与水準を下げると最初は反対していたのが、今は労働組合に入る人が激減したため、今度は逆に移民の取込みを図っているのだとか。西日本新聞の本に日本の連合の人が出てきて、これがどうしようもない移民反対論者でしたが、いつかは連合も外国人労働者を組織化しようと躍起になる日が来るのかも。後面白かったのは、黒人といっても、例えばオバマ大統領の父親はケニアからアメリカにやってきた留学生で、一種のエリートであり、いわゆるアメリカに奴隷として連れてこられた人達の子孫ではなく、この手の人はむしろ共和党支持者なんだとか。その他、エスニック・ロビイングの話とか、最後に日本の課題についての話もありますが、どれも突っ込み不足という印象を受けます。

ロッシェル・カップ、大野和基の共著の「英語の品格」

ロッシェル・カップ、大野和基の共著の「英語の品格」を読了。これは良書です。日本人の英語学習者は、アメリカは何でもストレートにダイレクトに言う文化で、英語もそうあるべきである、と考えている人が多いのですが、この本はそれが大きな間違いであることを明らかにします。エリン・メイヤーの「The Culture Map」にも、アメリカ人の上司が部下にネガティブなフィードバックをする時は、まずポジティブな指摘から始めて、なるべくネガティブな内容をオブラートでくるむようにするというのが出てきていましたが、この本でも同じことが言われています。気をつけないと、ネイティブは日本人だから英語のニュアンスが良くわかっていないんだろう、なんて好意的には解釈してもらえなくて、なまじ少し英語をしゃべる人の方が大きな誤解と悪印象を相手に与えがちです。また私にとって良かったのは、私にとっては、英語の語彙を今の9,000語レベル(TOEICのReadingでほとんど困らないレベル)から20,000語レベル(TimeとかNewsweekをすらすら読めるレベル)に上げるのが課題なのですが、この本ではネイティブが語彙を強化するために使っている本を3冊紹介してくれています。私は内2冊をAmazonに発注しました。また、主に映画で英語を覚えた人が、映画に出てきた表現をそのままインタビューで使って、相手の人を怒らせる事例が出てきます。後、この本ではいわゆるpolitically correctな表現の話も出てくるのですが、体に障害がある人を言う場合の、disabledやhandicappedが既に古い表現で、今はphysically challengedとか、differently abledとか言わないといけないのだとか。この点はこの本に同意できず、行きすぎじゃないかと思いました。
まったく英語がしゃべれない人向けではないですが、TOEICで800点ぐらい取れる人は読んでおいた方がいい本です。

未読の本

現在、未読で待ち行列に入っている積読状態の本です。ここに写っている以外に、英語の参考書系が5~6冊別にあります。埴谷雄高の「死霊」は大部前に買ったものですが、なかなか手が付けられていません。また、平凡社の「現代大衆文学全集」の内から5冊くらい買っていますが、これも未着手。そうこう言っている内に、吉川英治の「宮本武蔵」の戦前版も近日中に到着…(知っている方は知っていると思いますが、「宮本武蔵」には「戦前版」と、それを戦後吉川英治自身がGHQの検閲を恐れて暴力的な表現などを書き直した「戦後版」があります。)ともかくこれらの本を読むのは2018年に持ち越しです。

西日本新聞社 編「新 移民時代 外国人労働者と共に生きる社会へ」

西日本新聞社 編「新 移民時代 外国人労働者と共に生きる社会へ」を読了。移民問題について、3冊目でやっと良書に出会いました。この本の内容は西日本新聞という福岡の地方新聞に連載されたものです。まずは何より取材に手間を惜しまず、時にはネパールやタイにまで出かけて関係者に取材してまとめた労作です。最近マスコミがフェイクニュースを垂れ流すものとして批判されますが、こういう地道ないい仕事を、全国新聞ではなく地方新聞がやっていることに救いを感じました。福岡という場所、九州という場所は、よく考えれば昔から海外の文化の取り入れで日本の最前線にあった所だと思います。またある意味「よそ者」に寛容な土地柄で、私も小学6年の時に山口県から福岡県に引っ越した経験がありますから、余計にそう思います。
内容については、この本で暴かれているのは、日本の政策の建前と本音の使い分けのひどさ。表では移民政策を否定しておいて、裏では留学生や研修生の名前で外国人の安い労働力を搾取する構図というのが見えて憤りを感じざるを得ません。ネパールから来た留学生が、ほとんど睡眠時間を取らずにいくつもバイトを掛け持ちし、結局精神を病んだり、失踪したりという悲劇が語られています。「女工哀史」は明治時代だけの話ではありません。また色々と識者に話を聴いている中でひどかったのが、連合の副事務長の安永とか言うの。自分達の既得権益が侵される心配ばかりして、人口減というある意味日本の危機を無視してはっきりいって何も考えていません。その逆に、自民党の石破茂氏については、意外なことに移民推進派であり、「移民庁」という官庁を作ってはどうかと提言しています。ちょっと見直しました。
この問題については、更に色々調べていきたいと思います。

毛受敏浩の「自治体がひらく日本の移民政策 人口減少時代の多文化共生への挑戦」

毛受敏浩の「自治体がひらく日本の移民政策 人口減少時代の多文化共生への挑戦」を読了。かなり飛ばし読み。この本は「外国人労働者受け入れを問う」よりはましな内容と思いますが、正直な所、「多文化共生」といういわばきれい事を強調し過ぎと思います。どのような事にもポジティブな面とネガティブな面がありますが、この本はポジティブな事を中心にかかれており、ネガティブな懸念みたいなことに対しては、きわめて通り一遍の説明しか与えられていません。たとえば「移民が増えれば犯罪が増えるのではないか」という懸念に対しては、近年の外国人による犯罪が減少しているから問題ない、といったレベルで片付けられてしまいます。しかし、本格的に移民を受け入れ、外国人の永住者が今の10倍になった時に、果たしてその説明で、反対者を説得できるかというと、きわめて疑問です。
ただ、この本で良かったのは、国の移民政策の立案がほとんどされていない一方で、都市部よりもいち早く深刻な人口減少に直面している地方都市のいくつかが、外国人受け入れを真剣に検討し始めているというのがわかったことです。例として沖縄県や浜松市、あるいは北海道のいくつかの都市が挙げられます。
しかし、二冊読んでも相変わらず私が知りたいことを十分に知ることは出来ませんでした。