白井喬二と「万能児、万能人間」

白井喬二は「万能児、万能人間」にずっと関心を持っていたと見えて、それに関連する作品を3作も書いています。

1.「陽出づる艸紙」講談倶楽部 1936年1-12月
2.「豹麿あばれ暦」週刊新潮 1958年4月7日号より4回連載(白井喬二の病気のため連載中止。)
3.「神曲 左甚五郎と影の剣士」双葉社 1972年

まず、最初は「陽出づる艸紙」の主人公の綴井萬貴太で、父親が万能児に育てるために実にかけたお金は8万両を超え、また付けた師匠は200人に及ぶというもので、この結果17歳にして武芸百般にも、またあらゆる学問にも通じた、ほとんど完成した万能人間として連載第1回に登場します。萬貴太は父親の期待を背負って、その完成振りを試してみるために、もう一人の万能人間である高月相良と対決に赴くというストーリーです。

これに対し、「豹麿あばれ暦」の豹麿は、萬貴太と同じように万能児として育てられながら、何故か父親の期待を裏切って親の言うことなどまるで聞かない問題児として設定されています。白井喬二によれば、「『粗暴に似た神人』『剣の未知にいどむ善魔』として、これまで書いてこなかった新しいタイプの青年武士を描こうとした」ということです。しかし、この物語は白井の病気(インフルエンザと高血圧)のために、わずか4回しか書かれず、続きが書き継がれることはありませんでした。

この豹麿のキャラクター設定をどうやら引きずっていると思われるのが、「神曲 左甚五郎と影の剣士」の主人公の「影の剣士」こと森十太郎です。十太郎も学者であった父親に武芸と学問の双方を徹底して仕込まれ、若くして万能児として完成するのですが、ここからが面白く、十太郎は完成の後は逆にそれまで身につけて来たものを一つ一つ捨てていきます。その過程で妻を7人替えたと言っています。そして最後に残ったのが剣の腕で、「十全剣法」と名付けられた剣法は名だたる剣の名人と立ち会って危なげなく勝ちを納めます。

「豹麿」が途中までしか読めないのは大変残念ですが、白井喬二の中では「万能児、万能人間」というテーマは一生かけて温められていって深化していったテーマと言えると思います。

白井喬二の「天誅組」

白井喬二の「天誅組」、講談倶楽部に1933年1月-1934年6月の間18回に渡って連載されたものですが、そのうち1933年(昭和8年)の2月号、7月号の2回分だけを読了。全18回の内の2回ですから、ほとんど読んだとは言えないのですが、甲斐野木琢磨という覆面の腕の立つ武士が主人公で、この武士は幕末において反幕の言動を辞して世間を騒がせています。その甲斐野木琢磨は、幕府の高家である日野若狭守のわずか生後三ヶ月の幼児福一をさらってしまいます。浦賀奉行の小森田伊勢守は、この甲斐野木琢磨が房州に上陸したのを追っていますが、実は琢磨は伊勢守の弟でした。結局、伊勢守は琢磨を逃がし失職します。といった話で、実際の天誅組の変とどう関わってくるのか、2回分を読んだだけではまったくわかりません。今後、残りの部分が少しでも読めたら、と思います。

大日本雄弁会講談社「キング」昭和7年4月号「人気花形作家大座談会」

大日本雄弁会講談社の雑誌「キング」の昭和7年4月号に掲載された、「人気花形作家大座談会」を読了。白井喬二の小説が載っているというので買ったものですが、そちらは「天晴れ啞将軍」で既に読んだものでした。それで勿体ないので何か面白い記事はないかと思って見つけたものです。
出てくる作家は、「キング」にその当時書いていた人、過去書いていた人、これから書く予定の人ということで以下のメンバーです。
菊池寛、長田幹彦、前田曙山、本田美禅、久米正雄、白井喬二、江戸川乱歩、大佛次郎、中村武羅夫、加藤武雄、三上於菟吉、佐々木邦、子母沢寛、野村愛正、細木原青起
今でも非常に有名な作家以外に、当時は有名だったけど今はほとんど知られていない作家も多く含まれています。特に中村武羅夫と加藤武雄は、三上於菟吉と合わせて三羽烏と呼ばれたようですが、今は無名です。
座談会全体自体は大して面白くないのですが、いくつか白井がらみなどで抜き出し。
・菊池寛が「大衆小説ではどんな筋も考えられるけど、現代小説は非常に限定される」という意味のことを言ったのに対し、白井が「大衆小説も高級なものになると、やはり範囲が狭められてゆく」と反論しているのが興味深いです。
・国枝史郎はこの座談会には出席していませんが、司会のキングの記者が、「国枝史郎という方は、長篇を一つ書くのに荒筋を五十枚位書かなければ書けないそうです」と述べていて、実に意外。国枝は荒筋なんか作らないでどんどん興の赴くままに書いていっていたのかと(またそれで大体途中で破綻したのかと)思っていました。
・それに対して白井が、「長いものは十編なら十編に分けて、全体の荒筋と十編に分けたものの筋とを大体考える」と言っています。「富士に立つ影」が全十編ですので、それを念頭に置いての発言だと思います。こちらは頷ける話です。
・白井が「昼書くか、夜書くか」という話題を出し、昼でも戸を閉めて夜の気分を出して書くという人の例として「江戸川さんなんか、そうじゃないですか」と振っています。既にこの頃から江戸川乱歩の「土蔵で蝋燭を灯して書く」というイメージが人口に膾炙していたようです。
・前田曙山が、金色夜叉の貫一のモデルは巌谷小波だと言っています。当時の定説だったみたいです。

白井喬二の「陽出づる艸紙」

白井喬二の「陽出づる艸紙」、元は講談倶楽部 1936年1月から12月まで12回連載だったものですが、その1936年(昭和11年)の1月号、8月号と11月号の分だけを読みました。この作品はもう一つの「富士に立つ影」です!何かというと、高月相良と綴井萬貴太という東西のどちらも武芸・学問百芸に秀でた者が、その武芸・学問の様々な分野に渡って争うという、「富士に立つ影」の裾野篇の佐藤菊太郎と熊木伯典の争いの再現のようだからです。1月号(初回)では、下野国塩谷城の家老の綴井左太夫が、自分の最初の息子2人の教育を間違えたのを反省し、3番目の男子である萬貴太を「出来ないことのない万能児」に育てようとします。そのために左太夫は8万両を超えるお金を遣い、また付けた師匠は200人に及びました。その甲斐あって、17歳になった萬貴太は、誰にも負けない万能児として完成します。左太夫はこの萬貴太の完成をテストするために、もう一人猊下と呼ばれる万能の巨人である高月相良と対決させることを決意します。しかし、その旅立ちの時、ちょっとした間違いから殿様の勘気を被り、萬貴太共々蟄居閉門を仰せつかってしまいます。しかし左太夫は妹の幸江を萬貴太の身代わりに仕立て、萬貴太を旅立たせます。8月号ではまず二人が出会い、その瞬間から早くも論争が始まり、萬貴太が懐に忍ばせていた袋の中身を巡って、丁々発止としたやりとりが始まります。二人はお互いに5つの課題を出して、それを籤で一つずつ選んで勝負することになりました。11月号は、二人がお互いの家系についてディベートを行うもので、萬貴太は相良の先祖に平将門がいることを曝露して、自分が閉門蟄居の所を抜け出してきているという弱点をこれでおあいこにします。続けての勝負が流鏑馬探しといって、お互いが矢文を打ってそれぞれが相手の打った矢を探し、その矢に付けられた文を見て、そこに書かれた三つの問題を解いて実行する、という戦いです。3回分だけ読んでも非常に面白い小説であり、なんでこれが単行本になっていないのか、理解に苦しみます。

「陽出づる艸紙」(2)(「つるぎ無双」)へ

白井喬二の「黒衣宰相 天海僧正」(1)

白井喬二の「黒衣宰相 天海僧正」の連載の第5~8回の4回分だけを読了。これも仏教雑誌の「大法輪」で1965年10月から1972年8月の間7年もの長期に渡って連載された作品(全83回)。この4回では、天海僧正のまだ少年時代の話です。天海僧正(南光坊天海)の出自については諸説あり、明智光秀の生き残りという説まであるのですが、白井は須藤光暉「大僧正天海」(1916年)と同じく、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子の兵太郎として天海の少年時代を描いています。全83回もあるので、4回分を読んだだけで論評するのは無茶ですが、白井の創作意欲というものはまったく衰えていないように思えました。白井の悲劇というべきものがあれば、白井の作風というものはデビューした1920年から晩年まで一貫していてほとんど変わっていないと思うのですが、大正から昭和の初めを過ぎると、徐々に飽きられていって以前の作品のように大受けすることがなくなってしまった、ということではないかと思います。もっとも本人はそんなことは苦にしていなかったことが、「さらば富士に立つ影」の記述などから伺うことができます。この「天海僧正」も掲載誌が特殊なこともあって、一般的にはほとんど無視されています。ただ、白井の「さらば富士に立つ影」によると宗教評論家の千葉耕道が愛読し、「この小説がおわるまでは死ねない」という感想を大法輪の編集部に寄せてきたそうです。しかし残念ながら同氏は連載が終了する前に亡くなったそうです。

白井喬二の作品での女性の主人公

白井喬二の作品の中で、女性が主人公である作品は、私がこれまで読んだ範囲では「露を厭う女」、「東海の佳人」と「地球に花あり」のわずか3作品だけです。しかも面白いことに、この3作はすべて1935年から1939年の5年間で書かれており、あまつさえ「露を厭う女」と「東海の佳人」はまったく同時期に平行して書かれていました。当時は婦人雑誌が多数の読者を持っていた時代で、大日本雄弁会講談社が「キング」を創刊するまでは、婦人雑誌が売れ行きのNo.1でした。そういう意味で、大衆小説の読者には女性が多数いたと想定されますので、もっと女性が主人公の作品があっても良いように思いますが、3作だけです。

露を厭う女 婦人公論 1935年(昭和10年)1月-12月
東海の佳人 キング 1935年1月-1936年3月
地球に花あり サンデー毎日 1939年(昭和14年) 17号-59号

これら3作品の主人公の造形には違いがあります。「露を厭う女」の主人公のお喜佐は、父親が借金を抱えて死に、運命に流されるままに女郎になり、最後はアメリカ人の客を取らされるのを嫌って、有名な「露をだに厭う大和の女郎花 降るアメリカに袖は濡らさじ」という歌を詠んで自害します。この歌は日本女性の意気を示したとして維新の志士等には高く評価されたのですが、この作品でのお喜佐はただ悲しい運命に逆らえず死んでいくだけ、という弱い女性として描かれています。
これに対し「東海の佳人」の以勢子は、父親を死に追いやった幕府軍路隊長の細木原幹丈が泥酔している所を刃物で刺すなど、はるかに行動的な女性として描かれています。最後の方で幕府が行ったトンネル工事が適切でなかったことを堂々と論じ立てて兄を救います。
「地球に花あり」の卯月早苗になると、この以勢子をさらに進めたような近代的で理知的な女性として描かれており、島崎博士の次男の国際スパイ容疑を、それを告発したスパイの研究家と堂々と論争して勝ち、それだけでなく島崎博士の研究を助ける助手として活躍します。

白井喬二は女性に関しては比較的進歩的な考えを持っていた人で、自身の妻に対しても結婚した後家に閉じこもっていないで何か仕事をすることを勧めていたりします。そういう意味で、もっと女性が主人公の作品が多くあってもいいと思うのですが。

白井喬二の「外伝西遊記」(1)

白井喬二の「外伝西遊記」を雑誌連載の1回+4回分だけ読みました。仏教雑誌である「大法輪」に1975年1月から1977年10月まで連載されたもので、確認しうる限りで白井喬二の最後の雑誌連載です。白井は1940年に「東遊記」という「西遊記」のパロディ作品を書いていて、天竺ではなく地竺に行く話なんですが、晩年になって、再度西遊記の世界に戻ってきています。この白井版西遊記では、おなじみの登場人物以外に、石族の吾呂という少年(孫悟空と同じく仙石から生まれたけどより小さい仙石から生まれたという設定です)を登場させて、語り部みたいにさせています。またお話もオリジナルの西遊記のストーリーを活かしつつ、随所に白井オリジナルのお話を入れているようです。というか5話分だけ読んだだけですが、とても面白く、晩年の白井が肩の力を抜いて楽しんで書いているのがよくわかります。「大法輪」での連載には他には「天海僧正」もあります。どちらの作品も、「大法輪」のバックナンバーは古書店では全部揃わず、また出版社にも残っておらず、全部読むためにはたぶん国会図書館に行くしかないと思いますが、将来の課題として取っておきたいと思います。

洪道場編の「進化を続ける アルファ碁 最強囲碁AIの全貌」

洪道場編の「進化を続ける アルファ碁 最強囲碁AIの全貌」を読了。この本は藤沢里菜女流本因坊のツィートで知りました。まず洪道場というのを知らなかったのですが、洪清泉三段が主宰するアマ・プロを問わない研究会(道場)なのですが、そこから出てきた棋士がすごいの一言で、一力遼7段、平田智也7段、呉柏毅 3段、芝野虎丸3段、そして藤沢里菜女流本因坊などがこの道場の出身です。
この本は、その洪道場のメンバーが、アルファ碁の進化版であるMasterが早碁で超一流棋士60人(重複有り)と対局した棋譜を検討したものです。ご承知の通り、早碁とはいえ、この60局の全てでMasterが勝ったのですが、ともかくMasterの強さに恐れ入ります。その強さというのは人間より読みが優れているというのではなく、構想が人間の上を行っている、形勢判断が人間より優れているという印象です。従って坂田栄男9段みたいな鋭い手(鬼手)が飛び出てそれで勝つと言うより、棋聖秀策や、全盛期の呉清源9段、または藤沢秀行名誉棋聖のような、打ち回しの素晴らしさで勝っている印象を強く受けます。とはいっても、Masterの強さは人間の棋譜をディープラーニングで学習することで得たものであり、人間の手から飛び離れているかというと、そこまでは感じません。今後Masterはもう人間との対局はしないとのことですが、今後はMaster独自の方法論を生み出して更に強くなって、人間に色々と囲碁に対するヒントを与えて欲しいと思います。

白井喬二の「独楽の話」(エッセイ)

白井喬二の「独楽の話」(エッセイ)を読了。「大衆文藝」の第一巻第二号に掲載されたもの。この「大衆文藝」は白井らの大衆作家が集まって作った二十一日会の機関誌として創刊されたものです。確か2年も続かないで廃刊になったと思います。国枝史郎の作品なども掲載されていて貴重です。
白井は「新撰組」で但馬流や金門流の独楽師同士の争いを書きましたが、その白井による独楽にまつわる蘊蓄です。今は独楽の名人芸を観る機会もほとんどなくなりましたが、まだ白井の時代には大道の名人芸が残っていたのだと思います。それは独楽に限らないことで、何と無くなってしまった伝統の多いことかと嘆かずにはいられません。白井は他の雑誌で、夜中に独りでに回り出す独楽や、いつの間にか逆に回り出す妖怪独楽の話を書いているとのことですが、読んでみたいものです。

白井喬二の「幽閉記」

白井喬二の「幽閉記」を途中まで読了。昭和5年に創刊された「日曜報知」に連載されたもので、おそらく10回くらい連載されたのだと思いますが、残念ながら第1回~6回までと第8回しか入手できませんでした。皮肉にもそういうお話に限って結構名作だったりするのですが…お話はかつては殿様の相談役として権勢を誇った氷駿公がその後殿様の勘気を被って、今は六層の高楼に幽閉されています。二人の武士の間で、そういう幽閉の暮らしが、すぐに死んだ方がいいか、いやそれでも生きていた方がいいかの論争になり、結局氷駿公に直接聞いてみようということになります。一方の武士が夜中に高楼に昇って、氷駿公を呼び出してみると、そこにいたのは氷駿公ではなく、まだ三十にもならぬ若者でした。という具合に始まり、途中の展開も意表を突いて、なかなかの傑作だと思うのですが、最後まで読めないのが返す返すも残念です。