博文館の「新青年」昭和2年5月号

古雑誌の漁りついでに、「新青年」の昭和2年5月号を入手。丁度横溝正史が編集長をやっていた頃です。この雑誌は、大正から昭和初期にかけてのモダニズムの雰囲気をもっともよく体現した雑誌と言われています。確かに表紙には見えにくいですが情報にローマ字でSHINSEINENと書かれているのが新しい感じですし、表紙絵のキャラクターは何となく「ひょっこりひょうたん島」の人形達を思い出させます。ただ、目次を見たらぱっと見た感じでは、「キング」などとそんなには変わらない感じで小説主体です。ただその小説の中身が、「キング」のように時代小説主体ではなく、翻訳・国産を合わせてミステリー(この当時の言い方では「探偵小説」)で占められているのがそれらしいです。また特集として「なんせんす號」となっており、ショートショートみたいなのが載っています。試しに小酒井不木のを読んでみましたが、どうってことはなかったです。「マイクロフォン」という短信みたいなのに国枝史郎が登場しています。(青空文庫で読めます。)翻訳物はO・ヘンリー、コナン・ドイルとB・アドラアでアドラアはどういう人か知りませんが、なかなか一流の作品を掲載している感じがします。

「悦ちゃん」のTVドラマ

この間の日曜からエアコンが壊れていて、今日やっと新しい物に交換工事をしてもらいました。それで片付けたステレオとテレビを元に戻して、テレビをつけたら、NHKで何と「悦ちゃん」のテレビドラマをやっていました。ちょっとだけ見ましたが、何か原作へのリスペクトが感じられないです。「パパママソング」に実際の曲をつけたのは評価できるけど。

第二次「苦楽」

白井喬二の「先覚者」の続きが読みたくて、「苦楽」の昭和23年4月号を入手したのですが、何と載っていないです。しかも白井作品だけでなく、すべての連載の続きが掲載されておらず、ページ数も3月号が240ページあったのに対し、4月号は64ページと激減しています。Wikipediaで調べた所によると、用紙事情が悪化したのと、経営権を巡っての内紛があったみたいです。
(第二次苦楽は結局3年で廃刊になります。)
この表紙の美人画は鏑木清方で、当時「江戸趣味」と言われたみたいです。

佐藤卓己の「『キング』の時代 国民大衆雑誌の公共性」

佐藤卓己の「『キング』の時代 国民大衆雑誌の公共性」を読了。白井喬二の未読作品を求めて、「キング」の戦前のものを十数冊買い込んだことがこの読書につながりました。出版元は岩波書店で、戦前は「岩波文化と講談社文化」という形で対比された両出版社の片方である岩波が講談社の雑誌についての本を出すというのがまず面白いです。
色々事実関係で知らなかったことが多くありました。まずは大日本雄弁会講談社の出す9つの雑誌が、戦前の一時期の全雑誌の部数の実に8割を占めていたという驚きの事実です。講談社は今も一流の出版社でしょうが、今は一流の中の一つぐらいの存在感しかありませんが、戦前はもう圧倒的だったということです。もう一つは、大日本雄弁会講談社が「キング」を創刊するにあたって、婦人雑誌を真似したということです。創刊当時、一番部数が出ていたのが婦人雑誌だからです。その婦人雑誌がファッション小物などの高価なものを附録につけるということを既に大正時代にやっていました。割と最近女性誌がブランド小物を附録につけることをやっていましたが、それは大正時代から行われていたことでした。「キング」はこれに学んで毎号豪華な附録をつけます。特に色々な地図は中国大陸で戦っている兵士にも重宝がられました。もう一つ、これは白井喬二を理解する上で重要ですが、昭和一桁の頃は、キングの誌面のかなりの部分が大衆時代小説で占められていました。白井喬二も多くの作品を「キング」に発表しています。これに対し昭和10年代に入り、国民総動員体制が進んでいくと、掲載される文芸作品の多くが「現代物」になっていき、時代小説がどんどん減っていきます。国家の緊急時に、時代物は悠長すぎると思われたのでしょう。白井喬二は昭和14年に自身初めての現代物である「地球に花あり」をサンデー毎日に連載しますが、そういう時代の要求を受けて、敢えて慣れない現代物に手を染めたのでしょう。白井喬二を含む時代小説作家にとって不幸だったのは、戦争が終わったら今度はGHQから「封建思想を助長する時代物はけしからん」という圧力がかかったことで、結局白井喬二は戦後十分に活躍できなかったと思います。これに対し、吉川英治は戦前に書かれた「宮本武蔵」を戦後は書き直して出版して、国民作家になるのですが…
白井喬二に話が逸れましたが、この本は雑誌キングの性格を多面的に捉えて、かなり読ませるし情報量も豊富です。もっとも私からすると左翼から見たキングの章はなくてもいい感じでしたが。

白井喬二の「本能寺前夜の織田信長」

白井喬二の「本能寺前夜の織田信長」を読了。「歴史読本」の昭和36年5月号に掲載されたもの。織田信長の蘭語の通詞であった石井左内がある日空でトンビが何やら字を書いているように飛んでいるのを見ます。その字は「芙蓉」に読めました。左内はそれを天の知らせと解釈し、吉か凶かの判断に思い迷います。また、最初はそれを信長に上奏しようとしますが、蘭僧である有留巌(うるがん)に相談したら、不吉だから信長には言うべきではないと止められ、結局信長には言わないままになります。一方で信長自身は、自ら戒めとしていた、過去の勝ち戦を振り返らない、というのを破ってしまい、桶狭間の戦いの夜に信長が敦盛を歌ったのに合わせ舞った侍女と昔話をしてしまいます。そしてそれ以来国内にはもはや敵はいない筈なのに、桶狭間の時の今川軍のように敵に襲われて敗れる夢をしきりに見ます。そして結局本能寺の変が起き、左内のトンビの文字の解釈による不吉の予感も、信長の敵に襲われる夢も、どちらも的中する、という話です。

白井喬二の「先覚者」

白井喬二の「先覚者」の連載第1回の分を読了。「苦楽」の昭和23年3月号に掲載されたもの。苦楽の同じ年の5月号には別の作品が掲載されているので、連載といっても2回で完結したのではないかと推測しますが、実際の所は不明です。お話は江戸幕府の手で建造された蝦夷船が、砂金発掘と開拓の目的で北海道に送られます。それに大野木克馬の息子である鉄馬も乗り込んでいましたが、その蝦夷船が品川に戻って来た時に、何故か鉄馬は秘密裏に下船し、姿をくらまします。鉄馬は船内にいた時からつづらを大事そうに抱え込んでいて、中に何が入っているのか船内の人の関心を集めていました。品川で下船する前には、その中身を検めてやろうと船内の人は思っていましたが、その裏をかいて鉄馬はまんまとつづらを持ってどこかに失踪してしまいます。鉄馬の帰りを待ち受けていた克馬は失望します。といった話です。この話も今後の展開が読めません。河出新書の白井喬二の戦後作品集に収録されていない理由も不明です。

白井喬二の「人肉の泉」

白井喬二の「人肉の泉」、連載の第一回分だけを読了。「主婦之友」の昭和5年4月号です。この年の「主婦之友」は古書検索サイトではこれ1冊しか見つかりませんでした。「人肉の泉」、何ともすごいタイトルで、しかも掲載誌は女性誌です。お話は長崎の高島四郎太夫(高島秋帆)が、幕府から洋風銃砲隊の編成を公に命ぜられた所から始まります。ところが幕府の鉄砲隊には別に和銃の隊が既にあって、その隊長は田附四郎兵衛ですが、四郎兵衛は高島が洋風銃砲隊の隊長に命ぜられたことが面白くなく、自分の職分を侵すものだと考え、高島に役目を辞退するように申し入れますが、高島は幕命だということで聞き入れません。おそらくこの先、この二人が対立してドラマが起きるのでしょうが、一回目を読んだだけでは展開はまるで予想できません。これも全部読めないのが残念です。

白井喬二の「豹麿あばれ暦」

白井喬二の「豹麿あばれ暦」の連載第1回の分を読了。週刊新潮の昭和33年4月7日号です。この作品は白井喬二がこの年インフルエンザと高血圧で倒れてしまい、連載4回で中断し、白井自身が回復の見込みを感じていなかったため、やむを得ず中止となった作品です。古書店の検索では、この第1回の分しか見当たりませんでした。読んでみてあっと思ったのは、主人公が万能児として育てられた17歳の青年武士ということで、「陽出づる艸紙」とまったく同じ設定です。しかし、「陽出づる艸紙」の主人公は、育てられた父親に敬意を表しその言に従いますが、こちらの豹麿は確かに諸芸百般は身につけたようですが、なかなか親の言うことなど聞かない問題児に育ったようです。白井喬二は、「粗暴に似た神人」「剣の未知にいどむ善魔」として、これまで書いてこなかった新しいタイプの青年武士を描こうとした野心作としています。完結しなかったのが非常に残念な作品です。

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白井喬二の「無辺と瓢吉槍」

白井喬二の「無辺と瓢吉槍」を読了。大日本雄弁会講談社の「キング」の昭和12年1月号に掲載された読み切り作品。出羽の瓢吉は、鮭を突く槍の名人でした。同じ土地に槍の名人の大内無辺も住んでいました。無辺は瓢吉の技を見て気に入り、家に遊びに来るようにいいます。遊びに行った瓢吉と無辺はお互いに同じ技が得意なのもあって、仲良くなります。無辺も元は鮭突きをやっていました。ある時無辺は武者修行にやってきた者と槍で立ち会い、不覚を取ります。しかし、瓢吉はその傷を見て、無辺がわざと突かれたことを見抜きます。その理由を問い質しましたが、無辺は1年待て、と言います。1年後、無辺は立ち会った武者修行の者は、実は南部藩の槍の名人の登舎庄五郎宗和で、南部藩と出羽藩が戦いになるのを予測して、宗和は無辺の技を盗みにやってきたのであり、無辺は技を見せないためにわざと突かれたことを明かします。瓢吉は無辺の元で1年槍の修行をし、今度は逆に瓢吉が宗和の槍の技を盗みに南部藩へ行く、という話です。なかなかよくまとまった佳作だと思います。なお、1955年にこの作品を原作にした映画「夕焼け童子」(二部作)が封切られています。

土師清二の「砂絵呪縛」(下)

土師清二の「砂絵呪縛」(すなえしばり)(下)を読了。この作品を読んだきっかけは、あるWebサイトでこの作品を、白井喬二、国枝史郎と並ぶ伝奇小説の名作として紹介してあったのからなのですが、読み終わった後は、特に伝奇小説という要素は少なかったように思います。それよりも目立つのは、森尾重四郎という脇役に過ぎないのに、何故か非常に目立つキャラクターです。その性格は飄々としていて、何事も投げやりなその場任せな人物ですが、物語の冒頭では、墓を暴いて金の簪を盗んできた墓守職人を理由もなく切って捨てています。そしてそれを目撃した鳥羽勘蔵に誘われるままに柳影組に参加しますが、その仲間をあっさり裏切ります。また露路という純粋無垢な美女を盗み出して一緒に暮らしても、手を付けることはしません。実はこの作品は映画化される時に実に四社の競作となったそうですが、三社が主人公を小説の設定通り勝浦孫之丞にしたのに対し、阪妻プロだけが主人公をこの森尾重四郎にして、大当たりを取ったということです。阪東妻三郎の慧眼ぶりが光ります。この重四郎は、明らかに中里介山の大菩薩峠の机龍之助の系譜を引くニヒルで退嬰的な剣士ですが、この性格が当時のインテリの姿と重なって受けたようです。