マックス・ヴェーバーの「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳)

マックス・ヴェーバーの「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」(富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳)を読了しました。元々富永祐治・立野保男訳で「社会科学方法論」という書名で岩波文庫で出ていたもので、この論文の初の日本語訳だったものです。実は日本語訳については他に4種類くらい出ていて、たとえば「中世合名会社史」や「ローマ農業史」が未だに日本語訳が一つも出ていないのと著しい対照を成しています。折原先生は元々岩波書店から「新訳」を頼まれたそうですが、最初の翻訳を参照しながら、どこが新しくなったのか分からないような「新訳」が多数出る状況に疑問を抱かれ、実際には訳文の全面的な見直しをされたにも関わらず敢えて「補訳」と称されています。更には雑誌「アルヒーフ」に載った「移行予告」「告別の辞」「緒言」も一緒に掲載し、その上折原先生による丁寧な解説が付いているという、この論文の日本語訳の決定版です。
この論文をこのタイミングで読み直しているのは、今「経済と社会」の旧稿部を読んでいる訳ですが、そこで「決疑論(カズイスティーク)」について考えた際に、決疑論でまず行われる歴史の諸事例の類型化というのはまさに「理念型」なのであり、ヴェーバーが「理念型」にどのような意味を込めているのかを再度確認したくなったからです。結局の所ヴェーバーの学問は(というよりちゃんとした社会科学は)歴史事象を分析してある理念型を作り、それを元に理論を組立て、その結果更に考えが発展したら一旦設定した理念型を壊してまた新しいものを作り、ということを延々と繰り返していくものなのだ、と理解しました。
話は少しずれますが、ヴェーバー的方法論というのは、私にとって学問だけの問題ではなく、たとえばビジネスにおいても非常に役に立っています。ビジネスにおける様々な問題も社会科学の設定する問題とかなり近いものがあり、例えば自然科学の天文学のように、月食の日時を正確に予測する、といった精度で理論を組み立てることが不可能な事象が多数存在します。そういった場合に、(ビジネス上の)価値判断とは切り離した上で、自分なりに理念型を構成し、曖昧模糊とした先行きを少しでも正確に予測する、ということの方法論として十分に役立っています。なのでヴェーバーの学問は私にとって、閉じた象牙の塔だけのものでは決してない訳です。

マックス・ヴェーバーの「社会学の基礎概念」(阿閉吉男、内藤莞爾訳)

マックス・ヴェーバーの「社会学の基礎概念」(阿閉吉男、内藤莞爾訳)を読了。今、折原浩先生の仮説に基づく順番で「経済と社会」の旧稿を読み直している最中ですが、その前にこれもやっぱりきちんと読んでおかないといけないかと思い読んだものです。私が学生の時は清水幾太郎訳が岩波文庫で出ていましたが、この日本語訳がかなり問題が多いものだと聞いていましたので、今日まで読む機会がありませんでした。この阿閉・内藤訳は丁度私が卒業した年の翌年に出ています。
この「社会学の基礎概念」は、以前の「経済と社会」(ヨハネス・ヴィンケルマン編集による二部構成のもの)では、トップに置かれており、あたかもこれが「経済と社会」全体でのヴェーバーの方法論を示す論文だと理解されてきました。しかし、第二部のいわゆる「旧稿」については、この論文ではなく、1913年にLogos誌に発表された「理解社会学のカテゴリー」に準拠して読まなければならない、というのが折原浩先生の主張の内のもっとも重要な部分です。
それでは何故マックス・ヴェーバー自身が一度既に書いているカテゴリー論を新たに書き直す必要があったのか、という疑問が出てきます。それについては、ヴェーバーが1919年からミュンヘン大学で学生相手に「理解社会学のカテゴリー」に基づく講義を行った時の経験が影響していると言われています。「カテゴリー」論文では、ヴェーバーはゲマインシャフトとゲゼルシャフトという用語を、テンニースが最初にしたように「共同社会」と「利益社会」という対立概念ではなく、ゲマインシャフトの方がゲゼルシャフトをも包括する広い概念で、ある条件が整った特殊な場合のみがゲゼルシャフトであると定義していました。(正確に言うと、ゲマインシャフトとゲマインシャフトを直接定義したのではなく、ゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為という、人間の行為の種類の定義ですが。)ところが、このヴェーバーの定義がミュンヘン大学の学生にとってはテンニースの概念とごちゃごちゃになって極めて理解しづらいものだったと言われています。そのために、方法論論文をより一般向けにわかりやすく書き換えると同時に用語法も大幅に変更したのがこの「社会学の基礎概念」論文になります。そこではゲマインシャフトとゲゼルシャフトの定義がテンニースのものにかなり接近します。さらにゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為と言ったドイツ語そのものに起源を持つ特殊な用語法が消えて、その代わりにラテン語のsocietas(人の集まり、社会、組合といった意味)に起源を持つ、sozial-という形容詞を使ったsoziales Handeln(社会的行為)というかなり一般的な用語が使われるようになっています。
それと並んで重要なのは、「理解社会学のカテゴリー」ではかなり重要な概念として定義されていた「諒解」という概念(ゲマインシャフト行為の中で、例えば法律などによって目的合理的に協定された秩序を欠いているにもかかわらず、ある個人が理解していることを他の個人も理解しているであろうと予測しているのが「諒解」で例として貨幣の市場だとか言語共同体が挙げられています。)が、この「基礎概念」ではまったく消え去ってしまうことです。この理由は今の所私には理解できていません。しかし、例えば「法社会学」の冒頭部などを読めば、この「諒解」概念を理解することなしには、ヴェーバーの言わんとすることを理解するのはきわめて困難です。その意味で、この「社会学的の基礎概念」は「間違った頭」とされます。

マックス・ヴェーバーの「経済行為の社会学的基礎範疇」(富永健一訳)

マックス・ヴェーバーの「経済行為の社会学的基礎範疇」を読了。これは、折原浩先生による「経済と社会」旧稿の再構成案で、「理解社会学のカテゴリー」に続いてトップに置かれているものです。但し注意が必要なのは、この部分は第一次世界大戦後にヴェーバー自身が旧稿を見直して校正を終了した「新稿」だということです。中を読めばこのことを裏付けるものはいくらも出てきて、戦争中の各国の金本位制の停止の話だとか、戦争中の統制経済の話、または終戦後にドイツの労働者が力をつけて経営者と話し合う協議会みたいなものを作って企業の経営に参加した話などが出てきます。
また、この「基礎範疇」部は、ヴェーバー自身が何度も書いているように、「決疑論(カズイスティーク)」の典型例だということも重要です。「決疑論」というのはあまりなじみのない言葉で、説明を聞いてもなかなか理解できない概念ですが、元はカトリックから出てきた言葉で、カトリックの教会の神父が、信者から告解(懺悔)を聞いた時に、基本的なことしか定めていないカトリックの教義体系からは、どう扱っていいか分からないような複雑で時には教義と矛盾する個別の事実に対し、どのように神学として処理して現実的な指針を与えるか、ということを研究した学問のようです。ラテン語の”casus”(事例、ドイツ語化するとKasus)に学問や技術を表す接尾辞である”istik”がくっついたものと言えます。
このように、元はカトリック神学から来ている言葉なのですが、ヴェーバーの文脈では、むしろ法学的な発想が元になっていると思います。法学の世界においても、既に存在している法が規定する事態と、現実に起こる数々の事例の間には、簡単に既存の法概念を適用すれば終わり、ということではなく、どのような法概念を持ちだしてくれば、新しく出てきた事例をきちんと法的に処理できるか、という問題が常に発生しています。ヴェーバーにおいては、理念型として設定された歴史上の事実を描写するための各類型が、実際の事象にどのように適合するのかしないのか、しないのであれば各類型をどのように考え直せばいいのか、そういったせめぎ合いがまさにヴェーバーのいう「決疑論(カズイスティーク)」なのではないかと思います。
ちなみに、私がこの語の意味を理解するきっかけとなったのは、森鴎外の小説「カズイスチカ」を読んだ時です。その中で、若い医者である花房がある農民の息子が破傷風にかかったのを往診し、実際の患者を診て「内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺(わす)れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。」ということに感心する、といった話です。医学の世界でも医学書が規定する各種の病気の病態と、現実の患者に現れる様々な病状を照らし合わせて病名を決定していく時に、まさしく神学や法学と同じような「決疑論」が使われる訳です。
また、ヴェーバーの社会学を理解する上で重要なのは、この決疑論の部分もそうですが、やはり原点は法学からだということです。ヴェーバーより25年若いドイツの法制史家のハインリヒ・ミッタイス(ヴェーバーの先輩の法制史家でRentenkaufの概念を古代ギリシアの事例を分析するのに適用したルートヴィヒ・ミッタイスの息子)は、「ドイツ私法概説」の中でこう書いています。「人間の団体に関する理論は、ドイツの法律学の最も重要な部分である。諸国民の社会的・文化的・政治的生活は団体の中でおこなわれ、団体は国家とその部分団体において頂点に達する。」「ローマ法は個人法の領域で、ドイツ法は社会法の領域で、その不滅の功績をあげたのである。」(創文社、世良晃志郎・廣中俊雄共訳、1961年初版、P.82)ヴェーバーの社会学はこうしたドイツ法学の伝統と切り離して考えることは出来ないと思います。
また、もう一つ興味深いのは、この「基礎範疇」の中で、ヴェーバーは貨幣論を取り上げますが、その内容のほとんどが、クナップの「貨幣国定学説」の再構成だということです。クナップは金属貨幣に見られるような実質的な使用価値よりも、紙幣に見られるような国家権力によって支えられた「シンボル性」を重視します。しかし、私はそれをさらに進めて、「貨幣とは言語と同じようなシンボルの体系である」と言い切る、カール・ポランニーの貨幣論を既に知っていますので、まったく驚きませんし、またヴェーバーは1920年に亡くなっていて、いわゆるハイパー・インフレーションの初期の状態は経験しているのですが、後数年生きてその後の大インフレーションの時期を経験していたら、その後自分の貨幣論をどう書き直したであろうか、という興味があります。

マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳

(以下は4月17日に書いたものです。)
マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳がアメリカのAmazonから到着。モーア・ジーベック社の全集のこの論文を含む巻は既に到着済みですから、これで翻訳を開始できます。懸念点であった中にかなりたくさん出てくるラテン語の引用文もこの英訳ではきちんと英訳されていました。これならラテン語の初級文法を終わっただけの私でも、ラテン語と英語を見比べてラテン語の内容を理解することは十分できると思います。開設済みのmax-weber.jpのサイトを使い、準備が出来たら「オープン翻訳プロジェクト」を開始したいと思います。
「オープン翻訳プロジェクト」とは、
(1)翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。(ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
(2)出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。(日本の法律では確か著作権を完全に放棄することは出来ないと思いますが。)
(3)翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
(4)翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
(5)可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。

このプロジェクトで、日本における学術書の翻訳に新たな流れを作ることが出来ればいいなと思います。

ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」

(この記事は4月14日に書いたものです。)
ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」を読了。例のテンブルックの「「経済と社会」からの訣別」への応答である論考が含まれているの読んでみたもの。既に「「経済と社会」仮構の終焉」も読んでいるため、重複する部分が多く、あまり新しい知見は得られませんでしたが、シュルフターという人は論点を整理するのがうまい感じで、その面での益はありました。ちなみに、シュルフターは一貫して「経済と社会」ではなく「経済及び社会的秩序と勢力」であると主張しており、「全集」でも「経済と社会」に固執するモムゼンとの妥協が行われず、結果的に「経済と社会」と「経済及び社会的秩序と勢力」が並記される(但し後者はあくまでも副題的な扱い)ことになっています。後書きでこれまでのシュルフターの経歴が示されていましたが、意外だったのは元々はシュルフターは決して「ヴェーバー学者」ではなかったということです。

マックス・ヴェーバー全集の一部が届く。

(以下は2018年4月14日に書いたものです。)
モーア・ジーベック社に注文していた、マックス・ヴェーバー全集の内の「経済と社会」旧稿相当分5巻+「理解社会学のカテゴリー」を含む科学論集の1巻、そしてAmazon.deで注文した「中世商事会社史」の1巻が揃いました。後1冊Amazon.deで注文した「経済と社会 文献史」の巻1冊がまだ輸送中です。今回かかった費用は2,267ユーロで、実に30万円を超しており、かなりの散財です。でも、この全集が出来なかった「経済と社会 旧稿」のあるべき配置によるドイツ語テキストをこちらで出そう、というプロジェクトですから、この全集を買わない訳にはいきません。しかし、「ヴェーバー産業」と揶揄されるだけのことはありますね。この馬鹿高い価格設定は、オープンソース的な考え方とはおよそ逆です。また前にも書いたかもしれませんが、この全集を一番買っている国は疑いなく日本です。(日本全国でヴェーバーのドイツ語をある程度読める人となるとそんなに多くはいないと思うのですが、おそらく大学図書館などが主に買っているのでしょう。)

ドイツ語対応のOCRソフト

ドイツ語のOCRを探しました。
何がしたいかと言うと、例のヴェーバーの「経済と社会 旧稿」を折原浩先生の仮説に基づいた順番に並べ直し、更に「理解社会学のカテゴリー」を頭につけて、Web上で提供したいのです。元になるドイツ語テキストとして、Weber im KontextというCD-ROMのテキストが使えますが、一部誤植があるとのことです。また現在刊行中の「全集」で校閲の結果テキストが変わっている可能性があります。このため、
(1)「全集」の紙をスキャナーで画像化し、OCRでドイツ語テキストに変換する。
(2)(1)で変換したテキストとCD-ROMのテキストをdiffなどを使って差分を取る。
ということを行いたいのです。
取り敢えずググって出てきた
https://convertio.co/ja/ocr/german/
のは、試してみたら、箸にも棒にもかからない変換結果でNGでした。
それで製品版ということでABBYY Fine Readerのお試し版を使ってみましたが、これもかなり変換ミスはあるものの、スペルチェッカーを併用することで、まあまあいけるんじゃないかと思い、これを買いました。2万円。
http://finereader.add-soft.jp/

ヴェーバーの「中世合名会社史」届く

(この記事は実際には2018年4月7日時点のものです。)
Amazonのドイツで注文した、モーア・ジーベック社のマックス・ヴェーバー全集の第1巻である「中世合名会社史」他が届きました。この「中世合名会社史」はヴェーバーの博士号論文なのに未だに日本語訳がありません。中世のイタリアとかスペインで会社の初期形態である合名会社が貿易の世界で発達していく様子を研究した論文だということですが、ラテン語のテキストの引用がたくさん出てくるのがネックで訳す人がいないようです。無謀かも知れませんが、私が少しずつ訳してWeb上(例のmax-weber.jp)に発表していって、専門知識のある人のご意見を乞いながら最終的にちゃんとした日本語訳に仕上げられないかということを考えています。いわば学問におけるオープンソース方式です。ちなみに英訳は既に出ていて取り寄せ中です。この全集に事柄の注釈が沢山付いているし、英訳もあれば何とかなるのではないかと思います。Max Weber im KontextというCD-ROMでざっと眺めてみたんですが、ラテン語といっても断片的な引用で、まとまった文章が出てくる訳ではないです。
ちなみに、日本円で3万円以上もする本なのに外箱がありません。代わりにヴェーバーの顔が印刷された包装紙で包まれています。私は何だか「マックス・ヴェーバー饅頭」の包み紙みたいだなと思ってしまいました。ええ、ヴェーバーはドイツにとっては一つの観光資源なんでしょう。

マックスとモーリッツ

ヴィルヘルム・ブッシュの「マックスとモーリッツ」(絵本)を読了。このお話は、ドイツ人なら誰でも知っているもので、漫画の原点になったと言われています。実はmax-weber.jpの管理人のハンドル名を洒落でモーリッツにしようかと思って、それはドイツ人ならすぐ通じるのですが、でも実際のお話も知っておいた方がいいかと思ってポチりました。まあいたずら小僧の2人がかなり悪質ないたずらを繰り返すんですが、最後から2番目のいたずらではパン屋に忍び込んでパンを盗もうとし、見つかってパン焼き釜で焼かれ、最後のいたずらではお百姓さんの小麦を盗もうとしてやっぱり見つかり、水車小屋の粉ひき機で粉にされ、その粉をアヒルがついばんでしまう、というなかなか残酷なオチです。ちょっとグリム童話にも近い世界ですが。
ちなみにドイツ語の原文は
http://www.wilhelm-busch-seiten.de/werke/maxundmoritz/index.html
で読めます。

折原浩先生の「ヴェーバーとともに40年 社会科学の古典を学ぶ」

折原浩先生の「ヴェーバーとともに40年 社会科学の古典を学ぶ」を読了。この本は私が先生にヴェーバーの「経済と社会」旧稿の再編纂問題について勉強していると今まで読んだ本を挙げた所、この本にもその関係の情報があるということで、わざわざ送っていただいたものです。そしてこの本は先生が1996年に東大駒場の教養学部を定年で退官される時に、それまでの大学と学問に関する論考をまとめたものです。先生が教材として使われてきたのは、デュルケームとヴェーバーで、私も1982年に一般教養の社会学でこの2人について教わっています。デュルケームの教材としては「自殺論」でしたが、自殺という誰が考えたって個人的な動機に基づいているとしか思えないものが、しかし一歩引いて統計情報を分析してみると、例えば戦争の時には自殺する人が減るとか、社会の「凝集力」が低下すると自殺が増える、といった「社会的な現象」であることが明らかにされます。デュルケームはこうした分析で、新興の学問であった社会学の実践的価値を訴えます。こうした分析は当時結構目から鱗でした。ヴェーバーについては「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でしたが、こちらはむしろデュルケームとは逆に「カルヴィニストの内面の心理なんて本当に外部から推し量ることが出来るのだろうか」という疑問を抱いていました。
まあその辺りは思い出話ですが、この本によって折原浩先生が何故「経済と社会」旧稿の再編成問題にずっと取りくんで来られたのか、その動機はよく理解できました。それは元々教科書として企画された「経済と社会」を、その通り教材として使いたいのに、それが間違った編纂で使えないものになっているのを何とかしたいという思いです。