折原浩先生の「ヴェーバー『経済と社会』の再構成 トルソの頭」を読了。1996年に出版されたもの。1984年の冬学期から始まった東大駒場の教養学科と相関社会科学の大学院の合同演習で延々10年間をかけて、「理解社会学のカテゴリー」と「経済と社会」の旧稿部分の精読を進めた結果として発表されたものです。(私はその開始から2年半その演習に参加しています。)
「マックス・ウェーバー基礎研究序説」の時に紹介したように、「経済と社会」の従来二部とされてきた旧稿部分は、従来のように「社会学の基礎概念」をそのカテゴリー論として読むべきではなく、(直接的には「ロゴス」誌に発表され「経済と社会」とは一見無縁に見える)「理解社会学のカテゴリー」をカテゴリー論として、つまり「頭」として読むべきだという仮説を提示し、なおかつ最初の編纂者であるマリアンネ・ヴェーバーとメルヒオール・パリュイが恣意的に並べた順番を本来のあるべき順番に戻す、という作業を、「前後参照句」(「以前論じたように」とか「後で詳しく論じる」のように、テキストの他の箇所への参照を示す句)を手がかりに、その参照が「内容的に」どこにつながるのか、ということを精読を通じて地道に解明したものです。この「前後参照句」は実は最初の編纂の際に、その時の順番に合わせるために、編纂者によって書き換えられている可能性もあり、その手が加えられた箇所も同時に抜き出していかないといけません。その結果、全体で409の前後参照句の内、「旧稿の中のどこにも該当部分が無い」(が「理解社会学のカテゴリー」にその該当部分がある)、「前後の参照方向が間違っている」ものが41発見されました。その一つ一つを逐一詳細に論理的に検証し、(1)確かに「頭」として「理解社会学のカテゴリー」が必須であること(2)どうテキストを並べ替えれば順番の辻褄が合うか、という作業を徹底して行ったものです。
この作業の結果、旧稿に欠けていた「頭」が蘇り、また間違った配列も正される、「経済と社会」の再編纂問題における、画期的な進歩を達成したのが、この本に収められている論文になります。この本に入っている論文は独訳され、「ヴェーバー全集」を編集しているチームにも送られました。その中心メンバーであるシュルフター教授も、折原説には一度は賛成し、問題は解決したかと思われましたが、問題はさらにもつれます。これについてはまた次の機会に紹介します。
「Max Weber」カテゴリーアーカイブ
折原浩先生の「マックス・ウェーバー基礎研究序説」
折原浩先生の「マックス・ウェーバー基礎研究序説」を読了。1986年に出た本です。この本が出た時私は既に就職していて、この本をその時に買っていて一度読んでいますが、その時はこの本の内容を十分に理解したとはとてもいえないものでした。今回、まずテンブルックの論文(ヴェーバーの「経済と社会」の編纂問題を初めて指摘した人)を読み、それからベンディクスの書いたヴェーバーの全体像に関する本を読み、更にシュルフターが書いたこの編纂問題に関するまとめを読んで、ときちんと順序を踏んで再度この本に挑み、ようやくその内容がちゃんと理解できるようになりました。
ヴェーバーの「経済と社会」はその妻マリアンネによって、1920年までにヴェーバー自身が校訂を済ませた部分と、第一次世界大戦前の1911年~1913年に渡って書かれ、戦争その他の理由で出版されることがなく草稿のままとなった「旧稿」(ヴェーバーはこの「旧稿」もきちんと改訂して用いる予定があったのだと思いますが、1920年に彼はスペイン風邪からによる肺炎で急死し、この作業を行うことはできず、またどのように全体を構成するかのメモも残されませんでした)の2つの部分に分かれています。マリアンネと、またこの「経済と社会」の再編纂を試みたヨハネス・ヴィンケルマンの両方が、1920年校訂版を第一部、旧稿を第二部とする二部構成を採用し、一部が理論や範疇論で、二部がその具体的な展開で、「宗教社会学」や「法社会学」といった「○○社会学」という個別的展開であるという構成を採用していました。また第一部の冒頭には「社会学の根本概念」が全体に対するカテゴリーを説明するとして置かれていました。
で、テンブルックはこの構成が嘘であり、ヴェーバーが意図したものではなく、「経済と社会」にもはやヴェーバーの主著としての価値はないとします。これに対し日本では折原浩先生、ドイツではヴォルフガング・シュルフターがテンブルックの二部構成批判に対しては賛成するものの、「経済と社会」の価値を否定せず、改めてあるべき構成を再構築しようとしてきました。
この折原浩先生の書は、その研究の初期に書かれたものです。先生は、東京大学で10年間の年月をかけて、「経済と社会」の旧稿の部分の精読を行って、その中に含まれる「参照指示」(「これまで我々が見てきたように」とか「後でもう一度議論することになるが」といった、別の箇所への参照を示す章句)を分析し、それを手がかりにあるべき全体構成を見出そうとします。また、マリアンネ版でカテゴリー論文として冒頭に置かれている「社会学の根本概念」の内容が、旧稿には適用できず、旧稿を読むためには1914年に書かれた「理解社会学のカテゴリー」の中の諸概念を使わなければならない、ということを検証しようとしました。
私は、この折原先生の10年間の検証作業の最初の2年半に一学生として参加しました。その時は最初に「理解社会学のカテゴリー」をきちんと読み直し、その後「法社会学」以下への解読へと進みました。そういう意味で私にとっても思い入れの深い内容です。
折原浩先生の研究はドイツ語で論文として何本か発表され、その後ドイツでヴェーバー全集の編集委員の一人として同じくこの問題に関わったヴォルフガング・シュルフター教授と論争していくことになりますが、今後それも追いかけていきます。
ラインハルト・ベンディクス著、折原浩訳の「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」(上・下)
ラインハルト・ベンディクス著、折原浩訳の「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」(上・下)を読了。原題は、”Max Weber: An Intellectual Portrait”で1960年が初出。日本語訳は同じく折原浩訳で1966年に中央公論社から一冊本で出ています。今回読んだのは、それを三一書房が上下二冊本として1987年に再版したものです。訳者の折原浩氏は私の大学の恩師です。著者のベンディクスは、1916年にドイツに生まれたユダヤ人の社会学者で、若い頃ナチスに対抗するユダヤ人組織に所属していましたが、1938年にアメリカに移住しています。1969年にアメリカの社会学会の会長に選ばれています。
この本は、マックス・ヴェーバーが1920年に亡くなって40年間、その学問については断片的な利用ばかりで、全体像をきちんと振り返る人が誰もいなかったのを、初めてまとめた労作です。そういう研究は本来ならヴェーバーの祖国の学者が行うべきものと思いますが、ヴェーバーの死後のドイツは社会学がマルクス系と国家社会主義系に分裂し、そのどちらもヴェーバーを重視しませんでした。戦後においても、ドイツではヴェーバーの全体像を探ろうとする動きは見られず、一方で以前紹介したモムゼンのヴェーバー批判のような、ヴェーバーの政治的な面のみが注目されたりしました。そういう中でこのベンディクスの著作が出てきた訳で、大きく分けて「宗教社会学論集」と「経済と社会」という2つの大きな研究の流れに加え、ヴェーバーの初期の研究まで視野に入れたものです。ただ、「理解社会学」「理念型」「価値自由」といった、ヴェーバーの社会科学の方法論については、おそらく著者はそれらが時代遅れだと評価していたのかまったく取り上げられていません。
ヴェーバーの著作というのは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「職業としての学問」「職業としての政治」くらいはまだ何とか読めるのですが、この本で紹介されている「儒教と道教」や「ヒンドゥー教と仏教」、「古代ユダヤ教」の宗教社会学三部作は、繙かれた方はおわかりと思いますが、とても難解というか、はっきり言って知らないことばかり出てきて途方に暮れる、という状態に誰もが陥ります。(「儒教と道教」は東アジアの事を扱っているのでまだましかも知れませんが、ヴェーバー特有の用語で分析される中国社会はこれはこれでまた難解です。)特に「古代ユダヤ教」については、日本人で旧約聖書に出てくるユダヤ人の歴史に詳しい人などまずほとんどいないと思います。その結果、これを読むと、ヴェーバーを通じて旧約聖書を学ぶというある意味倒錯を起こすことになります。
また、もう一方の「経済と社会」については、こちらは有名な編集問題があり、この著作はヴェーバーの生前に一冊にまとまった著作として世に出たものでなく、ヴェーバーの妻のマリアンネがヴェーバーの死後残された遺稿を彼女なりに整理してある意味無理矢理に一冊の著作として出したものです。そういう訳で、各論考のつながりがどうなっているのかという問題に加え、「旧稿」と呼ばれる第一次世界大戦前に書かれた部分に出てくる概念について、本来は「理解社会学のカテゴリー」という論文に準拠すべきなのに、旧稿の後から書かれた「社会学の根本概念」が「間違った頭」として「経済と社会」の冒頭に長い間置かれて来た、という問題があります。また「法社会学」とか「支配の社会学」、「宗教社会学」といった部分部分の論考を一つ一つ取っても、ある意味膨大な比較文明史的な題材が扱われて、どれ一つを取っても簡単に読めるものはありません。
以上のような状況なので、ヴェーバーに関しては、適切な入門書の必要性は非常に高いのですが、残念ながら日本で「○○新書」の類いで出ている「ヴェーバー入門」の諸冊は、きちんとヴェーバーの学問全体をまとめたものは一冊も無いといってよく、それぞれの著者が自分の関心のある所だけをつまんで断片的に論じているものがほとんどです。
そういう意味で、このベンディクスの本は、唯一のきちんと読む価値のあるヴェーバー入門書であり、ある程度ヴェーバーを知っている人にとっても十分読む価値のある本だと思います。
ただ欠点はあって、テンブルックにも訳者である折原浩先生からも同じく批判されていますが、後に執筆された「古代ユダヤ教」を「経済と社会」での主要研究テーマを設定するキーになっている、という解釈はヴェーバーの研究の順番と一致しないため成立しません。ただそうは言っても、私も「経済と社会」の底に流れるテーマは、宗教社会学のメインテーマである「合理化の進展」が様々な文明・社会でどのように発達してきたか、ということだと思い、そのテーマは「古代ユダヤ教」が書かれる前に既にヴェーバーの中ではっきり確立していたと思います。
個人的にこの本で啓発されたのは、私は学生時代ヴェーバーの論考を読みながら、その中に取り上げられている文化人類学的な素材が極めて限定されていることが残念でした。ヴェーバーの時代にもフレイザーの「金枝篇」とか、グリァスンの「沈黙交易」(The silent trade)などの人類学的知見があり、ヴェーバーの論考の中にも出てきます。しかし、近代的な文化人類学の始まりはブロニスワフ・マリノフスキーの「西太平洋の遠洋航海者」とラドクリフ・ブラウンの「アンダマン島民」が出てきた1922年とされており、ヴェーバーの死後2年後です。その後、いわゆるフィールドワークによって、色々な西欧以外の社会の分析が進み事例が集まる訳ですが、ヴェーバーがそうしたものを見ることが出来ていたら、と思わざるを得ません。この本に、私と同じようなことを考えている人が多い、と指摘されていました。(余談になりますが、そういう文化人類学から出てきた素材を用いて、ヴェーバー的な分析を行った人は、私はカール・ポランニーだと思います。)
ヴォルフガング・シュルフターの「「経済と社会」仮構の終焉」
ヴォルフガング・シュルフターの「「経済と社会」仮構の終焉」を読了。岩波書店の「思想」の1988年5月号に載っているもの。シュルフター教授は私の恩師の折原浩先生と並んで、「経済と社会」の再構成問題に取り組んできた方です。また私の個人的な思い出でも、2004年にハイデルベルクを訪問した時に、羽入書問題に関しての調査で面談させていただいたことがあります。この論考ではテンブルックの「経済と社会」編纂批判を受け、ヨハネス・ヴィンケルマンの編纂の問題点を整理して、テンブルックの批判が妥当であることを検証しています。まだ、再編纂の具体的な検討に入る前に、「ヴェーバー全集」の編集スタッフに対しての覚書みたいなものがベースのようです。この問題について理解が深まり有用でした。
フリードリッヒ・H・テンブルックの「マックス・ヴェーバーの業績」
フリードリッヒ・H・テンブルックの「マックス・ヴェーバーの業績」を読了。私の大学時代の恩師である折原浩先生の業績である「ヴェーバーの「経済と社会」再構成問題」について、改めて現在までの流れを私なりに出来る範囲で追いかけてみようとして読んだものです。その「再構成問題」はこの本に含まれているテンブルックの「『経済と社会』からの訣別」がスタート地点になっています。ヴェーバーの「経済と社会」は妻であるマリアンネ・ヴェーバーが夫の死後、夫の「主著」としてまとめ上げようと、本来ヴェーバーが一冊の本としてまとめようとしていたかも不明なのですが、遺産として残された膨大な原稿を彼女なりの考えで整理して1922年に出したものが最初です。このマリアンネの版に対して、いわゆる「校訂」作業を施して、膨大な注釈を付けた版を1956年と1976年にヨハネス・ヴィンケルマンが出します。この「訣別」論文はそれに対する徹底した批判です。ヴィンケルマンは、ヴェーバーが当初計画していた「構成表」に従って全体を再構成するということを行っていますが、実はその「構成表」はヴェーバーによって破棄されたものでした。また、マリアンネが残した誤った二部構成をそのままにしました。
以上のようなヴィンケルマンの編集に対して、その内容がヴェーバーの元々の意図とはまるで無関係であり、それを読むものが正しくヴェーバーの本来の意図を理解できるような構成ではないとテンブルックは批判します。
さらには、この本に入っている別の論文である「マックス・ヴェーバーの業績 I」で、テンブルックは「経済と社会」の価値自体も、それが単なる「委託仕事」であって、ヴェーバーの主著とすべきは「宗教社会学論選」の方であるとし、「経済と社会」の評価を貶めます。1962年にアメリカでラインハルト・ベンディクスという人が「マックス・ウェーバー その学問の包括的一肖像」という本を書いて、それまで断片的な著作だけを個別に評価されていたヴェーバーの、初めてといえる包括的な評価を行います。ベンディクスは、「宗教社会学論選」と「経済と社会」を同時に評価しているのですが、テンブルックはそれを批判している訳です。そのベンディクスの本は1966年に折原浩先生の翻訳で日本語版が出ています。(改訂版が1978-79年です。)次はそれを読んでみます。
日本銀行調査局の「レンテンマルクの奇蹟」
日本銀行調査局の「レンテンマルクの奇蹟」を入手。大学の卒論の時使った資料で、書いてあったことを確認したくて「日本の古本屋」で買いました。結構部数が出たみたいで、1,000円くらいで入手できました。当時の日銀調査局は優秀で、薄い冊子ですが要点はかなり押さえてあり、分析も的確です。今回、いわゆるレンテンマルクについて改めてWeb上を調べてみたのですが、Wikipediaの日本語のみならずドイツ語のサイトさえ、「土地の価値に基づく」という説明しかしていないのに驚きました。(土地の価値そのものではなく、その土地の「地代」に基づく通貨です。)(日本語のWikipediaは私が書き換えました。)また、第2次世界大戦後の日本のインフレに対し、国民から日銀に対し「何故日本でもレンテンマルクを導入しないのか」という声があり、この本はそれへの回答にもなっています。それによれば、レンテンマルクは最初ライ麦マルクという案で、後に地代であるレンテに価値の基礎を置いたことが特に農業界の絶大な信用を得たこと、最大発行額が制限されていたこと、レンテンマルクの発行と同時にライヒスバンクの国債引き受けが停止されたこと、同じく同時に厳しい外国為替管理が実施されたこと、そして何よりレンテンマルクが導入されてすぐ、ドーズ案によってドイツの賠償支払いの猶予が認められたことを決定的な「奇蹟」の原因としています。こうした付随する条件無しに、レンテンマルクのような何か金以外の価値に基づく通貨を作っても効果は限られている、というのが結論です。
前にも書いたように、その当時の日銀がレンテンマルクの代わりにインフレ収拾策として導入したのが預金封鎖と新円切り換えです。しかし、この政策は多少の効果はあったもののハイパーインフレーションを抑えきることは出来ず、金融資産に依存していた層が没落する原因となります。この社会の構造を根底から変えてしまう、という点がハイパーインフレーションのもっとも恐るべき点です。
マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における「誤訳」の連鎖(続き)
「マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における『誤訳』の連鎖」にて、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に出てくるRentenkaufの日本語訳が、大塚久雄が「年金売買」と不適切な訳を使い、それが後の2つの日本語訳にも継承されたことを書きました。その時に、この単語が「中世商事会社史」と「古代農業事情」、そして「経済と社会」にも登場することを書きました。この内、「中世商事会社史」は私が調べた限りではまだ邦訳が出ておらず、取り敢えず「古代農業事情」の日本語訳である「マックス・ウェーバー 古代社会経済史 古代農業事情」を取り寄せました。訳者は、渡辺金一氏と弓削達氏です。(1959年)
この「古代農業事情」でRentenkauf(ないしはその変化形)が登場するのは次の3箇所です。
1.「四.ギリシア」の「a 古典期以前」の「神殿領における永代賃貸借の発生」(この段落見出しは訳者が付与したもので原文には無い。)邦訳P.234
2.「五 ヘレニズム」の「ヘレニズム エジプトの経済事情」の所。邦訳P.318
3.「六 ローマ」の「b ローマの拡大時代」の「公共地利用法の二種。先占による農業資本主義の発生」邦訳P.421
それで共訳者のお二人がRentenkaufをどう訳しているかと言うと、何と「レンテンカウフ」と単にカタカナ語に直しただけで、何の説明もありません。これは誤訳を当てはめるよりはましですが、無責任な態度と言わざるを得ません。実は伏線があり、「訳者序」には、そもそも「Rentenにはあえて訳語を与えなかった。」としています。その方針は分からないでもありませんが、Rentenを訳さないからRentenkaufも訳さない、というのはある意味翻訳放棄に見えます。また、「訳者注」もほとんど付けないことについての言い訳も書いてあって、それをやると出版までに何年かかるかわからず、またそれ自体が自分達の「研究」になってしまうから、と言っています。しかし、私が入手したのは2001年の第25刷ですが、最初に出版された後、まったく改訂されていません。確かにヴェーバーの著作に出てくる細かな事実を調べだしたら大変です。「プロ倫」の注釈の中に出てくるわずかな英訳聖書の記述だけで、ほぼ3年近く、また地球を一周する距離を旅してまで調べた私ですから、それは良く分かります。しかし、「レンテンカウフ」でそのまま済ませてしまうのはあまりにも安易かつ無責任だと思います。
上記のように、この「古代農業事情」の中だけでも、ギリシア、エジプト、ローマの歴史的事実に対して、中世におけるRentenkaufについて言及されています。(一番目は古代ギリシアでも同様のものがあり、神殿が自分の土地から資本投下を行うために設定した永代賃貸借がRentenkaufだとされます。二番目は中世とヘレニズムでの「資本創造」の差について述べており、11・12世紀のジェノヴァや13・14世紀のフィレンツェでRentenkaufを使った国債の発行があったとしています。{これが多分「中世商事会社史」に出てくるのでしょう。}三番目はローマで私的な永代賃貸借が存在しなかった理由を述べており、それが中世でも同様で、市民を隷属民にしない形での土地負担の一形態がRentenkaufで初めて可能になった、としています。)また実質的にヴェーバーの最初の論文である「中世商事会社史」にも登場し、また東エルベの農業労働者の問題にも深く関わったヴェーバーにとっては、非常に重要な概念であったのではないか、という思いが強くなってきました。
「中世商事会社史」についても、邦訳は出ていないながら、分かる範囲で眺めてみたいと思います。
丸山眞男の「戦前における日本のヴェーバー研究」
丸山眞男の「戦前における日本のヴェーバー研究」を読了。1964年はマックス・ヴェーバー生誕100年の記念の年で、東京大学でそれにちなんだヴェーバーに関するシンポジウムが実施されましたが、その時の講演の記録です。まず冒頭で、丸山は「私はヴェーバ-学者ではない」と断ります。ヴェーバーから非常な学恩を被っているけれども、ヴェーバーに関係した論文は一本も書いていないと言っています。丸山はヴェーバーは最初は日本では大正時代に経済学・経済史の学者として受容され、その中世商事会社の研究などが評価されたとのことです。その後、日本のアジア進出と合わせて、ヴェーバーの「儒教と道教」などの東洋に関する理論を評価したり、また東洋優位的な発想で批判したりするものが現れたということです。戦時の動きとして興味深いのは、ヤスパースのヴェーバー論の影響で、昭和17年に安井郁という人が何と「求道者ヴェーバー」という論文を書いているということです。昭和17年といえば吉川英治の「宮本武蔵」の人気がピークだった頃であり、まさに求道者として描かれた武蔵が人気を博する一方で、学問の世界でも特定の学者を求道者に祭り上げるという動きがあったということは非常に興味深いです。思うに大衆小説や漫画といった大衆文化というものは、その時代の精神(die Zeitgeist)を自然と反映するということなのかもしれません。
ユルゲン・コッカの「ヴェーバー論争」
ユルゲン・コッカの「ヴェーバー論争」を読了。ヴェーバー関係書誌情報を作るのに、ヴェーバーの研究書をいくつか買った内の一つ。薄くて読みやすそうだったのでトライしてみました。内容的にはヴォルフガング・J・モムゼンのある意味有名な(と言っても今Webを検索してみたら、ほとんど日本語の情報は出てこないですが)ヴェーバー批判を中心にして、それをさらに批判したものです。モムゼンの批判は、その本(「マックス・ヴェーバーとドイツ政治 1890~1920〈2〉」)も持っていますが、未だに読んでいません。というか、そのモムゼンが批判しているヴェーバーの政治思想について、ヴェーバーの政治的文献自体をまだほとんど読めていません。という訳で順番が変な読書なのですが、モムゼンの批判の概要がわかって有益でした。まあかいつまんで言うと、ヴェーバーは価値自由ということで、学問と政治を厳しく区別し、学問に政治を持ち込むことを否定しますが、その結果、政治の行動原理がその場その場の利益を追い求める「決断主義」になりがちだということ。また、有名な「支配の社会学」の議論で、その当時のドイツにはカリスマを持った大統領的人物を民衆の投票で選ぶような政治体制が望ましいとし、結果的にそれがワイマール期のドイツの政治体制に影響を与え、結局ヒトラーの台頭と独裁を許すことになったという批判です。この批判に対しては、このコッカの本もそうですけど、色々と再批判が出て、モムゼンの批判は当たらない、ということになっているみたいです。私自身も、1920年に死んでいるヴェーバーがヒトラー体制に影響を与えたというのは、ある意味飛躍が過ぎると思っています。
この事で思い出すのは、大学の時にドイツ史の授業で、ヴェーバーを勉強していると言ったら、先生からこのモムゼンのヴェーバー批判をどう思うかと聞かれたことです。その当時(大学3年生)の私は、モムゼンの批判についてはまったく知りませんでした。というか、ヴェーバーの膨大な著作を読みこなしていくのに全力を傾けていたので、当時、ヴェーバー以外の学者のヴェーバー批判にまで目を通す余裕はまるでありませんでした。今から考えると、ある意味意地悪な質問だと思います。
マックス・ヴェーバーの著作の日本語訳における「誤訳」の連鎖
マックス・ヴェーバーの著作の内、もっとも有名なものは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1920)で、現在までに日本で4種類の日本語訳が出版されている。
その中にあるドイツの経済史的概念である”Rentenkauf”(レンテ請求権購入)という言葉が、その4つの日本語訳ですべて「年金売買」という誤訳になっており、おそらく最初にこの誤訳を行ったのは大塚久雄であると思われるが、その後の翻訳者はすべてその大塚の誤訳をそのまま踏襲してきている。この”Rentenkauf”については、ヴェーバーの他の著作でも繰り返し登場する概念であり、私が“Max Weber im Kontext”というヴェーバーの著作を集めたCD-ROMで検索して調べた所、変化形(Rentenkaufes, Rentenkaufs)も含めて、全部で9箇所に登場する。その登場箇所は、以下の通りである。
(1)中世商事会社史、1889年 2箇所
(2)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、1905年・1920年 2箇所(大塚訳でP.87とP.118、いずれも注釈中)
(3)古代農業事情、1909年 3箇所
(4)経済と社会、1922年 2箇所(邦訳「法社会学」P.161、「支配の社会学II」P.603)
多くが、教会法による利子付き消費貸借の禁止をかいくぐって利子付き貸借が発展していく図式の中の過渡的な形態として登場するが、上記(3)の「古代農業事情」の場合はそういうドイツの史的概念が、古代ギリシアなどの経済の分析の時にも援用されていることに注目すべきである。(ヴェーバーによれば、オーストリアの法制史家のルートヴィヒ・ミッタイスがそのような概念適用を行ったとある。)
この”Rentenkauf”(レンテ請求権購入)は、これまでヴェーバーの著作を日本語訳して来た人がすべて誤訳をしてきたのではなく、上記の(4)の「経済と社会」の2箇所は、いずれも世良晃志郎氏が日本語訳しており、一箇所は原語そのままにし、もう一箇所は「レンテ売買」と訳し、そのどちらにも詳しい(かつ正しい)訳注を付けている。(ちなみに世良晃志郎氏は、上記のルートヴィヒ・ミッタイスの息子のハインリヒ・ミッタイスが書いた{リーベリヒとの共著}「ドイツ法制史概説」の訳者でもあります。)
この「法社会学」の世良氏による日本語訳は1974年に出版されており、上記「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の日本語訳の内3つはその後に行われたものである。(大塚久雄の新訳、安藤英治による梶山力訳の補訳、中山元訳)にもかかわらず、3人の訳者とも世良訳を参照した形跡がまるでなく、おそらくは最初に誤訳した大塚のを延々と引き摺っている。
このRentenを「年金」と訳しているが、確かにRenteを辞書で引けば最初に載っているのは「年金(Pension)」という意味である。しかし、歴史的に見れば、「実際の労働を伴わない定期的な収入」の総称であって、その中の一つの例として「年金」という意味も加わっただけである。
大塚は好意的に解釈すれば、「1年に1回入ってくる定期金」という意味でそう訳したのかもしれないが、しかし日本人が「年金売買」と聞いて連想するのは、おそらく「国民年金や厚生年金」といったものを担保に入れた借金とか、そういうものになりかねない。これは完全に間違った理解であり、そういう間違いを引き起こす翻訳に問題がある。
このRenteやRentenkaufの概念は、ヴェーバーの時代には非常にポピュラーで、経済史の学者でそれを知らない者はまずいなかったと考えられ、それ故にヴェーバーは注釈も何もなしで理解される概念として記載している。しかし、今日の大半の日本人にとってはまるで未知の概念で、故に日本語訳する時には世良氏がやったように訳者注をつける必要があるのである。
自身著名な経済史家であった大塚久雄がこの概念を知らなかったとはとても思えないのであるが、その彼が訳した「年金売買」という訳語を見る限り、彼がこの概念を理解していた形跡は見いだせない。
以下、参考のため、このRentenkaufがドイツでどのような文脈を持っているかを説明する。それについては、私自身の大学の卒論(オリジナルはドイツ語)の一部を日本語訳し、なおかつ一部修正して用いる。その中に世良氏の訳注の引用も含まれている。(この卒論は、カール・ポランニーの「貨幣使用の意味論」に触発されて、ドイツの第一次大戦後のハイパーインフレーションとその後の大不況下での外国為替管理において、近代的な「全目的」通貨が前近代的な「特殊目的貨幣」の集まり、にどのように戻っていったかを研究したものである。)
(以下引用開始)
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2.2.2. レンテンマルクの計画
「レンテンマルク(Rentenmark)」の計画の具体的な中身を述べる前に、ドイツ語の „Rente“ という単語の、特別な、歴史的な意味を確認しておくことが必要だろう。その確認の後では、レンテンマルクの計画の中心的な概念をより容易に理解することが出来るだろう。
„Rente“とは元々、保険や資産からの「定期的な」収入を意味し、実際の労働が伴っていないもの(不労所得)を指す。(故に労働者の給与は „Rente“ ではない。)中世においては „Rente“ は、 „Rentenkauf“ の形態で、資本投資あるいは資本創造という点において重要な役割を演じた。例えば、資本の需要者であるAが自分の土地に物的負担( „Reallast“ )としてレンテ請求権(例えば毎年100マルクの地代を徴収できる権利)を設定し、Aはそのレンテ請求権を資本の提供者であるBに対し、1,000マルクで売りその代価としてBはAに1,000マルクを支払う。(Bから見て、レンテ{請求権}の購入=Rentenkauf、同時に1,000マルクの資本投下。)この取引によって、Bの資本はレンテ収益(毎年100マルクの利子収入)を得、Bは必要としていた1,000マルクの資本を得ることが出来る。これは利子付きの金銭貸借を禁じた教会法に対する違反行為であったが、実際の取引は「貸借」ではなく「購入」であり、それ故にBは投下した資本の返還請求の権利を持たず、またAは1,000マルクを返済したとしてもそれをもってレンテ債務から解放されることはなかった。このことから、「永久金( „Ewiggeld“ )」と呼ばれるようになった。しかしながら(このやり方はAにとって負担が大きいので)次第に特別な取り決めが取り交わされるようになり、毎年払う地代を元金の返済に充当し、最終的にはAがレンテ請求権を買い戻すことが出来るようになった。そして終には、特別な取り決め無しに、レンテ支払いが元金返却になってレンテ請求権を買い戻すことができるようになり、これによって „Rentenkauf“ は一般的な利子付きの金銭貸借に近づいていった。
„Rente“ という単語には、もう一つ関連する重要な史的事実があり、それも考慮に入れておく必要がある。ドイツの小作農民は中世以来、土地の所有者(地主)に対し、その土地の使用料として、農産物や労働を提供しなければならない義務があった。この土地の使用料はつまり „Rente“ であり(地主から見たら定期的収入でかつ不労所得なので)、その支払いがいまや金銭で行われる時代になってもなお継続した。このレンテ債務は小作人ではなく、土地そのものが負っているものと考えられていた。それ故に毎年の土地使用料の支払いはその土地の価値に対しての償還とは見なされず、小作人は土地を利用し続ける限り永久にレンテを支払い続けなければならなかった。しかし „Rentenkauf“ が一般的な利子付きの金銭貸借に近づいていったように、19世紀後半のドイツの農民解放運動の結果として、そのレンテ債務を銀行から融資された資金によって買い戻す(つまり土地を自分のものにする)ことが可能になった。この資金を貸し付ける銀行が„Rentenbank“ (レンテ銀行)と呼ばれ、農民がこの銀行に支払う利子と土地債務償却の定期的な分割払い金が„Renten“と呼ばれ、そしてレンテ銀行が土地債務に対して発行する貸付証券が „Rentenbriefe“ (レンテ証券)と呼ばれるようになった。 (第一次大戦後のハイパーインフレーションの時に)プロイセンだけでもそのようなレンテ銀行が6行あった。
レンテンマルクの計画は、最初は農場経営者資本家の正当な代表者であったカール・ヘルフェリヒが当時のクノー内閣に対して提案した「ライ麦マルク」の案(„Roggenmark“)から派生している。その後、その「ライ麦マルク」はハンス・ルター博士とルドルフ・ヒルファディング博士(当時の大蔵大臣)によって支持されると同時に変更が加えられ、さらにその案に対して反対していた(当時ライヒスバンク総裁であった)ヒャルマール・シャハトの意見が採り入れられ、最終的には1923年10月15日の「ドイツレンテ銀行の創設の通達」という形で、結局は「ライ麦」という物的価値を本位とするのではなく伝統的な「レンテ請求権」を本位とするレンテンマルク(„Rentenmark“ ) として実現した。その際に次のような事実は注目に値する。つまり、当初は „Rentankauf“ の原初形態(つまり「永久金」としての„Rentenkauf“)が採用され、その後の改良案で(利子付き消費貸借に近づいた)新しい方の形態(つまり支払ったレンテが元本の返済に及ぶ形態)に変更され、それがまた最終的なものでは原初形態に戻ったという事実である。
最終的な案を具体的に説明する。資本の需要者、この場合は「ドイツレンテ銀行」がAという土地所有者の土地に対し強制的に500金マルクの土地債務を設定し、その地代として土地債務の5%を毎年の支払いとする。ドイツレンテ銀行はこの500マルクの土地債務に対し額面500金マルクの「レンテ証券」を発行する。この「レンテ証券」がレンテンマルクの正体で、額面こそは500金マルクだが、実際にその所有者が請求できるのは、500金マルクの土地そのものではなく、年に25金マルクの地代だけであった。要するに、額面こそは500金マルクであっても、実際に本位となるのは年間25金マルクの地代請求権である(仮に20年間地代をもらい続けると仮定した場合、現在価値に換算すると321マルクにしかならない)という、ある意味虚構の本位に基づく通貨であった。そういう意味でレンテンマルクも、政府の機関がそれを支払い手段として受け入れるという保証はあるものの、インフレ期に流通した多くの緊急通貨(„Notgeld“)と大きな違いはなかった。
(以下省略するが、このインチキなレンテンマルクが、実際は虚構であっても一応土地の価値と結びつけられていて発行高が制限されており、また「レンテ」という概念が農民にとってはおなじみであったこと、また政府機関の支払い手段としての受け入れ保証もあったことから、特に農村地域において絶大な信用を獲得し、人々は競ってそれまでの紙マルクをレンテンマルクに変え、急速にハイパーインフレーションは収束する。これを「レンテンマルクの奇跡」と表現する。ちなみに、日本銀行は第二次大戦後の日本のハイパーインフレーションの収束の手段として、このレンテンマルクを精力的に研究したが、結局は虚構の本位制だということで日本では通用しないと考え、別の案としていわゆる「預金封鎖」と「新円切り換え」を行った。)
参考文献:
1.創文社 マックス・ウェーバー著、世良晃志郎訳「法社会学」P.173の訳注(五)
2.ヒャルマール・シャハト、„Die Stabilisierung der Mark“、 1927
3.日本銀行調査局、「レンテンマルクの奇蹟」、1946
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(引用終了)
(この項には「続き」があります。)