エドワルト・マイヤーとマックス・ヴェーバーの「歴史は科学か」(森岡弘通訳、みすず書房)を読みました。エドワルト・マイヤーの「歴史の理論と方法」とヴェーバーの「文化科学の論理学の領域における批判的研究」の両方を収録しているものです。マイヤーは20世紀初めにおいての有名な歴史家で、その「古代史」は、古代ギリシアがその当時の現代西洋に対して最大の影響を及ぼしているとして、その形成の過程を解き明かした書として高く評価されています。19世紀に実証的な自然科学が発達し、従来は科学としては見られていなかった歴史の記述も「歴史学」を名乗るであれば、その拠って立つ学問的な方法論は何なのかが厳しく問われるようになり、それにマイヤーが応えたのが、「歴史の理論と方法」です。マイヤーは冒頭で「歴史は何ら体系的な学問ではない」とまず断り、その当時のヘーゲル的な発展段階的な史観や唯物史観で歴史をある意味単純化して理解しようとするやり方に異を唱えました。その点に関してはマイヤーもヴェーバーも同じ立ち位置にあります。しかし、ではどういう方法論的立場でマイヤーは歴史の素材を扱うのかという問いに対しては、マイヤーはかなり舌足らずでまた自分が実際にその著作で実践している内容をかなり性急に定式化してしまいます。それは歴史において全てが重要なのではなく、その後の時代に対して「影響を及ぼした」ものこそが重要で、それによる因果連関の解明が歴史学の課題だとします。こうしたマイヤーの論理展開はかなり不用意であり、当然のことながらヴェーバーから自己矛盾的な記述として詳細に突っ込まれています。
ヴェーバーの指摘はごもっともと思いつつも、その指摘内容はある意味社会科学的な歴史の取り扱いのように思え、如何にして歴史の無限の多様性を科学的に取り扱うのか、という点に関しては必ずしもヴェーバーは完全な解答は出していないと思います。もちろん後の「経済と社会」における理念型と決疑論を使った歴史記述は一つの答だとは思います。しかしそれはそれとして別のやり方があるのではないかという思いは禁じ得ません。この解答を求めて、更に2冊の本を読むことになりました。