龍ケ崎市歴史民俗資料館

8月10日に茨城県龍ケ崎市の歴史民俗資料館に行って来ました。何故かというと、白井喬二は人生最後の10年間を、次女の嫁ぎ先であった龍ケ崎市で過ごしているからです。かといって白井喬二に関する展示はありませんでしたが、20数年前に展示会をやった時の図録を買えましたので、戦果はありました。その図録によるとこの資料館は私がまだ読んでいない白井作品を3作くらい持っていることが分り、その内貸してもらえないか手紙を書こうかと思います。
展示は、何かほとんど私の子供時代でした。既にそれらが博物館などで展示されるようになってしまったということです。特に食品店兼お菓子屋みたいな店のガラスケースが懐かしいです。昔はたとえばオカキみたいなのはこういうガラスケースに売っていてグラムいくらで量り売りでした。

福島-古関裕而聖地巡礼

7月24日から、古関裕而の聖地巡礼?で福島に行って来ました。泊まったのは飯坂温泉でしたが、これは単に福島市から一番近い温泉地ということで選んだだけですが、後で知りましたが、大平洋戦争末期に古関裕而が家族を疎開させた所でした。

一番の目的は古関裕而記念館でした。古関裕而の自筆楽譜、東京の家での書斎の復元、NHKで使っていたハモンドオルガンなどが目玉でしたが、残念ながら写真撮影禁止でした。ここで入手した目録によって「鳴門しぐれ」が確かに作曲されていたことが確認出来ました。昭和13年の4月で、名曲である「愛国の花」の前に作曲されたものでした。「船頭可愛や」が昭和10年ですから、直後に作られたものではなく、3年近く経っています。この間、古関裕而も色々と試行錯誤していて、「船頭可愛や」のパターンをもう一度試してみようと思ったのかもしれません。あるいは伊藤久男の歌による「鳴門くもれば」が昭和12年の8月ですので、やはりこの頃作詞家と共に鳴門に旅行したのかもしれません。

ハモンドオルガンを弾く古関裕而像は、JR福島駅の東口にあるものです。30分に1回古関メロディーが流れます。

しかし、福島市も「エール」の効果での沢山の観光客を期待していたのだと思いますが、新型コロナのおかげでどこも人は少なめでした。

長崎 2019年9月21日

会社が所属する工業会の委員会の行事で長崎に行ってきました。長崎の風景を何枚か紹介します。長崎は坂と階段の町であり、その点は私の故郷の下関とまったく同じです。どちらの市も天然の良港ですが、そういう所は海が急に深くなっていますが、逆に言えば海から出ている部分も急であるということになります。

宮沢賢治童話村の怪しいモニュメント

2泊3日で岩手の花巻温泉に行ってきました。これは宮沢賢治童話村にあったもので、説明によれば一番左のキャラは「銀河鉄道の夜」のジョバンニということですが、どこが!誰が見たって某北の国の将軍様…しかも流星が飛んでいるのがまた共産国の国旗みたいで…

日本ラジオ博物館補遺

日本ラジオ博物館補遺。
最初の写真はトヨタ自動車が刈谷工場(現在のデンソーの刈谷工場)で作っていたラジオです。戦後すぐは車は軍需品ということでGHQに製造を禁止されていたので、やむを得ずということで、トヨタ自動車でもラジオを作ったということです。当時の電気系のエンジニアであればラジオを自作する人は多くいて、作るのはそんなに難しくなかったみたいです。そういうラジオはコストは高いけど概して品質は良かったとのことです。出光興産の創業者について書いた「海賊と呼ばれた男」でも、出光が戦後すぐ売りたくとも石油がなくて、やむを得ずラジオの修理を始めたというのがありました。
もう一つは、三菱のラジオ。三菱がラジオをやっていたなんて、まったく記憶にありませんが、このカタログを見る限り、かなり幅広く製品を出していたんですね。

日本ラジオ博物館(松本市)

今回の旅行は宿は白骨温泉から5Kmぐらい下った別の温泉宿に泊まりましたが、白骨温泉を観た後、松本市に出かけました。何故かこの松本とは縁があり、今回が4回目の訪問になります。一番最初は1991年ぐらいだったかと思いますが、その当時Nifty Serveというパソコン通信のサービスの中に、日本語変換のWXシリーズを開発していたエー・アイ・ソフトのフォーラムがあり、私はそこの初期の常連でした。その当時オフ会(これも説明しておかないと死語かもしれませんが、パソコン通信の常連がいつもはオンラインで会話を交わしているのを、直接集まって飲み会などを開くのをオフ会と言っていました。オンラインの「オン」の反対で「オフ」ということです。)がエー・アイ・ソフトのオフィスがある松本市で開かれ、参加したのが最初です。その常連の中にはSF作家の高千穂遙さんなどもおられ、温泉に行って一緒の湯船に浸かったという思い出があります。
さて、そういう訳で松本城などは前に観ているので、今回時計博物館というのに行ってみました。そうしたらそこの地図に近くに「日本ラジオ博物館」というのがあるのが分かりました。「ラジオ博物館」と聞いて、元ラジオ少年が胸がときめかない筈はありません。13時から開館という不思議な開館時間でしたが、行ってみて大正解でした。たまたま最初は私一人が見物人だったため、館長の岡部匡伸さんの懇切丁寧な解説をたっぷりと聞かせていただくことが出来、大変参考になりました。(以下写真はすべてクリックで拡大します。写真撮影については許可をいただいています。)
最初の写真は、1925年頃の、玉電社という会社の5級ニュートロダイン受信機です。(ラジオ放送が日本で始まったのは1924年です。)
ニュートロダインというのはオーディオマニアにおなじみの言葉でいえばネガティブフィードバックで、信号の一部を逆の位相にして元の信号に戻してやることでノイズを減らすものです。この方式を発明したのは日本人です。(実際はアメリカ人と日本人の間で特許紛争があり、最終的に日本人が最初に発明したと認められたということのようです。)
大きなダイヤルが3つあるのはすべてバリコン(バリアブル・コンデンサー、選局に使用)で、私は知らなかったのですが、昔の回路だと増幅が3段あると、その各段にバリコンが必要だったみたいです。
なお、この松本の地にラジオ博物館がある理由ですが、
(1)東京などの大都市にしか放送局が無かった時代に、高感度のラジオで長野で放送を聴く人がいた。(主として生糸の相場情報などをラジオで得ようとした富裕な商人。)
(2)長野市にもその後放送局が出来たが、松本と長野の間は50Kmあるため、依然として高感度のラジオが必要だった。
(3)全体に長野県は山がちで電波状況が悪かった。
ということみたいです。
これは日本無線の単球式ラジオです。日本無線は現在無線機のメーカーですが、昔はラジオも作っていました。単球で検波だけを真空管でやるもので、強電波地域用で写真のようなレシーバーで聞くものでした。初期のメーカーとしてはこの日本無線と早川電気(シャープ)です。シャープはいわゆるシャープペンでスタートしますが、関東大震災でその工場が崩壊し、ラジオ製造に転じます。その後松下も参入します。日本のラジオは最初期段階では、日本放送協会の認定を受けた受信機だけが使えましたが、これが高価な上に技術の進歩に追いつけなくて性能が悪く、NECや沖電気といったメーカーはこの認定タイプのラジオを作っていましたが、その後認定が不要になって価格競争が激化するとついていけなくなり撤退します。このため日本ではアメリカのRCAや欧州のフィリップのような大手のラジオメーカーが育ちませんでした。
初期の真空管ラジオは直流で動き、また電圧を分けるための抵抗に良いものがなかったため、真空管を動かすのに必要な3種類の電源(A電源というフィラメント加熱用と、B電源というプレート用、およびBを反転させたC電源)をそれぞれ個別に供給するというきわめて原始的なことが行われていました。その電源は鉛蓄電池が使われましたが、やがて乾電池が使われるようになり、それを発明したのは日本人だということです。しかし、その乾電池もかなり高価であり、いずれにせよ庶民にとっては高嶺の花でした。
これは松下(パナソニック)が作った最初のラジオです。日本放送協会の東京放送局が実施したコンテストにある別の機種と同じく一位になります。しかし性能を上げるためにコストがかさみ、値段が高すぎてあまり売れなかったそうです。パナソニックの社史には必ず登場するそうです。

これは戦後になって作られた、スーパーヘテロダイン方式の高級機で、何と5局がプリセットになっています。しかし実際には2種類あって、低価格の方はプリセットは表示だけで実際はロータリスイッチで切り換え、高価格の方が直接プリセットの表示部を押して切り替えるようになっていたようです。
スーパーヘテロダイン方式とは、ラジオ少年には常識でしたが、ラジオの電波が高周波のままだと増幅するのが難しいので、一度中間周波数という低い周波数に下げてから増幅する仕組みです。この方式はトランジスタラジオになってもそのまま使われていました。

そして1955年、東京通信工業(現ソニー)が最初のトランジスタラジオであるTR-55を発売します。価格は実に19,800円で当時の初任給の倍以上ですから、今で言えば50万円くらいの感じです。それだけ高い割りには5石で感度も音質も不十分であまり売れなかったようです。しかしその後トランジスタラジオの低価格化と高性能化は進み、その内日本の輸出におけるドル箱商品となり、アメリカとの間で貿易摩擦を引き起こします。その当時ラジオ用のトランジスタは国内ではほぼソニーが独占(元の技術はウェスタン・エレクトリックからの技術供与)していたみたいで、他の会社もトランジスタはソニーから買っていたみたいです。
これは、初期の真空管ラジオの中を見せるスケルトンモデルです。
この配線の仕方、今から考えると信じられないような方式です。ワイヤラッピングですらなく、銅線でもない、金属片によるダイレクトな配線。ベースになっているボードについてベークライト板みたいな絶縁板なのかと思ったら、木材で、元々アメリカでパンをこねるのに使っていた板をそのまま使ったそうです。今、電子回路の実験を行うため、部品取付け穴がいっぱい開いていて、短いリード線で配線する「ブレッドボード」というものがありますが、これは元々Bread boardであり、このパンこね板から名前が来ているんだそうです。

このページをお借りして、岡部館長に感謝申し上げます。