アウター・リミッツの”The Nightmare”

アウター・リミッツの”The Nightmare”を観ました。これで10本目ですが、これまでで一番のワケワカのストーリーでした。エボンという星のエイリアンが、突然地球に核ミサイルを撃ち込み、地球側は大きな被害が出ます。地球側は反撃のため惑星エボンに戦闘部隊を送りますが、全てエボン側に捕まえられ、乗組員は全て捕虜になります。エボンのエイリアンは地球人の知覚をコントロール出来、一時的に喋れなくしたり、目を見えなくすることが出来ます。地球人の兵士は一人一人尋問室に呼ばれ尋問を受けます。その内の一人は死んでしまい戻って来ませんでした。それを目撃した兵士によれば心臓がえぐり出されていたということです。その内Jongというアジア系の兵士が、何故か尋問室には呼ばれず拷問を受け、結果として左腕に大きなダメージを受けます。兵士の間では、誰かが尋問で彼らの次にやってくる宇宙船の軌道について話したのではないか、という疑いが広がります。それでJongが何故尋問室に連れて行かれず拷問されたのかという疑いから、彼が喋ったのだろうということになり、他の兵士がクジを引いて当たった者がJongを殺すということになります。ここで何故か地球側の軍隊のお偉いさん(タイムトンネルで所長を演じていたホイット・ビッセル)がやって来て、実はこれは一種の実験だと言います。エボンのエイリアンの攻撃は100%ミスによるもので、彼らは好戦的ではなく、謝罪のため地球に接触したのを、地球側がこれを兵士の忠誠と勇敢さを使う実験に利用したものでした。結局兵士の一人が、地球のもう一人の高官を幻と勘違いして射殺してしまう、という話で、まったく訳の分らない支離滅裂というだけでなく、アジア系アメリカ人に対する差別も感じました。疑われるJongを演じていたのはハワイ出身の日系人俳優、ジェームズ・シゲタでした。朝鮮戦争で中国の捕虜になったアメリカ人兵士が洗脳されて、共産主義信奉者になったというのが本当にあったようですが、そういうのが影響している感じでした。

白井喬二の「彦左一代 地龍の巻」

白井喬二の「彦左一代 地龍の巻」を読了しました。1942年10月の出版で、後篇の「天馬の巻」と合わせての二篇ですが、前篇だけ見つかったものです。この時期は出版用の紙の統制もかなり強まっていた時期ですが、第二冊が10,000部と奥付にあり、初刷も同じ部数だとすると合計20,000部ということになり、さすが白井喬二だと思います。「地龍の巻」は天下のご意見番として知られた大久保彦左衛門の少年時代と、成人して家康の直参として活躍し、小牧・長久手の戦い(徳川家康と豊臣秀吉の戦い)の途中で終っています。大久保彦左衛門は幼名が「平助」でしたが、三男坊で上二人が優秀なのに比べ「ぼんやりした」「愚鈍な」少年であり、親から「間引き」(養子に出したり、遠方へ追いやる)を検討されたほどでした。しかし実は「能ある鷹は爪を隠す」で、生まれついての智恵と秘かに研鑽した武芸の腕を隠していましたが、ある時的から城の高い位置に射こまれた矢を取ることを、城下の元服前の少年武士達に命令が下ったのを、首尾良く成功し、しかもその功を自分のものとしなかった処理を天晴れとされ、家康から直々に元服を命じられます。また、事実かどうかは不明ですが、いわゆる長篠の戦いで初陣でありながら大手柄を立て、家康から「彦左衛門」という名前を賜るという話です。
ちょっと嬉しいのは少年時代の「平助」のキャラクターが、ほぼ熊木公太郎とかぶることです。また同じ年に出版された「坊ちゃん羅五郎」の主人公ともかなりかぶっています。「彦左衛門」になってから、かつての部下が悪い商人に捕まって土牢に入れられていたのを救出したりとか、乳兄弟の女性が遊女に売られたのを救いに行くとか、まったく典型的な白井喬二作品の主人公です。
下巻が入手出来ていないので、いわゆる「天下のご意見番」となってからの話はありませんが、気長に探したいと思います。

トワイライト・ゾーンの”A Most Unusual Camera”

トワイライト・ゾーンの”A Most Unusual Camera”を観ました。チェスターとポーラは夫婦で泥棒をやっており、昨日もアンティークショップに盗みに入りました。その店の被害届とは違って、実際は盗んだ物はガラクタばかりでしたが、その中に一台のクラシックなカメラがありました。チェスターはポーラを窓際に立たせてそのカメラで撮影しました。20秒ぐらいしてそのカメラは中で自動的に現像した写真を出して来ました。それを見ると、ポーラは実際には着ていなかった毛皮のコートを着て写っていました。二人が盗品のトランクを開けると、中から毛皮のコートが出てきて、喜んだポーラはそれを着て窓際に立ちますが、それはさっきの写真のままでした。二人はこのカメラは未来を写すカメラではないかと思い、ホテルのドアを写します。そこには刑務所に入っている筈のポーラの弟のウッドワードが写っていました。すると5分後にまさしく脱獄したウッドワードがやって来て写真の通りになりました。チェスターはこのカメラの使い道を考え、競馬場でレースの結果を表示する電光掲示板を撮影することを思いつきます。レースの前にそのレースの結果がカメラによって分るので勝ち馬に賭け、6レースで何千ドルと儲けることが出来ました。彼らがホテルで金の使い道を考えている所に、ホテルのウェイターがやって来て、カメラの前面に書いてあるフランス語を訳してくれました。それは「1人の所有者に対し10回まで」と書いてありました。彼らは既に8回撮影したので後2回です。その使い道を巡ってチェスターとウッドワードが争い始め、間違ってシャッターを押してしまいます。そこには何かに驚いているポーラが写っていました。争いを続けた二人は二人とも窓から転落して死んでしまいます。悲しんだポーラでしたが、自分が金を独り占め出来ることに気が付きます。最後の写真として窓から転落した二人を写しました。そこに先ほどのウェイターがまたやって来て、ポーラとチェスターはお尋ね者であることが分ったと言って、お金を持っていこうとします。ポーラは再度落ちた二人を見ようと窓際に言って、電灯のコードに足が引っ掛かって転び、ポーラも窓から転落して死んでしまいます。ウェイターはしめしめ、と思いますが、カメラが出した写真を見て、死体は3人ではなく4人であることに気が付いて驚き、その弾みで彼も窓から落ちて死んでしまいます。
まあありがちな話ですね。幸福をもたらす筈のアイテムが却って不幸をもたらす、というちょっと教訓の入ったエピソードでした。

ハロウィーン考:社会の二重構造と「ケ」と「ハレ」

今読んでいる”The Dawn of Everything: A New History of Humanity”に面白いことが書いてあります。17-8世紀の北米カナダのネイティブアメリカンの多くの部族は面白い社会を持っていました。それは食物が容易に手に入る春~夏~秋の間は家族中心の小集団がそれぞれ別れて狩猟採集で暮らし、ある意味「平等社会」で暮すのを、冬になるとある場所に集まって暮して保存した食べ物を消費して暮しますが、そこは「階層社会」だったそうです。有名なポトラッチ(贈与合戦)もその階層を決めるための手段でした。(より多く他者に贈与をして気前の良さを示した者が上位の階層となる。)筆者の二人によると実はこのように季節によって社会構造を変えるというのは北米のネイティブ・アメリカンだけでなく、歴史的にも世界的にもかなり多くの社会で見られるのだそうです。なので狩猟採集の原始共産制社会が農耕が始ると貧富の差が出来て階層社会が出来たなどという発展段階説は、こういった歴史的事実をまったく説明出来ていません。
それでは現代の社会が何故季節性を失って単一の社会構造になったかですが、実は現代社会にもかつての名残があって、それが欧米での「ホリデーシーズン」だと筆者達は言います。(欧州については夏のバカンスも。)アメリカ人がお互いに贈り物をしあうのはこの時期にほぼ限定されます。そう考えると日本の「ハレとケ」も本来はそういう同一社会の時間によって変わる二重構造の現われではなかったのかと。またハロウィーンという欧米の習慣(キリスト教の習慣ですらない)が何故日本や韓国で近年これだけ享受されたのかという説明もこれで出来そうです。即ち昔「ハレ」として社会のガス抜きの意味を果たして来た伝統的な祭などが形骸化し、そこで満たされない「馬鹿騒ぎ・社会秩序の否定」が日本や韓国でのハロウィーン騒ぎではないかと。そう考えると、日本で47都道府県の内、1つだけそういう伝統的「ハレ」を今でも強く維持しているのが、徳島の阿波踊りではないかと。「踊る阿呆に見る阿呆」というのは、ヨーロッパでの「驢馬のミサ」(カーニバルの起源で、〈愚者の饗宴〉では,少年や下級僧の間から〈阿呆の司教〉が選ばれ,祭りの期間は通常の秩序や価値観が逆転した世界が支配した)とまったく同じ役割を果たしています。今年の3年ぶりの阿波踊りでコロナ感染者が多数出たり、ソウルでハロウィーンで多数の死傷者が出たというのも、そういう「無礼講・狂乱状態」だと考えると理解が出来そうです。(亡くなられた方には謹んで哀悼の意を表します。)

NHK杯戦囲碁 井山裕太4冠 対 張栩9段(2022年10月30日放送分)


本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が井山裕太4冠、白番が張栩9段、そして解説が一力遼棋聖という豪華メンバーでした。井山4冠のタイトル初挑戦が張栩9段ですし、タイトル初奪取も張栩9段からでした。序盤は左上隅で新型が出来ましたか、結果が互角だったのはさすがでした。その後左辺の黒への白の攻めをどう凌ぐかで、黒は手堅く活きましたが、中央の白が厚くなってちょっともの足らなかったと思います。その後今度は右辺の黒の活き死にが問題になりましたが、黒からのツケギリがもしかすると疑問手で、白が中から当てるという強手で反発し、こちらも黒が手堅く活きましたが、右下隅の白地が30目を超えてまとまり、なおかつ中央でも白地が付きそうという形勢になり、白が優勢になりました。黒はヨセで頑張りましたが差は縮まらず、最後は盤面でも白がリードし、黒の投了となりました。さすがの井山4冠も、最近は早碁では以前のような最強手の連続という打ち方が出来なくなって来ている感じです。

今野元の「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」

今野元の「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」を古書で購入。この著者のヴェーバーに関した本は他にももっていますが、あまり評価していないので、新書とはいえ新品を買う気がせず古書にしました。この人はヴェーバーの学問よりも伝記的なことばかりを追いかけている人で、ご丁寧にもヴェーバーの子供の時の論文(?)まで日本語訳しています。私は「中世合名・合資会社成立史」を翻訳しようとした時にまず思ったのが、こんな子供時代のはっきりいって学問的価値の無いものを訳す暇があったら、どうして「中世合名・合資会社成立史」や「ローマ土地制度史」を訳さないのかということです。しかし本文をチェックして、その「中世合名・合資会社成立史」の所を読んでいたら、Die Offene Handelsgesellschaft (合名会社)を「公開商事会社」と訳していて、ああ、これはとてもじゃないがヴェーバーの学術論文は訳せないなと思いました。それからヴェーバーの博士号論文でテオドア・モムゼンが「結論に異議を呈した」とありますが、本当の所は、「モムゼンが生涯考え続けていたローマの植民市における何かの概念についての解釈がヴェーバーと違っていた」というだけです。それからこの論文を「資本主義の起源を扱った」と書いていますが、資本主義という単語はこの論文には一度も出て来ず、実際はローマ法のソキエタースがどのように法制史上で合名・合資会社を取り込んだか、というのが主眼であり、資本主義の起源を書いたなどというのはナンセンスです。この程度の人が書いた「伝記」など読む気はしません。

アウター・リミッツの”Corpus Earthling”

アウター・リミッツの”Corpus Earthling”を観ました。ある岩石の研究室にて、外観は石そのものの地球外からやって来たエイリアン同士について、博士のポール・キャメロンはオーブンの小爆発の事故で頭に怪我をして金属片が頭に入り込んだ結果、その会話を聞ける能力を得てエイリアンの地球征服計画を耳にしてしまいます。同僚のテンプル博士と女性の助手でポールの妻のローリーにそのことを話しても、頭を打って幻聴を聞いたのだろうと理解してもらえません。しかしエイリアンはポールを「リスナー」と呼び、自分達の計画の邪魔者と見なしその心を操って窓から飛び降り自殺させようとしますが、間一髪でポールはローリーとテンプル博士に止められます。家に戻ったポールとローリーは、ポールの精神が正常に戻るように、やっていなかったハネムーンにメキシコに行くことを突然決めます。二人はメキシコの田舎のコッテージに落ち着きますが、テンプル博士がエイリアンに乗り移られて、二人を追って来ます。ポールが車で買い出しに行っている間にテンプル博士がコッテージにやって来て、ローリーもエイリアンに乗り移られます。ローリーの顔は老婆のようになり、驚いたポールは逃げ出して街のホテルに泊まりますが、そこにコッテージの管理人がやって来て、ローリーはこの地方に多い風土病にかかっており、治療しないと死ぬと言ったので、ポールはコッテージに戻り、ローリーの手当をします。しかしそこに再びテンプル博士がやって来て、ポールを殺そうとしますが、ポールは争って何とか博士を倒します。しかし今度はローリーがピストルを持って彼を撃とうとします。ポールは何とかピストルを奪い、やむを得ず彼女を急所を外して撃ちます。エイリアンは彼女の体から出てきましたが、ポールはコッテージに火を点けて彼らを焼き払います。(元々が石なんだから、火には強そうな気がしますが…)元に戻ったローリーを車に載せて病院に連れて行く、というエピソードです。
エイリアンがちょっと岩明均の寄生獣を思い起こさせました。しかし、元々エイリアンがどうやって地球にやって来たかも語られていませんし、仲間が来るというのもどこからなのか分らず、ちょっと説明不足な内容のように思います。また冒頭でローリーが老婆になるシーンが出てきますが、エイリアンに乗り移られても別に老婆になる必要性はないのでは、と思います。

核魚雷で500mの津波は可能か?

最近ロシアのポセイドンという一種の水中ドローンみたいな核魚雷が、例えば東京湾の入り口で爆発したら、500mの津波が東京を襲う、といったヨタ記事を見かけますが、

(1)東京湾の水深は平均25m
(2)東京湾の面積は1,500K㎡

(1)からして大平洋の海水を瞬間的に東京湾に移動させない限り、300mとか500mの津波は不可能です。
また(2)の面積から言っても局部的ではあっても東京湾の海面高さをそこまで持ち上げるだけの量の海水を瞬間的に移動させることは、いくら最大級の水爆であっても不可能と思います。
もっとも10mの津波でも壊滅的被害は起きますから、危険を考えないでいいということにはなりませんが。
ちなみにアメリカ軍がビキニ環礁で行った水中核爆発実験では、原爆ですけど、水中27mで爆発させて、日本の戦艦長門などのテスト用の船舶を沈めることすら出来ませんでした。
おそらく500mというのは魚雷の爆発直後にその周辺海域が、おそらく極狭い範囲でそれだけ吹き上がるということでしょう。それがそのまま500mを維持して東京を襲うというのはまずあり得ないでしょう。ちなみにご承知の通り、東日本大震災はマグニチュード9レベルで、最大級の水爆よりはるかにエネルギーが大きかったですが(現在の最大の水爆の10倍のエネルギー)、津波の最大高さは40mでした。

トワイライト・ゾーンの”The Trouble with Templeton”

トワイライト・ゾーンの”The Trouble with Templeton”を観ました。ブース・テンプルトンは、ハリウッドで30年以上も活躍している男優です。庭では彼の2番目の若い妻が今日も新しい男を連れ込んでプールサイドでじゃれ合っています。彼は18歳の時に結婚し、その7年後に死んだ最初の妻ローラと、彼の若い時代を懐かしんでいます。テンプルトンはある劇のリハーサル初日に遅れて到着します。劇のディレクターはスポンサーの意向で若いやり手の男に変わっていますが、その男はテンプルトンの遅刻を激しくなじります。いたたまれなくなったテンプルトンは出ていきますが、外では多くの観客が彼を待ち受け拍手していました。テンプルトンが壁に貼られたポスターを見ると、それは彼が主演のドラマのもので、1927年となっていました。テンプルトンは30年前に戻っていました。ある男がローラが彼をあるスピークイージー(禁酒法時代の闇バー)で待っていると言い、テンプルトンはそこでローラと、また親友であったバーニーもそこにいました。喜んだテンプルトンでしたが、ローラは彼が知っているような女性ではなく、スピークイージーのジャズに合わせて踊り狂う蓮っ葉な女性でした。テンプルトンはバーニーとローラーに必死になって未来から来たことを説明しようとしましたが、まるで理解してもらえません。そしてローラを静かな場所に連れて行こうとしたテンプルトンに、ローラは「ここはあんたのいる場所ではない、元の場所に帰ったら」と言われ、ショックを受け店を出ます。その時にローラが手に持っていたパンフレットを持ってきていました。元の劇場に戻ると、時代も元に戻っていました。そこでテンプルトンは手にしていたパンフレットに気付くと、それは台本でした。その中には先ほどバーニーやローラーがしゃべった言葉がそっくりそのまま書かれていました。テンプルトンはローラの態度が芝居で、おそらくは彼が過去に戻りたがっているのを諫めるために芝居をしたのだ、ということが分り、もう一度今の世界でやっていくことを決意し、若いディレクターに謝りながらも毅然とした態度で接し、若いディレクターは態度を変えてテンプルトンを敬うような調子に変わります。第1シーズンでやはり大女優が年老いて自分の若い頃の映画ばかりを観て、ついにはその映画の世界に入ってしまう、というのがありましたが、それと好対照のエピソードでした。

ヴェーバーの誤り:母権制とメンナーハウス

マックス・ヴェーバーの「支配の社会学」の中に、「母権制」は「メンナーハウス」(戦士宿)で男子が戦士としての腕を磨くために共同で暮して家を空けた制度の名残であろうと説明しています。そしてWikipediaの「男子集会所」の項はこのヴェーバー説を正しいと認められた理論であるかのように引用しています。
しかし、
(1)まず「母権制」という概念自体がインチキで、スイスのバッハオーフェンという人が19世紀中頃に主張した説で、大昔は結婚制度がなく乱婚状態で、その場合父親が誰かは分りにくいけれど、母親が誰かは分るので、母親を中心とした家が作られた、というまったく歴史的事実に裏付けされないトンデモ説であり、いわゆるマルクス主義の原始共産制という概念もこれに基づいています。
(2)「母権制」といえる、女性が権力を継承するという社会は、世界全体では非常にまれで、「母系制」と混同しています。母系制は女性が権力を得るというものではなく、子供が母親の家系の成員となりその財産を相続するというものです。ただ、実際には母親の財産を管理しているのは男性の兄弟だったり息子だったりしますので、必ずしも女性が家長権を握っている訳ではありません。(母系制については中根千枝先生がいくつか論文を書かれています。)
(3)メンナーハウスがある所に(あった所に)、母系制社会があったというのも証明されていないと思います。メンナーハウスで一番有名なのはおそらくスパルタでしょうが、スパルタが母系社会であったというのは聞いたことがないです。
マックス・ヴェーバーの欠点は2次文献、3次3文献で得た知識を性急に一般化してしまうことで、これなんかまさしくそうだと言えます。