本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が伊田篤史8段、白番が本木克弥7段の一戦です。この碁は序盤の下辺での戦いがほとんどすべてでした。黒は右下隅から延びた石の形に隙があり、白から両切りを狙う筋がありました。白は下辺から延びる石で普通中央に一間に飛ぶのをケイマに打って、この筋を強調しました。しかし黒は受けなかったので、白はすぐに狙いを決行したのですが、まず黒の一間飛びの所に覗いたのが手順前後で、黒は継がずに下の石から左に伸びました。ここでの折衝の結果、黒は2つの弱石が下辺でつながって治まり、なおかつ中央へはタケフの形で白を2つに割いており、黒は非常に打ちやすい碁になりました。その後白は右上隅にかかっていき、隅を捨て石にし、うまくさばきました。さらに白は左辺を目いっぱい囲おうとしましたが、黒は白地の中で切断されていた石を動き出し、ここをうまく活きて、黒の優勢は変わりませんでした。その後上辺の黒で白が1線を跳ねてきたのを、欲張って受けようとして、白から2子取りで劫にする手をうっかりし、ここが劫になりました。この劫に負けると黒は1眼となり、中央で眼を作らないといけなくなります。しかし、白は劫材が続かず、黒が劫に勝ち、白は右辺を連打しましたが、弱石がつながったというだけで、形勢に大きな影響はありませんでした。その後下辺の寄せで、あわやという場面がありましたが、黒が受けきり、白は持ち込みになり、ここで白が投了しました。伊田8段の冷静な読みが光った一局でした。伊田8段はこれでベスト8進出です。
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白井喬二の「西郷と勝安芳・孫文」
白井喬二の「西郷と勝安芳・孫文」(東亜英傑伝8)を読了。「西郷と勝安芳」は当然江戸無血開城の両立役者の西郷隆盛と勝海舟の伝記ですが、西郷隆盛が薩摩藩によって三度も島流しにされていたとは知りませんでした。それも一度目の島流しの理由がひどくて、禁漁の山で猟をして猪を捕り、そればかりか明かり代わりに立木に火を付けたらそれが山火事になってしまったからというもの。西郷どんとは思えないようなドジな理由です。(今Webで調べて見たらこの時流されたのは台湾で、そこに子孫を残したという伝説もあるみたいです。出典は入江晩風の「西郷南洲翁、基隆、蘇澳を偵察し、『寛永4年南方澳に子孫残せし物語』」みたいです。)しかしそうはいっても、明治維新という大革命が、江戸での戦争という最悪の事態を免れたのは、何といっても両雄のお陰です。
「孫文」は何と言おうか、時局迎合的です。この東亜英傑伝の8巻の中に、孫文、汪兆銘、袁世凱の3人が登場しますが、どれを取ってもたぶん日本から見た都合のよい視点で描かれていると思います。
アンソニー・ホープの「ゼンダ城の虜」(白井喬二の「珊瑚重太郎」との比較)
アンソニー・ホープの「ゼンダ城の虜」を読了。
この作品を読んだのは、この所日本の大衆小説ばかりを読んでいたので、たまには翻訳ものを、という動機ではありません。
白井喬二の「珊瑚重太郎」がこの作品のパクリではないか、ということを書いている評論家がいるので、その真偽を確かめるためです。
結論として、「容貌がそっくりで身分が違う者が入れ替わる」という点以外に、「珊瑚重太郎」が「ゼンダ城の虜」の設定を借りている所はまったくなく、白井はまったくの「白」でした。大体、この「容貌がそっくりで身分が違う者が入れ替わる」というのは、マーク・トウェインが1881年に「王子と乞食」で最初に使ったもので、Wikipediaによれば「待遇は異なるが容姿が似ている登場人物が入れ替わって周囲から誤認されたままとなるストーリーについては、ストーリー類型のひとつとして成立し、その後も様々な作者の手によって同様の形式を持つ作品がよって作られている。」なのであり、ホープの作品も白井の作品もその一つに過ぎません。この「王子と乞食」は明治時代から翻訳が出ており、1927年に村岡花子によって新しく日本語訳されたものが出ているので、白井が影響を受けたとすれば、「王子と乞食」であると考える方が自然です。ちなみに「ゼンダ城の虜」は1894年で、珊瑚重太郎は1930年です。
「ゼンダ城の虜」は後半の本当の国王をゼンダ城に救いに行く話が面白いですが、全体としては白井の「珊瑚重太郎」の方がはるかに面白いと思います。特に「ゼンダ城の虜」は国王に入れ替わった後、ラッセンディルはうまくその役をこなして、特にはらはらする場面はありませんが、「珊瑚重太郎」では、ある大名屋敷の若殿様に入れ替わった主人公に次から次に難題が降りかかり、それが非常に面白いです。特に大名屋敷とある貧民長屋の争いで、主人公が裁判の両方の当事者になってしまって、一人二役をお奉行所で演じる様は爆笑ものです。
ここに改めて書きますが、「珊瑚重太郎」は「ゼンダ城の虜」のぱくりなどではなく、日本版「王子と乞食」とでもいうべきもので、白井の傑作の一つです!
白井喬二の「中江藤樹・孔子」
柳家権太楼の「壺算、代書屋」
白井喬二の「戦国武将軍談」
天頂の囲碁6との九路盤対局
中山典之の「昭和囲碁風雲録」(下)
中山典之の「昭和囲碁風雲録」(下)を読了。上巻を読んでの感想で、「読売新聞は今でも一番賞金の高い棋聖戦を主催していますが、そういう歴史的経緯がある訳です。」と書きましたが、これがとんでもない思い違いであることがこの巻を読んでわかりました。昭和36年に読売新聞で第1期名人戦が始まりますが、この時の賞金総額が2,500万円でした。しかし、10年経って昭和46年になっても、賞金総額は2,750万円で10年前とほとんど変わっていませんでした。しかし、この間に日本は高度成長を遂げ、物価はその10年で約2倍になっています。これに対してついに怒って重い腰を上げた日本棋院が昭和49年に読売新聞に対し、名人戦の契約の打ち切りを通告します。これによって日本棋院と読売新聞は一種の戦争状態に入り、結局裁判にまでなります。結果として名人戦は朝日新聞に移り、裁判の和解条件として読売新聞が序列1位の別の棋戦を主催することになり、こうして生まれたのが棋聖戦でした。さらに知らなかったのは、朝日新聞が棚ぼた?で囲碁の名人戦を手に入れた訳ですが、今度は将棋界が将棋の名人戦の賞金が囲碁に比べて低すぎると言い出し、将棋の名人戦は結局毎日新聞に移ります。この辺りの関連は知りませんでした。
登場する棋士は、呉清源は別格として、本因坊戦9連覇の高川秀格、その後に全盛時代を迎えた坂田栄男、その坂田の全盛時代を終わらせた林海峰、そしてその林海峰を「どこが強いんですか」といって、林相手に7割の勝率を誇った石田芳夫、と続き、更には大竹英雄、武宮正樹、加藤正夫の木谷一門全盛期となり、その後趙治勲、小林光一の時代へと移って行きます。
振り返ってみると、昭和は囲碁にとっていい時代だったと思います。いまやコンピューターの囲碁がプロ棋士を抜いてしまっていますが、今後も新聞社が囲碁に高いお金を出し続けるとは正直思えません。
NHK杯戦囲碁 寺山怜4段 対 新垣朱武9段
本日のNHK杯戦の囲碁は黒番が寺山怜4段、白番が新垣朱武9段の対戦。寺山4段は先期準優勝でした。対戦は新垣9段が左下隅を目外しに打ち、寺山4段はそれに対し普通に小目にかからず、三々に打ちました。白はそれに対し大ゲイマにかけ、黒は手抜きし、白は左下隅にもう一手かけました。黒は右辺を、白は左辺を模様にする展開になりました。こういう単純な囲い合いになるとコミがある分白が有利で、黒はどう局面を動かしていくのかと思ったら、左下隅を動き出しました。黒は封鎖されないように中央に進出しましたが、はっきり活きておらず、白から攻めを見られて、白が打ちやすい碁でした。黒は、守ってばかりだとじり貧になると見て、白が左辺を囲ってあと一歩で完全な地になる所で打ち込みました。これがタイミング良く、黒は包囲する白の切断を見つつ、白2子を取って活きました。この辺りは黒は悪くなかったと思います。その後白は黒を攻めながら右辺になだれ込み、自然に黒の模様を消すことが出来ました。このあたり、黒はじっと我慢の碁でした。勝負は左上隅から左辺にかけて白地がどのくらいまとまるかでした。黒は中央の白の切断を狙いつつ、左辺の白の断点に覗きを打ちました。白は継がずに別の所打ちましたが、続けて黒が左上隅の三々に打ったのが当然とはいえいいコンビネーションで、ここで活きることを匂わせながら、中央の白の切り離しに成功しました。中央右側の白にも二カ所断点があるため、この時点でまず尻尾の6子が取られ、残りの部分も劫になり、両劫で右上隅の所を取られてしまいました。しかし黒は他の大場を打って、白に片方の劫を継がせて、本劫にしました。しかし黒の劫材は下辺と左上隅にたくさんあり、白は劫に勝てないため、白の投了となりました。たぶん盤面で20目くらい黒が良かったと思います。これで寺山4段は、昨年優勝の張栩9段に続けてベスト8に進出しました。
中山典之の「昭和囲碁風雲録」(上)
中山典之の「昭和囲碁風雲録」(上)を読了。ここの所、ずっと白井喬二ばかりを読んできたので、ちょっと目先を変えました。文字通り昭和の囲碁史で、日本棋院が成立する直前から、戦後関西棋院が分離・独立するまでを描きます。筆者は囲碁ライターではなく、執筆当時6段の専門棋士です。(死後7段を贈られています。)大体は知っている話でしたが、知らないエピソードもたくさんありました。特に昭和20年の本因坊戦は「原爆下の対局」として有名で、当然知っていましたが、元々は広島市内で対局する予定で、当局に危険だと言われて五日市に場所を変えたということを知りました。わずか10Km移動しただけですが、それが明暗を分けました。本来の広島市内で対局が行われていたら、岩本薫も橋本宇太郎も原爆の犠牲になっていた訳です。
後は、新聞社にとって囲碁が今では考えられないくらい大事なコンテンツだったということで、読売新聞は、何回か囲碁のお陰で部数を大幅に伸ばしています。囲碁がなかったら、読売新聞は三流新聞のままでした。読売新聞は今でも一番賞金の高い棋聖戦を主催していますが、そういう歴史的経緯がある訳です。
後は何といっても呉清源の活躍で、昭和囲碁史の前半は間違いなく呉清源のためにあります。