折原浩先生の「日独ヴェーバー論争 「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて」を読了。「経済と社会」の再構成問題についての最後の読書です。これで一応現在の状況に追いついたことになります。この本は、結局「経済と社会」の旧稿部分を、「頭」である「理解社会学のカテゴリー」を載せず、またテーマ別に5つの部分にばらばらに並べ直すという形で「全集」に収録した編集陣への痛烈な批判の書です。その編集陣とは、ヴォルフガング・J・モムゼンと、ヴォルフガング・シュルフターの2人です。(編集陣は他にもいますが、この問題について態度表明をしているのはこの2人だけです。)この内、モムゼンは、「理解社会学のカテゴリー」が旧稿の「頭」であることを否定し、また、シュルフターは旧稿が2つの時期に分かれて書かれていて、最初の時には確かに「頭」だったが、後半の時期では「頭」の意義が薄れた、としています。折原先生は、この2人の議論に対し、徹底的にヴェーバー自身のテキストに内在し、その論理を追いかけ2人の説に根拠がないことを論証します。実は編集陣の中でも意見が統一されていなくて、それは全集の旧稿の巻のタイトルにも現れていて「経済と社会」と「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」が並記されています。これは前者がモムゼンの説、後者がシュルフターの説です。これを見ても分かるように、編者の中ですら意見統一が行われておらず、全集の編集が見切り発車だったことがよく分かります。
ともかく読んでいて思うのが、折原先生が徹底してヴェーバーの本来の意図をテキストに内在して探り出し、何とか未完の大著を復元しようとしているのに、ドイツ側が「どうせ未完成なのだから、復元などの努力は無駄である」という投げやりな態度が透けて見えることです。「マックス・ウェーバーの日本」という本を書いたシュヴェントカーという人がいますが、この人の言うには、日本のヴェーバー研究者にはヴェーバーの視点や方法論を使って現在の日本を分析しよう、という意欲が強く見られるのに対し、ドイツの側の学者にはそういう点がほとんど見られない、としています。この日独論争にはまさにそういう対立を見ることができます。
これで一応「再構成問題」に関する読書を終了したので、次にこの本に示されている折原先生の再構成案(仮説)に従った順番で、「経済と社会」(旧稿)を日本語訳でもう一度読んで見るつもりです。