小林信彦の「イーストサイド・ワルツ」

jpeg000 174小林信彦の「イーストサイド・ワルツ」再読完了。
1993年4月27日~10月3日 毎日新聞朝刊に連載されたもの。朝日新聞に連載された「極東セレナーデ」は一応成功作だと思いますが、この作品は毎日新聞の読者に歓迎されたか疑問です。特に終わり方の暗さと来たら…
作者は後書きで、「初めての恋愛小説」だと説明していますが、それはないと思います。1988年の「背中合わせのハート・ブレイク」(原題は「世間知らず」)はどうなるのでしょうか。その「ハート・ブレイク」と結構共通点が多いです。主人公がどちらも「世間知らず」であること、主人公の若い時の恋愛が自分は振られたと思っていて、相手は逆に主人公に振られたと思っていること、そしてどちらもハッピーエンドではないこと、等々。また、1992年の「ドリーム・ハウス」とも、一緒に住んでいる女性が結婚した後自分を殺して家と土地を自分のものにする、という心配をする所がかぶっています。
後、山の手の男性と下町の女性の恋愛ということで、「東京の街」論がたっぷり出てきますが、恋愛小説には不必要な詳細さであるのと、小林信彦をずっと読んできている読者にはある意味うんざりするような感じです。
この作品は、知らなかったのですが、「イーストサイド・ワルツ 悦楽の園」としてVシネマになっているみたいです。ここで予告編が見られますが、意外と忠実な映像化をしているように見えます。

林家正蔵の「鰍沢、あたま山」

jpeg000 163今日の落語、八代目林家正蔵(林家彦六)の続きで、「鰍沢、あたま山」です。どちらも1969年の録音です。昨日、晩年の録音を聴いて、これはちょっといただけなかったですが、この頃のは見事と思います。特に「鰍沢」は先日三遊亭圓生のを聴きましたが、私としては正蔵の方が良かったですね。
「あたま山」は落語の中でもっともシュールな噺ですが、これも良かったですね。元々ケチな男の噺の時のまくらだったそうですが、この正蔵が一席噺にまで膨らませたとのことです。

小林信彦の「ハートブレイク・キッズ」

ハートブレイクキッズ小林信彦の「ハートブレイク・キッズ」を読了。再読かと思いましたが、たぶんまだ読んでなかったようです。1991年に出版されたもので、雑誌JJに1年間連載されたものです。掲載誌が掲載誌だけに、小林信彦作品としては珍しく女性の読者を強く意識したものです。女性に好評だった作品の「極東セレナーデ」の時に身につけた、若い女性のしゃべり言葉がこの作品でも使われています。文庫版の解説の小森収が書いているように、この作品は「小林信彦の小説の様々な定跡のパッチワーク」だと思います。具体的にはその解説にも書いてありますが、前述の「極東セレナーデ」「夢の砦」「紳士同盟」などです。他にも、主人公の恋人になる男の職業が放送作家、また出身が下町で、あることがきっかけで没落している、など、小林信彦によくある設定のオンパレードです。ただ、どれもこれも中途半端にごちゃまぜ、という感じで、決してよく出来た作品ではないと思います。

林家正蔵の「中村仲蔵、普段の袴、ぞろぞろ」

jpeg000 163本日の落語、八代目林家正蔵(林家彦六)の「中村仲蔵、普段の袴、ぞろぞろ」。
八代目林家正蔵は初めて聴きますが、「中村仲蔵」は1965年の録音でなかなか良かったです。ところが、「普段の袴」が1978年、「ぞろぞろ」が1980年の両方とも晩年の録音で、これがある種「老残」といった感じで、語りがスローすぎて、噺の中身がさっぱり頭に入ってきません。いつも志ん朝の快速なテンポを聴き慣れているから余計です。聴きようによっては味があるのかもしれませんが…

池井戸潤の「陸王」

jpeg000 171池井戸潤の最新作「陸王」を読了。埼玉県行田市にある創業100年の足袋メーカーこはぜ屋が、新規事業として足袋を応用したスポーツシューズの開発に着手し…とくれば、最近の池井戸潤得意の「下町ロケット」パターンです。ですが、新作としてそれなりにはワンパターンを逃れる工夫はしてあって、一つは茂木という怪我をしてどん底に落ちた長距離ランナーが復活する話をからめたことです。二つ目は、この手の池井戸作品のパターンとして、こはぜ屋には次から次に危機が訪れますが、最後に訪れた最大の危機を脱するためにこはぜ屋が採った手段がちょっと今までのパターンにはなく新しいと思います。三つ目は社長の息子の大地が、就職面接にことごとく失敗して、仕方なくいやいやこはぜ屋で仕事をしていたのが、新製品の開発に関わる内に成長していく、ビルドゥングスロマンとしての一面です。全体的に傑作とは思いませんが、まあまあ楽しめる作品でした。少なくとも今読売新聞に連載している「花咲舞が黙ってない」よりはずっとまし。

古今亭志ん朝の「水屋の富、五人廻し」

jpeg000 161今日の落語、古今亭志ん朝の「水屋の富、五人廻し」です。
「水屋の富」は、富くじを当てて800両を手にした水屋が、それを床下に隠しておくが、いつ盗られるかと夜も眠れず、心底疲れ果てる。結局、隣に住んでいるヤクザにお金を持って行かれてしまったが、これで苦労の種がなくなったと安心するというサゲです。
「五人廻し」は、吉原の女郎がいっぺんに五人の客を相手にするが、なかなか女郎の相手をしてもらえない待たされた客が、廓の若い者にあれこれと文句を言う。その文句の言い方がそれぞれ特色があって、その演じ分けが肝心な噺です。志ん朝はこういう演じ分けが本当に上手いです。

白井喬二の「富士に立つ影」(総評)

白井喬二の「富士に立つ影」を読了しましたが、以前10巻まで読んだ「大菩薩峠」と比べると、小説としてのまとまりは「富士に立つ影」の方がずっと上だと思います。「大菩薩峠」は最初の方こそ話がとんとんと進みますが、途中で停滞して、時間の進み方も極度に遅くなります。それに比べると「富士に立つ影」は三代七十年の時間的経過がはっきりしていて、話の進行では時が十年くらい飛んだりします。
ですが「富士に立つ影」が完璧な作品かというとそうは思いません。解決されていない謎とかつじつまの合わない箇所がいくつもあります。例えば、第一巻で、怪我をして行方不明になった佐藤菊太郎の行方を追い求めて、喜連川門下の侍二人が登場しますが、この二人は熊木伯典が赤針流の跡継ぎになるにあたって何か不正を行ったのを突き止めて、その証拠を持って伯典を問い詰めるのですが、結局二人とも伯典に殺されて、その不正がなんだったのかは明らかにされないままです。また、小里が蛇蝎のように嫌っていた伯典の妻になるのも、お染の身代わりになったとしてもかなり不自然です。また、熊木伯典と佐藤菊太郎の年齢も、第一巻では伯典が中年から初老の男として描かれるのに対し、佐藤菊太郎は二十代前半として描かれていて、明らかに年齢差がありますが、第二巻以降はこの年齢差が曖昧になります。
まあそうは言っても、「富士に立つ影」はやはり大衆文芸の傑作と思います。

裾野篇 江戸篇 主人公篇 新闘篇 神曲篇 帰来篇 運命篇 孫代篇 幕末篇 明治篇 総評

白井喬二の「富士に立つ影」[10](明治篇)

jpeg000 168白井喬二の「富士に立つ影」第十巻、明治篇読了。ついにこの長い物語の最後に到達しました。
明治の御代になりましたが、佐藤光之助は、時勢に合わせることができず、貧窮の生活を送っています。師の杉浦星巌の娘、美佐緒のコネで開成学校のグラスという外人教師に口を利いてもらったお陰で、開成学校の教職につきますが、そのグラスが生徒であった松村介次郎を怒らせ、切りつけられました。松村は逮捕されますが、それで開成学校の生徒達は憤激し、グラスの手引きで学校に入った光之助をも排斥します。
光之助は、いまや押しも押されもせぬ侠客となっている黒船兵吾(お園と佐藤兵之助の息子)が新門辰五郎に紹介してくれたことにより、日本全国の忠臣の事績をまとめるという事業の調査役として採用されます。そうしている内に、杉浦美佐緒から、古い西洋の楽譜を手渡されましたが、それは昔、錦将晩霞が使っていたもので、欄外に、佐藤兵之助が調練隊の隊長に決まった時に、熊木公太郎が錦将晩霞に祝いの曲を所望したという驚くべきことが書いてあることを発見します。
光之助は東北地方を旅し、各地の忠臣の事績を調査しますが、調べていくと、忠臣と褒め称えられる人物が、実際には無実の人間を殺めていたりして、必ずしも立派な人間ではないのを知ります。そうしている内に、仇敵である熊木公太郎こそ理想的な人物であったのではないかと思うようになり、公太郎の足跡を訪ねて歩き、公太郎が那須にいた時の知り合いである笛の名人の森義に出会って公太郎の話を聞くことができました。
光之助は東京に戻り、新橋の陸蒸気の駅で、熊木城太郎に出会います。城太郎はある人の助手として外国に出かけることになっていましたが、光之助は城太郎にもはや仇としては付け狙わないという和解を持ちかけ、ここについに熊木家、佐藤家の三代に渡る対立は終わりを告げます。
物語の最後に、作者は光之助に、「ただこの世はおおらかなる心を持つ者のみが勝利者ではあるまいか。」と語らせています。これがこの小説を貫くテーマであると思います。

裾野篇 江戸篇 主人公篇 新闘篇 神曲篇 帰来篇 運命篇 孫代篇 幕末篇 明治篇 総評

TOEIC 211回結果

TOEIC 211回の結果が出ました。
Listening 450点(昨年より10点ダウン)、Reading  465点(昨年より10点アップ)、Total   915点(昨年と同じ)
でした。ちょっと残念。リーディングが易しく、リスニングが難しかったようです。

柳家小三治の「野ざらし」

jpeg000 158今日の落語は十代目柳家小三治の「野ざらし」。小三治師匠はまくらが面白いということですが、この落語では道楽=趣味の噺で切手集めの噺でした。
この落語は、サゲが良くわからなかったですね。八五郎が向島で女性と会うような話をしていて、それを幇間(たいこ)が聞きつけて八五郎の家に行くが、八五郎は幇間が来たと聞いて、「何、たいこ?とするとさっきの骨は馬の骨だったか」というのがサゲですが、調べて見たら、太鼓に張る皮に馬の皮を使うからだそうです。そんなのわからないので、まくらで説明するとかして欲しかったです。