アウター・リミッツの”It Crawled Out of the Woodwork”を観ました。NORCOという物理学研究所で新しく働くことになった、スチュアート・ピータースとその弟が正式赴任日の前日にNORCOを訪れますが、そこの門番はよそよそしくすぐに二人に立ち去るように言います。その際にタバコをねだった門番はマッチを返す前にメッセージを書込みます。それは「この研究所は呪われている。」でした。二人が行った後、門番の前に何かのエネルギーを持った形を変える雲のような物体が現われ、門番に触れると門番は消滅してしまいます。翌日スチュアートは正式に働き出し、そのボスのブロック博士に女性研究者のステファニーを紹介されます。ステファニーはスチュアートを狭い廊下のような所に入れてドアをロックします。そして「ピット」と書かれた部屋のドアを開けると、門番を消滅させたのと同じエネルギー体がスチュアートを襲い、スチュアートは死んでしまいます。しかし一週間ぐらい経って、戻らないスチュアートを心配していた弟のジョリーの前にスチュアートが現われます。スチュアートは研究所に寝泊まりしていて、ジョリーには連絡するよう研究所の人に頼んだと言います。二人はジョリーの今後(ジョリーは学校を辞めてぶらぶらしていました)のことで言い争いになり、スチュアートが足を滑らせお湯を張った浴槽の中に落ちてしまいます。その瞬間何かの電気的な爆発が起き、スチュアートは死んでしまいます。警察の調査ではスチュアートの身体には何かの電気的な装置が装着されており、それは心臓のペースメーカーでした。ジョリーは研究所で働く前はスチュアートは心臓に病気は持っていなかったと証言します。警官のサイロリオは調査のため研究所に行きます。そしてステファニーを問い質します。ステファニーは一度スチュアートをそうしたようにサイロリオも狭い廊下に入れて、ピットのドアを開けましたが、良心の呵責からドアを開けてサイロリオを助けます。そしてエネルギー体は偶然出来たもので、それを破壊することは不可能で、何とか制御することが出来るだけだと言います。そしてそれに触れた研究者は全て死んでしまいます。しかしブロック博士はそのエネルギー体を自分の発明として観察を続けるため、死んだ者にペースメーカーを付けて再生させ、博士の命令に従わなければペースメーカーを切ると脅迫して働かせていました。銃を持ってやって来たブロック博士とサイロリオが争いになりますが、落ちた銃を取ってステファニーがブロック博士を撃ちました。エネルギー体は辺り一帯を停電にしたことで、元のピットに戻りましたが、今後このエネルギー体を制御し続けられるのか誰も分らない、というエンディングです。まあ人類は核エネルギーもきちんと制御出来て来ているとは言えませんから、考えさせられるお話ではありました。
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NHK杯戦囲碁 安斎伸彰8段 対 沼舘沙輝哉7段(2022年11月6日放送分)
本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が安斎伸彰8段、白番が沼舘沙輝哉7段の対戦です。この碁は戦いの連続で形勢が二転三転しました。最初の戦いは右下隅で黒の右辺からの掛かりに白が挟み、黒がケイマに掛けたのを白が出切っての戦いでした。この戦いは黒が下辺と右辺の両方を打った感じで、白は右辺上方に展開しましたが、白が断点を守る必要があって後手になったのと、なおかつ右下隅から伸びる白石に眼が無いので、ここで黒のリードとなりました。その後白は右上隅の黒を攻めましたが、黒の右辺押しに白が受けなかったため、黒はハネだし、結局右辺で劫になりました。この劫は黒が勝ち、白は劫立てで上辺を連打しましたが、右辺の白地が黒地に変わって黒の有利な別れでした。黒は更に上辺の取られかけていた黒石を利用して右上隅から伸びる白を分断しました。ここでまたも中央で劫になり、黒が劫に勝ちましたが、劫を抜いても中央は黒が厚いとは言えず、右辺から中央に伸びる黒にも眼がはっきりしなかったため、混戦になりました。その途中で白が逆に勝率8割になった局面もありましたが、結局右下隅から伸びる白石に眼が無いのが最後まで祟り、その生死を賭けてまず下辺で劫になり、それが右下隅の劫に移りましたが、結局白の劫立てが無くなり、白の大石が取られて白の投了となりました。安斎8段の力強い打ち方が成功した一局でした。
トワイライト・ゾーンの”The Night of the Meek”
トワイライト・ゾーンの”The Night of the Meek”を観ました。1960年の12月23日に放送されたもので、アメリカのドラマに良くあるクリスマス・スペシャルのようなお話です。ヘンリー・コーウィンは失業者でワンルームの部屋で暮しています。そんな彼がクリスマスの時だけ、あるデパートに雇われてサンタクロースの役をやります。しかし子供達の願いを聞くだけで、決してそれを叶えてあげられない自分に嫌気が差して、そのクリスマスイブに彼はしこたま酒を飲み、一時間遅れてデパートに着きます。酔っ払って足もふらつくコーウィンはデパートのマネージャーから首を言い渡されます。とぼとぼと街を歩いていた彼の耳に突然橇のベルの音が聞こえ、猫が鳴いて彼の前に大きな麻袋が落ちて来ました。その中身は空き缶などのゴミでしたが、彼がそれを手に持ったとたん、奇跡が起きてその中は包装されたプレゼントで一杯になります。喜んだ彼は子供達に望みのプレゼントを配り、ついでに教会でクリスマスキャロルを歌っていた大人達にプレゼントを配ります。そこの女主人が不審に思って警官を呼び、彼は警察に連れて行かれます。そこにはデパートのマネージャーも証人として呼ばれていて、彼が配ったものはデパートの商品だと言います。しかし、警官が袋の中をチェックすると、元のガラクタに戻っていました。マネージャーは人が望むプレゼントをコーウィンが出すことが出来ないことを証明しようとして、彼に1903年のヴィンテージもののチェリー・ワインを出すように言います。コーウィンはすぐにそれを袋から出します。解放されたコーウィンが街を歩いていると、そこにトナカイと橇が待っていました。そこにいた妖精がコーウィンに早く乗るように言い、二人は橇で夜空に消えて行きます…
というストーリーでした。まあ他愛ないですが、クリスマスらしいお話でした。
エドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」
エドワード・W・サイードの「オリエンタリズム」を読了。1978年に出た有名な本で、数年前に購入しておきながらなかなか読む機会が無く、今回やっと読了しました。
「オリエンタリズム」というのは本来は西欧の美術や文学における「中東趣味」のものという意味ですが、サイードはここでは西欧の中東学者に共通してみられる非科学的な偏見、思い込み、蔑視といった態度のことを指して使っています。
読んでいてずっと違和感を禁じ得なかったのが、サイードがオリエントという言葉の意味をほとんどが中東地域を指す言葉で使いながら、時に都合のいい時にはそれをインドや中国、日本他を含むものとして使っているということです。(英語でOrientと言えばどちらかというとアジア人を指すことが多いです。)西欧の中東への蔑視と同じ構造で、(1)西欧+中東のアジア蔑視(2)中東のアジア蔑視という2つが考えられ、サイードは手を変え品を変え西欧の中東蔑視を論じていますが、一度もこの(1)、(2)のアジア蔑視については中東を含まない形では論じていません。そういう公平さの欠けた議論によって、穿った目で見れば、単なる中東地域のひがみのような議論に聞こえ、本来有るべき文化の相対性原理の主張という点が弱くなっているように思います。
またこの本によって文化人類学がその方法論について見直さざると得なくなり、学問としての勢いが弱まったというのを、Eigoxの文化人類学者である先生から聞いたことがあります。しかし例えばイギリスの文化人類学が植民地をより良く統治するという目的で研究されていた、というのは周知の事実であり、中近東の研究がサイードの言うような偏見や先入観に彩られているとしても、それはそういう研究を見直す良い機会であり、決して文化人類学の方法論が否定されるようなものではないと思います。
サイードのこの本を読む前に、ヴェーバーの「中世合名・合資会社成立史」を訳していて思ったのは、中世イタリアのコムメンダが、イスラム地域のムダーラバ契約の影響で生れた、と言うのが既にヴェーバーの時代に主張されているのですが、ヴェーバーがまったくそれに触れていないということへの疑問です。まあヴェーバーの頃は、オスマン帝国の弱体化-崩壊の時代で、イスラム圏への蔑視が頂点に達した時であり、ヴェーバーといえどもそういう偏見から100%自由であることは出来なかった、ということなのだと私は理解しています。
アウター・リミッツの”The Nightmare”
アウター・リミッツの”The Nightmare”を観ました。これで10本目ですが、これまでで一番のワケワカのストーリーでした。エボンという星のエイリアンが、突然地球に核ミサイルを撃ち込み、地球側は大きな被害が出ます。地球側は反撃のため惑星エボンに戦闘部隊を送りますが、全てエボン側に捕まえられ、乗組員は全て捕虜になります。エボンのエイリアンは地球人の知覚をコントロール出来、一時的に喋れなくしたり、目を見えなくすることが出来ます。地球人の兵士は一人一人尋問室に呼ばれ尋問を受けます。その内の一人は死んでしまい戻って来ませんでした。それを目撃した兵士によれば心臓がえぐり出されていたということです。その内Jongというアジア系の兵士が、何故か尋問室には呼ばれず拷問を受け、結果として左腕に大きなダメージを受けます。兵士の間では、誰かが尋問で彼らの次にやってくる宇宙船の軌道について話したのではないか、という疑いが広がります。それでJongが何故尋問室に連れて行かれず拷問されたのかという疑いから、彼が喋ったのだろうということになり、他の兵士がクジを引いて当たった者がJongを殺すということになります。ここで何故か地球側の軍隊のお偉いさん(タイムトンネルで所長を演じていたホイット・ビッセル)がやって来て、実はこれは一種の実験だと言います。エボンのエイリアンの攻撃は100%ミスによるもので、彼らは好戦的ではなく、謝罪のため地球に接触したのを、地球側がこれを兵士の忠誠と勇敢さを使う実験に利用したものでした。結局兵士の一人が、地球のもう一人の高官を幻と勘違いして射殺してしまう、という話で、まったく訳の分らない支離滅裂というだけでなく、アジア系アメリカ人に対する差別も感じました。疑われるJongを演じていたのはハワイ出身の日系人俳優、ジェームズ・シゲタでした。朝鮮戦争で中国の捕虜になったアメリカ人兵士が洗脳されて、共産主義信奉者になったというのが本当にあったようですが、そういうのが影響している感じでした。
白井喬二の「彦左一代 地龍の巻」
白井喬二の「彦左一代 地龍の巻」を読了しました。1942年10月の出版で、後篇の「天馬の巻」と合わせての二篇ですが、前篇だけ見つかったものです。この時期は出版用の紙の統制もかなり強まっていた時期ですが、第二冊が10,000部と奥付にあり、初刷も同じ部数だとすると合計20,000部ということになり、さすが白井喬二だと思います。「地龍の巻」は天下のご意見番として知られた大久保彦左衛門の少年時代と、成人して家康の直参として活躍し、小牧・長久手の戦い(徳川家康と豊臣秀吉の戦い)の途中で終っています。大久保彦左衛門は幼名が「平助」でしたが、三男坊で上二人が優秀なのに比べ「ぼんやりした」「愚鈍な」少年であり、親から「間引き」(養子に出したり、遠方へ追いやる)を検討されたほどでした。しかし実は「能ある鷹は爪を隠す」で、生まれついての智恵と秘かに研鑽した武芸の腕を隠していましたが、ある時的から城の高い位置に射こまれた矢を取ることを、城下の元服前の少年武士達に命令が下ったのを、首尾良く成功し、しかもその功を自分のものとしなかった処理を天晴れとされ、家康から直々に元服を命じられます。また、事実かどうかは不明ですが、いわゆる長篠の戦いで初陣でありながら大手柄を立て、家康から「彦左衛門」という名前を賜るという話です。
ちょっと嬉しいのは少年時代の「平助」のキャラクターが、ほぼ熊木公太郎とかぶることです。また同じ年に出版された「坊ちゃん羅五郎」の主人公ともかなりかぶっています。「彦左衛門」になってから、かつての部下が悪い商人に捕まって土牢に入れられていたのを救出したりとか、乳兄弟の女性が遊女に売られたのを救いに行くとか、まったく典型的な白井喬二作品の主人公です。
下巻が入手出来ていないので、いわゆる「天下のご意見番」となってからの話はありませんが、気長に探したいと思います。
トワイライト・ゾーンの”A Most Unusual Camera”
トワイライト・ゾーンの”A Most Unusual Camera”を観ました。チェスターとポーラは夫婦で泥棒をやっており、昨日もアンティークショップに盗みに入りました。その店の被害届とは違って、実際は盗んだ物はガラクタばかりでしたが、その中に一台のクラシックなカメラがありました。チェスターはポーラを窓際に立たせてそのカメラで撮影しました。20秒ぐらいしてそのカメラは中で自動的に現像した写真を出して来ました。それを見ると、ポーラは実際には着ていなかった毛皮のコートを着て写っていました。二人が盗品のトランクを開けると、中から毛皮のコートが出てきて、喜んだポーラはそれを着て窓際に立ちますが、それはさっきの写真のままでした。二人はこのカメラは未来を写すカメラではないかと思い、ホテルのドアを写します。そこには刑務所に入っている筈のポーラの弟のウッドワードが写っていました。すると5分後にまさしく脱獄したウッドワードがやって来て写真の通りになりました。チェスターはこのカメラの使い道を考え、競馬場でレースの結果を表示する電光掲示板を撮影することを思いつきます。レースの前にそのレースの結果がカメラによって分るので勝ち馬に賭け、6レースで何千ドルと儲けることが出来ました。彼らがホテルで金の使い道を考えている所に、ホテルのウェイターがやって来て、カメラの前面に書いてあるフランス語を訳してくれました。それは「1人の所有者に対し10回まで」と書いてありました。彼らは既に8回撮影したので後2回です。その使い道を巡ってチェスターとウッドワードが争い始め、間違ってシャッターを押してしまいます。そこには何かに驚いているポーラが写っていました。争いを続けた二人は二人とも窓から転落して死んでしまいます。悲しんだポーラでしたが、自分が金を独り占め出来ることに気が付きます。最後の写真として窓から転落した二人を写しました。そこに先ほどのウェイターがまたやって来て、ポーラとチェスターはお尋ね者であることが分ったと言って、お金を持っていこうとします。ポーラは再度落ちた二人を見ようと窓際に言って、電灯のコードに足が引っ掛かって転び、ポーラも窓から転落して死んでしまいます。ウェイターはしめしめ、と思いますが、カメラが出した写真を見て、死体は3人ではなく4人であることに気が付いて驚き、その弾みで彼も窓から落ちて死んでしまいます。
まあありがちな話ですね。幸福をもたらす筈のアイテムが却って不幸をもたらす、というちょっと教訓の入ったエピソードでした。
ハロウィーン考:社会の二重構造と「ケ」と「ハレ」
今読んでいる”The Dawn of Everything: A New History of Humanity”に面白いことが書いてあります。17-8世紀の北米カナダのネイティブアメリカンの多くの部族は面白い社会を持っていました。それは食物が容易に手に入る春~夏~秋の間は家族中心の小集団がそれぞれ別れて狩猟採集で暮らし、ある意味「平等社会」で暮すのを、冬になるとある場所に集まって暮して保存した食べ物を消費して暮しますが、そこは「階層社会」だったそうです。有名なポトラッチ(贈与合戦)もその階層を決めるための手段でした。(より多く他者に贈与をして気前の良さを示した者が上位の階層となる。)筆者の二人によると実はこのように季節によって社会構造を変えるというのは北米のネイティブ・アメリカンだけでなく、歴史的にも世界的にもかなり多くの社会で見られるのだそうです。なので狩猟採集の原始共産制社会が農耕が始ると貧富の差が出来て階層社会が出来たなどという発展段階説は、こういった歴史的事実をまったく説明出来ていません。
それでは現代の社会が何故季節性を失って単一の社会構造になったかですが、実は現代社会にもかつての名残があって、それが欧米での「ホリデーシーズン」だと筆者達は言います。(欧州については夏のバカンスも。)アメリカ人がお互いに贈り物をしあうのはこの時期にほぼ限定されます。そう考えると日本の「ハレとケ」も本来はそういう同一社会の時間によって変わる二重構造の現われではなかったのかと。またハロウィーンという欧米の習慣(キリスト教の習慣ですらない)が何故日本や韓国で近年これだけ享受されたのかという説明もこれで出来そうです。即ち昔「ハレ」として社会のガス抜きの意味を果たして来た伝統的な祭などが形骸化し、そこで満たされない「馬鹿騒ぎ・社会秩序の否定」が日本や韓国でのハロウィーン騒ぎではないかと。そう考えると、日本で47都道府県の内、1つだけそういう伝統的「ハレ」を今でも強く維持しているのが、徳島の阿波踊りではないかと。「踊る阿呆に見る阿呆」というのは、ヨーロッパでの「驢馬のミサ」(カーニバルの起源で、〈愚者の饗宴〉では,少年や下級僧の間から〈阿呆の司教〉が選ばれ,祭りの期間は通常の秩序や価値観が逆転した世界が支配した)とまったく同じ役割を果たしています。今年の3年ぶりの阿波踊りでコロナ感染者が多数出たり、ソウルでハロウィーンで多数の死傷者が出たというのも、そういう「無礼講・狂乱状態」だと考えると理解が出来そうです。(亡くなられた方には謹んで哀悼の意を表します。)
NHK杯戦囲碁 井山裕太4冠 対 張栩9段(2022年10月30日放送分)
本日のNHK杯戦の囲碁は、黒番が井山裕太4冠、白番が張栩9段、そして解説が一力遼棋聖という豪華メンバーでした。井山4冠のタイトル初挑戦が張栩9段ですし、タイトル初奪取も張栩9段からでした。序盤は左上隅で新型が出来ましたか、結果が互角だったのはさすがでした。その後左辺の黒への白の攻めをどう凌ぐかで、黒は手堅く活きましたが、中央の白が厚くなってちょっともの足らなかったと思います。その後今度は右辺の黒の活き死にが問題になりましたが、黒からのツケギリがもしかすると疑問手で、白が中から当てるという強手で反発し、こちらも黒が手堅く活きましたが、右下隅の白地が30目を超えてまとまり、なおかつ中央でも白地が付きそうという形勢になり、白が優勢になりました。黒はヨセで頑張りましたが差は縮まらず、最後は盤面でも白がリードし、黒の投了となりました。さすがの井山4冠も、最近は早碁では以前のような最強手の連続という打ち方が出来なくなって来ている感じです。
今野元の「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」
今野元の「マックス・ヴェーバー ――主体的人間の悲喜劇」を古書で購入。この著者のヴェーバーに関した本は他にももっていますが、あまり評価していないので、新書とはいえ新品を買う気がせず古書にしました。この人はヴェーバーの学問よりも伝記的なことばかりを追いかけている人で、ご丁寧にもヴェーバーの子供の時の論文(?)まで日本語訳しています。私は「中世合名・合資会社成立史」を翻訳しようとした時にまず思ったのが、こんな子供時代のはっきりいって学問的価値の無いものを訳す暇があったら、どうして「中世合名・合資会社成立史」や「ローマ土地制度史」を訳さないのかということです。しかし本文をチェックして、その「中世合名・合資会社成立史」の所を読んでいたら、Die Offene Handelsgesellschaft (合名会社)を「公開商事会社」と訳していて、ああ、これはとてもじゃないがヴェーバーの学術論文は訳せないなと思いました。それからヴェーバーの博士号論文でテオドア・モムゼンが「結論に異議を呈した」とありますが、本当の所は、「モムゼンが生涯考え続けていたローマの植民市における何かの概念についての解釈がヴェーバーと違っていた」というだけです。それからこの論文を「資本主義の起源を扱った」と書いていますが、資本主義という単語はこの論文には一度も出て来ず、実際はローマ法のソキエタースがどのように法制史上で合名・合資会社を取り込んだか、というのが主眼であり、資本主義の起源を書いたなどというのはナンセンスです。この程度の人が書いた「伝記」など読む気はしません。