山上正太郎の「第一次世界大戦 忘れられた戦争」

山上正太郎の「第一次世界大戦 忘れられた戦争」を読了。最近ずっとアメリカの動向を追いかけていて、トランプがモンロー主義の昔に戻ろうとする意向を強く感じ、またアメリカと中国の経済的対立、中国の急激な軍事力強化、ときな臭さ一杯の状況に憂慮してこの本と、A・J・P・テイラーの「第二次世界大戦の起源」を買ってみたもの。山上氏は第1次世界大戦の終わった翌年に生まれています。まず第2次世界大戦の本を書いた後、第2次世界大戦を理解するためには1次も理解しなければ、ということでこの本を書かれたようです。副題に「忘れられた戦争」とありますが、まさにその通りで、実は11月11日は第1次世界大戦の終わった日なのですが、「独身の日」というオンラインストアのセールスの話ばかりで、第1次世界大戦について触れたニュースはほぼ皆無だったと思います。日本はこの戦争には限定的に参加し、色んな意味で得をし、経済的にも欧州の産業が戦争で止まっている間に大儲けし、工業力を強めることが出来ました。中国についても欧州列強がそれどころではない隙間を狙って「対華21ヶ条の要求」などで進出を図ろうとし、アメリカとの対立が深まることになります。
この大戦は最初はオーストリアとセルビアの局所的な戦いで始まったものが、やがて欧州の多くの国を巻き込み、最後はアメリカや中国まで参戦しという文字通りの世界大戦になります。またこの大戦の結果、ロシアのロマノフ王朝、オーストリアのハプスブルク家、ドイツのホーエンツォレルン家という3つの王朝がすべて無くなります。正直な所、大学の入試で世界史を選択しなかった私は、未だに欧州史にうとい所があるのですが、多少は知識を増やすことが出来ました。

大松博文監督の「おれについてこい!」

大松博文の「おれについてこい!」を読みました。今さらですが、1962年の世界選手権と1964年の東京オリンピックでバレーボール日本女子(日紡貝塚チーム)を金メダルに導いた監督。
私の子供の頃、「巨人の星」や「アタックNo.1」などのスポ根ものの漫画やTVがブームでしたが、それは漫画などが先にあった訳ではなく、現実の方がはるかに先を行っていました。ソ連女子チームに比べて平均身長で10cm低いハンデを補うためにあみだされた「回転レシーブ」、世界の他のチームを翻弄した「木の葉落とし(無回転サーブ)」を始めとする多彩なサーブ(その頃の日紡貝塚チームの得点の1/3はサーブポイント)、漫画の「魔球」を先取りしていました。なんせ「東洋の魔女」「世界の魔女」と呼ばれた訳ですから。
何で今頃これを読んだかというと、今会社で私が管理しているグループのメンバーの8割が女性で、私は今の会社でも前のJ社でも自分の部下になった人にはどこへ行っても生きていける実力をつけて欲しいと思って、結構高い要求をしてスキルを磨いてもらっているんですが、そうしたことがものすごい負荷になっているんじゃないかとちょっと悩んでいて、それで「おれについてこい!」というすごいセリフを言えるこの人の本を古書店で求めたものです。(Amazonでは入手出来ませんでした。)
大松監督は、戦争中ラバウルからビルマに送られ、いわゆるインパール作戦の数少ない生き残りです。はっきりいって今大松監督のスタイルでやったら、パワハラ、セクハラ、ブラック企業、過労死とあらゆる非難が巻き起こりそうな気がします。当時ですら「女性の敵」「会社の敵」と言われ、日紡貝塚の労働組合からもやり過ぎを非難されたりしています。しかし、ソ連チームのように幼い頃からスポーツの英才教育を受け、基礎訓練を十分積んだ上で選抜された選手に対し、高校出てただバレー部にいただけ、という平凡な選手を、1日6~7時間という驚異的な練習で鍛え上げ、選手は監督を信じてついていき、ついにはソ連を破ってNo.1という偉業を成し遂げます。選手も監督も毎日の睡眠時間が5時間で、これは遠征で時差などで十分睡眠時間を取れない場合でも万全のゲームが出来るという対策も兼ねていたそうです。1962年の世界選手権の3年前までは日本では時代遅れの9人制バレーが主流で、6人制に転じてわずか3年でトップまで上り詰めます。
まあ大松監督は後にいわゆるタレント候補として自民党から国会議員に立候補(1度目は当選、2度目は落選)したなんてのはまったく感心しませんが、この本に書かれていることは、ただアナクロと非難して済ましてしまうことの出来ない貴重な何かを感じました。

白井喬二の「人肉の泉」連載第9回

白井喬二の「人肉の泉」の連載第9回の分(「主婦之友」昭和5年12月号)を読了。この小説は以前第1回(同4月号)だけ読んでいます。第1回の話は幕府から洋風銃砲隊の編成を命じられた高島四郎太夫(高島秋帆)と、元からあった和銃の隊の隊長の田附四郎兵衛が争うという話でした。この第9回で分かることは、結局田附の讒訴が成功して高島秋帆は牢に入れられています。それを救った金持ちで金井時之助というのが登場しますが、この金持ちの正体が本名を鶏頭昇之助(とさか・のぼりのすけ)といい、ある時洞窟で何かの爆発に遭い、30才ぐらいの若者だったのがすっかり50代~60代の老人のような風貌に変わってしまったが、その洞窟の中で何万両も大金を見つけ金持ちになるという設定です。それでその女房がお仙という美人なのですが、それが由利という侍と不倫をしていて、昇之助が爆発で死んでしまったと思って二人は一緒になります。しかしお仙の腹には昇之助の子供が宿っていて、嫌々ながら二人はその子を育てることになります。そのうち由利は怠け者であるためすっかり貧乏になっていた所を、金持ちの金井の振りをしている昇之助が由利とお仙と子供を自分の家の果樹園の番人として引き取り、実の子供と始めて会う、という所で第9回は終わっています。おそらくこれから昇之助がお仙と由利に何か復讐を果たしていくのではないかと思いますが、それと高島秋帆が今後どうからむのか分かりません。まあ気長にこの年の主婦之友が古書店に出回るのを待つしかないようです。

中世合名会社史の日本語訳の4回目を公開

中世合名会社史の日本語訳の4回目となる部分を公開しました。
ヴェーバーの文章は最初単に逐語訳して日本語にした場合、ドイツ語原文と両方読まない限りほとんどの場合意味不明の文になります。しかしその逐語訳とドイツ語原文を並列に眺めていると、しばらく時間が経つと不思議と「ああ、本当はこういうことが言いたいのだな」と分かってきて、よりこなれた日本語に修正します。
そして最後に日本語訳だけ見て、それだけで意味の通る自然な日本語になるようにさらに修正します。
以上のような過程を経ている翻訳のため、時間がかかります。今のペースで計算したら、完成までに700日くらいという結果になりました。先は長いです。

白井喬二の「富士に立つ影」読み直し 総評

白井喬二の「富士に立つ影」読み直しの総評。
2回目の読書も1回目の読書に劣るどころか優る感動がありました。時にはやや強引なご都合主義的な話の展開もありますが、全体には本当に良く構成されており、熊木家、佐藤家の両家を中心とする三代の人間模様のタペストリーが見事と思います。主人公である熊木公太郎は全10篇の第6篇の最後で死んでしまう訳ですが、しかし公太郎は死んだ後の方がむしろ存在感が強くなり、色んな人から「あんないい人はいなかった」と回想される存在になります。1回目に読んだ時は、小里(お雪)が何故蛇蝎のように嫌っていた伯典の妻になったのだろうか、というのが疑問でしたが、2回目の読書ではそれは小里が自分をある意味犠牲にして伯典の罪を浄化しようとしたように思います。その証的な存在が公太郎であり、その公太郎のおおらかなる心が対立して争う両家の人々の心をいつしか変えていき、最後は大団円になります。また黒船兵吾の存在も公太郎に次いで重要であり、熊木家・佐藤家の両方の血を引く唯一の人間である兵吾がこの両家の中ではもっとも世俗的に成功し、成功しただけではなく佐藤光之助をサポートし、結果として光之助が公太郎の偉大さに気がつくということになるきっかけを作っています。ともかくこの作品は大衆小説における勧善懲悪的なわかりやすいけども単純な枠組みをはるかに超えた、複雑な人間関係を描いており、こういう作品が大衆小説勃興の最初期に出てきたということは、そのジャンルの定着に貢献しただけでなく、一つの文学史における奇跡のようなものだと思います。白井の時代は「立身出世」こそ価値観の最上位を占めているといった時代だったと思います。そういう時代に「立身出世」のエゴイズムで突き進んだ熊木伯典や佐藤兵之助のある意味悲惨な晩年を描写し、人間の本来持つおおらかなる心の価値を歌い上げた、ある意味啓蒙的な意味も持った小説だと思います。

白井喬二の「富士に立つ影」読み直し 明治篇

白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、明治篇を読了し、これにて2回目の読書が完了しました。この篇ではずっと佐藤光之助が中心になって話が進みます。しかし光之助は新しい明治という時代に合わせてうまく立ち回ることが出来ず、困窮した生活を送っています。その妻八重はそうした光之助を支えるというより、自分の見栄に走って光之助をさらに困らせます。そこに光之助が高名な学者の杉浦星巌の高弟であったというのがややご都合主義的に明らかにされ、光之助は星巌の娘の美佐緒の伝手でようやく開成学校の教師の職を得ます。しかしそれもすぐ駄目になってしまいます。しかし光之助は美佐緒から、亡き錦将晩霞の楽譜を見せられ、そこで熊木公太郎が佐藤兵之助が調連隊長になった時、錦将晩霞にお祝いの曲を弾くように頼んだという事実を知ります。困窮の光之助の前に登場するのが兵之助のもう一人の忘れ形見である黒船兵吾で、光之助を新門辰五郎に引き合わせ、全国の忠臣を調査するという仕事を得させます。その仕事で旅する内に、世間で忠臣と言われている人が多く強引なことをやって人の命を犠牲にしていたり、と必ずしもきれい事だけでないことを知ります。そんな中ふとしたことで公太郎の足跡を追うことになり、いまや老人になった森義にも巡り会います。光之助はいつしか公太郎こそ本当に立派な人物であったと思うようになります。東京に戻った光之助は熊木城太郎に会い、もはや仇としては付け狙わないことを申し入れますが、その後偶然に今度は自分がかつて浪人組の時に殺した相手の子供である兄弟の敵討ちとして襲撃されます。幕末篇の感想でも書きましたが、死せる公太郎が生きている人の心を動かし、それを変えていきさえする、というのはやはりイエス・キリストを私には思い起こさせました。最後にある「ただこの世はおおらかなる心を持つ者のみが勝利者ではあるまいか。」これこそこの長大な物語の主題といってもいいと思います。

白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、幕末篇

白井喬二の「富士に立つ影」の読み直し、幕末篇を読了。正直な所、公太郎が死んでしまってからのこの物語はある意味オマケのような感もありますが、それでも並みの小説よりはずっと面白いです。この巻では前篇の最後で見事親の仇を討ったと思われた熊木城太郎ですが、そのうち勝ち番の調子のいい時にどうもあれは討ちもらしたんではないかと疑うようになります。それで生計のために赤松浪士団に入ったら、何とそこで副長をやっていたのが佐藤光之助(城太郎改め)です。熊木城太郎は公私の区別を付けるという条件で入団を許可されますが、私の時間に佐藤光之助に向かってストレートに、佐藤兵之助がまだ生きているかどうかを何度も聞いて辟易させます。ところで、光之助がこの浪士団に入っている理由ですが、佐藤菊太郎が最期の時に、熊木伯典も臨終を看取ってもらった名医小島玄融に診てもらうため、200両の金を調達する必要があり、同僚からそれを借ります。でその返却が滞り、ある商人から援助され、浪士団に入るということになります。小島玄融は熊木伯典の時も100両という高額のお金を要求し、そのために助一が盗みを働き、結局公太郎の死を招きます。その玄融が今度は佐藤家の跡取りの運命も狂わせてしまった訳です。この辺りは見事な構成と思います。しかもその玄融の子供は物が覚えられず20歳になっても文字も読めないというオマケが付いています。
それからこの巻では、忘れられていた(?)城太郎の妹のお君が登場します。お君は熊木家の没落により他家に養女に出され、その他家も没落して結局遊女に身を堕します。それを見つけたのが日光のお蓮というのが、ある意味話を作りすぎという気がします。ただ思ったのは熊木公太郎とお蓮の関係は新訳聖書でのイエスとマグダラのマリア(罪の女として同一視されている)と非常に良く似ていると思いました。お蓮が公太郎を好きになったのは、自分を百寄燈明から救ってくれたことももちろんですが、自分の売春婦という職業を公太郎がまったく気にせず蔑むようなことがなかったからです。イエスとマグダラのマリアの関係も同じです。
それからこの篇でのハイライトのシーンは、いまや息子の兵吾が江戸中ににらみを利かす大親分として出世し(何せ佐藤菊太郎と熊木伯典の両方の血を引くわけですから、才覚があるのは当然です)、何不自由なく暮らしていけるようになった老婆のお園の所に、自分の正妻には逃げられ、ビッコになり、また熊木城太郎には仇と狙われて、と尾羽打ち枯らした佐藤兵之助が、一生の中で自分を本当に愛してくれたのはお園だけだと、今さらながら自分勝手な愛の告白に訪れます。しかしお園は「今さらこの老婆に何を」と笑い飛ばしてしまいます。まあお園が困窮していた暮らしをしていて、それを裕福な兵之助がもう一度関係を戻したいと言ったのなら結果は違ったかもしれませんが、お園には今やこれ以上無い頼もしい息子が付いています。そして兵之助は失意のまま湯島天神に行き、実は熊木公太郎が素晴らしい人間だったことをようやく理解しその冥福を祈ります。そしてその直後に城太郎に発見され、今度こそ仇を討たれます。兵之助が新闘篇の冒頭で才気煥発な若者組のリーダーとしてかつ美少年として颯爽と登場した時と、何と見事な対照かと思います。
その他、脇役も清兵衛という奇妙なタバコ商人が出てきて、相変わらずこの手の不思議な人物を上手く考えだすものだと感心します。
読み直しも後一篇、明治篇を残すのみとなりました。

ドイツ語でのGoogle翻訳の実力

ドイツ語→日本語のGoogle翻訳がヴェーバーの文章にどこまで通用するかやってみましたが、まったく箸にも棒にもかからない結果となりました。
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原文
Dogmatisch ist der grundsätzliche Unterschied zwischen der Societas des römischen Rechts und der wichtigsten Gruppe der modernen Gesellschaftsformen, der handelsrechtlichen, speziell der offenen Handelsgesellschaft, oft erörtert und genügend aufgeklärt. Historisch ist die Entwickelung der modernen Grundsätze aus dem Verkehrsleben der Mittelmeerländer, speziell Italiens, von wo aus der internationale Handelsverkehr sie als für sich praktikabel allgemein übernahm, in den Hauptzügen klargestellt.

Google翻訳
独断的に、ローマ法のソシエタと現代社会の最も重要なグループである商法、特にオープンな商社との間の根本的な違いは、しばしば議論され、啓発されました。 歴史的には、地中海諸国、特に国際貿易が一般に実用的であると認めているイタリアの輸送生活からの現代原則の開発は、主な特徴で明らかにされてきました。

t-maru訳
法教義学的には、ローマ法のソキエタスと近代商法における会社形態の中でもっとも重要な集団との、特に合名会社との原理上の相違点については、しばしば詳細に論じられまた十分に解明もされてきた。法制史上では、そうした会社形態の近代的原理の発展は、地中海沿岸諸国、とりわけイタリアの諸都市国家における、交易を主体とした生活の中から生まれて来たのであり、それらの会社形態の原理は国際交易の上で実用的に必要なものとして把握され、その主要な特性としてこれまで解明されてきたのである。

ヴェーバーの「中世合名会社史」日本語訳3回目

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の3回目をアップしました。いよいよ序論が終わり本文に入りますが、いやー、なかなか大変でした。しかし、このヴェーバーの一つの文章をはっきりと終了させないで次々につないでいくというやり方は、まあ法律ではよくあるのかもしれませんが、訳すときは大変です。特に代名詞などがそれが指している言葉から離れている場合、それを突き止めるのが本当に面倒です。まあまだ始まったばかりで、先は長いです。

モーア・ジーベックの全集のきわめて初歩的な誤植

マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」を翻訳中ですが、モーア・ジーベックの全集版のテキストにきわめて初歩的な誤植を発見。
P.205にAugangspunktとありますが、こんなドイツ語が存在しないことは日本人の私にだってすぐ分かります。Ausgangspunkt(出発点)の間違いです。ちなみにこの全集版のこの巻の価格は259ユーロ、現在のレートで31,292円もします。そんなに馬鹿高い値段を付けて、それでこの校正レベルとは…しかも全集の第1巻ですよ、これ。CD-ROM版は正しかったです。このCD-ROM版には結構タイポがあるので、校正のために全集版を高いのを承知で買ったのですが、これでは逆です。
また、この全集の売りはテキスト・クリティークだった筈で、ヴェーバーが他の文献を引用している場合に、引用ミスがあれば、それには注が付いて逐一訂正されています。それをこの全集自身がヴェーバーに責任のない誤植を作ってどうすんの、という感じです。