「英語と日本軍―知られざる外国語教育史」という本を読みました。第2次世界大戦の時に、アメリカは日本語学校を作って数百人の生徒を集め、集中特訓して日本語をたたき込み、暗号の解読とか捕虜の尋問とか、実戦で最大限に活用しました。この生徒の中から、サイデンステッカーとかドナルド・キーンみたいな優れた日本学者が出てきました。
これに対して日本はどうかというと、陸軍幼年学校は最後までドイツ語、フランス語、ロシア語しか教えませんでした。この陸軍幼年学校のドイツ語組が東条英機の下で閥を作り、ナチスドイツを過大評価し、英米を過小評価するという過ちを犯しました。幼年学校ではなく中学から入ってきた組は英語を学んでいましたが、こうした英語派は重用されることはありませんでした。
陸軍に比べると、海軍は伝統的に英語を外国語の中で一番重視しましたが、これはイギリスが最大の海軍国であったことが大きいです。ただ海軍にせよ、実戦で使える高度な英語力を別に特別な学校を作ってたたき込む、という所までは手が回っていませんでした。
また陸軍にせよ海軍にせよ、中国語や朝鮮語についてはほとんど学校で教えられることがなかったようです。
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小林信彦の「世界でいちばん熱い島」
小林信彦の「世界でいちばん熱い島」を再読。1991年に出版された書き下ろし作品。「ぼくたちの好きな戦争」で太平洋戦争中の日本軍の激戦地である南の島を取材した時にアイデアを得て書かれたものだそうです。タイトルはプリンセス・プリンセスの「世界でいちばん熱い夏」を意識したものでしょうか。(最初のタイトルは「「バナナ・リパブリックの憂鬱」だったそうですが、「バナナ・リパプリック」というブランドがあるので、止めたとのことです。)
小林信彦の作品としては、いつものように主人公が放送作家とかいったパターンではなく、南の島のリゾートホテルで働く日本人、というある意味新しい設定の作品です。ただ、色々なことを試みているのですが、正直なところどれも成功しているとは言い難く、読後感の散漫な小説になってしまっています。
まずは「部分的に」ミステリー仕立てになっていますが、これがある意味とってつけたような印象を与えています。冒頭近くで島の副大統領が殺されますが、読者はこの副大統領なる人物についてはほとんど知識を与えられていないので、殺されたからといってどうということはなく、またその殺人が誰によって成されたかも、読者の関心を惹くこととは思えません。そもそもゲリラとの戦いで大量に死者が出ているのに、その内の一人の死についてだけわざわざミステリー仕立てにする意味が感じられません。
第二に、フェティシズムが出てきます。小林信彦は谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」などのフェティシズムを扱った作品を高く評価しており、自分でも試みようとしたのがこの作品で、主人公のホテルマンが女性の「胴体(トルソ)」に強い興味を持つ男として描写されています。しかしながら、谷崎の作品が人間の「生への執着」をフェティシズムを通じて描いたものであるのに対し、この作品でのフェティシズムは話の本筋とはほぼ無関係でこれまたとってつけたような印象が否めません。主人公も言ってみれば、単なる「変態さん」にしか見えず、描写が突っ込み不足です。
第三に、小林信彦の作品の魅力としては時代風俗の描写があるのですが、架空の南の島が舞台では、その能力も発揮しようがありません。南の島の国「コロニア」を日本のカリカチュアとして読むのも無理があります。
そういう訳で、小林信彦の新しい方向性を模索している作品でありますが、小林信彦ファンの私としても今一つお勧めしがたい作品です。Amazonでもレビューは現時点で0です。
赤田祐一+ばるぼら共著の「定本 消されたマンガ」
赤田祐一+ばるぼら共著の「定本 消されたマンガ」を読了。
何らかの理由で、出版史上から消されてしまったマンガとその消された事情を説明した本です。
あの国民的漫画「サザエさん」には、新聞には掲載されたけど単行本には入ってないのが、何と700本もあるそうです。その中には時事ネタ過ぎて今の人には何のことだかわからない、といったようなものもあるみたいですが、「人喰い人種」について触れているようなものもあるみたいです。
60-70年代の作品は、ハレンチ学園、ブラック・ジャック、アシュラなどリアルタイムで読んでいたものが多く懐かしいです。ジョージ秋山は70年代初期の頃は本当に過激でした。ちょっと差別的表現が出てくる、というレベルではなく、例えば「アシュラ」では初回から飢えた母親が自分の赤ん坊を食べてしまおうとします。
また、1980年に赤塚不二夫が「キャスター」という人肉食を笑いにした漫画を発表していたのを初めて知りました。
そういうのに比べると1990年以降のものは、盗作だとか単なる自主規制だとか、パンチ力としては大幅に落ちるものが多いように思います。
また、大学生の頃、泉昌之の「かっこいいスキヤキ」他を愛読していましたが、それにはウルトラマンが四畳半でギターを弾いていたりするパロディー漫画が多数入っていました。当時から「いいのかこれ」と思っていましたが、円谷プロに許可を取らないで勝手にやっていたみたいです。その後正式に抗議が来てお金を要求されて、支払えないので、今の単行本ではウルトラマンネタは削除されているみたいです。
小林信彦の「イエスタデイ・ワンス・モアPart2 ミート・ザ・ビートルズ」
小林信彦の「イエスタデイ・ワンス・モアPart2 ミート・ザ・ビートルズ」を再読。前作の「イエスタデイ・ワンス・モア」の最後で、1959年にタイムスリップした主人公は、結局1959年に留まることを選択しますが、そのすぐ後の話になります。今年は丁度ビートルズ来日から50年になりますが、主人公は1959年から、タイムパトロールの力で1966年のビートルズ来日時に再度タイムスリップします。主人公の父親があろうことか、ポール・マッカートニーを暗殺するという陰謀に巻き込まれており、それを阻止するためです。
主人公は、最後の所で意外な行動を取りますが、それは物語の前半の伏線部で気がつきました。再読ですが、前に読んだ内容はほとんど忘れていました。
ポール・マッカートニーの暗殺阻止という主人公の行動よりも、ビートルズ来日を巡る日本国内の大騒ぎの方が興味深いです。1966年の段階では、ビートルズはもうその地位をすっかり固めていた筈ですが、日本国内での偏見の大きさに驚きます。また、海外ミュージシャンが日本公演を行う時の聖地になっている武道館が、海外ミュージシャンの使用がこのビートルズ来日公演に始まるというのも驚きです。
なお、この小説が発表された時、音楽評論家松村雄策が当時の事実関係に誤りがあるとして、何点か指摘しましたが、私の目から見ると、きわめて些末で重箱の隅をつつくものであり、なおかつ指摘自体誤っているものも含まれており、実に馬鹿げていると思います。
小林信彦の「イエスタデイ・ワンス・モア」
小林信彦の「イエスタデイ・ワンス・モア」を再読。1989年に出版された作品です。ある高校生が1959年の東京にタイムスリップする話です。この1959年は小林信彦にとっては特別な年で、江戸川乱歩に見いだされ、宝石社のヒッチコックマガジンの編集長になった年です。「夢の砦」がその時の経験を描いていますが、「夢の砦」では1961年に舞台が移されています。その理由は、1959年を舞台にすると、59年から60年での安保闘争を描かざるを得ないからと作者が説明しています。「イエスタデイ・ワンス・モア」ではその安保闘争に主人公が参加するシーンがあります。
1959年時点では、東京にはまだ高速道路もなく、高層ビルもありませんでしたが、そうした東京の風景と当時の風俗が生き生きと描写されています。主人公が1959年に来て放送作家で生計を立てる、というのはちょっとまたか、という感じもしますけど。
片山杜秀の「近代日本の右翼思想」
片山杜秀の本、今度は「近代日本の右翼思想」を取り寄せて読んでみました。この本は片山杜秀の卒論や修論がベースになっているみたいです。
片山は左翼を、過去にも現在にも存在していない理想を未来で実現させようとしてそれに走る者、と定義します。左翼の反対側が右翼ですが、それには保守と反動があって、保守は現在を重視し、反動は過去に戻ろうとします。日本の場合は、戻るべき過去は天皇制ですが、戦前は現在を見ても天皇が現前と存在しています。そこで右翼は現状を変革しようとしても、ある種の腰砕けに終わってしまい、現状を変革する試みはすべて失敗に終わります。どうせうまく世の中を変えられないのなら、やがてあきらめて自分の手で変えるのではなく、天皇がいつか変えてくれるのだという錦の御旗の革命論になります。(これが安岡正篤。片山は安岡正篤研究の専門家です。)さらに一歩進めて変えることを諦めると、現在をありのまま肯定するという気持ちになり、「中今」という考え方が生まれます。現状を肯定するようになると、頭で何か考えることは不要になり、身体論が叫ばれるようになります。という風に1945年8月までの戦前の右翼思想の流れを総括します。結局何も考えないでアメリカとの戦争に突入した背景が右翼思想の点から明らかになります。そうした過程で、西田幾太郎や阿部次郎や長谷川如是閑のような、一般には右翼とは思われていない人の思想が、こうした右翼思想の変遷に与えた影響を考察しているのが目新しいです。
一方、欠けている視点は「大アジア主義」的な見方でしょう。頭山満が孫文を支援したり、戦前の右翼には日本を超えてアジア全体のレベルで考えることが行われていましたが、この本ではそのあたりはまったく取り上げられていないですね。
小林信彦の「紳士同盟」「紳士同盟ふたたび」
小林信彦の「紳士同盟」と「紳士同盟ふたたび」を再読了。「紳士同盟」が1980年、「紳士同盟ふたたび」が1984年に出版されたもので、どちらも週刊サンケイ(現在の週刊SPA!)に連載されたものです。小林信彦の作品としては結構部数が出たようで、「紳士同盟」の方は、薬師丸ひろ子主演で映画にもなっています。(薬師丸ひろ子が歌う主題歌を今でも記憶しています。)ただし、映画のストーリーは原作とはほとんど無関係です。
おそらく、映画の「スティング」の影響で、日本で初めての「コン・ゲーム」(詐欺ゲーム)小説です。ジェフリー・アーチャーの「百万ドルをとり返せ!」の影響もあるかもしれません。パズラーと呼ばれる謎解きのミステリーが、ほとんどあらゆるパターンが出尽くして手詰まり感があったのに対し、コン・ゲーム小説は新しい可能性を開いたといえると思います。
出てくるコン・ゲームの内容について不満があるのは、小林信彦が得意なTV局関係と映画マニア関係に偏っていることです。この2つに関係ないのは一番最初の銀行を騙す話と、「ふたたび」の方の最後の話での絵画を使った詐欺だけです。また、騙される側として、資産家の医者である宮田老人というのがルーティーンで何度も登場しますが、実際のコン・ゲームでは同じ相手というのはタブーなんではないかと思います。
片山杜秀の「未完のファシズム」
片山杜秀の「未完のファシズム」を読了。第二次世界大戦(大東亜戦争)での日本軍の神がかった精神主義、玉砕主義がどこから来たかを明らかにしようとする労作。従来、戦前の日本軍については、日露戦争の栄光→大東亜戦争の悲惨、という流れで語られるのがほとんどだったのを、その2つの戦いの間に起こった第1次世界大戦の重要性を提起しています。第1次世界大戦で「総力戦」の思想が生まれ、それがある意味傍観者の立場で第1次世界大戦を研究していた「持たざる国」の日本陸軍の各人にどのような影響を及ぼしたかを考察しています。
(1)小畑敏四郎
「持たざる国」として、戦いにおいては奇襲・側面攻撃を重視した「殲滅戦」を主張。一方で「持てる国」との戦いは回避するという思想。しかしながら小畑を含む皇道派は二・二六事件で粛正され国の方針に対する影響力を失う一方で、この「殲滅戦」の思想だけが1928年に改訂された「統帥綱領」に反映され、これが大東亜戦争時にまで改訂されず持ち越され「持てる国」である米国相手の戦いに適用されてしまう。
(2)石原莞爾
「持たざる国」を「持てる国」に変えて、それから最終戦争を行って勝てばよいという思想。しかし、石原が想定した最終戦争の始まりは早くても数十年後だったが、実際には1941年に対米戦争に突入。また石原が首謀した満州事変は、軍部だけの独走を既成事実化し、日本全体での意思統一をできなくした。
(3)中柴末純
「持たざる国」が「持てる国」に対抗するには、精神力で足らない部分を補うしかないと主張。戦陣訓を執筆し、玉砕を相手に恐怖心を与え戦争を早めに終結させるものと美化した張本人。
(4)酒井縞次
「持たざる国」が戦争に勝つには、航空部隊や戦車部隊を使って、速戦即決で勝つしかないと主張。海軍の山本五十六に近い考え方。実際に日中戦争で機械化部隊を率いて参戦するが、機械化部隊は歩兵の支援でしかないと考える当時の陸軍の元で分散運用され十分な戦果をあげられず、結局予備役にされる。
題名の「未完のファシズム」は、持たざる国が戦争に勝ち抜くためにはいずれの方向に行くにせよ、国全体を一つにして強力に国策を進めていくことが必要だったが、明治期に作られた国家体制は全体に分権的でそういう一元的な仕組みが欠けていたと主張しています。
小林信彦の「背中合わせのハート・ブレイク」
小林信彦の「背中合わせのハート・ブレイク」を再読。1988年の作品で、単行本発売時には「世間知らず」というタイトルでしたが、作者が後に「世間知らず」という言葉が死語になっていることに気がついて、文庫本になる時に現在のタイトルに変えられました。私は、このため文庫本が出た時に新刊かと思って間違って買ってしまった記憶があります。
この小説は、1.小林信彦の高校時代をモデルにした青春小説 2.ラブストーリー 3.昭和25年当時、特に朝鮮戦争による世相の変化を描いた小説、の3つの観点で評価できると思います。最初に読んだ時はあまり感銘は受けなかったのですが、今回読み直して、よく出来た作品だと思うようになりました。
最初の青春小説としてですが、小林信彦の高校時代というのはあまりこれまで描かれていなかったので貴重です。映研の部室を勝手に建ててしまったり、高校の見学に来たGHQのメンバーにプラクティカルジョークを仕掛けたり、映画を撮ろうとして本物の拳銃を使い、それが警察に見つかったり、また空襲のシーンを撮るために火薬を調合しようとして、間違えて化学の実験室を爆破してしまったり、とはちゃめちゃぶりが大変面白く描かれています。
次のラブストーリーとしてですが、主人公は、またいとこの混血の女性に恋しますが、お互いに惹かれながら二人の恋はすれ違ってしまいます。長い年月が経って、すれ違いの真相が明らかになって、二人はやり直そうとするのですが…結末はとても切ないものです。
三番目の世相を描いた小説としてですが、小林信彦自身がもっとも幸福な時代として振り返っている昭和24年頃から、朝鮮戦争が始まり東西の冷戦の現実が身近に迫って来て、日本は逆コースという再軍備化の道を歩み始め、という時代の雰囲気が、小説ならではの描写で読む人に的確に伝わってきます。
小林信彦の「怪物がめざめる夜」
小林信彦の「怪物がめざめる夜」を再読了。1993年の書き下ろし作品です。小林信彦の第二期を飾る傑作と思います。Wikipediaの小林信彦の項に、「特に1993年の『怪物がめざめる夜』は、主人公である悪役の設定が凡庸であるとの批判があった。」とありますが、この批判は的外れもいいところで、このような誰が言ったかもわからないような批判をそのまま載せるのはどうかと思います。
作品の中で、複数のコラムニストによって一人の守備範囲が異常に広い架空のコラムニストをでっちあげるのは、小林信彦自身が、ヒッチコックマガジンの編集長だった時に既に考えていたことだそうです。しかしながら、当時は原稿が手書きだったため、筆跡でばれてしまうので実行に至らなかったということです。
この作品ではそのでっちあげられた架空のコラムニストが有名になり、実際の人間をその架空のコラムニストに充てざるを得なくなり、あるコメディアンを使うのですが、そのコメディアンがとんでもない怪物に育っていく過程が描かれた、一種のホラー小説になっています。そのコメディアンは毒舌という意味では初期のビートたけし、カリスマ性という意味では尾崎豊を思い起こさせます。
このコメディアンが怪物に育っていくのは、深夜ラジオというメディアを通じてですが、そのコメディアンがファンを扇動して、ファンが暴挙に及ぶ様は、現在ではインターネット上での炎上につながっています。そういう意味では、かなり時代を先取りした作品だと思います。