ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第31回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第31回目を公開しました。ここの所快調で、停滞気味だった4月頃のペースの倍近いペースで作業出来ています。ようやくヴェーバーのドイツ語の解読についての勘が戻ってきたのと、後中世のラテン語の解読のコツも分ってきたということかもしれません。この箇所では初めて「合資会社」が登場します。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第30回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第30回目を公開しました。この所いいペースで現時点での(最終校正前の一応の)完了予想は2020年11月10日です。一時はこの予想が2021年1月2日まで遅れていましたがかなり挽回しました。
ここでは新たにcapitaneusという英語のcaptainの語源となった単語が新たに登場します。ソキエタス・マリスで全体の貿易ビジネスの総責任者という意味です。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第29回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第29回目を公開しました。今回から第4章に入り、12世紀のピサでの慣習法の集成であるConstitutum Ususにおいて、連帯責任の原理の発展を確かめるという内容になります.
最近、翻訳の進捗は好調で、ヴェーバー没後100年の今年中に何とか完成出来そうです。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第27回目を公開しました。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第27回目を公開しました。この章での議論も佳境に入っており、合名会社という単語がこの章にて初めて登場し、商号の利用とからめて、それがこれまでの議論と結び付けられようとしています。この章の議論も後1回で終わりです。4月は進捗が遅延気味ですが、ここの所ペースが上がって来ており、現時点での完成時期は2020年11月末になっています。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳第26回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第26回目を公開しました。
https://max-weber.jp/archives/868
この章も後2回くらいで終わりです。ヴェーバーは合名会社や合資会社の有限責任、無限責任という考え方が家共同体から発生したということを述べたいのだと思いますが、個人的にはちょっと引っ掛かります。それに合名会社や合資会社におけるローマ法的なソキエタスからの考え方からの一種の飛躍は、イタリアで自然発生的に出てきたものではなく、中東のイスラム圏からもたらされたと考える方が自然だと思うからです。ですが今の所はヴェーバーのお手並み拝見という感じです。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳第25回目

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第25回目を公開しました。翻訳のスピードは4月はかなり低下していましたが、連休もあって5月はかなり挽回しました。翻訳が一応完了するのは2020年12月末の予定です。この部分にも中世のイタリアの諸都市の法規における中世のラテン語が登場します。しかし、文学作品でないので修辞法を駆使したりはしておらず、大部慣れては来ました。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の24回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第24回目を公開しました。
合名会社と合資会社の違いは合名会社が無限責任社員だけで構成されるのに対し、合資会社では無限責任社員以外に有限責任社員がいます。
ヴェーバーは家ゲマインシャフト、家計ゲマインシャフトにおいて、その成員が契約した場合の債務がその人の出資分だけの責任となるのか、あるいはゲマインシャフトの財産全体の責任になるのかという点についての、イタリアの諸法規の変遷を追いかけて行きます。なかなか面白い所ですが、難解でもあります。
これでお陰様で既訳分が全体の50%を超え、折り返し地点を過ぎました。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第23回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第23回目を公開しました。
この部分では、ソキエタスのメンバー同士で連帯責任原則があったのと同様に家共同体でも連帯責任が普通だったことを、イタリアの色んな都市の法規を引用して延々と述べていきます。もちろん1次資料ではなく、ラスティヒその他の論考に出て来るものを主に使っていますが、それにしても良くこれだけ参照しているものだと感心します。

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第22回目を公開

ヴェーバーの「中世合名会社史」の日本語訳の第22回目日本語訳の第22回目を公開しました。今回の箇所はラテン語の引用が2箇所、17世紀のイタリア語の引用が1箇所あり、かなり大変でした。しかし、家の相続ゲマインシャフトから後に合名会社となるソキエタスが発展してくるのだという、この論考の中心となる部分です。