機械式印刷によるファクシミリ版について

私は、「羽入式疑似文献学の解剖」(PDF版P.8)の中で以下のことを書きました。
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なお、ファクシミリ版というのは、オリジナルの各頁を写真に撮り、それを元にオフセット印刷の版を作成し(あるいは近年ではDTP技術で)、新たに本物に似せて印刷し直したレプリカである。このオフセット印刷自体の発明が1903年から1904年にかけてなので、当然のことながら、ヴェーバーが「倫理」論文を執筆していた時にはファクシミリ版は存在していない。(他の方法による復刻版が存在していた可能性は否定しないが、いずれにせよ今日のファクシミリ版のように一般的に入手できるものはほとんどなかったと推定する。)
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この中で、「ヴェーバーが「倫理」論文を執筆していた時にはファクシミリ版は存在していない。」というのは間違った記述でした。読まれた方にお詫びします。ファクシミリ版は、写真印刷の技術がまだない機械印刷の時代にも存在していました。(ちなみに、書類を電送する装置であるいわゆる「ファクシミリ」よりも、「ファクシミリ版」の方が「ファクシミリ」という言葉にかけては先です。ラテン語の”fac simile”{似たものを作る}から来ています。)このことに気がついたのは、今読んでいる「テクストとは何か 編集文献学入門」(明星聖子+納富信留 編)の中の「聖なるテクストを編集する ---新約聖書」(伊藤博明)の中に、フリードリヒ・コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフという人が19世紀に、新約聖書の写本のファクシミリ版を多く出版した、とあることからです。

なお、マリアンネ・ヴェーバーの「マックス・ウェーバー」の1903年6月9日の記事に、「私はレンブラントの炭素写真版(カーボンプリンティング)版を買わずにはいられなかった。それはたしかに原画を見ているものにしか完全な理解を与え得ないものだがね。」というのがありますが、ここでヴェーバーが言及している「炭素写真版(カーボンプリンティング)」は、初期の写真技術を利用したファクシミリ版のようなものではないかと思います。ヴェーバーが言っているように、しかしそれはオリジナルからかなり劣化したコピーに過ぎず、今日のファクシミリ版とは品質がまるで違います。

という訳で、ヴェーバーの時代にもファクシミリ版は存在していました。ただ、今日のように隆盛を極めている訳ではなく(今たまたま確認したら、1560年のジュネーブ聖書のファクシミリ版がAmazon日本で¥8,351で買えます)限定されたものであると考えられ、特にイギリスの欽定訳聖書より前の古聖書のファクシミリ版が一般に出回っていたとは想定しにくいです。

なお、ついでですが、上記のヴェーバーについての記述は、ヴェーバーがオランダに滞在している時のものです。ウィリアム・ティンダルの最初の英訳聖書が印刷されたのはアントウェルペンですし、その後ジュネーブ聖書についても、海賊版という形でアントウェルペンで大量に印刷されました。もしかすると、ヴェーバーが各種英訳聖書の現物を手に入れたのは、このオランダ滞在中だったのではないか、と思うようになりました。

Max Weber im Kontext

“Max Weber im Kontext”という、マックス・ヴェーバーの主要著作が入ったCD-ROMを購入しました。
(詳細な情報はここにあります。)

ただ、インストールに色々苦労しました。
(1)インストールが途中で止まってしまう。→これはカスペルスキーを一時的に止めて再度やってみたらOKになりました。
(2)ギリシア語が文字化け→これはCD-ROMの中にあった、フォントが入ったZIPフォルダーを本体にコピーして解凍し、その中にあったギリシア語フォントを手動でインストールしたらOKになりました。
Amazonのドイツで買いました。本体が€86、送料が€15.5で合計が€101.5、日本円で13,702円くらいです。安くはないですが、これでWeberの著作のかなりの部分が参照できるのは有り難いです。結構ヴェーバーの政治的な発言までカバーされているように思います。(ちなみにダウンロード版だと€80で多少安いです。但し、かなりの容量があるので、ダウンロードにかなり時間がかかりそうです。)

以下が収録内容です。
(日本語訳名は、既出の日本での翻訳の題を借りているのが大部分ですが、翻訳が無いものは私が訳している場合があり、必ずしも正確ではない可能性があります。また出版年順に並べ替えました。)
Zur Geschichte der Handelsgesellschaften im Mittelalter (1889)「中世商事会社史」
Die römische Agrargeschichte  in ihrer Bedeutung für das Staats- und Privatrecht (1891)「ローマ農業史 国法と私法への意味付けにおいて」
Die ländliche Arbeitsverfassung (1893)「農業の労働状態」
Entwickelungstendenzen in der Lage der ostelbischen Landarbeiter (1894)「東エルベの農業労働者の境遇における発展諸傾向」
Die Börse (1894/96)「取引所」
Der Nationalstaat und die Volkswirtschaftspolitik (1895)「国民国家と経済政策」
Die sozialen Gründe des Untergangs der antiken Kultur (1896)「古代文化没落の社会的諸原因」
Roscher und Knies und die logischen Probleme der historischen Nationalökonomie (1903-1906)「ロッシャーとクニース」
Agrarstatistische u. sozialpolitische Betrachtungen zur Fideikommißfrage in Preußen (1904)「プロイセンにおける『信託遺贈地問題』の農業統計的、社会政策的考察」
Die »Objektivität« sozialwissenschaftlicher u. sozialpolitischer Erkenntnis (1904)「社会科学と社会政策にかかわる認識の『客観性』」
Der Streit um den Charakter der altgermanischen Sozialverfassung in der deutschen Literatur des letzten Jahrzehnts (1904)「古ゲルマンの社会組織」
Diskussionsreden auf den Tagungen des Vereins für Sozialpolitik (1905, 1907, 1909, 1911)「社会政策学会の大会における討議演説集」
Zur Lage der bürgerlichen Demokratie in Rußland (1906)「ロシアにおける市民的民主主義の状態」
Rußlands Übergang zum Scheinkonstitutionalismus (1906)「ロシアの外見的立憲制への移行」
Kritische Studien auf dem Gebiet der kulturwissenschaftlichen Logik (1906)「歴史学の方法」
R. Stammlers »Überwindung« der materialistischen Geschichtsauffassung (1907)「R・シュタムラーにおける唯物史観の『克服』」
Die Grenznutzlehre und das »psychophysische Grundgesetz« (1908)「限界効用学説と『心理物理的基本法則』」
Die sogenannte »Lehrfreiheit« an den deutschen Universitäten (1908)「ドイツの大学における所謂『教授の自由』」
Methodologische Einleitung für die Erhebungen des Vereins für Sozialpolitik über Auslese und Anpassung (Berufswahlen und Berufsschicksal) der Arbeiterschaft der geschlossenen Großindustrie (1908)「封鎖的大工業労働者の淘汰と適応(職業選択と職業運命)に関する社会政策学会の調査のための方法的序説」
Zur Psychophysik der industriellen Arbeit (1908/9)「産業労働の精神物理学について」
»Energetische« Kulturtheorien (1909)「『エネルギー論的』文化理論」
Die Aufgaben der Volkswirtschaftslehre als Wissenschaft (1909)「国民経済学の科学としての課題」
Zur Methodik sozialpsychologischer Enquêten und ihrer Bearbeitung (1909)「社会心理学調査の手法とその処理について」
Agrarverhältnisse im Altertum (1909) 「古代社会経済史 古代農業事情」
Geschäftsbericht u. Diskussionsreden auf den dt. soziolog. Tagungen (1910, 1912)「ドイツ社会学会の討議についての報告」
Über einige Kategorien der verstehenden Soziologie (1913)「理解社会学のカテゴリー」
Bismarcks Außenpolitik und die Gegenwart (1915)「ビスマルクの外交政策と現代」
Zur Frage des Friedenschließens (1915/16)「平和の終焉という問題について」
Zwischen zwei Gesetzen (1916)「二つの律法のはざま」
Der verschärfte U-Bootkrieg (1916)「潜水艦作戦の強化」
Der Sinn der »Wertfreiheit« der soziologischen und ökonomischen Wissenschaften (1917)「社会学および経済学の『価値自由』の意味」
Deutschland unter den europäischen Weltmächten (1917)「ヨーロッパ列強とドイツ」
Deutschlands äußere und Preußens innere Politik (1917)「ドイツの対外政策とプロイセンの国内政策」
Ein Wahlrechtsnotgesetz des Reichs (1917)「選挙権にかんする帝国の緊急法」
Rußlands Übergang zur Scheindemokratie (1917)「ロシアの外見的民主主義への移行」
Die Lehren der deutschen Kanzlerkrisis (1917)「ドイツの宰相危機の教訓」
Die Abänderung des Artikels 9 der Reichsverfassung (1917)「帝国憲法第九条の改正」
Die siebente deutsche Kriegsanleihe (1917)「第七次のドイツの戦時公債」
Vaterland und Vaterlandspartei (1917)「祖国と祖国党」
Bayern und die Parlamentarisierung im Reich (1917)「バイエルンと帝国の議会主義化」
Bismarcks Erbe in der Reichsverfassung (1917)「ビスマルクの外交政策と現代」
Wahlrecht und Demokratie in Deutschland (1917)「ドイツにおける選挙法と民主主義」
Der Sozialismus (1918)「社会主義」(Rede zur allgemeinen Orientierung von österreichischen Offizieren in Wien (1918)「ウィーンにおけるオーストリア将校への一般講話」)
Innere Lage und Außenpolitik (1918)「国内情勢と対外政治」
Parlament und Regierung im neugeordneten Deutschland (1918)「新秩序ドイツの議会と政府」
Die nächste innerpolitische Aufgabe (1918)「次の内政的課題」
Waffenstillstand und Frieden (1918)「停戦と平和」
Das neue Deutschland (1918)「新生ドイツ」
Deutschlands künftige Staatsform (1919e)「ドイツ将来の国家形態」
Zum Thema der »Kriegsschuld« (1919)「戦争責任の問題について」
Der Reichspräsident (1919)「帝国大統領」
Zur Untersuchung der Schuldfrage (1919) 「戦争責任問題の研究」
Wissenschaft als Beruf (1919)「職業としての学問」
Politik als Beruf (1919)「職業としての政治」
Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus (1920e)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
Die protestantischen Sekten und der Geist des Kapitalismus (1920e)「プロテスタンティズムの諸信団(ゼクテ)と資本主義の精神」
DIE WIRTSCHAFTSETHIK DER WELTRELIGIONEN: 「世界宗教の経済倫理」
I. Konfuzianismus und Taoismus (1920e)「儒教と道教」
II. Hinduismus und Buddhismus (1921e)「ヒンドゥー教と仏教」
III. Das antike Judentum (1921e)「古代ユダヤ教」
Nachtrag. Die Pharisäer. (1921e) 「パリサイ人」
Methodische Grundlagen der Soziologie (1921e)「社会学の基礎概念」
Die drei reinen Typen der legitimen Herrschaft (1922e)「正統的支配の三つの純粋型」
WIRTSCHAFT UND GESELLSCHAFT 1922E 「経済と社会」
Die rationalen und soziologischen Grundlagen der Musik (1925e) 「音楽社会学」

グリムのドイツ語大辞典のルターの発言の原典、その解釈

さて、グリムのドイツ語大辞典の”Ruf”の項での、ルターの用例の出典(原典)が判明しましたので、今度はその解釈です。まず、原典であるワイマール版ルター全集の方の正確なテキストを普通のアルファベットで記すと以下のようになります。

Und ist zu wissen, das dis wörtlin ‘Ruff’ hie nicht heysse den Stand, darinnen yemand beruffen wirt, wie man sagt: Der ehestand ist deyn ruff, der priester stand ist deyn ruff, und so fort an eyn iglicher hatt seynen ruff von Gott. Von solchem ruff redet hie S. Paulus nicht, Sondern er redet von dem Evangelischen ruff, das also viel sey gesagt: Bleybe ynn dem ruff, darinnen du beruffen bist, das ist, wie dich das Evangelion trifft, und wie dich seyn ruffen findet, so bleybe. Rufft dyrs ym ehestand, so bleybe ynn dem selben ruffen, darinnen dichs findet. Rufft dyrs ynn der knechtschafft, so bleyb ynn der knechtschaft, darynnen du beruffen wirst.

(以下拙訳)
そして知っておくべきことは、ここで使われている”Ruff”という小さな単語が、つまりよく言われるような「結婚している状態はあなたの”ruff”だ」とか、「聖職者である身分はあなたの”ruff”だ」などという意味での、各自がそこに召された「状態や身分(”Stand”)」を意味するのではないということです。すべての人はその状態や身分を神から与えられています。そのような”ruff”についてパウロはここで語っているのではありません。そうではなくて、パウロは福音的な召命(”ruff”)について語っています。それは多くの人がそう命じられているように、そこに召されたことになったその召命(”ruff”)の中に留まりなさいという命令で、つまり、あなたがどのように福音に出会ったのか、そしてどのようにその福音の召命(”ruffen”)を見出したのか、そういう風に(考えながら)その中に留まりなさいということです。その福音が結婚状態へと召すのであれば、その中に福音はあなたを見出したのだから、そこに留まっていなさい。福音があなたを奴隷の状態に召すのであれば、その中に召された、奴隷の状態に留まっていなさい。

ここで、グリムのドイツ語大辞典に引用されている、””und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff.”(ちなみにこの引用ではprister standが一語に変えられています)だけを見ると、ルターは元のギリシア語の”κληδις “を、「状態や身分」の意味ではないとしているように見えます。しかし、この引用の仕方は問題で、実際はルターはここを「状態や身分」ではない例えば「世俗的職業」とはまったく解していません。ここで言っているのは「単なる状態や身分」そのもののことよりも、そこへと召された「福音的召命」のことだと言っています。ヴェーバーもこの部分について次のように「倫理」論文の注の中で言及しています。「二〇節については、ルッターは一五二三年にこの章の釈義で、まだ古いドイツ語釈にならってκληδιςを≫Ruf≪と翻訳し、さらに≫Stand≪の意味に解している。」(In v. 20 hatte Luther im Anschluß an die älteren deutschen Übertragungen noch 1523 in seiner Exegese dieses Kapitels κληδις mit ≫Ruf≪ übersetzt (Erl. Ausgabe, Bd. 51 S.51) und damals mit ≫Stand≪ interpretiert.)
しかし、上記の通り、ここをルターが”Stand”の意味に解しているという説明も、正確ではないように思います。(「世俗的職業」として解していない、という意味では正しいですが。)

さらには、Johann Georg Walchがこの文を彼の時代のドイツ語に直した時に、”Bleybe ynn dem ruff”を”Bleibe in dem Beruf”に変えてしまったのも、”ruff”がルターの死後”Beruf”に変わったことの傍証としての価値はありますが、ルターの元の意味を変えてしまうので、全集の編集者としては問題があると思います。

ルターがここで言っていることは、私には非常にわかりにくく感じます。元々のパウロの書簡文では、その対象は異教徒からキリスト教に回心したコリント人(ギリシア人)ですから、「福音的召命」の瞬間ははっきりしていますので、その瞬間を常に思い起こしながら、自分の今の身分や状態を振り返りなさいという命令は説得力があります。しかし、このルターの説教が対象にしているであろう当時のドイツの一般の信徒にとって、幼児洗礼でキリスト教徒になっている人がほとんどだと言うことを考えると、ここのルターの説明はあまり響かないように思います。

それから、ルターが言っているように、”ruff”という言葉が、その当時一般的には状態や身分を想起させる言葉であるならば、ルターが込めている意味をいつも想起するのはかなり困難なように思います。ルターは結局1545年の生前ルターが関わった最後の版の新約聖書まで”ruff”という最初の訳語にこだわり続けます。もしかすると、ルターの死後”ruff”が”Beruf”に変わったのは、そういう意味の曖昧性を持つ語が後の編集者によって避けられたのではないか、という気がします。もちろん”Beruf”を世俗的職業も含めた意味で使う場合には、ルターのここでの「福音的召命」という解釈からさらにもう一歩飛躍が必要ですが。

グリムのドイツ語大辞典でのルターの言葉の原典(1月28日追記)

私は、2006年11月23日にアップした「羽入式疑似文献学の解剖」(ナカニシヤ出版の「日本マックス・ウェーバー論争」にも収録)の注釈の中で以下のように書きました。
http://www.shochian.com/hanyu-hihan-fc107.pdf
「グリムのドイツ語大辞典(CD-ROM版)で、”Beruf”と”Ruf”を調べてみた。このドイツ語大辞典が最終的に完成したのは、本文中に記述した通り1961年のことであるが、”Beruf”の項は1853年にJ. Grimm、”Ruf”の項は1891年にM. Heyneにより編集されており、ヴェーバーが倫理論文を書く前の編集である。ヴェーバーがグリム大辞典(の当時出版されていた分冊)を参照したかどうかは倫理論文中には記載されていないが、OEDの前身のNEDをあれだけ参照しているヴェーバーがグリム大辞典を参照しなかったということは想定しにくい。

“Beruf”の項では、2つの語義が書かれている。1つめはラテン語のfamaにあたる、「名声・評判」という意味である。2番目の語義が、ラテン語のvocatioに相当し(ドイツ語ではさらに新たな意味が付与された)、いわゆる「天職」である。ここでグリム大辞典は、この意味での語源の一つを、”bleibe in gottes wort und übe dich drinnen und beharre in deinem beruf. Sir. 11, 21; vertraue du gott und bleibe in deinem beruf. 11, 23” 、つまりヴェーバーと一致して「ベン・シラの書(集会の書)」としている。

これに対し、”Ruf”の項では、「過渡的な用法」として、「(内面的な使命としての)職業」を挙げている。また、「外面的な意味での職業」、つまり召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかったと説明されている。さらにはルター自身の用例が挙げられている:” und ist zu wissen, das dis wörtlin, ruff, hie (1 Cor. 7, 20) nicht heisze den stand, darinnen jemand beruffen wird, wie man sagt, der ehestand ist dein ruff, der priesterstand ist dein ruff. LUTHER 2, 314a” このルターの章句がどのような文脈で使われたものなのか、残念ながらまだ突き止められていない。しかしながら、ルター自身が、コリントI 7.20のこの部分を、今日のほぼすべての学術的聖書が採用する「状態」(Stand)の意味ではない、と明言しているのは非常に興味深い。(以下略)」

このグリムのドイツ語大辞典のルターの用例の原典を、実に11年2ヵ月の期間をかけて、ようやく突き止めることが出来ました。
それはJohann Georg Walchというルター派の神学者が1740年から1753年にかけて出した24巻のルター全集(ルターの著作にはドイツ語だけではなくラテン語のものも多く含まれますが、この全集はラテン語のものをすべてドイツ語に翻訳しています)の中のルター全集の第8巻の中に含まれていました。( Dr. Martin Luthers Sämmtliche schriften, Achter Theil, Auslegung Johannes 7-20, ApG 15 und 16 und 1 Kor 7 und 15, kürzere Auslegung der Epistel an die Galate)
ルターがこの部分の説教を行ったのは1523年8月となっています。ヴァルトブルク城で新約聖書のドイツ語訳を完成させた約1年後です。

該当部分の画像をアップします。そして、問題の箇所を含む部分をテキスト化(元はFraktur=ヒゲ文字のドイツ語)したのが以下です。
(全巻のテキストは、 https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015074631824;view=1up;seq=1 で見ることができます。)

Und ist zu wissen, daß dies Wörtlein “Ruf” hier nicht heiße den Stand, darinnen jemand berufen wird; wie man sagt: Der Ehestand ist dein Ruf; der Priesterstand ist dein Ruf; und so fortan. Ein jeglicher hat seinen Ruf von Gott. Von solchem Ruf redet hier St. Paulus nicht, sondern er redet von dem evangelischen Ruf, daß also viel sei gesagt: Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist, das ist: Wie dich das Evangelium trifft, und wie dich sein Rufen findet, so bleibe. Ruft dir’s im Ehestande, so bleibe in demselben Rufen, darinnen dich’s findet; ruft dir’s in der Knechtschaft, so bleibe in der Knechtschaft, darinnen du berufen wirst.
(一部小文字を大文字に変更)

やはり原典に当たってみるということは重要で色々と注意事項があります。

(1)元のルターの説教はラテン語だということです。つまりグリムのドイツ語大辞典に引用されているのは、ルターのラテン語テキストをWalchが(その当時の)ドイツ語に訳したもので、ルターが自分でこのようなドイツ語をしゃべったのではないということです。
(元のルターのラテン語は、別途探してみるつもりです。)
→1月28日追記:これは私の勘違いで、最初からドイツ語でした。ワイマール版ルター全集の第12巻のP.132にオリジナルがありました。
D. Martin Luthers Werke, Weimar 1883-1929
Weimarer Ausgabe – WA
12 Reihenpredigt über 1. Petrus 1522; Predigten 1522/23; Schriften 1523
Das siebente Kapitel S. Pauli zu den Corinthern. 1523.
P.132
興味深いのは、このルターのオリジナルでは、”Bleybe ynn dem ruff, darinnen du beruffen bist,”がWalch版では”Bleibe in dem Beruf, darinnen du berufen bist”になり、ruffがBerufに置き換えられていることです。Walch版はルターの死後約200年後(ヴェーバーの約150年前)ですが、この間にruffがBerufに置き換わったという文献的証拠の一つになります。(羽入はルター聖書ではBerufではなく、ruffだったということを世界的発見のように書きますが、要はruffが使われなくなりその後Berufに変わったということは、ヴェーバーの当時は公知の事実だったということです。)

尚、このワイマール版のが検索で見つからなかった理由ですが、Frakturのテキスト化が無茶苦茶だからです。おそらく普通の書体用のOCRでFrakturをテキスト化しています。PDF版からこの部分のテキストを取り出すと以下のようになります。これではヒットする訳がありません。

Unb ift au tüiffen, ba§ bi$ luortlin ‘ytuff’ Ijie nid^t Ijeljffe beu ftanb,
borljuueu Ijemaub beruffen tüirt, iDte mau fagt: Der cljeftanb ift belju ruff,
ber priefter ftanb ift belju ruff, unb fo fort au el)u iglic^er ^^att feljueu ruff 25
öon ©Ott. 3>ou foldjem ruff rebet l)ie 6. 5pautu’^ uidjt, Sonbern er rebet öon
bem Gnaugelifdjen ruff, ba§ alfo öiel fei) gefagt: ^leljbe ijnii bem ruff,
barl)nnen bu beruffen bift, ha§ ift, loie bic^ ba§ ©öangelion trifft, uub mie
bidj fel)u rüffeu finbet, fo bleljbe. ^Küfft bQrs ijui eljcftanb, fo bleljbe l)uu
bem fclben rüffeu, barljuncn bic^y finbet. Ütüfft bljrS l)un ber fnec^tfd^afft, 30
fo bleljb Ijun ber fnec^tft^aff t , barljunen bu beruffen luirft.

(ワイマール版ルター全集は、ここで参照できます。)

(2)確かにルターは、コリントⅠ7,20の”Ruf”を、「結婚している状態」の「状態」や、「聖職者としての身分」の「身分」の意味ではない、と言っていますが、上記の部分を読む限り、それが「世俗職業」の意味だとは一言も言っていません。テキストから読み取られるのは、そうした「結婚している状態」や「聖職者としての身分」にある時に「福音としての召命」を受け、その「福音としての召命」がからんだ「状態」や「身分」がRufだと言っているように思えます。これはパウロが元々言っていることと大きく隔たっていないように思います。グリム辞書が「召命的な意味を含まない職業の意味ではほとんど用いられたことがなかった」と書いているのはまさに正しいと思います。

ところで、今回テキストの原典を発見できた理由ですが、それはGoogleがこの本を電子テキスト版にしてネットにアップしてくれたからです。2008年当時は色々検索語を変えて検索してもまったくヒットしませんでしたが、今回”wie man sagt, der ehestand ist dein ruff,”のGoogle検索で1番目に出てきました。それまでに、「ルター全集」のソフトウェアを買ったり、ワイマール版ルター全集のテキストが参照できるページで必死に検索を繰り返していたのが馬鹿みたいです。テクノロジーの進化というのは恐ろしいもので、自称だけのインチキ文献学者とか、インターネット上の文献をぱくって論文を書くような学者は、もう完全に淘汰されていると言っていいと思います。

ちなみに、昨年の10月31日が、ルターが95ヶ条の論題を発表し、宗教改革が始まって丁度500年でした。そういう節目の年にルターの発言の原典が見つかって感無量です。

Wiliam Fulkeのカタカナ表記は「ファルク」か「フルク」か-羽入辰郎の(ある意味どうでもいい)指摘への反論

羽入辰郎が、「マックス・ヴェーバーの犯罪」に対する批判に対して回答した書が「学問とは何か -『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後-」です。この本の内容はあまりに低劣極まりないものなので、あまり言及したくないのですが、その中のP.135からP.142が私の文献調査への言及となっています。その中のP.138に「ファルク[sic: 正しくはフルク]」というのが執拗に何度も登場します。Wiliam Fulkeという、カトリックを批判した注釈を付けた新訳聖書を1589年に出したイギリス人のことなのですが、私はウィリアム・ファルクという表記を使っています。これに対して羽入はそれは誤りで「フルク」が正しいと言っているのですが、果たしてこの訂正は正しいでしょうか?(sicというのは、「原文のまま」という意味で、誤りだと思っているけどそのまま引用します、という意味)

ちなみに、外国人名のカタカナ表記というのは、辞書屋にとってはある意味非常に頭の痛い問題であり、色々と考えることがあります。お役所的な基準としては、文科省から内閣告示二号として「外来語の表記」というのが出されています。しかし、この基準はどちらかと言うと、「チェ」とか「ツァ」とか「ディ」のように、外国語の表記でしか登場しないカナ表記の基準を定めているだけで、一番問題になるその表記の「揺れ」については、留意事項の2で「「ハンカチ」と「ハンケチ」,「グローブ」と「グラブ」のように,語形にゆれのあるものについて,その語形をどちらかに決めようとはしていない。」とあっさり逃げてしまいます。

例えば、英語で”interface”という単語がありますが、インターネットを検索していただければ分かりますが、これの日本語カタカナ表記は、「インタフェース」「インターフェース」「インタフェイス」「インターフェイス」と実に4種類もあります。また、一部のエレクトロニクスメーカーのエンジニアが”computer”の語尾の”er”は長音ではない、とある時期言い出し、「コンピュータ」という表記がそういうメーカーやJISなどで使われ、マスコミでは「コンピューター」が使われる、という変な状況が長く続きました。これについては、かつてマニュアル執筆者の団体から批判が起き、マイクロソフトなどのIT系は「コンピューター」表記に変更して譲歩し、今は「コンピューター」が優勢になっています。しかし、こちらが本当に正しいのかというと、”slipper”については軒並み「スリッパ」であり、「スリッパ-」と表記する人はまずいません。(私はこれらの語尾の”er”は短音でも長音でもなく、1.5倍音とでも言うべきものだと思っています。)

外国人名のカタカナ表記について、準スタンダート的に扱われたものがあるとすれば、岩波書店の「西洋人名辞典」だと思います。私はこの本は持っていないのですが、この本も色々問題があって、たとえば「ポーランド人の氏名には長音を使用しない」という原則を出しているらしいです。そのせいで「なんとかスキー」とか「なんとかツキー」というスラブ系には共通する名前が、ポーランド人の場合だけ「なんとかスキ」とか「なんとかツキ」と表記される、というおかしな現象を生み出す元凶になっています。(この問題については、詳しくはここを参照ください。)

さらに例を挙げれば、アメリカのアイダホ州の州都はBoiseといいますが、これのカタカナ表記が「世界地名辞典」などに収録されているものが見事にばらばらで、「ボイス」「ボイシ」「ボイシー」「ボイジー」などが乱れ飛んでいます。私が発音機能付きの英和辞典で確認した限りでは一番原音に近い表記は「ボイシー」でした。

さて、Wiliam Fulkeのカタカナ表記に戻りますが、羽入の言うように、「フルク」が正しい表記で「ファルク」は間違っているのでしょうか?

日外アソシエーツという会社が、「外国人名読み方字典」というのを出していて、これで”Fulke”を引いてみると、「ファルク; フルク; フルケ」のように、「ファルク」が先頭に来ています。
(この日外アソシエーツという会社の作るものは個人的にはあまり信用していませんが、それはさておいて)

では、ネイティブである現代のイギリス人がFulkeをどう発音しているかですが、次のようなサイトで実際に音声を聞くことができます。
https://www.babynamespedia.com/meaning/Fulke
https://www.howtopronounce.com/fulke-greville/
http://www.pronouncekiwi.com/Fulke%20Greville
聞いていただくとわかりますが、一番多いのが「ファルク」に相当する発音、次が「フルク」ですが、「フルカ」に聞こえるのもあります。

また
https://www.babynamespedia.com/names/boy/lke-endのサイトでは以下の記載があります。
The baby boy name
Fulke is pronounced as FAHLK- †. Fulke is an English name of Germanic origin. Fulke is a variant spelling of the English name Fulk as well as a variant form of the English and German name Folke

とあります。厳密に言えば、ここの説明は「名前」としてのFulkeであり、「姓」としてのFulkeではありませんが、おそらく発音上での差はないと考えられます。ここでははっきりと発音は「ファルク」(またはファールク)であるとしており、なおかつ元々英語/ドイツ語のFolkeが英語に入って綴りが変わった単語(ヴァリアント)だとしています。ドイツ語式にこれを発音すれば「フォルケ」で、「ファルク」という発音はそれを踏襲していると言えます。

英語全般の発音の感覚から言っても”Fulke”を「フルク」と発音するのはきわめて違和感があります。(念のため、私の英語力はTOEIC 965点です。)上記のサイトでの確認でもわかるように、”Fulke”をイギリス人ネイティブに読ませたら一番多い発音は「ファルク」に近いものです。

以上の調査の結果から、羽入が言っている「正しくはフルク」という指摘は何の根拠もないことが判明しました。(この聖書学者だけ「フルク」と発音する、というのもおそらく何の根拠もないと思います。)多少譲歩したとしても現地で「ファルク」と「フルク」と「フルカ」という発音の揺れが存在するのであり、そのうち一つだけが正しいとする根拠は見当たりません。羽入の主張は、おそらくは日本の英語学者(の一部)が「フルク」というカタカナ表記を採用している、というだけのことだと思います。羽入のパターンとして、日本人英語学者の説を鵜呑みにして、それを根拠に他を居丈高に非難するというのがあります。典型的な例としては、永嶋大典の「英訳聖書の歴史」のある意味誤った記述を鵜呑みにして、ヴェーバーのみならずOEDまで間違っているというきわめて滑稽な批判をしたというのがありますが、今回もほぼ同じだと思います。

羽入が執拗に「ファルク[sic: 正しくはフルク]」を繰り返しているのは、要は他の論点に関しては完膚なきまでに反論されてしまい、何も言うことができないので、口惜しくてこんなどうでもいい所を執拗に言っているのだと思います。しかし、ここで論証したように、それすら根拠のない批判に過ぎません。