中里介山の「大菩薩峠」の第6巻を読了しました。間で白井喬二関係の2作がはさまったせいもありますが、そろそろ読むスピードが落ちてきた感じです。理由を考えると以下のようになります。私が大衆文学に求めるのは、(1)国枝史郎的な、いかにも「伝奇小説」というべき意外性に富むストーリー展開
(2)白井喬二的な、共感できる登場人物がカタルシスを与えてくれること、の2点です。
この点、この「大菩薩峠」は、(1)については、第5巻の感想で書いたように、登場人物の順列組み合わせ的なストーリー展開であり、「はらはらどきどき」という展開ではありません。それに何より話が暗い。継母のせいで顔に火傷してその跡が化け物のようになっているお銀様は、絵双紙の男女の顔を針でつついてつぶしたりする話が出てきます。(2)については、この小説には心から共感できるような人物が一人も登場しません。例えば、兄の敵を討とうと、武芸の腕を磨いた熱血青年であった筈の宇津木兵馬は、この巻では吉原の遊女に入れあげ、その遊女を身請けする金を得るため、自分とは本来関係のない殺人を請け負い、挙げ句の果ては間違えて罪のない馬方を斬り殺してしまいます。多少共感できる人物としては宇治山田の米友と道庵先生がいますが、米友はしばしばどうでもいいような喧嘩をわざわざふっかけますし、道庵先生は医者としての腕は良くて、報酬も18文しか受け取らない良心的な人物ですが、如何せんお調子者過ぎますし、米友に対して変な理屈をこねてからんだりする点もマイナスです。悪人の方ではいえば、主人公の机龍之助がまったく共感できない人物なのはもちろんですが、神尾主膳などもほぼ最悪の人物として描かれています。主膳の酒癖の悪い所は、以前勤めたH社の酒癖の悪い上司(4人以上の複数)(笑)を思い出して辟易します。
それでもこの作品が中谷博が言うようにインテリに人気があったのは、龍之助が問答無用で振るう暴力が、社会の中で鬱屈するインテリにとってのカタルシスだったからでしょう。1960年代後半から70年代前半にかけて、学生運動に挫折した大学生がヤクザ映画にはまったのと同じ現象のように思います。
作者の中里介山はこの作品が「大衆小説」とされることに強く異を唱えていたので、まあ大衆小説的でないから面白くない、と言っても仕方がありませんが。また、類型的な人間が登場せず、登場人物それぞれ一癖も二癖もあるのは、作者が人間の業というものを描こうとしたからだと思います。
中里介山の「大菩薩峠」第6巻
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