ニュータウンの末路

結構この記事(画像クリックでリンク)には感慨がありました。何故かというと1973年(当時12歳)に山口県下関市から福岡県の宗像市(当時は宗像郡宗像町)にあった、その当時西日本最大のニュータウンと言われていた日の里団地(想定人口20,000人)に引っ越したからです。確かにこの記事にあるように、トイレが水洗になったり、お風呂がガスになったり(下関の時は石炭でお風呂沸かしてました!)とか、生活の改善はあったのですが、それ以上に何もない所に来た、という感じが強かったです。大体引っ越して1ヵ月くらいで、日の里団地の中央にあった高層アパートで、ガス爆発事故が起きました。これは手違いで赤ちゃんを折檻死させた母親がガス栓を開いて自殺を図ったものでしたが、このガス爆発が結構な被害になったのは、当時の宗像町の消防署には、この高層アパートの高さに届くはしご車がなかったためです。その他、私の家から駅(鹿児島本線東郷駅)までは2Kmぐらいあるのに、バスすらありませんでした。(バスが開通したのは、団地が出来てから7年ぐらい経ってからです。)それから大きなショッピングセンターというと、車で2時間くらいかかる香椎アピロスまで行かないとダメでした。(これも5~7年目くらいにダイエーが出来た、今は閉店しています。)そして東郷駅は快速電車が停まりませんでした。(3年ぐらい経って署名運動とかあってようやく快速が停まるようになりましたが、今度は赤間-東郷-福間と快速が3駅連続で停まるという、別の問題が発生しました。)後、家は新築だったのですが、この当時の家はやたらと気密性を上げすぎて結露が発生しやすく、そのためダニが多く発生し、このため私はかなり重症の気管支喘息を発病し、その後も長くこれに悩まされました。その後どうなったかと言うと、多摩ニュータウンと同じで、ここで育った子供達は皆他に出ていって、今は高齢者ばかりの限界団地になっていると聞きます。ちなみに私の両親は、兄も私も東京で働いていたため、1990年に自宅を売却して西八王子に出て来ています。

参考:宗像地区消防本部のHPより
昭和48年11月15日宗像郡宗像町の日の里公団アパートにおいて、プロパンガスの爆発火災(死者2名、重軽傷者9名)が発生し、これに端を発し、直ちに宗像町議会で常備消防の必要性が議論され、これが郡内他町村へ波及し、広域消防設立への気運が高まった。
 その後、数回にわたる郡内町村長会議による協議の結果、宗像郡消防組合設立が決定され、昭和49年4月1日付をもって福岡県知事より消防組合設立の許可を受け、同年6月1日宗像郡消防本部、同年10月1日宗像消防署の設置を見るに至った。