「お江戸ル」こと堀口茉純の、「吉原はスゴイ -江戸文化を育んだ魅惑の遊郭」を読了。といっても読んだのはイタリアへ向かう飛行機の中でもう1ヵ月以上も前です。何となくレビューを書きそびれてしまいました。堀口茉純の本は「江戸はスゴイ」に続き2冊目の読書です。タレントの本というとゴーストライターが書いている例が多いと思いますが、彼女の場合は正真正銘本人が書いていると思います。何せ最年少で「江戸文化歴史検定1級」に合格した人ですので。
まず、この本は940円の新書とは思えないくらいカラーグラビアがたくさん入っていて、そこでお得です。吉原を当時の江戸の人がどういうイメージで捉えていたか、口で説明するより当時の浮世絵を見た方がはるかに早いのでこのグラビアの多さは効果的です。また筆者は吉原が女性が搾取される陰惨な場所とするイメージが主に明治以降作られたものであることを指摘し、江戸時代、特に最初の頃の吉原は大名や上位の地位にある武士のための高級な文化サロン的要素を持つ遊び場であったことを指摘します。私もその辺りの実態は落語や時代劇や時代小説で描かれたのを見ているだけですから、本当の所は知りません。まあかなり概説的な本ですので、正直な所得るところが多かったとはいえませんが、それなりには楽しめた本でした。
「Book」カテゴリーアーカイブ
王銘エン9段の「棋士とAI - アルファ碁から始まった未来」
王銘エン9段の「棋士とAI - アルファ碁から始まった未来」を読了。アルファ碁に関する本はもうこれで何冊目になるか分からないくらい読んでいますが、この本はアルファ碁の打つ手の分析とかではなく、アルファ碁を中心としたAIの碁が人間の碁のはるか先を行くようになり、(アルファ碁の最新バージョンだと、人間のトップ棋士より既に三子強いのだとか)、そういう時代に棋士はどうAIと向き合っていくか、といった所を述べた本です。囲碁に限らず、これからありとあらゆる分野で人間がやってきた仕事はすべてAIに脅かされずにはいられないでしょう。そういう時代に人間としてどういう技能を強化して生き残っていくべきか、色々と考えさせられる本です。NHK杯戦の囲碁を毎週観ている限りでは、人間のAIの碁の研究はまだ本当に始まったばかりであり、人間がAIの良さを吸収してもう一歩上に行くにはまだかなり時間がかかると思います。日本の囲碁はいまや中国や韓国の後塵を拝するようになって久しいですが、AIはその中国や韓国の棋士に勝つための有用なツールであって、日本の棋士にとっては大きな武器になると思っています。
高田郁の「銀二貫」
高田郁の「銀二貫」を読了。これはローマからの帰りの飛行機の中で読みました。元はたまたまAmazonで見つけて、レビューの平均が4.7と非常に高かったので買ってみたもの。作者はTV化されている「みをつくし料理帖」の原作者です。
で、帰りの飛行機の中というのは体調が良くなかったのですが、そのせいかもしれませんが、私的にはあまり響く所がありませんでした。ストーリーの展開がきわめてありがちで、大衆小説を沢山読んでいる私には、どこかで読んだようなものばかりです。主人公が新しい寒天を生み出そうと努力して、結果的に練り羊羹というものが生まれる、というその辺は割りと面白いのですが、例えば同じように食べ物を扱った小説では、芝木好子の「湯葉」なんかの方がずっと上だと思います。Amazonのレビューは、私に言わせるとちょっと褒めすぎで、色々本をたくさん読んでいる人は4.7なんていう、そこまで高い評価はまずしないと思います。
鳥飼玖美子の「歴史をかえた誤訳」
鳥飼玖美子の「歴史をかえた誤訳」を読了。この本を読んだのはローマへ向かう飛行機の中です。まず、タイトルの「歴史を変えた誤訳」として筆者(同時通訳者)が真っ先に挙げているのが、ポツダム宣言の通告に対し、当時の鈴木貫太郎首相が「黙殺する」と回答し、それを日本側か連合国側が英訳したのかはっきりしないのですが、ともかく”ignore”(無視する)と英訳されて、日本はまるで降伏する意思が無いと解釈されて、広島・長崎への原爆投下につながった、というものです。しかし、この話はきわめて変です。日本語の「黙殺する」という表現は単に「断る」というより更に失礼な表現で「そんなもの(相手の申し入れ)は最初から存在しなかったと扱う」というニュアンスがあります。つまり「黙殺」という表現を使った段階で、「拒否」の姿勢は明確であり、英訳の問題ではないと思います。実際に英辞郎で「黙殺する」の英訳を見ると、「deliberately ignore(意図的に無視する)●refuse even to comment on(コメントすることすら拒絶する)●take no notice (of)(まったく見なかったことにする)●treat ~ with silent contempt(口には出さない軽蔑をもって扱う)」などが挙げられており、強い姿勢の拒絶となることは明らかです。
また、「オレンジ色の猫」の話もこの本に出てくるものです。英語の小説に「orange color cat」は多数登場しますが、これを「オレンジ色」と訳すことが間違いで、訳すなら「(単なる)茶色の猫」です。この話から、英語のorangeはちょっとくすんだぼんやりした色にも使うのに対し、日本語ではそのままオレンジの「鮮やかな色」を想像するのと、また日本の「茶色」が英語のように暗めの色だけではなく、かなり明るい色も含むということです。
結局の所、100%正確な翻訳などというものはどこにも存在しないということだと思います。少しでも100%に近づこうとするなら、単なる言葉の置き換えではなく、対象となる言語の背景の文化や思考パターンまで身につけないといけない、ということだと思います。
マックス・ヴェーバーの「社会学の基礎概念」(阿閉吉男、内藤莞爾訳)
マックス・ヴェーバーの「社会学の基礎概念」(阿閉吉男、内藤莞爾訳)を読了。今、折原浩先生の仮説に基づく順番で「経済と社会」の旧稿を読み直している最中ですが、その前にこれもやっぱりきちんと読んでおかないといけないかと思い読んだものです。私が学生の時は清水幾太郎訳が岩波文庫で出ていましたが、この日本語訳がかなり問題が多いものだと聞いていましたので、今日まで読む機会がありませんでした。この阿閉・内藤訳は丁度私が卒業した年の翌年に出ています。
この「社会学の基礎概念」は、以前の「経済と社会」(ヨハネス・ヴィンケルマン編集による二部構成のもの)では、トップに置かれており、あたかもこれが「経済と社会」全体でのヴェーバーの方法論を示す論文だと理解されてきました。しかし、第二部のいわゆる「旧稿」については、この論文ではなく、1913年にLogos誌に発表された「理解社会学のカテゴリー」に準拠して読まなければならない、というのが折原浩先生の主張の内のもっとも重要な部分です。
それでは何故マックス・ヴェーバー自身が一度既に書いているカテゴリー論を新たに書き直す必要があったのか、という疑問が出てきます。それについては、ヴェーバーが1919年からミュンヘン大学で学生相手に「理解社会学のカテゴリー」に基づく講義を行った時の経験が影響していると言われています。「カテゴリー」論文では、ヴェーバーはゲマインシャフトとゲゼルシャフトという用語を、テンニースが最初にしたように「共同社会」と「利益社会」という対立概念ではなく、ゲマインシャフトの方がゲゼルシャフトをも包括する広い概念で、ある条件が整った特殊な場合のみがゲゼルシャフトであると定義していました。(正確に言うと、ゲマインシャフトとゲマインシャフトを直接定義したのではなく、ゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為という、人間の行為の種類の定義ですが。)ところが、このヴェーバーの定義がミュンヘン大学の学生にとってはテンニースの概念とごちゃごちゃになって極めて理解しづらいものだったと言われています。そのために、方法論論文をより一般向けにわかりやすく書き換えると同時に用語法も大幅に変更したのがこの「社会学の基礎概念」論文になります。そこではゲマインシャフトとゲゼルシャフトの定義がテンニースのものにかなり接近します。さらにゲマインシャフト行為、ゲゼルシャフト行為と言ったドイツ語そのものに起源を持つ特殊な用語法が消えて、その代わりにラテン語のsocietas(人の集まり、社会、組合といった意味)に起源を持つ、sozial-という形容詞を使ったsoziales Handeln(社会的行為)というかなり一般的な用語が使われるようになっています。
それと並んで重要なのは、「理解社会学のカテゴリー」ではかなり重要な概念として定義されていた「諒解」という概念(ゲマインシャフト行為の中で、例えば法律などによって目的合理的に協定された秩序を欠いているにもかかわらず、ある個人が理解していることを他の個人も理解しているであろうと予測しているのが「諒解」で例として貨幣の市場だとか言語共同体が挙げられています。)が、この「基礎概念」ではまったく消え去ってしまうことです。この理由は今の所私には理解できていません。しかし、例えば「法社会学」の冒頭部などを読めば、この「諒解」概念を理解することなしには、ヴェーバーの言わんとすることを理解するのはきわめて困難です。その意味で、この「社会学的の基礎概念」は「間違った頭」とされます。
竹内洋の「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」
竹内洋の「教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化」を読了。私は、羽生辰郎を批判した論文の最後でこう書きました。「バランス感覚に優れた研究活動をするためにも、またそうした研究活動を正当に評価するためにも、「長い時間をかけて涵養された深くて広い教養」は不可欠であると確信する。羽入の出身学科が「『教養』学科」であるというのは、皮肉なことである。筆者はアマチュア研究者として、そしてもう一人の「『教養』学科」出身者として敢えて今、「教養」の意義を世の中に訴えたい。 」
私の大学の出身学科は「教養学部教養学科」で「教養」が2つも付きます。しかし、世の中で「教養学科」というのはほとんど認知されておらず、就職してから何度も「先生にはなろうとは思わなかったんですか」と「教育学部」と間違えられました。しかし、元はと言えば「教養学科」は戦後英語での”liberal arts school”をモデルとして作られたもので、欧米では非常にポピュラーであり、根源を辿れば古典ギリシアの「7つの自由学芸”Seven liberal arts”」にまで行き着く伝統的な概念です。(ちなみに7つとは、文法学・修辞学・論理学の3学、および算術・幾何学・天文学・音楽です。私は色んな語学でさんざん文法はやっていたし、修辞学も結構その頃流行り{ロラン・バルトの「旧修辞学」など}で学んでいたし、音楽は石井不二雄先生や杉山好先生に教わったし、算術・幾何学・天文学といった理科系科目を除けば結構この7つに近いことを学んでいました。)
そういう訳で、日本における「教養」概念の変遷を求めてこの本を読んだんですが、1942年生まれの筆者の昔懐かし話という面が強いと言わざるを得ません。上記したような「教養概念」の東西での比較(ヴェーバーが「儒教と道教」で書いたように儒教には間違いなく「読書人」という一つの理想があります)とかはまるでなく、「昔はこうだった」という話に終始しています。まあ高橋和己(昭和6年生まれ)が旧制高校の教養主義を経験した最後の世代で、その後の大江健三郎や石原慎太郎は新制高校世代である、といった説明はそれなりには興味深いものでしたが。(ちなみに私の亡父は昭和7年生まれなので、新制高校第一期生みたいな世代です。)
また私の世代(1980年代に大学に入った世代)にとっては、かつて総合雑誌(「中央公論」「太陽」「改造」といったもの)に載った論文がそんなにインテリ層に読まれていた、というのはちょっと想像が付かないです。私の世代ではもはや読むべき雑誌というのは、むしろ「ぴあ」みたいなカルチャー系になっていたと思います。しかしだからといって1980年代になって教養主義が大学から完全に無くなったとは私には思えません。筆者は認めないかもしれませんが、手塚治虫の「火の鳥」や「ブッダ」、白土三平の「カムイ伝」を読むのだって、立派な教養主義だと思っています。
マックス・ヴェーバーの「経済行為の社会学的基礎範疇」(富永健一訳)
マックス・ヴェーバーの「経済行為の社会学的基礎範疇」を読了。これは、折原浩先生による「経済と社会」旧稿の再構成案で、「理解社会学のカテゴリー」に続いてトップに置かれているものです。但し注意が必要なのは、この部分は第一次世界大戦後にヴェーバー自身が旧稿を見直して校正を終了した「新稿」だということです。中を読めばこのことを裏付けるものはいくらも出てきて、戦争中の各国の金本位制の停止の話だとか、戦争中の統制経済の話、または終戦後にドイツの労働者が力をつけて経営者と話し合う協議会みたいなものを作って企業の経営に参加した話などが出てきます。
また、この「基礎範疇」部は、ヴェーバー自身が何度も書いているように、「決疑論(カズイスティーク)」の典型例だということも重要です。「決疑論」というのはあまりなじみのない言葉で、説明を聞いてもなかなか理解できない概念ですが、元はカトリックから出てきた言葉で、カトリックの教会の神父が、信者から告解(懺悔)を聞いた時に、基本的なことしか定めていないカトリックの教義体系からは、どう扱っていいか分からないような複雑で時には教義と矛盾する個別の事実に対し、どのように神学として処理して現実的な指針を与えるか、ということを研究した学問のようです。ラテン語の”casus”(事例、ドイツ語化するとKasus)に学問や技術を表す接尾辞である”istik”がくっついたものと言えます。
このように、元はカトリック神学から来ている言葉なのですが、ヴェーバーの文脈では、むしろ法学的な発想が元になっていると思います。法学の世界においても、既に存在している法が規定する事態と、現実に起こる数々の事例の間には、簡単に既存の法概念を適用すれば終わり、ということではなく、どのような法概念を持ちだしてくれば、新しく出てきた事例をきちんと法的に処理できるか、という問題が常に発生しています。ヴェーバーにおいては、理念型として設定された歴史上の事実を描写するための各類型が、実際の事象にどのように適合するのかしないのか、しないのであれば各類型をどのように考え直せばいいのか、そういったせめぎ合いがまさにヴェーバーのいう「決疑論(カズイスティーク)」なのではないかと思います。
ちなみに、私がこの語の意味を理解するきっかけとなったのは、森鴎外の小説「カズイスチカ」を読んだ時です。その中で、若い医者である花房がある農民の息子が破傷風にかかったのを往診し、実際の患者を診て「内科各論の中の破傷風の徴候が、何一つ遺(わす)れられずに、印刷したように目前に現れていたのである。」ということに感心する、といった話です。医学の世界でも医学書が規定する各種の病気の病態と、現実の患者に現れる様々な病状を照らし合わせて病名を決定していく時に、まさしく神学や法学と同じような「決疑論」が使われる訳です。
また、ヴェーバーの社会学を理解する上で重要なのは、この決疑論の部分もそうですが、やはり原点は法学からだということです。ヴェーバーより25年若いドイツの法制史家のハインリヒ・ミッタイス(ヴェーバーの先輩の法制史家でRentenkaufの概念を古代ギリシアの事例を分析するのに適用したルートヴィヒ・ミッタイスの息子)は、「ドイツ私法概説」の中でこう書いています。「人間の団体に関する理論は、ドイツの法律学の最も重要な部分である。諸国民の社会的・文化的・政治的生活は団体の中でおこなわれ、団体は国家とその部分団体において頂点に達する。」「ローマ法は個人法の領域で、ドイツ法は社会法の領域で、その不滅の功績をあげたのである。」(創文社、世良晃志郎・廣中俊雄共訳、1961年初版、P.82)ヴェーバーの社会学はこうしたドイツ法学の伝統と切り離して考えることは出来ないと思います。
また、もう一つ興味深いのは、この「基礎範疇」の中で、ヴェーバーは貨幣論を取り上げますが、その内容のほとんどが、クナップの「貨幣国定学説」の再構成だということです。クナップは金属貨幣に見られるような実質的な使用価値よりも、紙幣に見られるような国家権力によって支えられた「シンボル性」を重視します。しかし、私はそれをさらに進めて、「貨幣とは言語と同じようなシンボルの体系である」と言い切る、カール・ポランニーの貨幣論を既に知っていますので、まったく驚きませんし、またヴェーバーは1920年に亡くなっていて、いわゆるハイパー・インフレーションの初期の状態は経験しているのですが、後数年生きてその後の大インフレーションの時期を経験していたら、その後自分の貨幣論をどう書き直したであろうか、という興味があります。
マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳
(以下は4月17日に書いたものです。)
マックス・ヴェーバーの「中世合名会社史」の英訳がアメリカのAmazonから到着。モーア・ジーベック社の全集のこの論文を含む巻は既に到着済みですから、これで翻訳を開始できます。懸念点であった中にかなりたくさん出てくるラテン語の引用文もこの英訳ではきちんと英訳されていました。これならラテン語の初級文法を終わっただけの私でも、ラテン語と英語を見比べてラテン語の内容を理解することは十分できると思います。開設済みのmax-weber.jpのサイトを使い、準備が出来たら「オープン翻訳プロジェクト」を開始したいと思います。
「オープン翻訳プロジェクト」とは、
(1)翻訳の途中経過を逐一インターネット上で公開する。(ドイツ語原文と日本語訳を並記する形で公開する。)
(2)出来上がった翻訳に対し著作権主張をせずに利用自由とする。(日本の法律では確か著作権を完全に放棄することは出来ないと思いますが。)
(3)翻訳の途中で広く各種専門家に協力を呼びかける。
(4)翻訳中に理解できない箇所があった場合は、その箇所を明記して公開する。
(5)可能な限り訳者注を付ける。インターネット上のリンクも含めて。
このプロジェクトで、日本における学術書の翻訳に新たな流れを作ることが出来ればいいなと思います。
ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」
(この記事は4月14日に書いたものです。)
ヴォルフガング・シュルフターの「ヴェーバーの再検討 -ヴェーバー研究の新たなる地平-」を読了。例のテンブルックの「「経済と社会」からの訣別」への応答である論考が含まれているの読んでみたもの。既に「「経済と社会」仮構の終焉」も読んでいるため、重複する部分が多く、あまり新しい知見は得られませんでしたが、シュルフターという人は論点を整理するのがうまい感じで、その面での益はありました。ちなみに、シュルフターは一貫して「経済と社会」ではなく「経済及び社会的秩序と勢力」であると主張しており、「全集」でも「経済と社会」に固執するモムゼンとの妥協が行われず、結果的に「経済と社会」と「経済及び社会的秩序と勢力」が並記される(但し後者はあくまでも副題的な扱い)ことになっています。後書きでこれまでのシュルフターの経歴が示されていましたが、意外だったのは元々はシュルフターは決して「ヴェーバー学者」ではなかったということです。
マックス・ヴェーバー全集の一部が届く。
(以下は2018年4月14日に書いたものです。)
モーア・ジーベック社に注文していた、マックス・ヴェーバー全集の内の「経済と社会」旧稿相当分5巻+「理解社会学のカテゴリー」を含む科学論集の1巻、そしてAmazon.deで注文した「中世商事会社史」の1巻が揃いました。後1冊Amazon.deで注文した「経済と社会 文献史」の巻1冊がまだ輸送中です。今回かかった費用は2,267ユーロで、実に30万円を超しており、かなりの散財です。でも、この全集が出来なかった「経済と社会 旧稿」のあるべき配置によるドイツ語テキストをこちらで出そう、というプロジェクトですから、この全集を買わない訳にはいきません。しかし、「ヴェーバー産業」と揶揄されるだけのことはありますね。この馬鹿高い価格設定は、オープンソース的な考え方とはおよそ逆です。また前にも書いたかもしれませんが、この全集を一番買っている国は疑いなく日本です。(日本全国でヴェーバーのドイツ語をある程度読める人となるとそんなに多くはいないと思うのですが、おそらく大学図書館などが主に買っているのでしょう。)